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第2部 空白の五年間
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しおりを挟む「……ねえねえ、山藤ちゃんってチワワみたいって言われたことない?」
髪をリボンと編み込んで、何とか一つに纏めて席に着くと箕輪にそう尋ねられた。
「え……チワワ、ですか?」
────チワワみたいだ。
どきりと胸が熱くなる。最賀が陽菜をそう揶揄したからだ。
「愛くるしくて、お目々ぱっちりだけど警戒心強いじゃん」
「以前、言われたことはあります。ですが、壁を感じてしまったのなら……申し訳────」
「その壁私たちがぶち破ってあげるから覚悟しててねーって言いたかったの! 謝るの禁止!」
明瞭な先輩である箕輪はにかりと白い八重歯を出して笑う。何だか、緊張に気疲れしていたのは馬鹿みたいだ。
陽菜はくすりと笑みを溢して、肩の荷を下ろしたのだったが。
一難去って、一難やって来る。
桃原は顔色を悪くして、二人の前に現れると重苦しい口振りが状況の悪さを物語る。
「はあ、ヤバいです。御機嫌斜めどころか、爆発寸前です」
「えっ、早坂先生噴火?」
────例の先生?
「検査データ揃って無いまま紹介寄越したクリニックの件。さっきクレアチニン測定したら基準値越えで揉めてまして……」
クレアチニンとは、腎機能の数値である。
腎機能の数値が低下している患者へ検査で使用する造影剤を投与すると、腎機能の悪化がしてしまうと言う合併症にも繋がりかねないからだ。
「キャンセルだよね?」
「流石に、大きな病院でするべきですが……腎不全で詰まっても大変だし……外線でバトってた」
「機嫌良い日だったら良かったのにね」
「ああ、すみません。最近横浜院担当の早坂先生、少し……その、口が達者で」
「……桃原ちゃん、ハッキリ言ってあげて。横柄暴君外科医様って」
数々のスタッフを木っ端微塵にすると悪評のある医師が、特に名を広めたのは非常勤医師が常勤になったことも由来であるらしい。
以前は週に数回伊勢佐木長者町や横浜、日吉辺りを担当していたのが横浜院担当になったのが波紋を広げたのである。
噂の的である男性医師は、関東有数の大学病院出身のエリートであり仕事は迅速で的確且つスキルの高い故に誰も意見の"い"すら言えない様な、ぐうの音が出ず。
太刀打ちが出来ないのだ、と事務長が頭を悩ませていた。
悩みの目下を、新人に押し付けるのはどうかとも思ったが、再スタートを切るには経験やスキルを培い前に進むことも課題であった。
「あ……研修で、横浜院担当って聞きました」
「うわ、上の人分かってていたいけな子に押し付けたの?! 可哀想だよ?!」
「と、取り敢えず……先生に紹介……する前に宥めて来ます。挨拶が出来るレベルまで鎮まる様に……はあ」
桃原は溜息を漏らしたものの、陽菜へ御免なさいと苦笑して謝罪する。
謝らなくても、と言いたかったが桃原はワンクッションを入れに行ってしまって、後ろ姿を見守ることしか出来なかった。
「だ、大丈夫……ですかね、そんなお医者様に……」
「あー、だから皆んな桃原ちゃんに押し付けてんのよ。手綱握ってくれって」
手綱。じゃじゃ馬レベルのスケールではない。
陽菜は、はらはらと何だか落ち着かなくなって、桃原が消えたスロープの先を頻りに見てしまう。
本来であれば、看護師が新人の事務の挨拶に立ち会うなんて殆どないのだ。ましてや、庇うことも少ないのに桃原の善意で賄ってしまっているのは、良くないことなのである。
────桃原さんにばかり頼っちゃ、駄目。挨拶も受け入れてくれない様な、そんな先生では、ないは
ず……だと信じたい。
導入に反発したり、ルーティンを変えるのを嫌がる人間もいるのは必然だ。
新たにメディカルクラークの制度を導入した矢先だったらしく、実務経験が無かった陽菜も研修を軽く受けると現場に駆り出された。
それは互いが被害者でもあるのも、また、事実である。
新人に現場で罷り通るルールや、声をまだ陽菜は知らないからだ。それを一から説明して、教授するのは負担にもなる。
「はあ?また新しい奴来たのかよ。どうせヒスッて辞めんだろ。なんで俺が気に掛けてやらなきゃな
んねーんだよ!」
「先生、そこを何とか……」
「桃原っ! てめえ、いつもそうやって事務の肩入れしやがって。まず医者のサポート優先しろよ?!」
────ああ、挨拶行きづらい……。
機嫌が悪いとやんわり伝えられ、ワンクッションに入ると桃原が気を遣ってくれたが。診察室内で怒号に近い声が響いて、あまり歓迎されていないことを知った。
「そもそも勝手に導入しておいて、右も左も分からねー実務経験無しのポンコツ押し付けられる俺の身になったらどうだ?あ? 桃原、何か反論してみろよ?!」
────仰る通りです、先生……桃原さん……御免なさい。
「……早坂、先生。そんなに拒絶反応出るなら直接上にご連絡して下さい。私に言われても困ります」
「は? もうとっくにクレーム入れたわ。お前の目の前で入れたの忘れたのかよ? 敢えて証人の前で、だ!」
火に油を注ぐ如く、ヒートアップしている。
桃原も負けじと食い付いているが、良くパワーハラスメント目前の医師に対して立ち向かえるなと陽菜はバインダーを握り締める。
最賀は寡黙で淡々と仕事を熟すが、この怒声吐き出し男は真逆なのだろう。
先輩曰く、他のスタッフにも同じらしく手綱を握る役割は専ら桃原に押し付けているとのことだ。
助け舟を出さねば、幾ら桃原でもあの言われようはと陽菜は決心して診察室へ突入する。
「失礼致します。本日付で配属になりました新任クラークの山藤です……」
「おい、勝手に入ってくるなよ。俺はお前のオツムの世話までしねーって上に態々忙しい中で連絡し
てやったんだが?」
「早坂先生!」
桃原の悲痛な声が痛ましい。
陽菜は患者や医師、看護師など凡ゆるスタッフからのサンドバッグになりかねない縁の下にいるせいか、それとも仕事に打ち込んで忘れたい一心なのか全く怒り狂った男の前では何も怖気づかなかった。麻痺しているのだろうか。
ぎい、と椅子がしなる音と同時に鋭い眼光が陽菜を射止める。
桃原に捲し立てた言い方をした男は白髪を灰色に染めており、身なりや空気が育ちの良さが滲む雰囲気を纏っていた。
スクラブやオフィスカジュアルな服装が多い中で、グレーの落ち着き味のあるスーツに、白衣と正に医者の典型的なスタイルである。
早坂善次と言う消化器外科医は院内一の嫌われ者で、正真正銘の暴君主だった。
「桃原さん……お気遣い痛み入ります。本当に感謝しかありません」
怒りなのか、悲しみからなのか、拳を強く握り締めてぶるぶると震える手が事態の悪さを明かしている。
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