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第1部 まるで初めての恋
7-5
しおりを挟む「────守れない約束、しませんか」
陽菜は笑顔を作って、最賀に微笑んだ。涙が眦にじわじわと溜まって溢れるのを誤魔化したくて。
「私、ずっと、ずっと先生だけを想って生きます」
喉がふるりと震える。一人で話し続けた。最賀は悲壮感に満ちた表情で、陽菜が導き出した答えをただ、聞いていた。
「どんなに辛いことがあろうと、荒波が押し寄せて、私を苦しめても、それでも貴方だけ……胸に生きて行きます」
沢山の愛情と思い出を貰った。母親に殴られて男が欲しかったと責められて庭先の地面に転がっていた時と同じくらい、月は明るい。
掘建小屋に押し込められて、高校卒業まで親の監視下で何とか搾取されつつ生きる残酷で惨めな少女は、生涯を通じて一度でも誰かに愛されたのだ。
最賀忠と出会ってから、陽菜は感受性が少しばかり豊かになった。
悲しい、辛い、息苦しい、楽しい、面白い、嬉しいと言う感情が芽生えた。
同時に、低く優しい声で陽菜を呼ぶ男を愛していたのだ。
執着して手放さない選択肢もあったはずなのに、良心が陽菜を責め立てて、普通の世界に戻そうとする。
「約束なんてあってないような、ものなんです。でも、私たち、来世くらいには……結ばれるんじゃないですか?」
重たい愛を引き摺って、行きたいと願うくらいに最賀と言う男を、此の身が燃え尽きようとも愛している。
それだけしか、今の陽菜には証明する手立ては無い。他人の犠牲の上に成立する愛や絆に救われて来ただけなのだ。
見て見ぬふりをして、所詮は目の前にある幸せを噛み締めて、希望を間借りしていたのである。ぐらぐらと足元が揺らいだ崖には最賀と心中させるなんて、出来ない。
本気で人を愛すと己だけで無く周りをも破滅させる壮大な力を持つのだ。
それなら、この想いは押し込めよう。蓋をして、誰にも見られることなく外気に触れさせず腐らせてしまおう。
「それくらい、希望を持っても、良いですよね」
この恋は成就しない。
少なくとも、二十三歳の陽菜が最賀の全てを背負って生きられるほど、力がないからだ。
「約束なんて、要らないだろ」
今までに無いくらい、強い力で最賀は陽菜を引き寄せようとした。怒りと悲哀が織り混ざった感情をぶつけられて、陽菜は横に首を振る。
だって、これは誰も幸せにはならないのだ。
「最後は、悲しんで別れたく無いです」
最賀が陽菜の言葉を聞いて、息を呑んだ気がした。
最期ではない、互いの人生の分かれ道が別であったことを悟ったのか瞬き一つせず最賀は陽菜の涙声に耳を傾けていた。
「どうか、お元気で、貴方の旅路をずっと願って────……」
言葉は続かない。陽菜は爪先立ちになって、最賀と最後の口付けをした。こんなにも遠いのか、と身長差は陽菜達の未来への隔たりすら感じてしまう。
震える唇が離れると、眉を下げて今にも泣き出しそうな表情で最賀は全てを悟るのだ。
「……もう、泣くなよって、言えないんだな……」
光は永遠と二人の道筋を照らしてくれるのだと信じて疑わない日々は、もう存在しないのだと諭される。
出会った場所が、立場が、年齢が、環境が異なれば肩に凭れて公園で穏やかに日向ぼっこが出来たのだろうか?
別れを告げて、最賀が戻るべき場所に帰り、仮にも婚約者と結ばれたとしても。陽菜は風の便りを聞いて、祝福するだろう。
それが一番、彼にとって良い選択肢だからだ。
用意されたポスト、キャリア、誰から見ても完璧な可憐で家柄の良い令嬢なんて、勝ち目どころか足元にも及ばない。
陽菜は生まれ持って全てを得た彼女と自分が雲泥の差であることで、身を引く決心をした。子供が駄々捏ねただけの身勝手な行動をしたとすら改悛したのだ。
「どうして、愛し合ってるのに……障害が、立ちはだかるんだろう、な」
最賀は顔を歪めて、本当に最後なのだと陽菜の決意に身を震わせた。悲しい顔をさせてしまったのが、それだけが気掛かりになる。
好きな男を苦しませているのは陽菜自身なのだから、泣くのは許されない。必死で涙の膜を打ち破ろうと拳を作って耐える。
陽菜の決意が覆らないことを、一番最後が感じているのだろう。
嫌だ、別れたく無い、別の方法を、なんて言葉は続かなかった。
他の選択肢があれば、駆け落ち同然の逃避行なんて二人が追い込まれることはなかったのだから。
婚約者、見合い、失業、社会的地位の落差……と様々な要因がきっかけで、崩れそうな地面に二人で立っていられたのは奇跡にも近い。
「────陽菜、俺はずっと……」
愛している、の言葉を言わせなかったのは最賀の将来や正しい道の支障になる。
だから、陽菜は最賀の唇に指を当てて、言葉を塞いだ。
「笑って、御別れ、させて?」
御免なさい、忠さんと陽菜は心の中で何十回も謝った。最賀だけを想って寿命尽きる迄生きることを、許してほしいと願う。
陽菜が巻き込んでしまった。
暴力と柵の中、雛鳥が初めて愛情を知って、錯覚を起こしたのだと言われれば。良識ある名門出の令嬢から見れば、埃が付着しただけなのだ。
卵子と精子が授精した時点で、勝負が決まっていたなんて皮肉以外、何者にもならない。
生まれてくる日が、立場が、場所が異なれば奇蹟を辿って幸せになれたのだろうか。
否、きっと陽菜が例え母親の手から逃げる為に走り去った先の場所がルート通りであったとしても、親と無関心な生活をしていた最賀とは出会えなかったかもしれない。
だから、一縷な奇跡にすら縋って未来を全うする理由ばかり、陽菜は探していた。
絵本の中での、めでたしめでたしの言葉は必ずしも紡がれないことを、陽菜は知っているからだ。
「忠さん、愛しています、ずっと……」
行き先はもう、決まっている。違う道筋は既に明かりを灯して、歩むべく場所を記す。
陽菜はしゅるりとリボンを解いた。風に靡いて、二人の別れを諭す。
一番初めに貰った、レースが施された白のリボンである。始まりを飾ったこの一本のリボンが、陽菜にとっては大切な物だった。
震える男の手が受け取って、ぎゅっと握り締める。別れを惜しむならば、最後を彩るのなら美しい思い出だけが良かった。
「……アンタは、俺の────」
陽菜は最賀の最後の言葉を聞く勇気が無かった。
反対車線の電車に乗り込むとアナウンスと同時に声を無情にも消してくれる。
扉が閉まって、最賀は一筋の涙を流しても、陽菜は拭うことすら資格がなかったから、せめて気丈にいようとすら思った。
通りすがる電車は無情にも、声をかき消してくれた。流れ行く車窓から見える景色が、走馬灯と同じ様に美しい幸せだった光の三日間を思い馳せた。
長くて、短くて、そして儚い三夜の逃避行は閉幕して、残された喜劇を演じ切った陽菜の手元には何も無かった。
陽菜は車窓が変わり行く景色を目に映してから、漸く力が抜けてずるずると膝が崩れ落ちた。別れを綺麗な形で終えられるなんて、夢物語だ。
最賀の姿が無くなってから、涙が止まらなくて陽菜は人気のない車内でわんわんと大きな声をあげて咽び泣いた。
この世の終わりだ、と思えるくらい悲観していた。
一生愛したい人の手を、自ら手放した後悔の念に苛まれ、生きることを選んだのに。
どうしてか、涙が止まらないの。
「忠さん、御免なさい……もし、いつか、会えたなら……っ」
最賀の手料理が食べたかった。もっと、これから誰もが祝福する何かに、成り得たかったのに。
────アンタは、俺の光だった。
五年後、希望になるのならば。
一生、待ち続けると誓って。
二人の長い長い、五年が始まる。
──── 戀の再燃 ────
【第二部に続く】
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