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第1部 まるで初めての恋
6-5
しおりを挟む情交はひどく濃密で、陽菜は脱力した体を新しい真っ白なシーツに預けた。全力疾走をした後の、息の荒さのせいで、まだ視界は靄がかかった様な気がする。
陽菜は倦怠感に小さく顔を歪める。そんな中で、最賀は陽菜の濡れた体を丁寧に温かいタオルで拭ってくれる。上半身から始めて、臍下へ到達すると陽菜は、あっと声を小さく上げて最賀の手を止めさせる。
「そこ、見ないで……下さい」
「腿の傷?」
陽菜の内腿には蚯蚓腫れの様な傷跡が未だに残っている。折檻とも言える暴力にも似た酷い躾によって、偶々庭先に置かれた古い箒の断片が刺さったのである。
抉れた皮膚が露呈されて、人間あまりにも激痛が走ると失神しそうになることを子供の頃に植え付けられた忌まわしい記憶が蘇る。
何針か縫合することになったが、二十年近く経過しても痛ましく残存している。
「汚い、から」
傷だらけの子供だった。虐待を受けて育った陽菜は何が正しい行動なのか、社会に出て少しずつ世間の普通を学んでいったが、未だに暴力には怯えていた。
だから、男性とも付き合えなかったし、絶対的な力で威圧した人物は女性だったので、まともに友人関係も構築出来なかった。
「いや?綺麗だよ、この痕は陽菜の……道標なんだから」
傷跡を確かめる様に、最賀の指は辿る。
「……もし、嫌じゃなかったら、額の傷も見せてくれないか?」
避けていた、もう一つの傷は顔に刻まれていた。眉間の上にある物は、斜めにやや窪んでおり前髪で隠して生きて来た。
陽菜は最賀の節々のある指先が髪に触れるのを、息を潜めてじっと見詰める。
────こんなんじゃ嫁の貰い手も無いわよ。
そんな呪いの言葉を投げられて、一生見せるつもりは無かった傷を愛おしい双眸を向けられるなんて。
陽菜は思わず顔を背けてしまう。何だか、複雑な心境に陥って、場都合が悪かった。
「……汚いです、やっぱり」
「なんだよ、可愛い顔してるだろ?」
「だって……」
陽菜が言い訳をしようと顔を上げると、予想を斜め上の方向へ行く言葉が口にされる。
「俺だけか?」
「え?」
「他に見せた奴」
その質問の意図がどうなのかは、陽菜には分からなかったので怪訝な表情で最賀へ答える。
「忠さんしか、見せたことないです」
「俺だけが知る陽菜の秘密、だな?」
くすりと笑って、陽菜の額にある傷にキスを落とす。やっぱり人誑しなのだろうか。
「忠さんは人誑しですか?」
「そんなことは……陽菜だけだ、特別なのは」
この幸せが永遠に続けば良いのにと思う反面。愛しい人を正しい道から逸らしているのでは、と考えてしまうことがある。
────この傷を愛せるようになれば、私は何かが変わるのかな。
陽菜に着替えを渡して、最賀はテキパキとタオルで汗を拭うと身支度を整えた。陽菜がもたついてブラジャーに腕を回してホックを留めようとすれば、最賀がパチっと器用に着けてくれる。
ショーツを履き終えて、レースのタートルネックとアシメントリーのベロア生地のキャミソールワンピースを合わせてブーツを履かせてもらった。コートを着るのも最賀が羽織らせてくれて、陽菜は気恥ずかしくなる。
遅目の昼食を何処かで摂ろうと二人は民宿に鍵を預けて、田舎風情が広がった街へ出た。
東京とは全く別の景色で、昔ながらの家屋や銭湯のある駅から十数分離れた下町である。
一本裏手に入ればじゅうじゅうと油でカラッと揚げたコロッケや、芳ばしいタレの香りが漂う焼き鳥屋、小豆たっぷりの御萩や団子が売られた和菓子。
陽菜はきょろきょろと最賀の大きな手を握りながら新鮮な街並みを眺めて目で楽しむ。
「マゼンタカラーか」
個人で経営している、雑貨屋が立ち並ぶ道を歩いていると、不意に最賀が足を止めた。組み立て式の簡易的なテーブルに敷き詰められているのは光に反射して輝くアクセサリーである。
「あ、かわいい」
ぶらぶらと、行く宛も無く留まる場所を探す逃避行の最中。二人きりの世界はひどく狭いものの居心地が良かった。柵も無く、怒りの雨が降らない日々があるのだとまだ信じていたかったからだ。
「スカイブルーも、なんかデザイン良いな」
「ふふ、なんかこう言うの、凄く嬉しい」
「どうして?」
「誰かと一緒に選ぶの、夢だったんです」
そう、陽菜には親友と呼べる友人は一人いたが他県に就職してしまい、中々会える様な真柄では無かった。貧困層出身だった彼女は陽菜の家庭環境を知っていたし、貧乏同士に買い食いや衝動買いは贅沢であった。時折連絡は取るものの、社会人になれば誰しもが頻度は減る。
だから、高校卒業式でコンビニエンスストアで合格祝いを熱々の肉まんと餡饅で祝杯をあげたのは良い思い出かもしれない。
それに、無限の愛を注いでくれる家族がいなかった。弟とは複雑な関係性であったので、付かず離れずの仲だが。
友人と買い食いして帰路を楽しむことは殆ど無かったし、携帯ストラップを有金でクレーンゲームで一度に二個取って、お揃いの物を身に付けるくらいの青春を謳歌したのである。
「そう……か。これから先も、俺が選ぶぞ?」
リボンの素材に視線を落として、最賀は陽菜の右手を手に取った。マゼンタカラーのリボンを髪に合わせて、似合うなとくしゃりと笑った。
「……ぜひ。髪、先生が好きって言って下さったから、絶対切りません」
髪を伸ばすのは願掛けにも近かった。女である自分を赦すことで、世に受けた性への懺悔をする為に。男には決してなれない体と心を受容するのに、髪を長くして束ねて。
この男に髪を結ってもらうため、だったのかもしらない。
「はは、迷うな。俺だけ?」
「────忠さん、が選んで欲しいです」
「世の女性が好きな物なんて、疎いからなぁ。適切な術式とか、そんなことは分かってるのに……」
決断をするのは、最賀は早い。
だが、陽菜の前ではリボン一本を悩む純粋な男性に見える。陽菜は眉間に皺を寄せて困惑する姿を目に焼き付けた。
「────あ」
「どうしました?」
「一つに決めなくても……?」
「え……?」
「アンタの趣味じゃないかも…しれないが」
金色のカメリアバレッタである。花をモチーフにされた丁寧に手作りで施された一品物の髪留めを手に取って、これだと呟いた。
「あと、やっぱり……スカイブルーとマゼンタは似合い過ぎてるから贈りたい。多過ぎ……か?」
「そんなに……良い、のですか?」
陽菜は掌に乗った、一際輝きを放ち目立つ髪留めが店内で一番高級な物だと値札で知った。素材や製作工程に時間がかかった、職人の手で美しく造られた物は良い品である程高額なものだ。
陽菜は、そんな高価な物を受け取る資格なんて無い、とすら思った。
けれども、そんな陽菜の心情を察してか断り辛くする空気を作るのが何枚も上手な大人がこう言うのだ。
「俺の我儘で贈りたいんだ。受け取って……くれるか?」
狡い言葉を巧みに操る男に完敗だった。
恐らく、陽菜が所持する過去の髪留めの八倍程度する金額で。陽菜が一人だったら良いなと後ろ髪を引かれる思いで手から離している。
「……あり、がとうございます」
嬉しくて涙が出そうで、咄嗟に服の袖で陽菜は拭った。一生の宝物だ。
「髪留めを贈る… …なんて、キザな奴って思われるこもしれないが」
「忠さん、当直でご一緒するとリボンで髪結んで…下さるの、凄く嬉しかったんです」
江戸時代ではかんざしを贈るという行為には求婚の意味があると言われている。
そんな歴史的な通り話は、陽菜は知らなかった。歳をとってから、知ることになるのだ。
会計をして、可愛いラッピングがされた小包を陽菜は渡される。宝物を貰ったみたいで、心が躍る。
幸せで溺れてしまいそうだった。
今度、最賀から貰ったヘアアクセサリーを入れるジュエリーボックスを新調出来ればなと考える。
ブラックのレザー基調の重厚感のある引き出しタイプが良い。行先はまだ未定なのに、そんな未来的なことを想像するのはきっと風向きが良いから、なのだろうか。
それとも、終わりが近付きつつあるからなのだろうか?
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