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第1部 まるで初めての恋
6-2
しおりを挟む守秘義務の関係で話せることはあまり無いが、かかりつけ医に代わって対応したのがきっかけだったらしい。
特別な感情は無いが、蔑ろには出来ない微妙な立場を利用され、了承をしないままでいたら根も歯もない婚約話をでっち上げられたのだと言う。謂わば、言った者勝ち、だ。
また、下手に突き放したりすれば首が飛ぶだけでは済まされない。
「……な、つまらないだろ?」
「……そんなこと、無いです。先生は、先生ですから」
最賀は名前で呼んでくれないのか?と陽菜の肩にキスを落として呟いた。
そうか、もう此処では医者と医療事務の二人では無くなったのだ。
「た、だ、し……さんは、笑わないんじゃなくて、笑えないのかなって…思ったり、無かったり……」
「笑わなくなって?ああ、十三年、か?医者になって…だな」
言い辛そうに最賀は口籠る。十三年とは、遥かに長い時間である。湯気で眼鏡が曇ってしまって、最賀は息を吐いてから、眼鏡を外した。
短い睫毛が伏せられて、暫く考え込んでしまった。親しい間柄になったからと言って、根掘り葉掘り尋ねてしまって陽菜はやっぱり……と発言を撤回しようとした。
すると、最賀は眉間を一度摘んでから、意を決してか話し始めた。低く、それは悲壮感を含んだ声音であった。
「夜中に急患が来て、どうやら車に飛び込んだらしくて。俺は当直続きで眠くて面倒だなって、思っていた。自殺未遂かよーなんて、さ」
研修医は薄給の割に、業務量の多さと抱えるストレスは量り知れない。オーベンと言って、研修医を指導する上級医師のことで彼等が担当する処置や手術は積極的に参加を申し入れたり、小判鮫の様について回らなければならない。
加えて、処置に入る際に慣れない故に手際の悪さが悪名立ってか看護師からも当たりが強いことがある。また、新人看護師や若いスタッフと仲良くすれば最後だ。
妊婦の急患、とだけ聞かされていたが蓋を開けたら切迫流産疑いであった。妊娠が発覚後、相手側が認知しないと拗らせ距離を置かれ、患者はノイローゼだったのだと。
救急外来では既に最賀のオーベンと、当直医と最賀の三人、そして応援に渋々来てもらったもう一人の当直医の合計四人で待機していた。
妊婦と聞いて、何が起こるか不透明な場合や、急変時人手は多い方が良いからだ。
「どう見たって、知り合いで。ゲロ吐いて、何があったのか分からなくて、オーベンも顔色変わってたよ」
────そういえば、一つ上の先輩、最近休みがち……だったって聞いた、な。あれ?
知り合い、妊婦、先輩、誰の子供?
多くの情報が一気に最賀を襲い、込み上がる胃液を我慢出来ずに近くのハザードボックスに嘔吐した。
度重なる日当直を連続して病院にいる時間が長期化していた頃だった。慣れない激務と雑務で胃は食べ物を受け付けなくなり、ゼリーや飲料水と携帯保存食で賄っていた。
食欲が無くて、無理矢理詰め込んだチルド食品の粥は幸いにも嘔吐する際スムーズだったが、それでも止まらない嘔気はコントロール出来なかった。
げえげえ吐きながら、頭の中ではぐるぐると文字の羅列と数字と切り取られた写真の数々が押し寄せた。
途端に、ぶわりと冷や汗が背中を垂れて、額にも滲む。
これって、もしかして……あれ、子供はどうなるんだ?と、行き着いた思考はやっぱり時既に遅し。
外的な怪我は軽傷だったものの、問題は別にあった。突然金切り声を上げて叫んだらしい。癇癪を起こしたのかと思いきや、腹部を手に当てて指導担当をしていた医師へ、ストレッチャー上でこう言うのだ。
────私とお腹の子なんかどうだって良いんでしょ?!
何が起こったのかは明白だった。医師と研修医以上の深い関係性になった二人の間に子供が出来たのだと。医局内では大問題に発展し、既婚者であった指導担当医は系列病院へ異動。彼女がどんな処遇になったのかは、分からない。
腹部の強い痛みは数時間継続し、痛み止めを点滴を施したらしい。当たり前だ、痛みは強烈であるからだ。ベッド上で血走った、憎悪を宿した瞳が知っている溌剌とした先輩の姿とはかけ離れていた。
勉強家で、明瞭な先輩の面影は何一つ無く、悪阻で食事も充分に摂取出来ず隈の残る彼女の顔を見てかける言葉すら見つからなかったのだ。
「それで……あんなに諂って、媚び売って、笑って誤魔化していたのに、まあ……笑えなく、なりまして」
一緒にもしかしたら死のうとしたのだろうか。
いや、我が子を最後は庇い、守ろうとする姿は母親そのものだった。どんなに苦境な状況下でも子供を守る本能はあるのだ。
陽菜は知っている近しい人物が、徐々に見知らぬ別の生き物に変わり行くのを間近で見た最賀の気持ちに理解出来るとは簡単に言えなかった。
「俺の心はガラスのハートなんですわ……な?」
ちゃぷ、と波打つ湯水が最賀の心を露わにしている。緩やかで、けれども引かない涙が哀しみに溶けていた。
「というわけで、俺は久し振りにチワワが威嚇して大型犬に対抗する姿を見て笑えたとさ」
座り直して額に滲んだ汗を拭った最賀は渇いた笑みを浮かべる。
「俺を嘲笑ったって良いんだぞ」
笑えるわけ、ないだろう!
人の生死を目の前にする仕事に優劣はない。人間の感情がどす黒くて、卵子と精子が奇跡的な出会いで受精して、それから?奇跡なんてものを軽率に言語化するなど陽菜には口が裂けても出来なかった。
彼女はどうなったのだろうか。今は笑って、過ごせているのだろうか、なんて。
強い不安で身籠もってからは一人の時間を孤独に過ごして、これからのことをきっと考えていただろう。
貯蓄も、キャリアも、子育てのこともだ。
陽菜が契約を更新されないことを通達された時、一時期放棄したかった考えなければならない膨大なリストを、彼女は押し潰されたのだ。
「……めでたしめでたし、じゃ、ないです」
女は痛みに強い体になっている。妊娠、出産に耐えられる仕組みだからだ、なんて嘘だ。
勝手にそう言う造りにした神が悪い。ひとり親が受けられるサポートの手薄さ、キャリアを継続させることの難しさ、世間の風当たり等いつだって女が割に合わないことを押し付けられる。一人で産んだお前が悪い、とすらされるのだ。
それでも、陽菜は虐待の中残った"サバイバー"である。
何を選択すれば最善だったのか、と何度も自問自答を繰り返す彼女の葛藤や痛みが流れ込んだ気がした。
「……ずっと、泣かせてばかりなんだな、俺は」
「え?」
「アンタのこと、だよ」
ぽたぽたと水面を叩く涙に気が付いて、陽菜は最賀の前だとどうしてか涙を堪えられないのだ。
泣くもんかと決めた日から、涙を流したことは一度たりとも無かったのに。
最賀と出会ってからは、何故か涙が自然に溢れて落ちてしまう。
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