戀の再燃〜笑わぬ循環器内科医は幸薄ワンコを永久に手離さない

暁月蛍火

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第1部 まるで初めての恋

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 心を燃やすには、ガソリンと同じくらいの燃料を注がなければならない。高濃度のアルコールくらいの、激しく燃え盛る戀の炎は永遠に生き続ける。


 他愛も無いメールが心の頼りだった。

「漢方勧めたら、あれは効かないって駄々捏ねられた」

「カップラーメン駄目なら、俺の夜食何が良いと思う?今、コンビニの前」

「おは(よう)ビール、当直明けに飲む酒は劇薬だと思う」

「あの夜食、美味しかったから面倒じゃ無かったらまた恵んでくれないだろうか」

 メールが受信する度に、陽菜の心は躍る。日中、内科外来を通過すると換気を目的に開けられた上窓から最賀の低く、くぐもった声が聴こえる。心地良い低音を背中で感じながら整形外科のヘルプに入りに行く。

 次の当直で、また会える。いや、そうじゃなくても会う口実を作ることが出来るのに、最賀の激務で体調を考慮したかった。他人がいたら、気は休まらないだろうから。

「漢方の粉状と顆粒どちらも嫌だとか、ですかね?」

「豆乳鍋やおでんとかはカロリー低いのに、食べ応えがあって◎です! 麺類やパンは駄目です」

「おは(よう)ビールは体に浸透し過ぎでしょうっ! せめて水分摂取してからにしましょう先生」

「野菜スープ?簡単ですよ、辛いのが苦手でなければチゲ風もアクセントありますし、勿論大蒜抜きで。冬瓜のスープも食欲無い時お勧めです」

 最賀は循環器内科の医師であるのに、常勤医師がごっそりと辞めたことによる皺寄せが一気に来たらしい。朝礼で事務長が蒼白い顔で報告があった。

 日中は外来診療で二十四時間ホルター心電図オーダーや冠動脈造影CTと言う冠動脈の狭窄を精査したり等多忙だ。冠動脈バイパス手術、ステント留置等患者の生命に直結する手術を日々取り行っている。
 外来をしながら、当直も行うので体はひしひしと悲鳴を上げているはずだ。けれども、彼はきっと休むことはしないだろう。医師が足りないから、では患者は待ってくれやしない。

 そんな体が二つ存在しても足りない現場に、最賀は立つ。陽菜は例え会えなくても、ただ廊下ですれ違うだけでも、診療中の低く掠れた声を聴くだけでも十分だった。

 最賀とは、心で繋がっている。

 だから、大丈夫。私のことは、大丈夫。


 ……人間は自身の生活が脅かされると、本当の自分が現れることを体験しない限りは、まだその姿を目視することは無い。


「名指しで、クレーム?」

 自主退職か契約満了を仄めかされて、陽菜は正しい行いってなんだろうかジレンマに陥った。轢き逃げ事故を目撃し救助に向かった人間が、立証不可能だと悟った被害者から犯人だと訴えられて敗訴する。そんな身勝手なことも起きる世の中だ。

────ああ、医療事務なんて所詮、病院からしたら訴訟ちらつかされたら…そうよね。

 以前当直中に玉突き事故にて搬送された挙句、不倫騒動で大揉めした被害者の家族から、名指しで対応が悪かったとクレームが相次いだらしい。
 院内に置いてある御意見箱に何枚も投函されており、事態が発覚したのだとやんわりと説明があった。陽菜の方がバインダーを投げられ負傷したのに、御役御免に事務長はしたいようだった。

 日誌にも細かく報告したのに、院内では大抵起きた職員に対して暴言・暴行は殆ど無かったことにされる。患者からなら特に、だ。
 更に、この件を聞き付けた院長が身形の未改善及び風紀を著しく乱したと口添えをしたことで陽菜はあっさりと正規雇用のルートから外れたのであった。

「私の人生って…なに?」

 涙が溢れてしまいそうだ。

 陽菜がどんなに品行方正を保持しても、その均衡を他人が意図も簡単に打ち砕く。どれだけ努力し、目立たずひっそりと生きていても、表に引き摺り出して悪者に仕立て上げられるのだ。

 朝礼後、陽菜は沈んだ顔を引き締める気力すら無く、また忙しない外来業務へ体を引き摺って行った。
 クレーム対応、検査室への案内、受付の手伝いと陽菜は呼ばれるがままに患者対応に追われて行けば、気が付くと夕暮れ時に差し迫っていた。

 昼食はストレスのあまりか味が殆どしなかった気がする。それでも、腹に何か入れなければ業務の効率が悪くなる。空腹で頭が回らなくなり、手がぴたりと止まってしまうからだ。

 何とか仕事を終えて、暗い気持ちのまま退勤し、携帯を開く。
 こんな時、メールの着信を知らせるランプが点滅していれば良いのに。

 その代わりに、別の名前が通知されていた。

 不在着信が十五件溜まって、漸く陽菜は鳴り響く携帯を取る勇気に反して永遠と着信が責め立てる。

「何度も電話しているのに、どうして一度で出ないのよ?」

「……お母さん、仕事忙しくて」

 苦手な母親を記す文字。母からは叱責、侮蔑、嫌悪の目でしか見られたことがないからだ。
 陽菜は母と話すことも緊張して、携帯を握る手が汗ばんでいるのがわかった。嫌な汗、だ。また怒られる、また……体罰と言う名の木刀で殴られると萎縮してしまう。

「年頃の娘が一人でふらふらしているなんて、示しがつかないわ」

 溜息混じりに母は呆れた様子で毎度咎める。陽菜の選択がどんなに正当性があったとしても、必ず白を黒と言い張る女なのであった。
 女の敵は女、と言う風潮には賛成出来ないが、毒親と呼ばれる家庭で育った人間からしたら同性だろうと異性でも無作為に警戒心は怠れない。

 陽菜は最賀に早く会いたいとすら思った。

 この憎しみや拭えぬ苛立ちを浄化できる浄水器であるからだ。

 だが、ふと考える。

 最賀を陽菜自身のトラウマや痛みに軟膏の様にたっぷり浪費して良いのか、と。

「こっちで相手は探しておいたから、帰ってらっしゃい」

「────相手?」

「良い人がいたのよ、調剤薬局にお勤めの田嶋さん。真面目そうで、この辺りでは珍しいくらいよ?」

「……どういうことですか」

 話が読めなくて、陽菜は聞き返した。調剤薬局?田嶋さん?誰だ、とぐるぐる頭の中で文字の羅列が支離滅裂に散らばると母は呪いの言葉を陽菜に掛ける。

「どういうことって、人聞きの悪い子。本当に可愛げの無い娘だわ……一度くらい親孝行してくれたって良いじゃない」

 かあっと顔が憤りで熱くなった。沸点は低く無い方だが、陽菜は手取りが少ない中でも仕送りを無理くりしている。御中元や年末には食べ物や何かしら贈っているのに。

 それなのに、それらの行いが親孝行に入らない、だと?

 陽菜は耳を疑った。声を荒げそうになったが、逆効果になるのはいつものことなので母には淡々と話すように努める。

「私、地元離れてからも仕送りとか…色々してます」

「私が頼んだわけじゃないのに、貴女が勝手にしていることじゃない」

────駄目だ、この人は、私なんか、娘でも何でも無い。家畜同然、なのね。

「拓実はだから、孫見せられるのは貴女しかいないんだから、早く駄々捏ねてないで地元に帰って結婚しなさい」

 弟の拓実は孫を作ることが出来ないとカミングアウトをしてから両親の当たりの強さは、家族の仲間外れ者の陽菜に移った。弟はパートナーシップを成立させる為に隣接した横須賀市へ移住が決まっていた。

「貴女が見合いを受けないのなら、拓実を普通に戻して受けさせても良いのよ?」

「……そ、れは」


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