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第1部 まるで初めての恋
5-2
しおりを挟むだから、陽菜はその感性は持ち合わせていなかった。その点最賀は良くクスクスと笑っている様な印象を受けたので、初めて気に留めたのだ。
「良く俺のこと観察してますね、嬉しいなあ」
「……だって、先生が良く笑ってくれるから」
むすりと院内では口をへの字にして、迅速に次から次へと患者を受け入れる最賀とは、まるで別人にも見えて。最賀の好きなものや、苦手なこと、笑うと目尻に皺が寄るところ、実は耳朶に黒子があること。何でも知りたくなってしまう。貪欲になるのが時折怖気づいてしまうのだ。
「さて、残念なことに俺は…日勤なんだよなあ」
シフトを管理している媒体から、タスクの通知が上がっている。起動されてライトが点滅して陽菜は視線を向けた。
「あ……すみません、お暇しますね」
「いや……此処に居ても、良いぞ?」
「いえ、私も…家のことがあるので。また次回、楽しみにしていますね」
シンクに食べ終わった皿を置いて、水切り籠を探すが流し台には何も無い。食器洗い用の洗剤でスポンジを泡立ててから気付く。あれ?とキョロキョロ見渡していると、最賀がやって来て食洗機だよと教えてくれる。
「しょく、せんき……例の、自動の…便利な…」
愕然とする。なんて便利な物が揃っているんだ!と。粉洗剤を入れてスイッチを押すだけで、乾燥まで終えてくれる万能機械である。陽菜の憧れの装備が目の前にあって、ぼたぼたと泡が掌から溢れていく。
「フライパンとか、油物はさっと…それで洗ってから入れた方が落ちは良いんだ。そんなに真新しくは無いからな」
「先生、凄い…私、食洗機憧れてて…」
「ええ……そうなのか?」
食洗機は家事の手間を削れて、且つスポンジに洗剤を付け、洗い、水を切って、拭く作業全ての工程が簡素化される。乾燥し殺菌まで行えるのだから衛生面でも評価が高いのだ。
陽菜の反応を見て、さも当たり前に備わっている物だと最賀は言いかけていた。けれども、陽菜が賃貸や建築事情に詳しく無いことを察したようだ。
「私、絶対食洗機欲しい……」
「ディスポーザーは地域によっては申請するらしいが、食洗機は一体型も普通に新築や新しめなマンションなら普及しているぞ」
ディスポーザー。生ごみを粉砕して、貯蔵型で消臭も環境にも優しいハイテクマシンである。三角コーナーに入れなくて済む、凄腕なエコ家電とも言えよう。
どうして最賀は家電に詳しいのだろうか。陽菜は機械には疎い。それでも、ブラウン管テレビから流れるお昼のバラエティー番組で、主婦の時短家事の特集を観て知識を培って。時間は節約出来るのかと感動したのを今でも覚えている。
「はあ……時給上げる努力して、手に入れますいつか……」
「あー、それなら……」
最賀が何か言いかけると、アラーム音が鳴る。出勤時間を示した音楽は灘らかで、ひどく落ち着いたメロディーだ。鍵盤が飛んだり跳ねたりせず、ただ滑らかに奏でる音はとても穏やかだった。
「……また今度、ゆっくり話そうか。なんか俺達、いつも時間に追われてるな」
そう苦笑して、ダークネイビーのスクラブに袖を通した最賀は全てを悟っている。或るべき場所に押し戻されることを必然としているのだ。
陽菜は待つ術を持たない。恋人に昇格しても、最賀の仕事の足枷や支障に成ることは有ってはならないのだ。
命を救う立場にある、医師は今日も誰かに生命を乞われる。
一秒が左右される世界に、足を踏み入れることは決して許されない陽菜に、命の重さを理解出来るとは軽率には死んでも口にはしない。
愛と同じで、命の灯火は消えては生まれて、燃やして形を変えて世界を彩るのだから。
身支度を終えて、陽菜は櫛とリボンを持った最賀に髪を結い直してもらう。悪戦苦闘しても疎なリボンの長さすら慈しみを抱く。
出来たぞ、と微笑む最賀は重苦しい体を引き摺る。疲労が回復しないのは、医師の人権問題や責務が影響して、彼らはやり甲斐や人々の命の天秤の前で選択を迫られている。目の前に息絶えそうな患者がいれば、見殺しに出来ないのを政府や万物の象徴である神、そして性善の前では己を殺してまで手を差し伸べる。
その摂理を棲家にして悪用し、掬えるのを利用する善人のフリした悪人は削った物すら補填しないのである。
どうしたら最賀の疲れを癒せるのだろうかと考え込んで、前を見ずに歩みを進めていると。
「あ、山藤っ」
陽菜は最賀の出勤と共に帰宅をする為にリビングへと向かう最中。がくん、と膝が折れて前のめりになる。余りにも突然の出来事に悲鳴を上げるのすら忘れて陽菜は、フローリングに手を付き顔をガードしようとした。
────あれ?痛くない…?
「……先生?」
謎の浮遊感。陽菜は睫毛を恐る恐る上げると、体は宙に浮いている。ぶるぶると最賀の上腕二頭筋から前腕に掛けて震えても尚、陽菜を支える。
「あ、ありがとう、ございます……っ」
「……咄嗟に手が出て抱えたが、横抱きはまずかったな」
手摺に捕まって、玄関ホールの床に突撃しそうだった陽菜を辛うじて抱き留めたのは良かったものの。体は数センチ床から離れており、陽菜は逞しい腕に抱えられていた。
一種のコントかと思えるような状況で、陽菜は痛みに顔を歪ませることなく無傷だった。安堵して謝罪しようとすると、最賀は陽菜を抱え直して正面から抱っこした。
「なんか違和感あるなと思ったら、アンタ軽過ぎだ!」
「え、え……ご飯、食べてます」
「本当に?!腹いっぱいに食べてないんだろう!痩せ過ぎは骨粗鬆症のリスク上がるぞ」
痩せ過ぎ、と言うよりも陽菜は元々少食で生きてきたので、その感覚はあまり良く理解出来なかった。体重は確かに平均的な女性よりも軽い。
「沢山食べさせてやるから、安心してすくすく育って良いからな」
くるりと一周その場で回ってから、陽菜を下ろした。決意は固いらしい。陽菜を健康的な体重にする為のプランを、栄養学的な視点からも練って来そうだ。最賀は恐らく仕事中に管理栄養士へアドバイスを聞きに行くくらいは真っ直ぐで、妥協しない性格である。
「チワワみたいに軽過ぎる!強風吹いたら吹き飛ぶな……絶対」
ぶつぶつと独り言を呟く最賀に、陽菜は腹八分目を経験したことのないことから未開の地に踏み入れるべきなのかと不思議に思う。お腹いっぱいの感覚とは、果たしてどんなことなのだろうか。はち切れるくらい、お腹は膨らむのだろうか?
「お腹いっぱい食べた、ことなくて…その、ええと…頑張ります?」
「────駄目だ、俺…アンタのその目に弱いな。何してでも幸せにしてやりたくなる」
はあ、と眼鏡をずらして眉間を摘む男は何かを考えて暫く黙り込んでしまった。変なことを言ってしまったのだろうか。陽菜は最賀の胸元に額を押し当てる。
「今でも幸せです、先生。私には十分過ぎるくらい」
最賀の眼鏡を陽菜は直してやる。そのまま、唇に触れれば、やっぱり幸せを満たす源が陽菜の生きる道を示すのだ。
これが、幸せだと言わないのなら、なんて言葉にすれば良い?
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