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第1部 まるで初めての恋
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しおりを挟む「貴女が朝ごはんはきっちり食べる派でしたら、うどんとか食べ行きませんかね」
当直明けは容赦無く全人類を平等に照らす光が敵意を向く。
陽菜は救急外来の出入り口から抜けて、三分程度駅に向かう道を歩くと、抜け道から突如現れた最賀にそう誘われた。
有無を言わさず気が付けば、立ち食い蕎麦屋が聳えていた。
券売機が陽菜の目の前に立ちはだかっていて、どうやって購入すれば良いか分からないでいると。
「お勧めは……あー……温玉うどん」
「あ、では、先生のお勧めで」
手慣れた手つきで、券を買ってもらった。お金、と財布を鞄から出そうとすると静止される。大きな手が陽菜の腕にひんやりと触れて、体温が意外と低いのだなと感じた。
「すみません、揚げ玉と葱も追加で」
何処に立てば良いか分からず、無意識に最賀のシャツの裾を掴んでいたら、無造作に置かれていたシルバーの簡易的チェアーに座れと目で気配りされる。立って食べる場所なのに、と陽菜は目で訴えたが最賀は座らせた。うどんが直ぐに前に置かれて、陽菜は有無を言わさずスカートの裾を皺にならぬ様にして腰掛けた。
「あの、私、食べるの遅いので……すみません」
「早く食いは体に悪いぞ」
立ったまま、一味の小瓶を大量に振りかけた蕎麦を啜ってから最賀は口元を手で覆って言う。眼鏡が曇ってしまっていても、お構い無しである。
頬張っている姿を横目に、陽菜は出された熱々の温泉卵が乗った出汁たっぷりのうどんを箸で掬う。
髪を結んだままで良かったと思いながら、口に運ぶ。湯気に乗った、鰹の香りが心を豊かにする。美味しい、和の味は荒んだ海原を浄化する力を持っているのかと考えてしまうのは日本人だからだろうか。
「そう言いながら先生……もう食べ終わりそう」
「俺は職業病だ」
「胃に良くないですから、三十回噛んで下さい」
「え……」
「三十回咀嚼からの嚥下」
「いや、流石に分かってる……」
この歳で言われるとは、と最賀は額を掻いた。だって、器の中にはもう殆ど麺は残されていなかったのだ。
最賀がキスの天麩羅を陽菜に何故か頼んでくれていたので、陽菜の前には揚げたての天麩羅が神々しく輝いていた。美味しそうで、油にからっと揚がった湯気がもくもくと立ち昇る。
「先生、キスの天麩羅差し上げます」
「あ、なんでっ、アンタが食べるやつ……あー、なんで俺なんかに……」
「どうして?」
「いや……だって」
「それでは、半分にしましょう。キスの天麩羅、私好きなんです」
胃痛は大丈夫か、と尋ねると首を小さく横に振って凝視している。本当は食べたかったのだろうか。
「先生も良かったら、シェアしましょう?」
箸を上手く使って、半分に割ると陽菜は最賀の器にそのまま移した。何方かが大きいだとか、小さいだとか気にするとは思わないが、絶対に最賀なら大きく切り分けた物を寄越してくるだろう。そんなことがない様に、きっかりと半分に。
その様子に最賀は塩が入った小瓶を手に項垂れてしまった。
「うーん、そう言うところだぞ」
「……一人だけ、味占めるのは発想が無くて」
箸を付けた物を、他人にあげることに鈍感だった陽菜はその言葉に顔を伏せた。
弟が欲しいと言った物は全て譲ったし、友人と一緒にいる際にお菓子を持参すればきっちりと半分あげる。それが当たり前だと思っていた節が、実際問題欲が無いのを指摘されたのだと後ろめたかった。
「はは、中年には大きな天麩羅丸々一つ朝食べるのはハードル高くて尻込みしていたのに……。俺も食べたかったのは認める」
的を得た最賀はサクサクと抵抗無くキスの天麩羅を噛み締めて美味しいなと表情が和やかになった。
うどんを食べ終わった後、陽菜は最賀の後ろを自信無くついて行った。私服姿を見ることも無かったなと良く観察する。そう言っても、白衣が有るのと無いのとで然程変化の無い服装だ。
手触りの良さそうな真っ白いシャツに、スラックスと言ったラフなスタイルだ。陽菜の方が立ち食い蕎麦屋で悪目立ちしていた。大きな花柄のプリーツスカートにシフォン素材のノースリーブである。
「せ、んせ、い……あの、お話、は……」
「──急かすな、少し座って話そうか」
十時の小さな公園には殆ど人がいなかった。側を通る人々は忙しなく、携帯を片手に仕事の連絡をしているか、通学時間帯が外れているのもあって人通りは疎だった。
最賀はベンチに腰掛けて、途中自販機で購入した緑茶を口にする。渡された御茶をとつおいつする陽菜の手を徐に握る。
「……本気なんだ、分かるだろう?」
ぐっと喉が口の中に溜まった唾液が嚥下する。緊張感のある、空気に陽菜は言葉を発しず、ただ最賀の答えを聴く。
「分かるだろうって……あの……」
「アンタのこと、真剣に考えている……んだが、迷惑か?」
「迷惑じゃ……ありません」
だって、陽菜はその言葉が聴きたかったのだから。
陽菜の心の半分以上を独占する人は初めてだった。
優しい手、皺が寄って不器用に笑うところ、いつまで経ってもリボンが上手く結べないのも全てが好きになってしまったのである。
どうして人は恋愛をすると臆病で卑屈になるのだろうか。恋愛小説を読んでも、この燻りの正体を教えてくれる物は無かった。主人公の女性が片想いが辛いと枕を濡らすシーンを読んでも感情移入ができなかったのに。
今なら分かる。相手をどんなに想っても、その気持ちが必ず成就することが叶わないこともある、と言うことを。それでも直向きに好きな人を想い、悩み、苦しんで恋と言う芽吹きを育むのだろう。
「俺の方が泣きそうなんですが……」
「えっ、嘘っ、泣きそうですか?」
「そういうところ……だぞ! ……あ、こらっ」
陽菜は前屈みで俯いていた最賀の頬を両手で包んだ。涙が薄らと漆黒の綺麗な双眸に覆われて、太陽の光で煌めいている。
美しい瞳だと、陽菜は思った。涙の膜がゆらゆらと反射して、吸い込まれそうだ。
「……アンタだって、長い睫毛に雫が」
「嬉し、涙……?」
「……はは、嬉しくて泣いてしまいそうなんだよ俺たち」
ゆっくり唇が触れて、陽菜は目を閉じた。
触れるだけの口づけなのに、陽菜の空洞になっていた心の隙間が満たされて行く。
水を得た魚と同じで、今ならば金槌の陽菜でも大海原を泳いでいけそうな、それくらい活力と豊かさを与えられた気がしたのである。
その時、涙が一滴頬を伝って落ちて行くのを陽菜は感じた。
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