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第1部 まるで初めての恋
3-2
しおりを挟む陽菜だけが翻弄され、心を乱されて四六時中目の前にいる男のことしか考えられなくされたのを、知られたく無かったのだ。
「……良いのか?俺は、本気……なんだが」
「え……」
待合室に備え付けられた椅子で、気まずそうに最賀はカフェラテに口を付けて一口飲んでからそうしどろもどろ話す。
「……大切な話だから、明けに、話せないか」
「あ、……は、い……」
きゅう、と可愛い腹の音が空気を読まずに聴こえて、陽菜は緊張した張り詰めた空気が壊れてくすくすと笑みを溢した。最賀は唇を尖らせて腹の虫はKY(空気読まない)だなと咎めた。
そう言えば、小腹が空いた時の夜食用に持参した物があったと陽菜は思い出して保温ポッドを持って、最賀の隣に腰掛ける。
「野菜スープです。先生……、お腹に何か入れないと」
かぱり、と保温ポットを開けて蓋へ注ぐ。まだ熱い緑黄色野菜たっぷりの栄養価の高いコンソメベースのスープを最賀へ渡した。
夜食に、と自宅で作り置きしたスープは誰かに振る舞ったことは無い。弟以外、誰も食べやしなかったのだ。
だから、身内以外の人間には自信を持って作ったことは無かったし、陽菜は渡した後に我に返った。味付けの好みも手作りに抵抗が無いか、アレルギーの有無も知らないのに軽率な行動を取ってしまったと。
だが、最賀は陽菜の質問が沢山あると言う表情に微笑して、アレルギーは無いからなと一番大切なことを先に伝えた。
「ん、うまいな」
ぺろ、と最賀は舌で唇に滴る水滴を拭う。
「あ……の」
「手作り抵抗無し、味付け良好、食物アレルギーは無し」
これが聞きたかったんだろう、と鼻を鳴らして陽菜を一瞥したので小さく頷いた。気恥ずかしくて、自分が作った手料理を食べてもらう機会が突然やって来たせいで落ち着かない。
「え……と、その、お口に合って…良かったです」
「手作りなんて偉いな。あのナースなんて、コンビニ弁当とかカップラーメンばっかりビニール袋かっ下げて出勤してくるからな」
「あ、そうなんですね?」
「お湯くれだの、休憩室にある電子レンジ壊れたからって医局の使わせてくれって良く来るから」
陽菜は良く怒っている看護師が、カップラーメン片手にポッドに入った湯を拝借しに医局へ現れる絵を想像して、何だか人間らしいなと思った。普段見掛けるのは大抵鬼の形相で地響きが聴こえそうな程院内の廊下を踏み締めて歩く姿であるからだ。
「絶対それ、見せない方が良いぞ。食い意地張ってるから、横から奪われる。鳶みたいに掻っ攫われたくなけりゃ」
「あはは、そんなにお腹空かせてらっしゃるのなら多めに持ってきますよ私」
物事が円滑に進むのなら、食べ物の一つや二つ多目に用意することなど朝飯前である。
「いや、それは駄目だ。あいつに食べさせたく無い。俺の分が減る」
「そんな大袈裟な……」
「俺が、嫌なんだよ」
への字にした口がそう言うので、陽菜は首を竦めた。俺が、とピンポイントで示されるとどうも弱いのだ。
陽菜はまた当直の日に、こうして何かしらの夜食を最賀がもしかしたら食べたがるのか。そう考えたら僅かな高揚感に満ちた。
「普段はどうされてらっしゃるのですか?」
「俺か?……カップラーメン」
「それは……」
「お湯注いだら緊急入って、伸び伸びだ」
湯を注いで三分が経つ前に呼ばれてしまう、と言うジンクスである。
勤務中の"今日は暇ですね"や"今日は落ち着いてますね"等暗黙の禁句と同じで、その言葉を口にするや否や、途端に忙しなくなる都市伝説に類似した病院あるあるだ。患者が急変したり、コール音の嵐に襲われるのは珍しくない。カップラーメンも、その類と同じである。
「フラグを立ててしまうのですね……」
「熱々の物食べられるのなんて奇跡?」
「ふふ、今日は奇跡起きましたね」
「はは、そうだな……女神が降臨したからか?」
「女神って……」
「胃が痛いのにカップラーメンは無理なんで」
「やっぱり、だったらブラックなんか余計飲ませられません!」
「カフェイン入れないと目が冴えないんだよ」
眠気を抑える為には濃いブラックコーヒーが多少は効果があるのは、気持ちの問題かもしれない。
けれども、そんな微力な物にすら頼りたくなる程、夜間帯の勤務は厳しいのである。本来であれば人間が眠っている時間帯に活動するからだ。
「酷使し過ぎです、体壊します」
「うーん、生憎心配してくれるのはアンタしかいないので……」
「いやいやいや、患者様もですよ」
「無愛想なお医者様、湿布もっと処方して下さい、薬飲んでないからまだあるーしか言われないぞ」
確かに、混み合う院内を闊歩する最賀を引き留めて患者が良く引き留めて駄目だと叱責する場面は見掛けたことがある。何百枚と溜め込んで、それでも上限を超えた枚数を要求する患者もいるのだ。
「先生、笑わないですもん」
「こうやって?」
最賀は、にっと頬骨を指で引っ張って笑顔を無理やり作る。だが、釣り上がった目尻は笑顔に程遠い。
「……表情筋、固くなってませんか?」
顔を陽菜は触らせてもらう。表情筋が凝り固まっているのかと思って、和らげる為にむにむにと解す。
「髭伸びてるからあんまり触るなよ」
「うーん……少し解してみます」
「はは、突拍子も無い行動には完敗だ」
陽菜に頬を揉まれながら、最賀は微笑した。何だか可愛い生き物が手の中にいると思うと胸の内が擽ったくなる。伸び始めた髭が陽菜の掌にちくちくと掠れるが、それすらも愛おしく感じてしまう。
歳がうんと離れた男に、疾しい気持ちを抱いてしまっている。
なんて、浮雲な恋をしたのだろうか。
険しい表情で前を見据える姿を追い掛けたら、とんだカウンター攻撃を受けたみたいに。強い衝撃は陽菜を恋情で包み込んでしまうのだ。
「────先生笑ったら可愛いのに?」
「可愛いのはアンタの方だろ、おじさんを揶揄うんじゃない」
ぴりり、とピッチ音が電話を意味する。指示漏れがあったからもう行くわ、と最賀はもう顔を元に戻していた。綻びは消えて、口角が下がり巌々がんがんとした表情である。
ポケットから渋々取り出した腕時計を最賀は左手首に通す。がち、がちと手が震えて時計のベルトがつけられていなかった。
くそ、と小さく呟く最賀に陽菜は最賀の手首に視線を落とした。そっとシルバーの金具に手を添えて陽菜は着けてあげた。その様子を黙って見詰めている、今にも消え入りそうな男をこれから見送らなければならない。
陽菜はよれた白衣やスーツの身だしなみを整えてやる。襟元を正し、曲がったネクタイを一度解いて結び直す。ネクタイピンを留めて仕上げに、陽菜は最賀の広く骨張った肩をぽんぽんと二回叩いた。
「────先生、大丈夫、大丈夫ですよ」
進級や進学の度に、弟にはこのまじないをやっていた両親を遠くで見ていた。陽菜は一度もされたことがないので、自分がされたかったことを最賀にしただけだった。
これが、良い方に転じるかは定かでは無いが、何故だか今の最賀には必要なことだと本能が叫んでいた。
勇気付ける言葉や術を陽菜は持ち合わせていなかったから。
せめて、見様見真似でも最賀へ何かしらすべきだと思ったのだ。
「……最賀先生?」
どうしてか、暫く目の前の背の高い男は固まっていた。陽菜の眼を見詰めたまま、按ずる様子だったので陽菜は慌てて肩に置き去りにされたままの手を引っ込める。その陽菜の手を、最賀がぎゅっと握るので、その真剣な眼差しに射止められそうになった。
すると、最賀が陽菜のカーディガンのボタンをきっちりと全て留め始めて逆に動けなくなった。突然の動作に身を固めていると、陽菜に渡したグリーンのリボンを付け替えるも、やっぱり曲がった円が二つ出来る。
そうして最賀は陽菜の肩を同じく二回軽く叩いて、唇が動くのに目が離せなかった。
「山藤、大丈夫、アンタは大丈夫」
掛けてもらいたかった言葉を、最賀が今度は言葉にしてくれて陽菜は喉がひく、と目尻の代わりに震えた。
一番欲しい言葉をいつだって、この男は紡ぐ。
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