戀の再燃〜笑わぬ循環器内科医は幸薄ワンコを永久に手離さない

暁月蛍火

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第1部 まるで初めての恋

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 長い長い夜も、必ず朝はやって来る。


 業務の滞りを挽回するには、何も考えず、主観的にならず数字の羅列と入力データの相違が無いように入念にチェックをすれば良い。
 それこそ、ただ機械的に、だ。陽菜は死亡診断書や手続き等で男児の母親を留めておくには、少し時間を多く有していると感じた。
 電話を取った意味は、最賀が警察に通報したことを看護師から間接的に聴いた。

──最賀先生、が……。

 見て見ぬ振りも、出来たはずなのに。通り過ぎず立ち止まる人間がいたのだと、陽菜は少しだけ救われた。
 任意の事情聴取と事件性のあることにより関係者の事実確認によって朝方には大まかな全容が見えて来た。

 午前診療でわらわらと出勤して来た事務へ陽菜は申し送りを終えて荷物を片付けていると、ノックもせずに仮眠室兼当直室へ最賀が入って来た。当直明けにも関わらず、最賀は日勤を余儀無くされていたらしい。

 眉間に皺を寄せて、始業前に一息つかせてくれと言って仮眠用の簡易ベッドに腰掛けた。時計が不恰好にシャツの上から着けられている。
 かちかち、短過ぎる爪先でシルバーの留め具を外そうとするが、中々外せない。

「常習犯なんだってな、あの母親」

「ミュンゼンハウゼン症候群?」

「……良く知ってるな」

 ミュンゼンハウゼン症候群とは、子供に病気をかからせ、甲斐甲斐しく世話をすることで己の精神の安定を図る虐待のことだ。

 子供の死因は、薬の誤飲だった。後から発覚したが、祖父母が処方されている薬をこっそり拝借して子供に与えていたらしい。子供の小さな体では過剰摂取になり得る。一度、間違えて子供が飲んで救急病院に駆け込んだ時に癖になったらしい。

「……それでも、受けた痛みは消えません」

 ぱち、と漸く最賀の時計のベルトが嵌まった。パーツ同士がバラバラと、噛み合わないことで防ぐことが難しいのは全体像が見えていないからだろうか。

 大人が、周囲がその著変に気付くべきなのに。

「……どうして大人が気付いてあげられなかったのでしょう」

 保育園も近所も、希薄なのだろうか。
 いや、陽菜だって田舎町の畑が隣接した一軒家では近所の家から徒歩二分以上はかかる程の距離があった。
 近所の目があるからと、叱る際は必ず離れの折檻部屋だったし、母家では正座を義務付けられ殆ど声を発することなく静かに息を潜めて生活していたくらいだ。

 子供ができることなど、少ない。腹が減れば我慢出来ないし、喉が渇けば自ずと蛇口を捻る。声と音を押し殺しても、結局生活音は誤魔化せない。

「もっと、彼はこれから楽しいことも、選ぶことも出来たはずなのに」

「アンタ、間違っても余計なことをするなよ。事務如きが、関与すべきじゃあない」

 ぴしゃり、と最賀はそう陽菜の言葉を遮った。通報義務は、ある。
 それは児童相談所に通報することも、可能であるのだ。
 出来ることは少ないかもしれないが、指示通りにしろと抑圧された気がして陽菜は目を細める。

 立場が低く、医者や看護師、技師の不手際さえも最初と最後の標的になるのはいつだって事務であるのに!!

「所詮、事務如きはただ言われた通りにすべきって、足手纏いってことですか……?」

 あ、嫌な言い方になってしまったと陽菜は売り言葉に買い言葉として口走ったのを瞬時に我に返った。

──何て口の利き方してるのよ!産んでやった恩を返したらどう?!

 物心ついた頃から、弟が産まれるまで癇に障ることがあれば押し入れに閉じ込められれば良い方だった。物や拳飛んできて、畳に頭が打ち付けられると鼻血で汚せば掃除をしろと雑巾を投げられる。

 そんな幼少期の記憶が光の速さで走り去って、陽菜は萎縮した。

 さあっと血の気が引いて、怒られると最賀の顔をが見れず自身のナースシューズを見詰めた。

「……自分と重ねるな、ってことだよ」

 その様子に最賀は叱責した訳じゃないんだと弁明した。怒ってないのか恐る恐る顔を上げると、困った表情で怒ってないからと言う。
 陽菜の栗色の髪をおっかなびっくりな顔で、慣れない手は何度か宙を彷徨ってから撫でた。陽菜は胸を撫で下ろして申し訳ございませんと謝罪する。

「せ、先生…私、あの……」

「初めて事務に噛み付かれたわ、はは、チワワみたいな顔で!」

「な……っ、先生が……いえ、その……」

「悪かったって、ぶるぶる小さい体で震えてるから」

 腹を抱えて笑う最賀は溜まった眦の涙を指で拭っている。にこりともしない医者だと有名な男が、陽菜の前で大きな声で笑った。
 陽菜の抱いていたイメージが崩れ去る瞬間でもあった。ただ、彼の優しさは表に出ないだけであるのだと。
 笑い過ぎだ、と陽菜は物申したかったが男の笑顔を見たらなんだか怒る気にならなくなってしまった。

「山藤って、小型犬みたいだ。まん丸お目々で愛らしいから、つい?」

 陽菜は確かに小柄だ。身長は平均身長にギリギリ届かないくらいだし、幼さが残る顔立ち故に年齢確認は未だに取り憑いている。それに比べて、最賀は陽菜の頭二つ以上分の身長で、品格のある顔立ちだ。

「小型犬……ですか。じゃあ先生はアメリカン・ピット・ブル・テリアに似ています。目つきとか……」

「はあ?なんだその長い犬種」

 すい、すいと指先でスワイプして携帯画面を操作して検索する最賀は固まった。
 アメリカン・ピット・ブル・テリアは闘犬として世界最強とも呼ばれる犬で凶暴なイメージを持つ厳つい顔立ちの犬種である。

「……俺、そんな怖い顔、してるのか?」

 かちゃ、と眼鏡を外して眉間を摘んでいる。その素顔に陽菜は首を傾げた。

「……あれ?秋田犬?」

「あんまり印象変わってないぞ!」

 くすくすと陽菜は大人気なく反論する最賀に笑みを零した。

 意外と色素が薄く、彫りが深い顔立ちが綺麗だと思ったのは心に仕舞うことにしたかった。



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