4 / 156
第1部 まるで初めての恋
1-4
しおりを挟む長い長い夜も、必ず朝はやって来る。
業務の滞りを挽回するには、何も考えず、主観的にならず数字の羅列と入力データの相違が無いように入念にチェックをすれば良い。
それこそ、ただ機械的に、だ。陽菜は死亡診断書や手続き等で男児の母親を留めておくには、少し時間を多く有していると感じた。
電話を取った意味は、最賀が警察に通報したことを看護師から間接的に聴いた。
──最賀先生、が……。
見て見ぬ振りも、出来たはずなのに。通り過ぎず立ち止まる人間がいたのだと、陽菜は少しだけ救われた。
任意の事情聴取と事件性のあることにより関係者の事実確認によって朝方には大まかな全容が見えて来た。
午前診療でわらわらと出勤して来た事務へ陽菜は申し送りを終えて荷物を片付けていると、ノックもせずに仮眠室兼当直室へ最賀が入って来た。当直明けにも関わらず、最賀は日勤を余儀無くされていたらしい。
眉間に皺を寄せて、始業前に一息つかせてくれと言って仮眠用の簡易ベッドに腰掛けた。時計が不恰好にシャツの上から着けられている。
かちかち、短過ぎる爪先でシルバーの留め具を外そうとするが、中々外せない。
「常習犯なんだってな、あの母親」
「ミュンゼンハウゼン症候群?」
「……良く知ってるな」
ミュンゼンハウゼン症候群とは、子供に病気をかからせ、甲斐甲斐しく世話をすることで己の精神の安定を図る虐待のことだ。
子供の死因は、薬の誤飲だった。後から発覚したが、祖父母が処方されている薬をこっそり拝借して子供に与えていたらしい。子供の小さな体では過剰摂取になり得る。一度、間違えて子供が飲んで救急病院に駆け込んだ時に癖になったらしい。
「……それでも、受けた痛みは消えません」
ぱち、と漸く最賀の時計のベルトが嵌まった。パーツ同士がバラバラと、噛み合わないことで防ぐことが難しいのは全体像が見えていないからだろうか。
大人が、周囲がその著変に気付くべきなのに。
「……どうして大人が気付いてあげられなかったのでしょう」
保育園も近所も、希薄なのだろうか。
いや、陽菜だって田舎町の畑が隣接した一軒家では近所の家から徒歩二分以上はかかる程の距離があった。
近所の目があるからと、叱る際は必ず離れの折檻部屋だったし、母家では正座を義務付けられ殆ど声を発することなく静かに息を潜めて生活していたくらいだ。
子供ができることなど、少ない。腹が減れば我慢出来ないし、喉が渇けば自ずと蛇口を捻る。声と音を押し殺しても、結局生活音は誤魔化せない。
「もっと、彼はこれから楽しいことも、選ぶことも出来たはずなのに」
「アンタ、間違っても余計なことをするなよ。事務如きが、関与すべきじゃあない」
ぴしゃり、と最賀はそう陽菜の言葉を遮った。通報義務は、ある。
それは児童相談所に通報することも、可能であるのだ。
出来ることは少ないかもしれないが、指示通りにしろと抑圧された気がして陽菜は目を細める。
立場が低く、医者や看護師、技師の不手際さえも最初と最後の標的になるのはいつだって事務であるのに!!
「所詮、事務如きはただ言われた通りにすべきって、足手纏いってことですか……?」
あ、嫌な言い方になってしまったと陽菜は売り言葉に買い言葉として口走ったのを瞬時に我に返った。
──何て口の利き方してるのよ!産んでやった恩を返したらどう?!
物心ついた頃から、弟が産まれるまで癇に障ることがあれば押し入れに閉じ込められれば良い方だった。物や拳飛んできて、畳に頭が打ち付けられると鼻血で汚せば掃除をしろと雑巾を投げられる。
そんな幼少期の記憶が光の速さで走り去って、陽菜は萎縮した。
さあっと血の気が引いて、怒られると最賀の顔をが見れず自身のナースシューズを見詰めた。
「……自分と重ねるな、ってことだよ」
その様子に最賀は叱責した訳じゃないんだと弁明した。怒ってないのか恐る恐る顔を上げると、困った表情で怒ってないからと言う。
陽菜の栗色の髪をおっかなびっくりな顔で、慣れない手は何度か宙を彷徨ってから撫でた。陽菜は胸を撫で下ろして申し訳ございませんと謝罪する。
「せ、先生…私、あの……」
「初めて事務に噛み付かれたわ、はは、チワワみたいな顔で!」
「な……っ、先生が……いえ、その……」
「悪かったって、ぶるぶる小さい体で震えてるから」
腹を抱えて笑う最賀は溜まった眦の涙を指で拭っている。にこりともしない医者だと有名な男が、陽菜の前で大きな声で笑った。
陽菜の抱いていたイメージが崩れ去る瞬間でもあった。ただ、彼の優しさは表に出ないだけであるのだと。
笑い過ぎだ、と陽菜は物申したかったが男の笑顔を見たらなんだか怒る気にならなくなってしまった。
「山藤って、小型犬みたいだ。まん丸お目々で愛らしいから、つい?」
陽菜は確かに小柄だ。身長は平均身長にギリギリ届かないくらいだし、幼さが残る顔立ち故に年齢確認は未だに取り憑いている。それに比べて、最賀は陽菜の頭二つ以上分の身長で、品格のある顔立ちだ。
「小型犬……ですか。じゃあ先生はアメリカン・ピット・ブル・テリアに似ています。目つきとか……」
「はあ?なんだその長い犬種」
すい、すいと指先でスワイプして携帯画面を操作して検索する最賀は固まった。
アメリカン・ピット・ブル・テリアは闘犬として世界最強とも呼ばれる犬で凶暴なイメージを持つ厳つい顔立ちの犬種である。
「……俺、そんな怖い顔、してるのか?」
かちゃ、と眼鏡を外して眉間を摘んでいる。その素顔に陽菜は首を傾げた。
「……あれ?秋田犬?」
「あんまり印象変わってないぞ!」
くすくすと陽菜は大人気なく反論する最賀に笑みを零した。
意外と色素が薄く、彫りが深い顔立ちが綺麗だと思ったのは心に仕舞うことにしたかった。
0
お気に入りに追加
58
あなたにおすすめの小説

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

溺婚
明日葉
恋愛
香月絢佳、37歳、独身。晩婚化が進んでいるとはいえ、さすがにもう、無理かなぁ、と残念には思うが焦る気にもならず。まあ、恋愛体質じゃないし、と。
以前階段落ちから助けてくれたイケメンに、馴染みの店で再会するものの、この状況では向こうの印象がよろしいはずもないしと期待もしなかったのだが。
イケメン、天羽疾矢はどうやら絢佳に惹かれてしまったようで。
「歳も歳だし、とりあえず試してみたら?こわいの?」と、挑発されればつい、売り言葉に買い言葉。
何がどうしてこうなった?
平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

好きな人の好きな人
ぽぽ
恋愛
"私には10年以上思い続ける初恋相手がいる。"
初恋相手に対しての執着と愛の重さは日々増していくばかりで、彼の1番近くにいれるの自分が当たり前だった。
恋人関係がなくても、隣にいれるだけで幸せ……。
そう思っていたのに、初恋相手に恋人兼婚約者がいたなんて聞いてません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる