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第1部 まるで初めての恋

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 産休に入った事務は、実はもう辞めたいんだよねと溢したのが印象的だった。

 陽が傾くと風が冷たく感じる十月の半ば、オレンジ色の光が窓に反射している。
 救急外来の受付業務や会計は外来とは異なる。診療点数や、病棟に引き上げる際の申し送り等別物であるからだ。
 だから、多くの医療事務はやりたがらない部署であった。決まって、後釜が現れるまでその場に縛り付けられるので、強制リタイアとして産休に入るか、退職、または異動の三択しか無い。

 山藤陽菜やまふじひなは若くて、真面目で、文句を言わない三拍子を利用され、見事に夜間の救急外来業務に抜擢されてしまった。やっと正規雇用に漕ぎ着けて、正社員への道までのカウントダウンが始まった矢先である。

 けれども、事務長には逆らえない。引き攣った笑顔で勿論ですと反射的に答えてしまったのは、単に二年の非正規雇用者として積み上げてきた実績と勤務態度の評価を失墜させたくないからだ。

 普段はローテーションで一般外来を担当している。派遣の事務が退職したり、立て続けに人手不足に悩まされていたらしい。万年人手不足の医療現場は入れ替わりが激しい。いる人間で山積みの仕事を日々こなしている。

 多くの医療事務が家庭を理由に辞退したので、最終的に経験豊富でも無い陽菜が強制就任、になったのである。
 これもまた経験になると陽菜は前向きに考えるが、やっぱり慣れない当直と救急外来の受付は体力と日々の勉強との戦いだった。

「──はあ、重なるなあ」

 夜間救急は時間との勝負だ。何本も救急隊員から電話が駆け込み寺の様に鳴る。
 都心から一歩離れた、豊かな自然が見渡す限り広がる辺境地に廃れること無く一帯の患者を四代目院長が牛耳る総合病院があった。
 五十年の歴史を誇る都草総合病院は、近隣の大学病院が満床だと断った救急搬送を何でも受け入れると同業者内では有名だった。

 陽菜はそこの総合病院の救急外来で三週間目にして地獄を何度もみることになった。
 今夜は、特に悲惨だった。子供が動かなくなった、と救急要請。救急隊員が駆け付けると意識が無くぐったりとしている五歳児。自発呼吸が無く、心肺蘇生法を繰り返すが意識は戻ってこなかった。

 救急外来の前にあるベンチで、先程まで涙していた母親らしき人物は険しい表情で携帯を触っていた。子供が亡くなったのに、と。処置中に不審に思った担当医が警察に通報していたのが、妙に印象を受けたのだ。

 顔以外服に隠された体には至る所に治りかけの鬱血痕、真新しい火傷の痕が無数に散らばっていたそうだ。死因は別にあったが、その痛ましい姿に、流石の看護師やレントゲン技師も絶句した。

 陽菜は顔を真っ青にしたまま、機械的に何とか事務作業を終える。
 今時珍しく電子カルテと紙カルテの併用をする病院だった。カルテには書き殴った薬液の種類や、物々しい記録が残されており、陽菜は点数加算をしながら現実は残酷なのだと思い知る。
 すると、がたんと物音がした。待合室の外から聴こえて、陽菜は恐る恐る当直室から出ると。

「──最賀先生?」

「……誰だよ、アンタ……ああ、産休に入った事務の代わりか」

 項垂れている白衣を着た男が隣接した待合室の外に備え付けられた椅子にいる。
 最賀忠さいがただしと言う医者は救急外来の家主だ。そう呼ばれるのも無理はない。何故ならば、当直を嫌と言う程に名前が綴られているからだ。別に、夜勤専従でも無いのに、ごっそりと退職した医師の穴埋めに駆り出されていたのだろう。

 普段は循環器内科医師として、外来勤務で看護師からは"誰にも理解出来ない頭の持ち主"とも悪態吐かれる医者であることは、陽菜も朧げに覚えていた。にこりとも笑わぬ、仏頂面で院内でも有名なのだ。

 疲労が髪に出ているのか、黒髪の中に薄らと白髪が混じっている。切れ長の瞳はシルバーの縁取った眼鏡から鋭く陽菜を敵視していることは明白だった。どうせ、若い人間は根を上げて辞めると言わんばかりに。

「代理さんには分からないだろうな」

 怒りと悲しみに満ちて、声が震えている。
 搬送された子供を担当したのは、最賀であった。少ない人数で、必死でストレッチャーに横たわる子供に最期まで心肺蘇生法を諦めず施行していた。

 消毒液の独特な刺激臭、ガシャガシャと器械や物品が慌しく鳴る音。
 陽菜の元には大抵、音か匂いか悲痛な声しか聴こえない。
 心電図のモニターは波形が真っ直ぐのままで、陽菜は邪魔にならぬよう遠くでその光景が目に焼き付いて離れなかった。
 電子音と、腕時計に視線を落として告げる唇は淡々としていたのに、下唇を噛み締めて踵を返した後受話器を徐に取ったのである。

「……虐待された子、助からなかった、ですね」

──あんたなんか、欲しく無かったのに!!

──男の子が欲しかったのに、じゃないと私が責められるじゃない、あんたが、あんたなんか……。

 幼少期は常に物置に閉じ込められていた。
 暗い過去が浮き彫りになるくらいなら、一層蓋をすれば簡単だ。
 それ以降、弟が無事に誕生したので矛先が再度向けられることは無かったが。未だにあの頃の傷が陽菜を殺しにかかるのだ。

 ずきずきと傷跡が痛んで、陽菜は顔を無意識に顰めた。
 子供は無力な生き物だ。その小さな体が発する救済を大人や他人が察しなければ、闇に葬られる。

 いつだって陽菜は独りだ。医療従事者の道を選んだのも、結局子供時代の救われなかった己を掬い出す為の投影だとも自覚している。それでも、現実は決して他人には優しくないのを、いつだって突きつけられるのだ。

「子供のSOSを無視する団体も、連鎖を止められない歯痒さに……不甲斐無さで、死にたくなるときがあります」

「……だから、アンタ……前髪おろしてるのか」

 涙で湿った双眸が、陽菜の前髪を不意に向けられる。屈んだ際に見られたのか。咄嗟に陽菜は眉毛ギリギリに切られた前髪を抑えた。

 陽菜の眉間下には母親が反射的に振り翳した鉛筆の痕が刻まれている。長女は要らなかったらしい。確定診断でも男児だと言われていたが、蓋を開けてみれば女の子が産まれ。それからと言うものは、陽菜は弟が産まれるまで地獄の底を這いずって生きていた。

 それなのに、両親との縁を切れず、今も蝕まれているような気がするのに。

「私が虐待児であっても、仕事には支障がありません」

 振り上げた拳の数だけ知っている、痛みは永遠と陽菜を追い掛けるのだ。


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