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しおりを挟む一ノ瀬と色々あって付き合うことにはなったけれど、色ボケしている場合じゃなかったと、翌朝から早速思い知らされていた。私の目の前にホッチキスでまとめた紙束が勢いよく叩き落とされる。
「星野」
「は、はい!」
この口調はちょっと苛立ちモードに入ってる。なにか問題があったのかもしれない。目の前の上司の厳しい口調にびくびくと身を縮ませながら、言葉の続きを待つ。この時間は何度経験しても苦手だ。
「資料の内容はいいけど誤字数箇所あったよ。きちんと見直したの? 半までに修正して」
「っすみません! すぐやります!」
情けない失態に肩を落とす。けれど、プレゼン前に指摘してもらえて助かった。ふと目があった一ノ瀬は『阿呆だな』とでも言いたげな笑みをこちらに向けてきている。……そんな気がする。
あの人が私の彼氏とか信じがたい。けれど、今は仕事に集中しないとダメだ。しばらくは自分を律して、仕事モードでいかないと。自分の資料を一から丁寧に読み直しながら、パソコンで誤字を修正した。
***
ひとまず修正し終わった資料をさらにもう一度読み直してから、再度印刷をかけて上司に提出した。
「次回からこういう凡ミス気をつけて」
「すみませんでした」
今度は修正がなかったので、ほっと胸を撫で下ろす。珈琲淹れてこよう。プレゼンは夕方なので、午前中は溜まった事務作業を片付けてしまおう。
お気に入りの花柄のマグカップを持って給湯室に行き、お湯を沸かす。背後から足音が聞こえてきたので振り返ると、思わず顔が引きつってしまった。
「なんだよ、その顔」
「いいえ、別に」
不満そうに一ノ瀬が眉間にしわを寄せて、私の隣に立った。なんだか変に意識をしてしまう。昨日私は一ノ瀬と付き合いだした……はずだ。私が、あの一ノ瀬の彼女なんだと未だに信じがたい。
「よかった」
一ノ瀬が嬉しそうに呟いたので見上げてみると、あどけない笑顔で私を見ていた。
「星野、ちゃんと意識してんだなぁって思って」
「……なにそれ、どういう意味?」
「いやだって、お前のことだから昨日のやっぱなしとか言いかねないじゃん」
いくら私でもそんな酷いこと言わないし、思いもしなかった。
「言わないよ」
ため息まじりに呟くと、一ノ瀬がすごく嬉しそうに微笑むので、いつもみたいな悪態を吐けなかった。……本当調子狂う。
「しばらく忙しいよな?」
「うん、今週は結構バタバタしてるかも」
私だけじゃなくて一ノ瀬の部署も忙しいはずだ。けれど、ヘアケアの企画はまだ序盤で、色々なチームが動き出したら今以上に忙しくなるはずだ。
「……あんまり会えねぇな」
「そう、だね」
一ノ瀬と改まってこんな話をするなんて妙な感じだ。会えないことが寂しいと素直に認めてしまうと、今までの意地を張っていた自分が馬鹿馬鹿しくなってしまう。気づかないようにしていただけで、体の関係を持った時から多分既に私は彼に惹かれていて、必死に争っていたのだ。
「星野、金曜って空いてる?」
「えっ」
「なんでそんな驚くんだよ」
「だ、だって」
まるで恋人同士のようなやりとりに驚いてしまっただけだ。……まるでというか、実際そういう関係になったのだけれど、やっぱりまだ慣れない。
「で、金曜日は?」
金曜日なら翌日は休みだし、ご飯行って少し遅くなっても問題ない。
「ちょっと遅くなっちゃうかもしれないけど、いい?」
「いいよ、先に終わったら待ってるし」
一ノ瀬とのこういう会話や、ほんのりと甘い雰囲気がむず痒い。嫌ってわけではなくて、今までの接し方とあまりにも違うから慣れるまでもう少し時間がかかりそうだ。
「ヘアケアの企画、お互い頑張ろうな」
頭の上に軽く手を乗せられて、微笑みかけられる。その瞬間に痺れるような感覚が身体中に伝わり、心臓が大きく跳ねた。
……まずい。顔が熱い。もしかして、赤くなっているのかもしれない。
「じゃ、先戻る」
珈琲を淹れ終えた一ノ瀬がマグカップを片手に給湯室から出て行った。先ほどの甘い感覚の余韻に浸りながら、インスタント珈琲を入れたマグカップにお湯を注いでいだ。
***
無事にプレゼンが終わり、私と先輩が出した案の折衷案という形で決定した。
人気漫画家とコラボしたシャンプーとリンスを、最初にどう打ち出していくかが重要なこの企画。メインターゲットは十代~二十代の学生。
まずはインターネットの無料動画サイトで、予告漫画PVを流すことになった。より多くの人へ拡散されるように公式アカウントも作成するつもりだ。
また渋谷で発売前にイベントも行う話や、他にも購入者が読める連載漫画などをする話も進んでいる。という感じで、様々な企画が同時進行で進んでいて慌ただしい日常が続いているため、なかなか澄川くんと話す機会がなかった。
澄川くんはアドバイスをくれたり、相談に乗ってくれていたからちゃんと直接報告がしたい。
「ねぇ、この間のこと考えてくれた?」
エレベーターホールへと向かう通路で、甘ったるい女性の声が聞こえてきて思わず足を止める。
「なんのことだっけ」
そう答えたのは誰なのか。姿を見なくてもわかった。
「えー、考えておくって言ってくれたでしょ?」
「……言ってないと思うけど」
「覚えてるじゃん!」
けれど、もしかしたら声が似ているだけかもしれない。そっと足を進めていくと、見えてきたのは一ノ瀬の後ろ姿と総務の尾野さんだった。
「だからー」
一ノ瀬の肩に手を置いて密着しながら耳元で囁いている尾野さんと、それを嫌がりもしない一ノ瀬の姿。まさかここまで密着しているとは思わなかった。
やっぱり一ノ瀬ってモテる。そう改めて目の当たりにして、胸のあたりにモヤがかかる。あんまり見たくない光景だ。
「あれ? 星野、どうしたの?」
会いたかったはずの相手から、こんなバッドタイミングに声をかけられてしまった。顔を引きつらせながら背後の澄川くんにから笑いをして、再び前を向くと、やっぱり一ノ瀬と尾野さんの視線はこちらに集まっていた。
「……星野」
困惑したような表情を浮かべる一ノ瀬。けれど、それ以上はなにも言ってこない。
「一ノ瀬くん、エレベーター来たよ」
尾野さんに腕を引っ張られてエレベーターに乗り込む一ノ瀬を、私は見送ることしかできなかった。
一ノ瀬がなにも言わなかったのは尾野さんがいたからだ。私たちの部署は一緒に仕事をする機会も多いし、親しい人以外にはなるべく隠そうと約束した。だから、ここで変に弁解して尾野さんに勘付かれないようにしたのは……わかってるけれど、なんだかもやもやする。
「星野……もしかして、俺なんかまずいことした?」
「ええっと……」
この状況が飲み込めず、一番困惑しているのはおそらく澄川くんだ。早く話したかったので、やっと会えたからよかったんだけれど、タイミングが悪かった。
***
ちょうどいい時間なので、久々に二人でランチに出かけることになった。こうして向かい合って澄川くんと話すのは、屋上で話を聞いてもらって以来。なので、昨夜一ノ瀬と付き合った経緯を説明する。
「————で、せっかく一ノ瀬と上手くいったのに、あの現場を見て落ち込んでるんだ?」
「そんな楽しげに笑いながら言わなくても……」
目の前のパスタをフォークに絡めながら、ため息を漏らす。
「別に落ち込んでなんてないよ」
あれくらいきっと一ノ瀬なら日常茶飯事だ。
「へぇ、星野は余裕だね」
今日の澄川くんはなんだか棘があるというか、わざとそういう言い方して私の反応を見ながら楽しんでいるように見える。
「一ノ瀬が他の女の人に食事に誘われたり、密着されたり、飲み会で積極的に迫られても星野は平気なんだ?」
「……っ、そういうわけじゃない、けど」
澄川くんの言っていることは全て現実で起こっていることだ。飲み会ではいつも女性社員が両隣をキープしている。私と関係を持ったあの日は、一部の同期だけの飲み会だったのでそういう女同士の争いもなく、最終的に二人きりになった。けれど普段の飲み会だったら、一ノ瀬狙いの女性たちが最後まで残っていたはずだ。
「嫌ならちゃんと言ったほうがいいんじゃない?」
「わざわざそういうこと言うのはどうなのかなって」
さすがにさっきの尾野さんみたいな密着した感じは嫌だけれど、一ノ瀬だって付き合いもあるだろう。なのでいちいち口を出すのは気が引ける。
「一ノ瀬は喜びそうだけどね」
「喜ぶって……逆じゃないの?」
「いや、嬉しいでしょ。ずっと片思いしていた人からヤキモチやかれるなんてさ」
「なっ、ヤ、ヤキモチって」
きょとんとした澄川くんが、すぐに目を細めて笑みを浮かべる。
「ヤキモチ、でしょ?」
私の心を見透かすような澄川くんの笑顔に、なにも言い返せない。自分で気づかないようにしていたけれど、このモヤモヤの正体はヤキモチ……なのかもしれない。
一ノ瀬はモテる人だって知っていて付き合ったんだし、仕方ないことだとは思うけど、目撃してしまうとちょっと落ち込んでしまう。
「そんなんじゃ、これからもたないよ」
「う……確かに」
あれくらい目撃したって、平常心を保たないとダメだ。
「でも、一ノ瀬と二人っきりのときは素直にね」
「……はい」
「きっとその方が変にこじれずに済むよ」
感情的に伝えるんじゃなくて、やんわりと密着してるのは嫌だとか伝えるべきなのかもしれない。
でも少しくらい一ノ瀬に嫌がってほしかった。あんなに密着されても受け入れているように見えたことが、ショックだった。
***
女子トイレで手を洗っていると、隣に少し乱暴な音を立ててワインレッドの化粧ポーチが置かれた。何事かと思って、鏡越しに相手を見ると少しきつめの化粧の女性社員————尾野さんが私のことを睨みつけている。
「前から思ってたんだけどさ、星野さんって一ノ瀬くんと仲いいよね」
敵意が滲み出ている声音で、私がなんて答えても彼女の気に障りそうで返答に困ってしまう。
「もしかして狙ってんの?」
それはそっちだろうと返したくなる気持ちをぐっと堪えて、できるだけいつも通りの口調で返す。
「同期で部署が近いからよく話すだけだよ」
「ふぅん」
先ほどの一ノ瀬と話していた口調とはだいぶ違っている。あんなに甘ったるい声で、語尾を伸ばして話していたのに、今の尾野さんはまるで別人だ。
「私も一ノ瀬くん狙ってるから」
それは本人にも周りにも丸わかりだ。
「てかさ、星野さんみたいに仕事頑張ってます~って女、男ウケ悪いよ?」
鏡越しに黒いラインが引かれた鋭い目と視線が合ってしまい、動けなくなる。まるで蛇に睨まれた蛙だ。こういう経験は初めて。
前世では姫という立場だったから、意地悪なんてアルフォンス以外にされたことなかったけど、なんだか既視感を覚える。……そういえば、侍女たちの間でのこんなバチバチとした雰囲気を覗き見たことがあった。あれは怖かった。頭から水をかけて、高笑いが響いていたのだ。それを目撃した時は、血の気がひいたのを覚えている。
「しかもさ、女子力低いし。化粧もちゃんとしてないよね」
一応化粧してるんですが。尾野さんほど濃くはないので気づきにくいのかもしれない。だめだ、これうっかり言ったら火に油を注ぐことになってしまう。
エレベーターでの私の反応で、完全にライバル認定をされたのかもしれない。昨日から一ノ瀬の彼女になったのだと伝えたら、彼女は嘘つくなと激昂しそうだ。いっそのこと言ってしまってスカッとしたいけれど、バレた後の方が面倒なのでここは堪える。
「あと私、一ノ瀬くんとデートの約束してるから」
「え……?」
「だから、星野さんには勝ち目ないよ」
不敵に微笑んだ尾野さんは、ハイヒールを鳴らしながら女子トイレから去っていく。どういうことなのかイマイチ飲み込めない。
一ノ瀬と尾野さんがデートの約束? 私と澄川くんみたく平日にランチとかじゃなくて、プライベートで?
一ノ瀬的にはそういうのはアリなのだろうか。そもそも私って一ノ瀬の彼女で本当に間違いがないのか不安になってきてしまった。
早くこのモヤモヤを晴らしたかったけれど、あれから数日が経ってしまった。
私と同じで一ノ瀬もマメに連絡をとるタイプじゃないようで、特にプライベートで連絡を取ることもなかった。毎日会社で顔を合わせるけれど、仕事以外の話はしていない。
今日が一ノ瀬と約束した金曜日だけど、本当に会えるのだろうか。
「星野、このデータ送って」
斜め前からデスクを挟んだ状態で一ノ瀬に話しかけられる。咄嗟に頷いて、わざとらしくならないように視線を逸らした。
「わかった」
一ノ瀬の販促チームもヘアケア企画で今は忙しそうだ。結構力を入れている企画だし、女性が多いからなのか携わる人たちの熱量もすごいと思う。
今回は人気漫画家の香野さんだけでなく、香野さんが現在連載している王美社も絡むこととなったため、王美社から参考として、香野さんの作品が送られてきたのだ。
それを回し読みした女性社員達が、一気にファンになったのも関係あるかもしれない。
当然のことだけど、これは仕事だ。だけど、仕事だからこそきちんとどんな漫画を描く方なのかを知って、ヘアケア企画とどう絡めて魅力を伝えていくべきだ。
絶対に成功させたい。来週は王美社と漫画家である香野さんご本人が来て打ち合わせをすることになっている。
インターネットの無料動画サイトで予告漫画PVを流すことは確定しているけれど、まだまだ宣伝やコラボ内容を詰めていく必要があるのだ。
こちらから提案するコラボ内容や、宣伝方法などをまとめたものを今日中に完成させて、万全な状態で打ち合わせに臨みたい。だからこそ、今週は関わる部署はみんな大忙しだった。
***
ようやく打ち合わせのための準備が整ったのは、午後十時だった。もう会うのは難しいかもしれない。そんなことを思いながら、一ノ瀬の席を見やると空席だった。
もしかしたら既に帰ってるのかもしれない。倉庫から出してきた資料を戻しに行こうと席を立つと、廊下でちょうど一ノ瀬がこちらに向かって歩いてくる。
「おつかれ」
一ノ瀬って残業していても全く疲れた感じ出さない気がする。声のトーンも笑顔も、普段通りだ。販促チームだってかなり忙しいはずなのに。
「これあっちに戻すやつ?」
「え、うん」
すっと手を差し出して、私が抱えていた資料を持ってくれた。当たり前のようにこうやって荷物を持ってくれたりするところが、一ノ瀬のモテるところの一つなのだろう。
資料室に入ると、手早く棚に戻してくれる一ノ瀬の背中を見つめながら、ぽつりと呟く。
「ありがとう」
私なりに精一杯お礼を言ってみたけれど、一ノ瀬は訝しげな顔で私を見てきた。
「どうした、星野」
「いや、普通にお礼言っただけなんだけど」
なんで、それでどの言葉が返ってくるのだろう。日頃の行いのせい?
「俺もう帰れるんだけど、星野は?」
「帰れるよ」
全て棚に仕舞い終えた一ノ瀬が私と向かい合うように目の前に立つ。こうして二人きりで話すのは、ちょっと緊張する。視線を上げると、一ノ瀬の白いワイシャツについているあるモノに目を見張った。
「なに、それ……」
「え?」
「それ口紅、だよね?」
白いワイシャツの襟元で赤いマークが自己主張するように目立っている。それは紛れもなく、女性の口紅。私の視線をたどり、ワイシャツを引っ張って口紅のついた部分を確認した一ノ瀬がため息を漏らした。
「……アイツ」
小さな声だったけれど、それを聞き逃さなかった。一ノ瀬にはそれをつけた人に心当たりがあるということだ。
「私、やっぱり今日先に帰るね」
心臓が動くたびに鈍い痛みが広がっていく。疲れた心には耐えられそうにないくらいの衝撃で、この場にいたくなくて走って逃げ出した。
確証はないけれど、頭によぎったのは〝尾野さん〟だった。考えただけで胸が痛くて、いつから私の頭の中は一ノ瀬でいっぱいになってしまったんだろう。
帰り支度をして、エレベーターに乗り込む。するとドアが閉まるのを黒い鞄が阻止した。再び開くドアの隙間から現れたのは、一ノ瀬だった。あんな後だから気まずい。
「ち、近いんだけど!」
「すぐ逃げるからだろ」
「だってそれは……」
尾野さんのことだってあるし、口紅がシャツについているのを見てしまったので複雑だ。
「ほら、一階」
「えっ、うん」
逃げた理由を詳しく聞かれるかと思ったけれど、一ノ瀬はエレベーターを降りていく。その背中を追うように私も降りて、会社を出た。この流れだと今日の約束は生きているということなのだろうか。
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