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1巻

1-2

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「他の仕事で手一杯のため、他の方に――」
「口答えせずにお前がやれ。重役出勤に早退、お前、俺たちが営業であっちこっち頭下げて回ってるってのに、いい身分だよな? それくらいやれよ」

 ひどく当たりがきつい言葉に、なんだか呆れてしまう。
 もともと井坂さんは、嫌いな人間にはきつい言葉を投げかける人ではあったけれど、流石さすがにこれはひどい。

「間に合わない場合、責任がとれないです」
「うるさい。黙って間に合わせろ」
「だから難しいんです」
「ちょっと、井坂君」

 隣の席から峰さんが、彼に声をかける。

「ひかりちゃんは昼までに仕上げないといけない書類で手一杯だから、急ぎなら私がやるけど?」

 綺麗な顔に笑みを浮かべて、峰さんがそう言う。けれど、井坂さんより十歳も年が上の峰さんに対してさえ、彼は苦々しい顔を向けた。

「峰さんは黙っててもらえますか。俺はひかりに言ってるんで。ひかり、絶対お前がやれ。俺に振られた当てつけみたいに、俺の仕事を断るな」
「仕事に私情は挟みません」

 井坂さんが舌打ちする。

「俺に振られたショックでへこんでる癖に、身内が病気だなんて嘘ついてるだろうが。仕事を平気でサボって周りに心配されて。俺を悪者に仕立てて悲劇のヒロインぶりやがって。さぞ、気分がいいだろうな!」

 事実と違い過ぎて、怒るどころか呆気に取られてしまう。
 私の何を見て、井坂さんはそんな風に感じたのだろう。さっぱりわからない。
 正直なところ、井坂さんと別れたことよりも今は祖父の方が気掛かりで、彼を意識する余裕もない。仕事も忙しいし、他のことに気を向けている場合じゃないのに。
 ただ、この状態で彼の言葉を否定しても、会話がかみ合わないのはわかっている。だから、否定するのはめておいた。

「井坂さん。私は家庭の事情で仕事を制限して皆さんに迷惑をかけているのを、申し訳なく思っています。その点はおびします。申し訳ありません。だからこそ、仕事で不備を出したくないんです。そこをご理解ください」

 そう頭を下げれば、頭上から更に舌打ちが聞こえる。

「悪いと思うならやれ」

 結局、井坂さんは聞く耳をもたずにそう言い捨てて、さっさと部署から出て行く。
 顔を上げると、峰さんが隣で憤怒ふんぬの形相になっていた。

「なにあれ。感じ悪過ぎ」
「すみません」
「ひかりちゃんは何も悪くないじゃない。彼、あんなことを周囲に言いふらしているけど、誰も信じてないから、気にしないで」
「言いふらしている?」
「そう。井坂、ひかりちゃんと付き合っている頃から河崎さんと二股していたのが、すぐばれたじゃない? 周囲から白い目で見られていたところに、ひかりちゃんが大変な状態になったでしょう? ばつが悪かったのか知らないけど、ひかりちゃんへの悪態で自分の悪い話を消そうとしてるみたい」
「それは、逆効果な気が……」

 井坂さんと河崎さんがずいぶん前から付き合っているっていう話は、私たちが別れた後で流れてきたんだよね。やっぱり二股だったけれど、彼への気持ちはそれで綺麗さっぱり消えたから、今更どうでもよかった。
 あのまま、二股と気付かずずるずる付き合うより、ずっとよかったと思うし。

「だよねぇ。井坂の女癖の悪さは入社時から変わらないし、ひかりちゃんの真面目な仕事態度を知っている人も多いから、誰も信じてなくって噂にもなってないけど」
「課長が祖父のお見舞いに来てくださったし、嘘だったらとっくにばれてますよね」
「課長も同じことを井坂に言ってたしなめていたわ……。しかし、あの態度は目に余る。後で課長が戻ったら報告しとくね」

 一児の母で、会社では頼れるお姉さん的存在の峰さんが笑顔で宣言した。女の私でもドキドキしてしまう素敵な笑顔のはずなのに、峰さんの背後にブリザードが吹き荒れている気がする。
 美人が怒ると、すごく怖い。

「あ、仕事一つ終わったから、何か一つ回してくれる?」
「いいんですか?」
「思ったより早く片付いちゃったから。それにひかりちゃんには、つわりがひどかった時に助けてもらったしね。困った時はお互い様よ」
「ありがとうございます。助かります」

 処理する書類の一つを渡すと、峰さんはパソコンに向き直った。
 私も業務を再開する。

「それにしても井坂、もとから仕事外での評判がいい方じゃなかったけど、最近ひどいわねぇ」
「そうなんですか?」

 私は誰かの悪い話は、耳にしてもすぐに流してしまうので、あまり気にしたことがなかった。
 画面に目を向け、指を動かしたまま二人で会話を続ける。

「ひかりちゃんと付き合い始めて人間も丸くなったし、女遊びもしなくなったから、真剣なんだって見直したけど……別れた途端、反動なのかなんなのか、前より傍若無人ぼうじゃくぶじんでどうしようもない。なんだか井坂の方が振られて嫌がらせしているみたい」
「まさか。私が振られたのに」
「気をつけた方がいいわ。ああいう下手にプライドの高い男は、自尊心を傷付けられると逆恨さかうらみするから。立木君が被害者としてのいい例よ。悪化するようなら、すぐに課長か部長に伝えた方がいいわ」
「はい。そうします」

 祖父の体調が回復すれば、仕事も通常の状態に戻せるはず。そうなればこれまで通り仕事を受けられるようになって、井坂さんも何も言わなくなるだろう。だからこのことを、私はそんなに難しく考えていなかった。


     ◆◆◆


「ひかりちゃん、ご飯いける?」
「すみません。この資料、今日中に上げないといけなくて」

 昼休憩のチャイムが鳴り、いつもお昼を一緒にとる峰さんが声をかけてくれた。
 私の答えに、峰さんは不思議そうな顔をする。

「いつ頼まれたの、それ」
「今日の朝、井坂さんに至急と言われて」
「また?」

 峰さんの眉間に少しだけしわが寄る。
 あれから更に三日が経った。井坂さんの書類依頼の無茶ぶりは、変わらないどころか、むしろひどくなっている。わざわざ人がいない時を狙って頼んでくる始末だ。
 断っても強引に押しつけてくるし、課長に相談しても改まらなかったので、もう私が自分で対応するしかない。
 そのせいで仕事が全体的に押し、残業ができない今の私は、昼休憩を削って仕事時間を捻出するという方法をとっていた。

「まったく、井坂は。手伝えることある?」

 峰さんがそう尋ねてくれるけれど、彼女も幾つか仕事を抱えているので申し訳ない。

「何とか間に合いそうなので、お昼をまみながらちゃっちゃと片付けちゃいます」
「そう? 少し顔色が悪いから、あまり無理しちゃ駄目よ?」
「はい。ありがとうございます」

 峰さんが食堂に行くのを見送って、私はパソコン画面に向かう。
 キーボードに手を添えたまま、深くため息をついた。
 このところ、作業に集中できない。身体もひどくだるい。
 仕事で疲れているのに、夜眠れないのだ。
 ベッドに入ってさあ寝ようと思っても、祖父や祖母のことが頭をよぎる。
 祖父の意識は戻っているし、簡単な意思疎通も図れるようになった。けれど、まだ出血はじんわりと続いていて、予断を許さない。
 祖母も連日のお見舞いで疲れているようで、横になっている時間が増えていた。
 もし、祖父の脳の出血がこのまま止まらなかったら……祖父がこのままよくならずに、祖母も心労で寝込んでしまったら……
 縁起でもないことが頭の中をぐるぐるまわり、不安で全然眠れないのだ。
 いつもの私なら、こんな悪循環におちいることなどない。
 けれど、今の状況は相当こたえているようで、マイナス思考が止まらない。
 もし両親や弟が生きていてくれたら……いろいろ協力しながら、祖父母を支えられるのに……とか、どうしても考えてしまう。
 自分が頑張ればどうにかなるって思っても、やっぱり私一人じゃままならないのだ。
 一人でいると、自分らしくないネガティブな気持ちにばかりなる。

「あーもう、らしくなさ過ぎてやだなぁ」

 また気持ちが沈んで、慌てて頭を横に振る。
 大丈夫。きっと祖父は回復する。現に、少しずつ調子もよくなっているもの。祖父も病院で頑張っているし、私は私のやれることをやらないとね。
 まずは……

「仕事を片付けないとね」

 気を取り直して、私はキーボードを叩き始める。
 どのくらい集中していたのか――。缶のような瓶のような、しっかりとした容器が机に当たる音にふと我に返る。自分の机の左側に小さなビニール袋が置かれたのが目に入った。
 目線を向ければ、立木君が難しい顔をして立っている。外回りから帰って来たようだ。

「あれ、立木君? おかえり?」
「戻りました……すみません。何度か呼んだんですが、返事がなかったので」
「あ、ごめんね。集中してたみたい。外回りお疲れさま」
「それ、あげます」

 立木君が指さしたのは、机の上に置かれたコンビニの袋だった。
 どうしたんだろう、これ。

「コンビニで昼飯買ったら、くじ引かされたんです。それで当たったんですけど、俺苦手なんで」

 私の疑問を感じ取ったのか、立木君が早口で言う。
 袋の中を見れば、甘い味の缶コーヒーと、栄養ドリンクだった。
 しかも、コーヒーは私が好きなメーカーの商品。
 立木君はコーヒーはブラック派だ。甘いものは、食べ物でも飲み物でも苦手で、ほとんど口にしない。

「いいの?」
「処理に困ってたんで」
「ありがとう。ちょうどコーヒーほしかったんだ」

 疲れている時は、やっぱり甘いものが一番よね。

「よかったです。……ところで、昼飯は食べたんですか?」
「あ! 忘れてた」

 まもうと思ってうっかり忘れてた。
 机の引き出しから、朝に買っておいた総菜そうざいパンを取り出す。

「食べて休まないと、頭働きませんよ」
「だよね。ありがとう、休憩するね」

 昔、私が新人指導の時に彼に言ったことをそのまま言われ、なんだかちょっと懐かしいなと思う。
 それに、彼に言われなかったらご飯を食べずに昼休憩の時間が終わっていたかも。
 声をかけてもらえてよかった。
 笑顔でお礼を言ったけど、立木君は更に険しい顔をしてさっさと自分の席へ戻って行った。
 相変わらず立木君はそっけない。それでも、少し前に比べたら、話しかけてくれるようになったなぁ。
 祖父母のことも心配で、仕事も大変だけど、悪いことばっかりじゃない。
 立木君がくれたビニール袋から缶コーヒーを取り出して、それをぎゅっと握る。
 今日、このコンビニで、私もパンを買ったからわかる。
 この缶コーヒーは、くじの当たりの景品じゃない。
 きっとわざわざ買ってきたんだと思う。わかり辛いけど、たぶんこれは差し入れ。
 彼らしい気遣いに、沈んでいた気持ちが少し浮上する。
 よし。これを飲んで、残りも頑張ろう。


     ◆◆◆


 それから数日が過ぎた時、問題が起こった。

「何なんだよこの書類! 資料が違うじゃないか! これから必要だってのに、どうしてくれるんだ!」

 昼休憩が終わった部署内に、井坂さんのものすごい怒声が響く。
 私はそんな彼を前に、頭を下げていた。

「すみませんでした。すぐに直します」

 頼まれた書類に添付する資料を、私が間違えていたらしいのだ。
 らしいというのは、私は彼に渡された資料を依頼された通りにそのまま掲載しただけで、資料の内容を確認したわけではないからだ。その井坂さんから渡された資料自体が、実は間違っていたという。私はそれに気付かなかった。
 普段なら、資料の内容にも一応目を通すので、おかしいことに気がつくはずだった。けれど今回は、気付くことができなかった。
 それは明らかな自分のミスだから、私は謝罪をした。
 でもその後で、井坂さんのミスも率直に指摘したら「黙れ、言い訳するな!」と、余計に怒りを買ってしまったのだ。
 このところの井坂さんの強引な振る舞いに辟易へきえきして、ついそのまま思ったことを口にしたのが気に障ったみたい。

「だいたいお前、俺が注意したのに早退も遅刻も直らねえし、たるみ過ぎだろ。いい加減、仕事をまじめにやれよ。こんな下らないミスしやがって」

 誰が訂正しても、井坂さんの中で私の変則勤務は早退と遅刻らしい。それが気に入らない彼に、毎日のように文句を言われている。
 無意識のうちに、私は自分の両手を強く握りしめていた。手に持っていた書類が、くしゃりとゆがむ。
 人の心を折っていくかのような罵倒ばとうを、これ以上聞きたくなかった。

「何とか言え!」

 この傍若無人ぼうじゃくぶじんな井坂さんの振る舞いに、もう我慢できなかった。
 これまでの仕事の押しつけも含めて、一度、彼にははっきりと言っておこう。
 そう決め口を開きかけた時、声が聞こえた。

「犬の無駄吠えかと思ったら、井坂さんですか」
「何だと、立木」

 いつの間にか外回りから帰って来たらしい立木君が、井坂さんと私の傍に近付いてくる。
 そして、井坂さんの持っていた書類を取り上げた。そこにある資料のページをめくると、今度は私の手から資料をとって井坂さんに向かって見せる。

「これ、同じ資料ですよね。それと、東雲先輩が持っていた資料のここ、貴方の字で指示が書いてあります。これ、貴方の根本的ミスですよね?」

 井坂さんは特徴的な字を書くので、彼の字だとすぐにわかる。
 立木君の指摘に、井坂さんが彼を睨む。

「だとしても、それに気付かずに作ったこいつが悪いだろうが」
「東雲先輩がミスに気付けないほど、厳しい条件下の仕事を何件も重ねて彼女へ依頼したのは貴方でしょう? しかも、手が回らないと断っているのに無理に仕事を押しつけているのを、何度も課長に注意されていましたよね? それでもめないから、嫌がらせしていると営業一課の人間のほとんどは思っていますよ?」

 立木君の言葉を証明するように、一課うちの社員の多くは井坂さんに厳しい目を向けていた。

「ふざけるな! 俺は仕事が多いんだよ。顧客が少ないお前等みたいに余裕もってなんてできるか」
「へえ。このところ、営業に回らず女性と頻繁にホテルに入っているのを、何人かの社員が見ていますよ? 東雲先輩に頼んだ資料はどこで使っているんですか?」
「なっ……」

 井坂さんの顔に朱がさす。彼は今にも立木君に殴りかかりそうな憤怒ふんぬの表情を向けた。
 衝撃的過ぎる立木君の言葉に、周囲もざわめく。

「お前っ、そんな嘘で俺をおとしめようって言うのか」
「嘘なんて俺はつきません」
「証拠もないだろ!」
「証拠? ご存知ないんですか? その写真が添付され、時間と場所が書かれた社内メールが、かなりの人に送られていますよ? 俺のところにもきていましたし」

 周囲で、「あ、俺見た」とか、「俺のとこにもきた」とかささやく声が上がる。その全てが男性で、女性の声はない。男性限定で回っているの?

「う、嘘だ……」
「それから、貴方以外の課員皆、ご家族の入院で大変な思いをしている同僚に対して、さぼっているだの遊んでいるだのと悪態をつく常識知らずでもありません。彼女の仕事量は、勤務時間が減っているのにほとんど変わってないんですよ? 貴方が、要らない書類仕事を押しつけるせいで。課長が頭を抱えてましたよ」

 え……私の仕事量、そんなに変わってなかったの?
 無我夢中で処理していたから、全然気付かなかった。

「就業中に何をしている!」

 突然、室内に厳しい一喝いっかつが響いた。声の主は我が社の社長だった。
 六十代前半のナイスミドルな社長は、下町の工場に就職して、一代でこの会社を作り大きくしたすごい人だ。
 おごったところがなくて、社員が増えた今もこうして社内を回ったり、食堂で皆と同じように食事をしたりしている。だから、社員とも交流が多く、かなりの社員の名前と顔を把握しているのだ。
 そんないつもはおだやかな社長だけど、今は怒っているようだ。
 野次馬をしていた社員は、まずいと思ったのか一斉に自分の持ち場に戻っていく。

「しゃ、社長」

 真っ赤だった井坂さんの顔が、一気に真っ青になる。
 私は慌てて社長に頭を下げた。

「騒がしくして、申し訳ありません。仕事のことですこしトラブルが」

 私と同じように、立木君も社長へ頭を下げる。

「東雲君、対処できそうか?」
「はい」

 社長が平社員の私の名前を覚えていることに驚いたけれど、それを表に出してはいけない状況ということくらいはわかる。ピリピリした空気をまとっている社長の姿に、努めて動揺を出さないようにしつつ言葉を返した。

「ならば早急に対処を。それから……井坂天は今いるか?」
「は、はい。俺……私です」
「君に話がある。ついて来なさい」

 そう言って社長は、井坂さんを連れていった。
 一気にいろいろなことがあって、もう何がなんだかわけがわからない。

「大丈夫ですか、東雲先輩」
「うん。助けてくれてありがとう」
「別に助けてはいません。あの人に喧嘩を売っただけです」

 確かに最初は、井坂さんに喧嘩を売るような言い方をしていたっけ。
 でも、私の話を聞かずにどんどんまくし立てる井坂さんを、私では止められなかった。
 課長や部長もちょうど不在で、いつも助け船を出してくれる峰さんも、今日はお休みだ。
 立木君が井坂さんをあおる言葉を言わなければ、あのまま井坂さんの怒鳴る声を聞き続けなければならなかっただろう。

「それに、貴女もいい加減怒ったらどうですか。あんな理不尽なことを言わせっぱなしって、どうなんですか。貴女の優しい指摘なんて、あの人には通じませんよ。相手をつけあがらせるだけ。メリハリつけてビシッと怒るところは怒らないと、あんな嫌がらせを受けて貴女が損するだけです」

 あぁ、やっぱり井坂さんのあれは嫌がらせだったんだ。
 要らない書類を作らせているとか、立木君が言っていたけど……それが本当なら、もうめてほしい。
 他の書類に不備が出ても困るし、それに現時点ですでに周囲に、特に峰さんにかなり迷惑をかけているのだ。

「一度くらい、井坂さんを怒りに任せて殴っても、うちの部署の人間は見ないふりしてくれますよ」

 あれ、なんだかデジャヴが……峰さんにも似たようなことを言われた気がする。

「うーん。注意しようかなって思ったら、立木君がガツンと言ってくれたから。私の出番なし?」
「それは邪魔をしてすみませんでした」
「ううん。言いたいことは立木君が言ってくれたから、それで満足だもの。それに自分のミスはミスだから、今度から気をつけるよ」
「……東雲先輩は全然、怒らないですよね」
「んー。毎日を少しでも笑って過ごしたいし、人にも笑っていてほしいから。立木君も、笑顔だとイケメン度が更に上がるよ?」

 負の感情は嫌なことを引き寄せるから、笑ってよいことを引き寄せなさい。幸せな姿は見ている人も自分も幸せにする、って祖父母が私に教えてくれて以来、私はそれを心がけている。

「要らないお世話です……貴方に怒れとさとすのは無理だとわかりました。諦めます」

 そっけなく言われたけれど、ちょっとだけ顔が赤くなっているので、たぶん照れているのだろう。
 それにしても最近、なんだか立木君の顔が赤くなるのをよく見る気がするな。

「そういえば、どうして社長が?」

 いらっしゃる時は事前に連絡があることが多いのに、今日はそれがなかった。

「さあ。社長は俺がここに入った時には、既に廊下にいらっしゃったので」
「立木君が入って来たのって……」
「『何か言え』って言ってた後くらいですかね。ちなみに、『資料が違う!』って叫んでいるのを、社長の傍で聞いていました」
「ほ、ほぼ最初からだよ、それ」
自業自得じごうじとくってやつですよね。大変ですね、井坂さん」

 それって、立木君が言っていた井坂さんの悪い行動、全部社長に筒抜けってこと?
 おぉう。立木君、策士?
 キラキラした素敵な笑顔だけれど、怒ってるよね? うん、すごく怒ってるのがわかる。
 何でそんなに怒っているの? 立木君。
 そう聞きたいけれど、笑顔が怖くて聞けない。
 でも、井坂さんと折り合いが悪くて、孝正さん情報では入社以来、陰でずっと嫌がらせを受けていたって話だから、思うところはいろいろあるのかもしれない。

「でもまあ俺もわざとあおったんで、後で叱られそうですね、喧嘩両成敗で。でも、すっきりしました。社長に叱られても後悔ありません。それじゃ、これ返します」

 立木君は、手に持っていたさっきの書類を私に渡して、そのまま自分の席へと帰っていった。
 その後、井坂さんは社長からの厳重注意を受けたらしく、私に過剰な仕事の依頼をしなくなった。勤務形態のことも何も言わなくなった。何か言いたそうに私を見ている時はあるけど、あまり快く思われていないのがわかる視線だったので、私から話しかけたりは一切していない。
 そのお蔭か、仕事は忙しいけれど気持ち的に少し余裕がでてきた。
 ちなみに立木君は、部長に呼び出されて注意を受けたそうだ。けれど形だけだったみたいだと私に教えてくれたのは、孝正さんだった。
 立木君とはそれからぐっと親しくなる……ということはなく。けれど、孝正さんが何故だかよく、立木君の話を私にするようになった。


 それから数日して、祖父は少し呂律ろれつが回らないところもあるけれど、しゃべれるまでに回復した。
 ただ、まだじんわりと出血しているようなので、ベッドの上で安静にしていることが必要だと説明を受けた。
 専門的なこともあれこれ言われたけれど、やっぱり私ではよくわからない。でもとりあえず、祖父と話ができるようになったのは大きな進歩だ。

「だから言っただろう? わしは死なんぞー」

 多少弱々しい感じもあるけど、祖父はいつもの明るさでベッドの横にいる祖母と私に笑顔でつぶやく。
 あまり元気のなかった祖母も、祖父の回復ぶりが嬉しいのだろう。明るい表情で微笑んでいる。

「もう、おじいさん。ひかりが病院に行くように言ってくれたから、助かったんですよ」
「そうだな。孫の言うことは聞くもんだ」
「元気になってきてよかった」
「もう家に帰っちゃ駄目か?」
「まだまだ。先生の言うことちゃんと聞いて、しっかり治してからね」
「ひかりは厳しいなぁ。なあ、ばあさん」

 病院嫌いの祖父は、困ったように祖母に助けを求めるけれど、祖母は微笑んだまま首を横に振った。

「おぉ。ばあさんまで厳しい」
「あらまあ、おじいさんたら。厳しくないでしょう?」
「わしはうちが大好きなんだが」
「私もひかりも、貴方が家にいないと淋しいですよ。だから早くよくなってくださいな」

 祖母の言葉に、私も頷いて同意する。

「そうか……じゃあ、頑張って医者の言うことを聞くかなぁ」


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