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四章
19話 傾かない天秤
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「あの魔法陣は…」
アマリエの元に向かってひた走っていたヴォルグは、ふと先程のことを思い出していた。
追手を巻くために身を潜めていた家屋で、二手に別れる直前の時のことだ。
ヴォルグはアマリエに呼び止められて、胸に手を当てられた。
あの時に、アマリエが何らかの防御魔法をかけたのだろうとヴォルグは思い至った。
「しかし、魔力は一切感じなかった…」
他者から魔力を送り込まれた身体は、それを異物だと認識して、何らかの異変を感じ取るものだ。
しかしあの時はそれがまったくしなかった。
それにアマリエが避難している市街地と、ヴォルグがアレンと対峙していた旧市街の外れはそれなりに距離がある。
長距離でありながら、刃物を折るような強力な防御魔法を、アマリエは一体どこで取得したのだろうか。
(…いや、果たしてあれは“魔法”と呼ぶ代物なのか?…どちらかと言えば、精霊の力に似ているような…)
それでも精霊の力でもなかった。
『……だとすると、君は…………』
1つ立てた仮説が現実味を帯びてきて、ヴォルグはさらに走るスピードを速めた。
◇◇◇◇ ◇◇◇◇
「皆さん、落ち着いて移動してください!火の手はまだここまで届きませんから」
アマリエは混乱した旧市街の住人を安全な場所ー“市街地に繋がる橋”に行くように声掛けをする。
(ヴォルグ様、大丈夫かしら…)
ヴォルグのことが頭を過ぎって、アマリエは表情を曇らせた。
その時、“ズキリ”と鋭い、頭の痛みがした。
「っ!」
アマリエは堪らず頭を押さえて、フラついた足取りで近くの家屋の壁に手をついた。
(これ…神の加護が発現した…?)
この頭痛の原因はヴォルグにかけた加護が発現したせいだと、アマリエはすぐに悟った。
【神の加護】は元々聖女のみが与えられる特権で、本来ならば聖女以外は扱えない。
しかしアマリエはヴォルグに神力を少し分け与えて、一時だけであるが聖女と同等の存在にして、一度だけ加護を発動できるようにしていた。
禁忌に等しいその対価は、アマリエの身に強い頭痛として現れた。
アマリエは側頭部を抑えつつ、ヴォルグが向かって行った方向へゆっくり歩き出した。
(あとは市民街の人が、なんとかしてくれるわ)
普段は干渉しあわない者同士であるが、困った時に無償で手を差し伸べるのが市民街の人々の美徳だ。
(それに……ヴォルグ様の身に何かあったんだわ)
ヴォルグに加護を与えても、聖女ではない者に対して本来の力を発揮するとは限らない。
もしかしたら、治癒魔法が必要な状況にいるかもしれない。
(ヴォルグ様には逃げろと言われたけど…やっぱりそんなの出来ないわ!)
決意したアマリエは、前を見据える。
『さすガ、聖女。無能と言われた相手でも、助けに行くカ。まさに聖人君主のような自己犠牲の塊だナ』
頭上から抑揚のない嗄れた声が降り注ぎ、アマリエは反射的に空を見上げた。
そこには1羽の黒いカラスが屋根の縁に降り立つ姿があった。
アマリエの目にはそのカラス自体から禍々しいオーラが滲み出ているように見えた。
(穢れ…)
すぐに『それだ』と察したアマリエは息を飲み、身構えた。
『実に偽善者じみてイイではないカ』
「偽善…?」
カラスの皮肉たっぷりの言葉に、アマリエは思わず眉を顰めた。
「まァ、それが聖女の性なんだろうナ」
聞き間違いだと思ったが、このカラスはやはりアマリエの“正体”を知っているらしい。
「あなた、誰なの?」
人の言葉を話すカラス自体が怪しいが、さらに警戒を滲ませながらアマリエはそれに尋ねた。
「視えるんだろウ?オ前には、我の穢れガ」
アマリエは『やはり』と生唾を飲んだ。
(これだけの【穢れ】に侵食されたら、普通の生き物は死んでいておかしくない。だとすると…)
『あァ……お察しの通リ…コレは死体ダ。……人間の死体よリ、こっちの方ガ……“依代”にするには楽でナ』
その言葉に、アマリエの顔がみるみるうちに青褪めた。
「どうして…ここに……?」
『なァに、単なる“暇潰し”ダ』
「暇潰し…ですって?」
その言葉にアマリエは不快感を顕にした。
「この状況を仕向けたのは、あなたなのね…」
アマリエは自身の手を強く握りしめながら、カラスを睨んだ。
するとカラスはあざ笑うように、一声鳴いた。
『それガ、どうしタ?』
「っ!火事のせいで家を失い、たくさんの人々が怖い思いをして、怪我をする者もいるのよ!!『単なる暇潰し』でこんなことをしたというの!?」
『ハッ!……所詮、不必要な魂ダろ?他者から見下されるだケの価値の無い底辺共。その掃き溜めを”神で在る我”が綺麗にする『手伝い』をしてやると言うのダ。寧ろ、低俗共は我に感謝するベきダろう?』
カラスは不服そうに言葉に返す。
アマリエは激しい怒りが込み上げてきたが、なんとか抑え込むように奥歯を強く噛み締めた。
『それにな、オ前ノ信仰する神とやらも、この状況ヲ見て見ぬ振リではないカ?』
「それは!!」
『結局のところ、神は愚か者に救いの手ヲ差し伸べたりしない。そう、全テ奴の気まぐれ…オ前は『単なる暇潰し』で飼われてるだけに過ぎんのダ。“上”デ眺めているだけの神と、手ヲ差し伸べる我…どっちガ素晴らしい神なのだろうナ?』
カラスは実に滑稽と言わんばかりに、甲高く鳴いた。
『神』が干渉しないのは、この世界の均衡を破壊する恐れがあるからだ。
そんな事は元とは言え天界にいた『神』が知らないわけがない。
こんなの只の挑発だ。アマリエは言い返さず、無言でカラスを睨んだ。
『いい目だ。……我はナ、人間の持つ信念とやらガ、その不屈の心ガ、折れタ時の…絶望した目ヲ見るのガ、堪らなく好きなんダ』
「あなたの思い通りにはならないわ!」
アマリエはカラスの言葉を一蹴した。
彼女の澄み切った青い瞳に、その奥に煌々と燃える炎が見える気がした。
『ソレは壊し甲斐がアる。実に楽しみダ』
カラスは心底楽しげに言った。
「そろそろ……私が発言しても宜しいでしょうか?」
その時、この場にそぐわない穏やかな声が割って入った。
アマリエが振り返えると、漆黒のマントを目深く被った長身の人物が立っていた。
その風貌がネクタリウスと酷似して一瞬、彼だと思った。
しかし霧雨のような音もなく空気と溶け込むような静かな気配と、中音の声はまるで彼とは違っていた。
『あぁ、許ス』
「ありがとうございます。では……お目にかかれて光栄で御座います、聖女様」
フードを被ったまま男は、アマリエに向かって恭しく一礼を取った。
「……事情があり、フードを被ったままの姿で貴女様の尊顔を拝む無礼を、どうぞお許しください」
その声はあくまで穏やかで、アマリエに対しての敬意も込められている。
しかし男に視線を向けられると背筋が泡立つ感覚がして、アマリエの不安を煽った。
「………あなたは?」
「名乗るほどの者ではありませんが…。そうですね、『鴉』とでもお呼びください」
男のフードから覗く薄い口元は常に微笑みを称えている。
「今回はあなたのお力を見ていただきたく、馳せ参じた次第で」
「私の…力…?」
意味が分からず、アマリエは反芻した。
「ええ、聖女様の力を、是非とも見せて頂きたい」
そう言った途端、アマリエの足元の影が彼女が動いてもいないのに関わらず、勝手に大きく揺らいだ。
その影はまるで煮立った湯の表面のような凹凸が生まれて、“ボコ、ボコ”とねっとりとした音を立てる。
得体の知れない恐怖で、思わず後退ったアマリエの足を、影から伸びてきた黒い触手が強く掴んだ。
「!!!」
アマリエは恐怖で悲鳴さえあげられず、動けなくなる。
『あなたが馴染みの【穢れ】です。その尊き力で払って見せてください』
男は穏やかな声でそう告げた。
「っ!!」
アマリエの足元の影から現れた【穢れ】は、さらに周囲に向かってその黒い触手を伸ばし始めた。
『…よく見定めて、力を使うことだ』
ふと神獣のこの言葉が頭によぎる。
ー使い道を間違えるな
旧市街地は、暴力、略奪、病原、色んな“負”が集まった場所。
住人はほぼ避難を終えている。
“大切な力を、今ここで使ってよいのか?”
そんな考えが脳裏に浮かんで、アマリエは力を使うことを躊躇した。
神からもう神力を与えられない状況で、頼りになるのは聖女である自分だけ。
聖女しか【穢れ】を払うことは出来ないが、その“進行を抑え込む”ことは他者にも出来る。
しかし浄化しなければ、この場所は【忌み地】として、人が暮らすことが出来なくなる。
ここの住人たちは世間から見放された人々が多い。
そんな彼らにとってここは最後の砦でもあり、大切な居場所だ。
“そんな場所を犠牲にしていいのか”
たとえ犯罪まがいのことをしている悪人とて、人々の安寧のために、等しく救うのが聖女の役目だ。
しかし力を制限されたアマリエは、守るものと捨てるものを自分の判断で決めなくてはいけない。
その判断を間違えると、今後の“本当に必要な時に”力を使えなくなるリスクがある。
それは世界を壊すことにも直結することだ。
『フフ……』
手をこまねいているアマリエの様子に、カラスは小さく含み笑いした。
『人ヲ、物事ヲ、己の天秤にかける。今のオ前は、さながら神のように傲慢だナ』
「っ!!」
その言葉にアマリエはムキになって言い返す。
「違うわ!私は人々の命を推し量ったり、弄んだり絶対にしない!」
挑発だと頭ではわかっていた。
しかし感情と言うのは理性で抑えられない時がある。
アマリエは胸の前に両手を組んで、目を閉じ、詠唱を唱えた。
「【浄化】」
すると淡い光が辺りを包み込み、家屋に手を伸ばそうとしていた黒い触手は跡形もなく消え去った。
【穢れ】を払い終わった途端、アマリエにひどい頭痛が襲ってきた。
「うっ……」
アマリエは堪らず膝から崩れると、その場で背中を丸めて小さく蹲った。
「素晴らしい、さすが聖女様ですね」
その様子に眉一つ動かさず、男はすかさず拍手を送る。
「しかし…今後、我々の脅威になりうる“邪魔な存在”になるのは必然」
声は穏やかそのものなのに、その声音は事務的なほど冷たいものだった。
動くことが出来ない蹲ったアマリエに、男はゆっくりと近づいて手を伸ばした。
男の手袋越しの細い指先が、アマリエの頭上に触れようとする。
“バチッ!”
しかし摩擦を起こしたような雷火が生まれて、男の手は大きく弾かれる。
「アレン…足止めにもならなかったか」
男は自身の痺れた手を擦りながら、前方を見据えた。
「ヴォルグ=ロバルンレット」
「彼女から離れろ」
ヴォルグは肩で息をしながら、男に向かって刺すような鋭い眼光を向けていた。
「…ふむ。ここが引き際ということですね。…まぁ、力を見せて頂いたことですし、もう十分だ」
男はあっさりとそう言って、ヴォルグ越しにアマリエを見た。
「それではアマリエさん、またお会いしましょう」
男は洗練された一礼を取ると、その足元の影が揺らいだ。
そして影に溶け込むように、ゆっくり足元から身体が沈んでいく。
ヴォルグは手を出さず、男が消える様を静かに見届けた。
男が影ごと完全に消え去ると、ヴォルグはすぐに蹲っていたアマリエに駆け寄る。
「マリエさん!」
ヴォルグはアマリエを抱き起した。
浄化の代償のせいで、アマリエの意識は既になかった。
アマリエの元に向かってひた走っていたヴォルグは、ふと先程のことを思い出していた。
追手を巻くために身を潜めていた家屋で、二手に別れる直前の時のことだ。
ヴォルグはアマリエに呼び止められて、胸に手を当てられた。
あの時に、アマリエが何らかの防御魔法をかけたのだろうとヴォルグは思い至った。
「しかし、魔力は一切感じなかった…」
他者から魔力を送り込まれた身体は、それを異物だと認識して、何らかの異変を感じ取るものだ。
しかしあの時はそれがまったくしなかった。
それにアマリエが避難している市街地と、ヴォルグがアレンと対峙していた旧市街の外れはそれなりに距離がある。
長距離でありながら、刃物を折るような強力な防御魔法を、アマリエは一体どこで取得したのだろうか。
(…いや、果たしてあれは“魔法”と呼ぶ代物なのか?…どちらかと言えば、精霊の力に似ているような…)
それでも精霊の力でもなかった。
『……だとすると、君は…………』
1つ立てた仮説が現実味を帯びてきて、ヴォルグはさらに走るスピードを速めた。
◇◇◇◇ ◇◇◇◇
「皆さん、落ち着いて移動してください!火の手はまだここまで届きませんから」
アマリエは混乱した旧市街の住人を安全な場所ー“市街地に繋がる橋”に行くように声掛けをする。
(ヴォルグ様、大丈夫かしら…)
ヴォルグのことが頭を過ぎって、アマリエは表情を曇らせた。
その時、“ズキリ”と鋭い、頭の痛みがした。
「っ!」
アマリエは堪らず頭を押さえて、フラついた足取りで近くの家屋の壁に手をついた。
(これ…神の加護が発現した…?)
この頭痛の原因はヴォルグにかけた加護が発現したせいだと、アマリエはすぐに悟った。
【神の加護】は元々聖女のみが与えられる特権で、本来ならば聖女以外は扱えない。
しかしアマリエはヴォルグに神力を少し分け与えて、一時だけであるが聖女と同等の存在にして、一度だけ加護を発動できるようにしていた。
禁忌に等しいその対価は、アマリエの身に強い頭痛として現れた。
アマリエは側頭部を抑えつつ、ヴォルグが向かって行った方向へゆっくり歩き出した。
(あとは市民街の人が、なんとかしてくれるわ)
普段は干渉しあわない者同士であるが、困った時に無償で手を差し伸べるのが市民街の人々の美徳だ。
(それに……ヴォルグ様の身に何かあったんだわ)
ヴォルグに加護を与えても、聖女ではない者に対して本来の力を発揮するとは限らない。
もしかしたら、治癒魔法が必要な状況にいるかもしれない。
(ヴォルグ様には逃げろと言われたけど…やっぱりそんなの出来ないわ!)
決意したアマリエは、前を見据える。
『さすガ、聖女。無能と言われた相手でも、助けに行くカ。まさに聖人君主のような自己犠牲の塊だナ』
頭上から抑揚のない嗄れた声が降り注ぎ、アマリエは反射的に空を見上げた。
そこには1羽の黒いカラスが屋根の縁に降り立つ姿があった。
アマリエの目にはそのカラス自体から禍々しいオーラが滲み出ているように見えた。
(穢れ…)
すぐに『それだ』と察したアマリエは息を飲み、身構えた。
『実に偽善者じみてイイではないカ』
「偽善…?」
カラスの皮肉たっぷりの言葉に、アマリエは思わず眉を顰めた。
「まァ、それが聖女の性なんだろうナ」
聞き間違いだと思ったが、このカラスはやはりアマリエの“正体”を知っているらしい。
「あなた、誰なの?」
人の言葉を話すカラス自体が怪しいが、さらに警戒を滲ませながらアマリエはそれに尋ねた。
「視えるんだろウ?オ前には、我の穢れガ」
アマリエは『やはり』と生唾を飲んだ。
(これだけの【穢れ】に侵食されたら、普通の生き物は死んでいておかしくない。だとすると…)
『あァ……お察しの通リ…コレは死体ダ。……人間の死体よリ、こっちの方ガ……“依代”にするには楽でナ』
その言葉に、アマリエの顔がみるみるうちに青褪めた。
「どうして…ここに……?」
『なァに、単なる“暇潰し”ダ』
「暇潰し…ですって?」
その言葉にアマリエは不快感を顕にした。
「この状況を仕向けたのは、あなたなのね…」
アマリエは自身の手を強く握りしめながら、カラスを睨んだ。
するとカラスはあざ笑うように、一声鳴いた。
『それガ、どうしタ?』
「っ!火事のせいで家を失い、たくさんの人々が怖い思いをして、怪我をする者もいるのよ!!『単なる暇潰し』でこんなことをしたというの!?」
『ハッ!……所詮、不必要な魂ダろ?他者から見下されるだケの価値の無い底辺共。その掃き溜めを”神で在る我”が綺麗にする『手伝い』をしてやると言うのダ。寧ろ、低俗共は我に感謝するベきダろう?』
カラスは不服そうに言葉に返す。
アマリエは激しい怒りが込み上げてきたが、なんとか抑え込むように奥歯を強く噛み締めた。
『それにな、オ前ノ信仰する神とやらも、この状況ヲ見て見ぬ振リではないカ?』
「それは!!」
『結局のところ、神は愚か者に救いの手ヲ差し伸べたりしない。そう、全テ奴の気まぐれ…オ前は『単なる暇潰し』で飼われてるだけに過ぎんのダ。“上”デ眺めているだけの神と、手ヲ差し伸べる我…どっちガ素晴らしい神なのだろうナ?』
カラスは実に滑稽と言わんばかりに、甲高く鳴いた。
『神』が干渉しないのは、この世界の均衡を破壊する恐れがあるからだ。
そんな事は元とは言え天界にいた『神』が知らないわけがない。
こんなの只の挑発だ。アマリエは言い返さず、無言でカラスを睨んだ。
『いい目だ。……我はナ、人間の持つ信念とやらガ、その不屈の心ガ、折れタ時の…絶望した目ヲ見るのガ、堪らなく好きなんダ』
「あなたの思い通りにはならないわ!」
アマリエはカラスの言葉を一蹴した。
彼女の澄み切った青い瞳に、その奥に煌々と燃える炎が見える気がした。
『ソレは壊し甲斐がアる。実に楽しみダ』
カラスは心底楽しげに言った。
「そろそろ……私が発言しても宜しいでしょうか?」
その時、この場にそぐわない穏やかな声が割って入った。
アマリエが振り返えると、漆黒のマントを目深く被った長身の人物が立っていた。
その風貌がネクタリウスと酷似して一瞬、彼だと思った。
しかし霧雨のような音もなく空気と溶け込むような静かな気配と、中音の声はまるで彼とは違っていた。
『あぁ、許ス』
「ありがとうございます。では……お目にかかれて光栄で御座います、聖女様」
フードを被ったまま男は、アマリエに向かって恭しく一礼を取った。
「……事情があり、フードを被ったままの姿で貴女様の尊顔を拝む無礼を、どうぞお許しください」
その声はあくまで穏やかで、アマリエに対しての敬意も込められている。
しかし男に視線を向けられると背筋が泡立つ感覚がして、アマリエの不安を煽った。
「………あなたは?」
「名乗るほどの者ではありませんが…。そうですね、『鴉』とでもお呼びください」
男のフードから覗く薄い口元は常に微笑みを称えている。
「今回はあなたのお力を見ていただきたく、馳せ参じた次第で」
「私の…力…?」
意味が分からず、アマリエは反芻した。
「ええ、聖女様の力を、是非とも見せて頂きたい」
そう言った途端、アマリエの足元の影が彼女が動いてもいないのに関わらず、勝手に大きく揺らいだ。
その影はまるで煮立った湯の表面のような凹凸が生まれて、“ボコ、ボコ”とねっとりとした音を立てる。
得体の知れない恐怖で、思わず後退ったアマリエの足を、影から伸びてきた黒い触手が強く掴んだ。
「!!!」
アマリエは恐怖で悲鳴さえあげられず、動けなくなる。
『あなたが馴染みの【穢れ】です。その尊き力で払って見せてください』
男は穏やかな声でそう告げた。
「っ!!」
アマリエの足元の影から現れた【穢れ】は、さらに周囲に向かってその黒い触手を伸ばし始めた。
『…よく見定めて、力を使うことだ』
ふと神獣のこの言葉が頭によぎる。
ー使い道を間違えるな
旧市街地は、暴力、略奪、病原、色んな“負”が集まった場所。
住人はほぼ避難を終えている。
“大切な力を、今ここで使ってよいのか?”
そんな考えが脳裏に浮かんで、アマリエは力を使うことを躊躇した。
神からもう神力を与えられない状況で、頼りになるのは聖女である自分だけ。
聖女しか【穢れ】を払うことは出来ないが、その“進行を抑え込む”ことは他者にも出来る。
しかし浄化しなければ、この場所は【忌み地】として、人が暮らすことが出来なくなる。
ここの住人たちは世間から見放された人々が多い。
そんな彼らにとってここは最後の砦でもあり、大切な居場所だ。
“そんな場所を犠牲にしていいのか”
たとえ犯罪まがいのことをしている悪人とて、人々の安寧のために、等しく救うのが聖女の役目だ。
しかし力を制限されたアマリエは、守るものと捨てるものを自分の判断で決めなくてはいけない。
その判断を間違えると、今後の“本当に必要な時に”力を使えなくなるリスクがある。
それは世界を壊すことにも直結することだ。
『フフ……』
手をこまねいているアマリエの様子に、カラスは小さく含み笑いした。
『人ヲ、物事ヲ、己の天秤にかける。今のオ前は、さながら神のように傲慢だナ』
「っ!!」
その言葉にアマリエはムキになって言い返す。
「違うわ!私は人々の命を推し量ったり、弄んだり絶対にしない!」
挑発だと頭ではわかっていた。
しかし感情と言うのは理性で抑えられない時がある。
アマリエは胸の前に両手を組んで、目を閉じ、詠唱を唱えた。
「【浄化】」
すると淡い光が辺りを包み込み、家屋に手を伸ばそうとしていた黒い触手は跡形もなく消え去った。
【穢れ】を払い終わった途端、アマリエにひどい頭痛が襲ってきた。
「うっ……」
アマリエは堪らず膝から崩れると、その場で背中を丸めて小さく蹲った。
「素晴らしい、さすが聖女様ですね」
その様子に眉一つ動かさず、男はすかさず拍手を送る。
「しかし…今後、我々の脅威になりうる“邪魔な存在”になるのは必然」
声は穏やかそのものなのに、その声音は事務的なほど冷たいものだった。
動くことが出来ない蹲ったアマリエに、男はゆっくりと近づいて手を伸ばした。
男の手袋越しの細い指先が、アマリエの頭上に触れようとする。
“バチッ!”
しかし摩擦を起こしたような雷火が生まれて、男の手は大きく弾かれる。
「アレン…足止めにもならなかったか」
男は自身の痺れた手を擦りながら、前方を見据えた。
「ヴォルグ=ロバルンレット」
「彼女から離れろ」
ヴォルグは肩で息をしながら、男に向かって刺すような鋭い眼光を向けていた。
「…ふむ。ここが引き際ということですね。…まぁ、力を見せて頂いたことですし、もう十分だ」
男はあっさりとそう言って、ヴォルグ越しにアマリエを見た。
「それではアマリエさん、またお会いしましょう」
男は洗練された一礼を取ると、その足元の影が揺らいだ。
そして影に溶け込むように、ゆっくり足元から身体が沈んでいく。
ヴォルグは手を出さず、男が消える様を静かに見届けた。
男が影ごと完全に消え去ると、ヴォルグはすぐに蹲っていたアマリエに駆け寄る。
「マリエさん!」
ヴォルグはアマリエを抱き起した。
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