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一章
五話 猫神
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緒美が猫神に出逢ったのは今から26年前の事だ。
小学生に上がりたての幼い頃の記憶だが、緒美はちゃんと覚えている。
遠足のハイキングで山奥に迷い込み、見つけた古びた社に猫神は祀られていた。
腹を空かせた猫神におにぎりを与えると、彼はそのお礼に緒美に自分の力を分け与えた。
その力のお陰で、緒美は親の元に無事帰れたのだ。
ー猫神は、緒美にとって言わば『命の恩人』である。
「感傷に浸るのはいいが、あまり時間はないぞ」
猫神は素っ気なく言った。
「え?」
緒美は意味が分からず首を傾げた。
「そこの老婆は直に死ぬ」
「!?」
その言葉には心臓が大きく脈打つ。
「ど、どうして…?」
「先ほど言ったであろう。“強い縁は互いを引き寄せるのだ”と…。その者と縁者の絆が強すぎるのだ」
猫神の回りくどい言葉に緒美は困惑した。
「どういうことなんですか…?」
「その者の縁者は今死の淵にいる。それはこの世に生を受けた瞬間に天帝が定められたことだ。甘んじて死を受けるしかない」
「………」
「しかしその老婆は違う。天命に背いて命を終わらそうとしている。それは縁者が自分側へ…死界へと無理に引き込もうとしているからだ」
ベッドの上に跳び乗った猫神は、豊子の手に自身の前足をそっと置いた。
「お前にも見えるだろう?」
猫神にそう言われて、緒美は静かに目を閉じて、大きく深呼吸する。
再び目を開くと、豊子の人差し指に赤い糸が結ん見えた。
「『死が二人を分かつまで』…という言葉があるがまさにその通りでな。死別するとその糸は自然と切れるものなのだ」
じっと糸を見つめて、猫神は言った。
「しかしこの者たちの結んだ縁は異例だ。死んでもその縁は繋がったままなのだ。どちらか一方が死ねば…相手も後を追うように死ぬ。人間の言葉を借りるなら『運命共同体』と言ったところか」
「つ、つまり…茂さんがその死界へ…豊子さんを連れて行こうとしてるってことですか?」
「簡単に言えばそうなるな。まぁ、それが本人の意志かは、定かではないがな」
「そんな…」
緒美は言葉を失った。
茂も、豊子も、互いに深く愛し合っている。
もしかしたら二人は無意識に離れたくない、いつまでも側にいたいと願っていて、その強い気持ちが今の事態を招いているかもしれない。
きっと2人は切れない絆で強く結ばれているのだ。
それは文字にするならば素敵な響きだが、緒美には一種の呪いのようなものに思えた。
本人たちの想いが働いたとしても、愛する人の命を奪う行為には違いはない。
ー果たして、茂は本当にそれを望んでいるのか?
「確かめてみるか?」
「え?」
猫神の見透かした言葉に、緒美はいつの間にか俯いていた顔を上げた。
「長い時間は無理だが、老婆の縁者の元に行って聞いてみるといい」
「それって…」
「今、縁者は死界と生界の境界線に…かろうじて生界に繋がっている状態だ。完全に死界に足を踏み込んだら終わりだが…まだ間に合う」
『どうする?』と黒猫が目で言った。
緒美は無言で眠る豊子の顔を見る。
ふと、以前に豊子とふたりで話した事を思い出した。
『…亡くなった祖母の店だから手放したくないですけど…私は自分の料理をもっとたくさんの人に食べてもらいたいですよね』
緒美はテーブルを拭きながら、豊子に胸の内を語った。
老人ホームに入居してから、しばらくして祖母は病気で亡くなったのだ。
ーもっと人が来る場所でお店を開きたい。しかしせっかく祖母がくれた店があるのに、これは我儘ではないのか。
そう緒美は思ったのだ。
そんな緒美に対して、豊子は柔らかく微笑む。
『なら、そうしたらいいわ。お祖母様の気持ちを汲む事はとても素敵よ。でも貴女の人生なのだから、貴女のしたいように生きないと…死ぬときにきっと後悔することになるわ。私はね、長生きして、好きなことを全部やりきって、人生を全うしたいと思っているの』
(あぁ…そうか。豊子さん、あの時のことを覚えてくれていたんだ)
豊子が店を譲ると急に言い出したのは、祖母のことを言い訳にして夢を断念しようとした自分の背中を押そうとしてくれた、彼女の優しさだったのだ。
(豊子さんには見届けて貰わないと)
緒美はそっと豊子の手を握った。その手が恐ろしいほど冷たい。
「私、豊子さんに会ってお礼が言いたい。それに、もっともっと長生きて欲しいです」
眠る豊子にそう語りかけると、緒美は猫神に視線を向けた。
「行きます…茂さんの元へ」
「忽那様?」
病室に戻ってきた黒羽根は豊子の手を握ったまま寝てしまっている緒美を見つめた。
彼女の1日は目まぐるしかった。
ー疲れて、眠ってしまっても無理もない。
黒羽根は自分の上着を脱ぐと、緒美の肩にそっとかけた。
小学生に上がりたての幼い頃の記憶だが、緒美はちゃんと覚えている。
遠足のハイキングで山奥に迷い込み、見つけた古びた社に猫神は祀られていた。
腹を空かせた猫神におにぎりを与えると、彼はそのお礼に緒美に自分の力を分け与えた。
その力のお陰で、緒美は親の元に無事帰れたのだ。
ー猫神は、緒美にとって言わば『命の恩人』である。
「感傷に浸るのはいいが、あまり時間はないぞ」
猫神は素っ気なく言った。
「え?」
緒美は意味が分からず首を傾げた。
「そこの老婆は直に死ぬ」
「!?」
その言葉には心臓が大きく脈打つ。
「ど、どうして…?」
「先ほど言ったであろう。“強い縁は互いを引き寄せるのだ”と…。その者と縁者の絆が強すぎるのだ」
猫神の回りくどい言葉に緒美は困惑した。
「どういうことなんですか…?」
「その者の縁者は今死の淵にいる。それはこの世に生を受けた瞬間に天帝が定められたことだ。甘んじて死を受けるしかない」
「………」
「しかしその老婆は違う。天命に背いて命を終わらそうとしている。それは縁者が自分側へ…死界へと無理に引き込もうとしているからだ」
ベッドの上に跳び乗った猫神は、豊子の手に自身の前足をそっと置いた。
「お前にも見えるだろう?」
猫神にそう言われて、緒美は静かに目を閉じて、大きく深呼吸する。
再び目を開くと、豊子の人差し指に赤い糸が結ん見えた。
「『死が二人を分かつまで』…という言葉があるがまさにその通りでな。死別するとその糸は自然と切れるものなのだ」
じっと糸を見つめて、猫神は言った。
「しかしこの者たちの結んだ縁は異例だ。死んでもその縁は繋がったままなのだ。どちらか一方が死ねば…相手も後を追うように死ぬ。人間の言葉を借りるなら『運命共同体』と言ったところか」
「つ、つまり…茂さんがその死界へ…豊子さんを連れて行こうとしてるってことですか?」
「簡単に言えばそうなるな。まぁ、それが本人の意志かは、定かではないがな」
「そんな…」
緒美は言葉を失った。
茂も、豊子も、互いに深く愛し合っている。
もしかしたら二人は無意識に離れたくない、いつまでも側にいたいと願っていて、その強い気持ちが今の事態を招いているかもしれない。
きっと2人は切れない絆で強く結ばれているのだ。
それは文字にするならば素敵な響きだが、緒美には一種の呪いのようなものに思えた。
本人たちの想いが働いたとしても、愛する人の命を奪う行為には違いはない。
ー果たして、茂は本当にそれを望んでいるのか?
「確かめてみるか?」
「え?」
猫神の見透かした言葉に、緒美はいつの間にか俯いていた顔を上げた。
「長い時間は無理だが、老婆の縁者の元に行って聞いてみるといい」
「それって…」
「今、縁者は死界と生界の境界線に…かろうじて生界に繋がっている状態だ。完全に死界に足を踏み込んだら終わりだが…まだ間に合う」
『どうする?』と黒猫が目で言った。
緒美は無言で眠る豊子の顔を見る。
ふと、以前に豊子とふたりで話した事を思い出した。
『…亡くなった祖母の店だから手放したくないですけど…私は自分の料理をもっとたくさんの人に食べてもらいたいですよね』
緒美はテーブルを拭きながら、豊子に胸の内を語った。
老人ホームに入居してから、しばらくして祖母は病気で亡くなったのだ。
ーもっと人が来る場所でお店を開きたい。しかしせっかく祖母がくれた店があるのに、これは我儘ではないのか。
そう緒美は思ったのだ。
そんな緒美に対して、豊子は柔らかく微笑む。
『なら、そうしたらいいわ。お祖母様の気持ちを汲む事はとても素敵よ。でも貴女の人生なのだから、貴女のしたいように生きないと…死ぬときにきっと後悔することになるわ。私はね、長生きして、好きなことを全部やりきって、人生を全うしたいと思っているの』
(あぁ…そうか。豊子さん、あの時のことを覚えてくれていたんだ)
豊子が店を譲ると急に言い出したのは、祖母のことを言い訳にして夢を断念しようとした自分の背中を押そうとしてくれた、彼女の優しさだったのだ。
(豊子さんには見届けて貰わないと)
緒美はそっと豊子の手を握った。その手が恐ろしいほど冷たい。
「私、豊子さんに会ってお礼が言いたい。それに、もっともっと長生きて欲しいです」
眠る豊子にそう語りかけると、緒美は猫神に視線を向けた。
「行きます…茂さんの元へ」
「忽那様?」
病室に戻ってきた黒羽根は豊子の手を握ったまま寝てしまっている緒美を見つめた。
彼女の1日は目まぐるしかった。
ー疲れて、眠ってしまっても無理もない。
黒羽根は自分の上着を脱ぐと、緒美の肩にそっとかけた。
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