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第六十二話 俺と彼女たちの四角関係
しおりを挟む「あ、あの……もう、終わった、かしら?」
芒野との濃密な情事を終えて、二人でキスを交わしていると近くの茂みの向こうから宗方さんがひょっこりと姿を現した。
「ふぇ……?」
俺と抱き合ってキスを交わしていた芒野は惚けた表情で宗方さんを見つめて……。
「――――ッ!!?」
我に返った様子で、俺の腕の中で硬直してしまった。
「おい、どうしっ――」
――た、と言おうとした瞬間。
俺は芒野に突き飛ばされていた。俺を突き飛ばした芒野は慌てた様子で、散乱していた自分の衣類をつかみ取ると茂みの向こうへ消えていった。
「あーーー……えっと……?」
何だ?
なんか、やっちまったか、俺?
「知らないわよ。というか、黒羽君もいい加減に服を着たらどうなの。その……さっきからずっと丸出しじゃないの」
そう言うと宗方さんは、頬を桃色に染めながら俺の下半身を指さしてきた。
「ん~~、そうだな」
とはいえ、俺の着ていた学生服は血塗れのままだしなぁ……。
考えた末に、アイテムボックスに入っているボロウの綿花草から新しく服をクラフトすることにした。
「これで、良いかな?」
クラフトした服を身に着けて、代わりに血塗れになってしまった学生服はアイテムボックスの中にしまい込む。
そうこうしている内に、着替えを終えた芒野が茂みの向こうからひょっこりと出てきた。見ると、芒野の顔は真っ赤に染まっていた。
「う゛~~~~。凄く恥ずいんだけど」
どうやら芒野にとっては、宗方さんに俺とのキスシーンを見られたことが恥ずかしいらしい。
「そんなに恥ずかしがることでもないだろ」
「恥ずかしいわよっ! 大体、アンタも事が終わったんだったら、すぐ離れなさいよっ!」
「それは悪かったな」
相変わらず女子の考えていることはよく分からん。既に宗方さんには俺達が事に及んでいることも全部見られているのに何で今さらキス如きで恥ずかしがるのか。
「……それはそうと、黒羽君。身体の方はもう大丈夫なのかしら?」
「あぁ、芒野のおかげでかなりスッキリした」
「スッキリって……あの……ぁぅ……」
何故かそこで宗方さんは顔を真っ赤にして押し黙ってしまった。そこで俺は自分の失言に気付いた。
「違うぞっ!? スッキリってのは、その……エロ的な意味ではなく、吸血衝動的な意味でだからなっ!」
俺がそう弁明すると宗方さんは自分が勘違いしていたことに気づき、さらに顔を茹でダコのように赤く染めて俯いてしまった。
「まったく、代わりに……コッチは酷い目に遭ったわよ……っと、とと」
「おい、大丈夫か?」
俺はフラついて今にも倒れそうな芒野の身体を支えた。
「無理するな。さっきの吸血行為のせいで結構な量の血液を失っているんだから」
「う……ん……そだね」
芒野はそれでも頑として自分の足で歩こうとする。俺はそんな芒野の身体を引き寄せると、そのまま抱きかかえた。
「ちょっ――く、黒羽っ!?」
「ほら、そんなフラフラの足で無理するなって……悪い宗方さん、周辺の警戒を頼む」
「え、えぇ……了解したわ」
俺は両腕に芒野を抱きかかえたまま、拠点へ向かって歩き出した。
しばらく歩くと、ようやく拠点へとたどり着いた。
「ご主人様ッ!!?」
拠点へと帰還すると、周辺を警備していたハーキュリーが隊を率いて出迎えてくれた。
「ご主人様、ご無事でッ!!」
「ん、悪いな心配かけた」
「ホントよ。私達だけで帰って来た時に、彼女にすごい剣幕で詰め寄られたんだからね。言葉は通じないし、本当にどうしようかと思ったわよ」
「……悪かったって」
俺は宗方さんに謝ると、抱きかかえていた芒野を下ろした。
「ほら、歩けるか?」
「ん、大丈夫。てか、気安く触るな……ばか」
「悪かったな、馬鹿でよ」
俺は芒野のおでこを軽く小突いた。
「ちょっ――」
頭を叩かれた芒野は、両手でおでこを抑えつけながら、うっすらと朱色に染めながら俺のことを見つめてくる。
「あにすんのよっ!!」
「運んでやった恩人に対して、ばかという奴には当然のお仕置きだろ」
「べぇーーーーだッ!!」
俺がそう言うと芒野は赤い舌を出してくる。
「子供か、お前は」
芒野のあまりにも子供っぽい仕草に俺は思わず笑ってしまった。
「あの……二人とも、こんな往来でイチャつくのはやめてもらえるかしら? というより、皆が見ているわよ」
宗方さんの冷静な突っ込みで初めて周囲に人が居ることに気づいた。確かに、俺達の周りには、数人のクラスメイト達がいて、俺達の方を見つめていた。
「あーーー……悪ぃ。つい」
別に見られて恥ずかしいことでもない筈だが、なんだろうか、そこはかとなくバツが悪い。
「…………」
ふと、視線を感じてそちらを見ると、ハーキュリーがじっと無言のまま見つめていた。
「ハーキュリー? どうした?」
「……いえ、別に」
ハーキュリーは俺に軽く会釈をして、配下のルグゴブリン達を連れて警備の仕事に戻っていく。
ただ、去り際にハーキュリーが芒野のことを一瞥したのを俺は見逃さなかった。
芒野を見たハーキュリーの目線には、どこかじっとりとした感情が含まれていた。それはまるで……恋人を取られ嫉妬に狂った女が、相手の女に向けるようなものだった。
「……気のせいか」
俺はハーキュリーが立ち去っていった場所を見つめて、静かに首を振った。まさかな、そんなことがある筈がない。
あのハーキュリーが、芒野の一体何に嫉妬をするというのか。
「黒羽君は、この後どうするの?」
「ん、一旦湖の方にある家に戻る。あっちに残してきた塩浜さんと麗奈ちゃんが心配だしな」
湖の方にはゼクトール隊とメロウ隊を配置してあるから、問題はないと思うが念のためにな。
彼女たちは俺が命を賭して守ると誓った女性たちだ、彼女たちの安全は何よりも最優先にしたい。
「ねえ、ちょっと気になったんだけど……黒羽って、どこに住んでいるの?」
と、そこで芒野が小首を傾げながら尋ねて来た。
「今は湖の方に……いや、湖から少し離れた場所にログハウスを建ててそこに住んでいるが?」
それを聞いた芒野は途端に目を輝かせる。
「見たいっ! ねっ、ねっ、私もそこに連れてってよっ!! 建築系のスキルを持っている黒羽がどんなところに住んでいるのかすっごい気になるッ!!」
「え゛……いや、それは……」
アッチの家の方には塩浜さんと麗奈ちゃんの二人がいる。そこに芒野を連れて行ったらどうなってしまうか。
「……ダメぇ?」
芒野は瞳を潤ませて、上目遣いで懇願するように見上げてくる。
こ、断り辛い……。
「……べ、別に……構わんが」
「本当にっ!? やったぁっ!」
結局、芒野のおねだり攻撃に負けて許可してしまった。参ったな。
「まあ……別に良いか。芒野、歩けるか?」
「うん……あ、えっと……やっぱ、無理かも」
芒野はその場に蹲ると、甘えるように両手を伸ばして、俺の背中に回してきた。
おい、さっきとはまったく態度が違うんだが?
俺は溜息を吐きながら芒野の身体を抱き上げる。
「じゃあ、俺達はここで」
「えぇ、綾峰先生には私の方から報告しておいてあげる」
宗方さんと別れると、俺達は転移ポータルの方へと歩いて行った。
「さて……」
問題は、だ。
芒野と関係を持ってしまったことを、あの二人にどう話すかだな。
いや、この際あえて黙っていて隠し通せるかどうか試してみるのもありといえばありか?
「……その場合、バレた時のことを想像すると恐ろしいが」
「ふぇ? 何の話?」
「あ、いや違う。こっちの話だ。気にするな」
俺は芒野に適当な言葉をかけると、どうにか誤魔化せないか思考を巡らせる。そうこうしているうちに、転移ポータルの場所へとたどり着いた。
塩浜さんはとにかくとしても、麗奈ちゃんはかなり嫉妬深い。芒野との関係を素直に話せば、麗奈ちゃんの嫉妬に狂ったビンタ祭りになるのは目に見えている。
「…………」
それは怖いな。
とりあえず、隠せそうならば隠し通していく方向で行くか。
俺はそのまま芒野を抱きかかえたまま、転移ポータルをくぐって湖の方へと向かう。そのまま少し歩くと、二人が居るログハウスへと到着した。
「ふぁぁ……すっご……何これ……ぜんぶ、黒羽が作ったのっ!?」
「あぁ、まあ大したことじゃない。俺の職業(ジョブ)のスキルがあれば、誰でも簡単に作れるさ」
「ご主人様、お待ちしておりました」
驚いている芒野に説明をしていると、樹上からメロウと数匹のデボアゴブリンが飛び降りてきた。
「うわわっ! 何、コイツらっ!! 何か、飛び降りてきたし」
突然、目の前に現れたメロウ達を見て、芒野はぎゅっと俺に強く抱き着いてくる。
「安心しろ、コイツらは俺の配下だよ、害はない」
「お帰りなさいませ、ご主人様。昼食の準備が整ってございます」
「あぁ、ありがとう。俺の分は良いから二人……いや、三人分を用意してくれないか」
「ハハッ!!」
俺の命令を受けると、メロウとデボアゴブリン達の姿が掻き消えた。
「すっご……一瞬で、居なくなっちゃった」
「凄いだろ、俺の配下は。優秀なんだ、アイツらは」
俺なんかよりもずっとな。
俺は芒野を抱きかかえたまま、ログハウスの中へと入っていく。すると、ログハウスの中では麗奈ちゃんと塩浜さんの二人が起きていた。
というか、お互いに睨み合っていた。
「あら……」
睨み合っていたうちの、塩浜さんの方が俺の存在に気付いたようだ。
俺の方を見つめて、柔和な笑みを浮かべようとして……俺が芒野を抱きかかえているのを見て、そのまま表情を凍りつかせる。
「あ? あによっ! どこ見て……」
塩浜さんの反応を見て、俺に背を向けていた麗奈ちゃんもこちらを振り向いた。
「総二さんっ! ねえ、聞いてよッ!! この女ってば……あたしの……こ……と……」
振り向いた麗奈ちゃんは俺を見るや表情をぱぁぁ、と明るくさせて駆け寄ろうとする。けれど、俺が芒野を抱きかかえているところを見て、駆け寄ろうとした姿勢のまま固まってしまった。
「あの……えっと……」
どうしよう。
目の前の二人の女性たちは、状況が分からないようで、硬直したまま動かなくなってしまった。
俺がどうしようと悩んでいると、ふと誰かに見つめられていることに気づいた。
ゆっくりと視線を下げると、そこには相手を刺し殺すような鋭い視線で俺のことを睨み付けている芒野がいた。
「……ねえ、これどういうこと? 何でここに添乗員さんと、麗奈ッちの二人がいるわけぇ?」
「ぁ………いや、それは……」
ヤバい。逃げたい。
すごぉ~~く、逃げたい。
何も考えずに芒野を抱きかかえたまま来てしまったが、それがとんでもない失敗だったと今更ながらに気付いた。
「あら、あらあら……これは、困っちゃちゃんね」
「ねぇ……何でさ、黒羽さんは、カオリンを抱きかかえているわけ?
しかも、恋人みたいな雰囲気でさ……」
塩浜さんはニコニコと微笑んでいるが、いつもと違ってその背後にはドス黒いオーラが漂っている。
一方で、麗奈ちゃんは怒気を隠すつもりもないようで詰問するような鋭い視線で俺のことを睨み付けてくる。
「…………」
俺は無言のまま芒野を地面にそっと下すと、そのまま地面に両手をついて、勢いよく土下座をした。
あの、ごめんなさい。
なんかよく分からないけど、ごめんなさい。
結局、俺はそのままその場に正座させられて、今までのことを洗いざらい吐かされた。
「…………あらあら」
「……この……ケダモノ」
「…………最低」
その結果、俺の目の前にはなぜか三匹の般若が生まれてしまった。
何故だっ!?
「事情は……理解したわ。納得は全っっ然してないけどねっ!!」
そう叫んだのは麗奈ちゃんだった。
「大体、総二さんは節操がなさ過ぎなのよっ! だから、こんな女と関係を持っちゃうんでしょッ!!」
そういって麗奈ちゃんが指さしたのは、塩浜さんだった。
「あら、こんな女とは酷いわぁ。それに順番的なことを言えば、私が一番で貴女が二番目さんなのよ?」
「ちょっと待てっ! あたしが……二番目ですって……」
麗奈ちゃんは怒気を込めながら、塩浜さんを睨み付けた。塩浜さんも、一見すると柔和な表情に見える笑みを浮かべたまま、麗奈ちゃんのことを見つめている。
「はぁ~~いっ! じゃあさ、私は三番目ってことなのかな?」
そう言って芒野はお茶らけた様子で手を上げた。
頼む、頼むからもうこれ以上二人の怒りの火に油をぶちこむような真似はやめてくれ。
ただでさえ、盛大に炎上しているところにそんなことをされたら、俺がストレスで死んでしまう。
「それも凄く気になるところなんだけどね。カオリンってさ、意外にビッチだよね。普通、人の彼氏を寝取る?」
「はあぁっ!? 何ソレ……麗奈……あんたさ、前々からずっと言おうと思っていたんだけど――」
「だああああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁっ!!! ちょっと待て、いや待ってくれっ!!」
女同士のバトルが取り返しのつかない領域になってしまう前に、俺は大慌てで三人の間に割って入った。
「事情はさっき説明しただろ、俺が生きていくためには人間の生き血が必要なんだっ!」
三人には芒野の血を吸うことになってしまった経緯をすべて話している。
「悪いとは思っているさ。
ただ、こればかりは本能というか、俺の種族としての習性だからな……」
俺だって好き好んで吸血したいわけではない。けれど、女性の生き血を吸わなければ俺が死んでしまう。
吸血する際には、吸う血液の量にはかなり気を使っている。俺が欲望のままに吸血し続けると、相手の女性をショック死させてしまう危険性があるからだ。
それでも二日連続で吸血した結果、塩浜さんは卒倒して熱を出して寝込んでしまった。
相手の女性の安全を考えると、恐らくは十人ぐらいからローテーションで吸血していく必要がある。
それはつまり、最低でも十人の女性とは性的な関係を結ばざるを得ないってことだ。
そのことを理論的に説明すると麗奈ちゃんは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「そりゃ、そうだけど……でも、現にこの目で見たらやっぱり感情的に嫌なものは嫌なのっ!」
「あらあら、まあまあ……やっぱり処女は経験人数が少ないだけあって、心も狭量なのね」
「はぁぁっ!!? あんた……そんなにあたしを怒らせたいの?」
おい、待てやめろ二人とも。
せっかく喧嘩を止めたというのに、この二人はまた……。
俺が額に手を当てて困り果てていると、ドアが控えめにノックされた。そちらを見ると、このトレーを手に持ったメロウ達が控えていた。
「ご主人様、奥方様たちの朝食の用意ができてございます」
「あぁ、すまないな。
塩浜さん、麗奈ちゃんも、あと芒野も……とりあえず、朝飯を食え。話はそれからだ」
俺は三人の女性たちを外に連れ出すと、木材で木のテーブルと椅子をクラフトして、そこに三人を座らせた。
椅子に座った三人の目の前に次々と料理が並べられていく。
まあ、料理と言っても仕留めた鹿に似た動物の肉を焼いたメインディッシュに、焼き魚一匹に、果物を食べやすくカットしたデザートという至ってシンプルなものだが。
「ありがとうございます黒羽君。じゃあ、いただきます」
塩浜さんは両手を合わせると、料理を食べ始めた。それを見た麗奈ちゃんと芒野も遠慮がちに料理に手を付ける。
「美味しっ! ちょっと、何子のお肉、凄く柔らかくて美味しいんだけどっ!!」
鹿に似た動物の肉を一口頬張った芒野が目を見開いて驚きの声をあげる。
「あぁ、蘭子先生たちの方では、岩盤竜の肉だものな、あれは硬くて不味いからな……」
俺も食べたことがあるが、流石はモンスターだけあって岩盤竜の肉は硬い上に独特の臭みがあって結構不味い。
それに比べて、メロウ達が仕留めているのはモンスターではなく、野生動物だ。
その肉質は天と地ほどもかけ離れている。
基本的に、蘭子先生たちクラスメイト達と、俺の軍団は台所事情が別個に分かれている。
蘭子先生達は蘭子先生達で、俺の軍団は俺の軍団で、自分たちで手に入れた食料は自分たちのものになる。
もちろん、完全に分けているわけではなく余裕があれば融通したり、食料を分け合ったりはする。
例外は、湖や河川に仕掛けたフィッシュトラップだな。あれは人数に応じて、取れた魚を分配している。
クラスメイト達にはある程度は自活してもらわなければならない。だから、ヤバくなった手助けするが、それまでは自分たちで何とかしてもらっている。
まあ、現状ではクラスメイトたちがまだ全然育っていないせいで、クラスメイトたちの食料も大部分を俺の軍団から融通しているわけだが。
「すっごぉ~~い。このお肉ならいくらでも食べられるわ。一口噛むだけでジューシーな肉汁が口の中に溢れてくる」
「うん……確かに……すごく、美味しい……」
芒野は歓喜の声を上げながら、木の皿に並べられた肉を次々に頬張っていく。その隣に座っていた麗奈ちゃんも、少し遠慮した様子で肉を食べている。
麗奈ちゃんも、俺の軍団の飯を食うのはこれが初めてだ。なので、驚きながら肉を食べている。
「てか、ずるくない? 黒羽たちだけ、こんなにおいしい物を食べているなんてさ」
「俺達だって、いつもこんな上質肉を食べているわけじゃないさ」
いくら狩りの腕に長けたメロウ達がいるとはいえ、狩った動物の肉だけで俺の軍団全ての配下の胃袋を賄えるわけもない。
ゼクトールやハーキュリー、メロウやグンダ、あるいはデボアゴブリンなどには十分な量の肉を配給できるが、それ以外の下級兵たちはそこらで捕まえた爬虫類や、虫や、あるいは魚などが主食だ。
できれば下級兵たちにも、十分な量の肉を食わせてやりたいが、現状ではそこまでの余裕はまだない。
いざという時の為に、食料も備蓄しなければならないしな。
ただ、たまに狩りが上手くいって大量の鹿を狩れた時は、配下の全ての人員に肉を配給している。
「その時は、蘭子先生の方にも結構な量の肉を提供しているんだけどな。現に一昨日(おととい)の飯は少し違っただろ?」
「あぁっ! 確かに……お昼だったか、夜だったか忘れちゃったけど、確かに一昨日(おととい)のお肉はすっごく美味しかった。
それまでの硬い肉とは段違いの味だったもんね」
芒野たちにとっては一昨日の晩が、この異世界に転移してから二日目の夜だった。
初日は慣れない異世界の環境に追われて、余計なことに気を回す余裕はなかったと思う。でも、二日目ともなると事情が少し違ってくる。
人間は、何事に対しても恐ろしい程の適応力を持っている。どんな人間であれ、どんな環境にも慣れて、適応する能力が備わっている。
クラスメイト達も、初日を超えて、だんだんとこの世界の環境に慣れてくる頃合いだ。だからこそ、そのタイミングでクラスメイト達に肉を振る舞った。
人間って奴は慣れると、思考する余裕が出てきてしまう。
幸いなことに、俺は記憶喪失ということも相まって元の世界に対する未練は殆どない。でも、他のクラスメイト達は違うだろう。
恐らくは余計なことを考えて、郷愁(きょうしゅう)の念に囚われてしまうクラスメイトも一人、二人と出てくるだろう。
鹿の肉程度では到底足りないが、それでも人間は美味いものを食べれば少しは気がまぎれる。
そう思ったからこそ、一昨日の晩は大量の鹿肉を蘭子先生達に提供した。
ま、そのせいで今までずっと備蓄していた緊急時の際の非常用の干し肉がすっからかんになってしまったが。
「……お母さん、元気かな」
と、それまで肉を食べていた芒野が急に手を止めると、今にも泣きそうな表情で俯いてしまった。
「…………うん」
「……そうね」
芒野の言葉に、麗奈ちゃんも、塩浜さんも手を止めて地球に残してきた大切な家族のことを思い出しては、涙を拭っている。
それまでのワイワイとした喧騒が嘘のように消えて、シン……と陰鬱とした静寂が辺りを包み込む。
俺はそんな彼女たちを見て、心の中でため息を吐くと、この場をメロウ達に任せて歩き出した。
「俺は少し用事を済ませてくる。時間はたっぷりある、ゆっくり食え」
なんだろう。
彼女たちの様子を見ていると、酷く苛立ってしまっている俺がいる。
俺は、記憶喪失だ。
だからなのか、家族に対する情も、未練もまったくない。
そりゃ、一年間ずっと暮らしてきたのだから愛着はあるが、それは友達に向ける程度の感情に過ぎない。
「わっかんねぇな。家族ってのは……そんなに大切なものなのか?」
彼女たちにとってみれば、この世界に――まったく見知らぬ別世界に来てしまったのは初めての経験なのだろう。
でも、俺は違う。
俺にとっては一年前……真っ白な病室で目覚めた時にも同じような経験をした。周りにいる人は、全員が見知らぬ他人。
今までの記憶も、感情も、何もかもを失った。
俺にとっては一年前のあの日、あの時と……この世界は何ら変わらない。だからだろうか、俺がこの世界に転移してからも順調に適応できているのは。
人間ってのは何事に対しても慣れる生き物だ。
言ってしまえば、俺は未知の世界に身一つで放り出されることにすでに慣れてしまっていたのだ。
「……なんてのは、流石に言い過ぎか」
流石に一年前はここまで身の危険を感じる環境に放り込まれたことはなかったからな。
「……まあ、今はゆっくりと飯を食え」
今は触れずにそっとしておいてやるのが良いだろう。俺は、メロウにこの場を任せると、その場から離れた。
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