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記憶の在処
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記憶はどこに残るのか。
単純に考えれば、思考の要である脳に残るものだろう。
脳の中はいくつかの部位で機能が分かれており、短期記憶は「海馬」に、長期記憶は「大脳皮質」に蓄えられているとされている。実際、アルツハイマー病を始めとする認知症では脳の萎縮や血流の低下が確認されている。脳に障害が発生することで、今日の出来事、今どこに居るのかと言った、日常的に使用している記憶に問題が生じる。それは認知症の人が近所に出かけたまま迷子になることにも通じる。毎日見ているはずの風景に見覚えがない。家を出てどう歩いてきたのか覚えていない。そうして彼らは迷子になるのだ。
では、逆に、記憶は脳だけに残るものだろうか。
医学的に証明されたものではないが、記憶転移と呼ばれる事例がある。臓器移植によって趣味嗜好が変わった事例を始め、中には知らないはずの臓器提供者の名前を夢で見た、なんてものもある。それらは極端な例だが、神経細胞の中には記憶を形成できる能力を持つものが存在するとの研究結果もあり、記憶は必ずしも脳だけに限らないのではないかと考えられる。
あくまで考えられる、だ。元々、記憶とは曖昧なものだ。それだけでなく、記憶は改竄される。
人の意見とは、その時の立場で変わる。それを過去に遡って「言っていない」「そんなことはしていない」というのは別に珍しくもない。過去は美化され、辛い日々ななかったことになり、怠惰な生活は雌伏の時へとすり替えられる。
そんな意図すらせずに行われた改竄の結果から、記憶が正しい、正しくないという判断は不可能に近い。ましてや、それが他人の記憶を受け継いだ結果だなどと、どう証明しろと言うのか。他人の記憶のせいで犯罪を犯したなどと。
「よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく」
彼女と初めて会ったのは、会社の打ち合わせスペースだった。
新しく、うちの会社で運営しているバーチャル・ユーチューバーの声優として採用したのが彼女だった。とは言っても新キャラを立ち上げるわけではない。あるバーチャル・ユーチューバーの声優がこれ以上続けられなくなった為の後釜だ。人気がないキャラクタならば声優が続けられなくなった時点で引退という扱いになるが、このキャラクタは人気があったので、声優を変えてでも存続が決定されていた。その新しい声優が彼女だった。
既に概要、バーチャル・ユーチューバーとして演じてもらうことや、新しいキャラクタではなく、引き継ぐ形での活動になることは説明済みだが、詳しいキャラの設定や、表にはまだ出していないキャラクタの背景について、資料を交えながら説明していった。
「これで一通り説明は終わったけど、何か質問はあるかな」
「えっと、キャラを引き継ぐにあたって、なんですけど、中の人の交代っていうのはオープンにはしないんですか?」
「そう、今は秘密にする。出来ることならずっと秘密にしたいね。そのうちバレるとは思うけど、1年でも2年でも、バレるのは遅ければ遅いほうが良い」
そう、声優の交代は視聴者には明らかにされない。そのために、実績の少ない新人声優の中から、声質の似た彼女を採用したのだから。
「えっ、でもそれってすごく難しくないですか? VTuberって台本通りじゃないって言うか、フリートークがすごく多いと思うんですけど」
「勿論、難しいね。でもやってもらうよ。まずは、過去の動画を見てキャラの癖を掴むところからだね。その後は声マネの練習をしてもらって、あとは彼女、料理ネタが多かったんだけど、君、料理は?」
「あ、ちょっとだけ、簡単なものなら」
「じゃあ自炊の回数も増やすようにしてね。特に動画で出て来る料理は全部一回は作ってみてね」
彼女は平常心を保とうとしているのか、笑顔のままで目が泳いでいるのが印象に残った。
それからの数日は、事務所でひたすら動画を見てもらって過ごした。流石に丸一日動画視聴と言っても集中力にも限度があるから、休憩代わりに声マネの練習や、バーチャル・ユーチューバーの3Dモデルを動かす練習もしてもらった。
彼女のほうも熱心に勉強してくれたようで、お昼には「料理、練習してるんですけど、種類が多くて、晩御飯だけじゃ食べきれないんですよ」そう言って自作のお弁当を広げていたものだった。
しばらくの練習期間の後、交代してから初の動画をアップした。
内容自体は過去動画の中から人気のあったものをピックアップしてつなぎ合わせた「10分で分かる」系統の自己紹介動画だ。これに要所で彼女の声で合いの手が入る。出来上がった動画は、過去動画と新しい声が違和感なく繋がるように何度かリテイクをかけたお陰もあり、アップロードして数日経っても、声が違うという話題は出て来なかった。「大丈夫ですよね」というのが挨拶代わりになるほど心配していた彼女も、公開から数日経ってやっと落ち着いてきたように見えた。
「少しずつフリートークも増やしていくけど、当分は録画だけでいくからね。ダメだと思ったらリテイク掛けるからそのつもりで」
「はいっ」
何本かの動画を公開しても、相変わらず声については話題にならなかった。リテイクは少なからず出ていたが。それでも本数を重ねる度にリテイクの回数も減ってきていて、これなら近いうちに生放送も出来るようになるな、というのが事務所全体で言われ始めた。その頃だった。
「あの、この事務所で、私、まだ会ったことのない方っています?」
そう言われた。彼女の動画は、この事務所で初めての声優交代ということもあって、事務所全員が交代で立ち会うことにしていた。元々人数の少ない零細企業だ、もう何本も動画を取っている中で全員立ち合いは済んでいる。
「いや? もう動画の立ち合いも二巡してるし、全員会ってるよ。どうしたの?」
「えっと、井上さんって方にはお会いしてないかなって」
一瞬、顔が嫌悪に歪みそうになるのを堪えて、何もなかったかのように返す。
「あー、どっか名前残ってた? 君が来るちょっと前にやめちゃったんだ。その人」
「あ、そうなんですねー。どこで見たのか覚えてないんですけど、何かで井上さんって人も居るんだ、って思って」
井上というのは、ある意味、声優交代の元凶だった。
うちの事務所では、数人のバーチャル・ユーチューバーのプロデュースを行っているが、そこで演じる声優は全員彼がスカウトしてきた人達だ。新しく来た彼女を除いて。
それだけであれば、仕事上何の問題もなかった。
だが、奴は仕事の範囲を逸脱した。
だから去ることになった。
人生から。
奴を刺したのは、恋人になったはずの声優だった。
奴を刺した声優は逮捕され、そうして新しいバーチャル・ユーチューバーの声優として、彼女がスカウトされた。
声優という人気商売だけあって、いくつかのニュースでは取り上げられたようだが、公に演じたキャラクタがマイナーなタイトルばかりだったせいか、ほとんど話題にはならなかった。もちろん、人気のあるバーチャル・ユーチューバーの声優だったことが漏れていたらそれどころでは済まなかっただろう。幸いにも、大きな不幸の中でわずかな幸いではあるが、バーチャル・ユーチューバーのキャラクタは中身さえどうにかすれば継続出来る状態で残ったのだ。
更に数本の動画を上げた後、生放送の企画が持ち上がった。
過去動画の視聴も料理の勉強も続けてもらってはいるが、その頃にはリテイクが掛かることもなくなり、事務所の中でも「彼女はあのキャラに似て来た」と言われ始めたからだ。とは言え、一発勝負の生放送で問題があってもいけない。この事務所でプロデュースしているバーチャル・ユーチューバーの一人とのコラボ企画として行うことになった。更に料理番組風にして会話の量を減らすことでボロが出にくいようにと配慮された。
「料理って、リアルの映像も映すのです?」
「スマホで撮ったのをVR空間に張り付けるんだ、昔、井上が伝手でやり方を教えてもらってきてね」
「井上って誰なのです?」
「あー、ごめん、昔居た人」
コラボ相手のバーチャル・ユーチューバーはうちがプロデュースしている中では人気のあるほうだ。普段は自宅からの配信をしており、事務所にはたまに打ち合わせに来るくらい。この彼女もスカウトは井上で、一時期、親密過ぎるんじゃないかと噂が立ったこともあったが、結局、噂は噂のまま消えた。別のバーチャル・ユーチューバーの声優が、井上は恋人だと事務所でカミングアウトしたからだ。それが、後々、殺人犯となってしまった声優だ。自宅配信が主体のため、犯人の声優との面識はほとんどなかったが、親密だと噂になる程に親しい井上の死は随分とショックだったようだ。彼女以外の、うちの事務所でプロデュースしているバーチャル・ユーチューバーのほとんどに言えることだが、事件からしばらくは配信も滞ったり、短時間の動画でお茶を濁すような行動があった。それも現在では元の配信頻度に戻っており、今回の生放送の相手役に選ばれた。
「やあ、早いね」
「ちょっと先に下拵えをしたかったのです」
レンタルスペースにいち早く現れた声優はそう言ってバックを下ろした。
まだキッチンの使えるレンタルスペースとして借りたこの部屋には、自分を含めた事務所のスタッフが放送機材のセッティングをしている最中だ。出演する二人にはもっと遅い時間を指定しており、到着前に機材のセッティングを済ませるつもりだったが、当てが外れてしまった。そう言えば、前の声優も収録開始より大分前からスタジオに入っていたなと思い出す。本人の見た目こそは違うが、行動パターンが随分と似てきた。
すぐに下拵えを始めようとする声優を制して、放送機材のセッティングを終わらせる。
キッチンを至近距離から撮影するためのカメラや、調理中の出演者の声を拾うマイクの配線など、キッチンを使われてしまうと設置し難いものも少なくない。
とは言ってもテレビスタジオのような大掛かりな機材は必要ない。すぐに設置を終わり、キッチンを明け渡す。
「キッチンはもう使っても大丈夫だよ」
「わかったのです」
「やり過ぎて放送中にやることがなくならないようにね」
「大丈夫なのです。油抜きとか、お魚の塩降りをしておきたいだけなのです」
キッチンに調理器具を広げて、さっそく準備を始める。
調理器具の大部分は声優の私物で、事務所の車を使って機材と一緒に運び込んだものだ。鍋やフライパンといった一般的なものだが、大小何種類もある。必要だと言うので持って来はしたものの、こんなに多く必要なのか釈然としないものを感じるが、調理する本人が必要だと言うならしょうがない。
下拵えが進むうちにコラボ相手の彼女も到着し、軽く挨拶を交わす。
うちの事務所では所属しているバーチャル・ユーチューバー同士であっても、個人情報は漏らさないようにしている。それには本名も含まれる。個人情報の保護という観点も勿論あるし、もう一つ、こういうコラボの時にうっかり本名で呼ばないように、というのもある。うっかり生放送で言ってしまったら取り返しがつかなくなるし、ファンの中には中の人が実在しているという事実をなぜか嫌う人もいる。名前を知らなければ呼びようもない。
本名を教え合わない。
説明はしていたはずだった。うっかり放送中に呼び間違えないようにという理由であることも。だが、その理由では、普段から本名で呼ばないという程度の話にしかならない。そして、その程度でよかったはずだった。
放送直前の簡単な打ち合わせ。
流れを確認して、キッチンに二人が立つ。
待ち時間の雑談。
話題が共通ではあっても放送で言えない事務所の話になったのは偶然だったのか。
爆弾は音もなく破裂した。
「確かに居ましたねぇ。あ、そうそう、私も本名は井上って言うんですよ。だから事務所の中だとあの人が呼ばれるたびに反応しちゃって……」
そんな会話が聞こえてきた。
死んだ人間の話題なんて放送前にテンションが下がりかねない。だから話題を変えるように会話に入ったほうがいいかと思い、機材から顔を上げた。
ドサリ。
会話の続きは聞こえず、キッチンには声優が一人で立っていた。
その足元には、彼女が。
胸に突き立った包丁。
「なにをしてる!」
スタッフの一人が叫んだ。
彼女の口からゴボゴボと溢れる血。
胸の部分が徐々に赤く染まる。
「え? だって井上は殺さないといけないのですよ?」
そう言った声優はいつも通りの笑顔だった。
後日。捜査に訪れた警官に質問された。
声優は警察には、井上は恋人で浮気されたのが許せなかったと供述しているそうだ。
しかし、コラボ相手の彼女とは初対面のはずだし、女同士でもある。同性愛をどうこう言うつもりはないが、初対面であって恋人ではないと警官には説明した。
「では、以前に殺されたこの事務所の井上さんとの関係はどうです?」
次に出て来た質問にも、似たような答えしか返せなかった。
あの井上とは面識がないはずだ、と。声優がこの事務所に関わったのは井上が死んだ後だから、と。
その後は事務所での勤務態度、勤務時間や趣味を含めた広い範囲の質問が行われた。はっきりとは言わなかったが、精神的に病んでいる病んでいる可能性や、薬物使用も含めて疑っているようだった。確かに、直前まで普通に話していた相手を刺したんだ、疑わないわけにもいかないか。
「最後にもう一度確認しますが、以前に殺された井上さんとの面識はないんですね?」
分からない。
「井上さん殺害の容疑者と、同じ供述をしていましてね。どうにもあの容疑者と同じ目にあったとしか思えないんですがね。生前の井上さん、もしくは同じ手口を使っていた井上と名乗る誰か、本当に面識はないんですかね」
ない、はずだ。としか言えなかった。
数日後、詐欺を働いていた井上夫妻が続けて刺殺されたという報道が行われ、詐欺の片棒を担いでいたのではないかと言われ、しばらくの後、事務所は閉鎖された。
単純に考えれば、思考の要である脳に残るものだろう。
脳の中はいくつかの部位で機能が分かれており、短期記憶は「海馬」に、長期記憶は「大脳皮質」に蓄えられているとされている。実際、アルツハイマー病を始めとする認知症では脳の萎縮や血流の低下が確認されている。脳に障害が発生することで、今日の出来事、今どこに居るのかと言った、日常的に使用している記憶に問題が生じる。それは認知症の人が近所に出かけたまま迷子になることにも通じる。毎日見ているはずの風景に見覚えがない。家を出てどう歩いてきたのか覚えていない。そうして彼らは迷子になるのだ。
では、逆に、記憶は脳だけに残るものだろうか。
医学的に証明されたものではないが、記憶転移と呼ばれる事例がある。臓器移植によって趣味嗜好が変わった事例を始め、中には知らないはずの臓器提供者の名前を夢で見た、なんてものもある。それらは極端な例だが、神経細胞の中には記憶を形成できる能力を持つものが存在するとの研究結果もあり、記憶は必ずしも脳だけに限らないのではないかと考えられる。
あくまで考えられる、だ。元々、記憶とは曖昧なものだ。それだけでなく、記憶は改竄される。
人の意見とは、その時の立場で変わる。それを過去に遡って「言っていない」「そんなことはしていない」というのは別に珍しくもない。過去は美化され、辛い日々ななかったことになり、怠惰な生活は雌伏の時へとすり替えられる。
そんな意図すらせずに行われた改竄の結果から、記憶が正しい、正しくないという判断は不可能に近い。ましてや、それが他人の記憶を受け継いだ結果だなどと、どう証明しろと言うのか。他人の記憶のせいで犯罪を犯したなどと。
「よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく」
彼女と初めて会ったのは、会社の打ち合わせスペースだった。
新しく、うちの会社で運営しているバーチャル・ユーチューバーの声優として採用したのが彼女だった。とは言っても新キャラを立ち上げるわけではない。あるバーチャル・ユーチューバーの声優がこれ以上続けられなくなった為の後釜だ。人気がないキャラクタならば声優が続けられなくなった時点で引退という扱いになるが、このキャラクタは人気があったので、声優を変えてでも存続が決定されていた。その新しい声優が彼女だった。
既に概要、バーチャル・ユーチューバーとして演じてもらうことや、新しいキャラクタではなく、引き継ぐ形での活動になることは説明済みだが、詳しいキャラの設定や、表にはまだ出していないキャラクタの背景について、資料を交えながら説明していった。
「これで一通り説明は終わったけど、何か質問はあるかな」
「えっと、キャラを引き継ぐにあたって、なんですけど、中の人の交代っていうのはオープンにはしないんですか?」
「そう、今は秘密にする。出来ることならずっと秘密にしたいね。そのうちバレるとは思うけど、1年でも2年でも、バレるのは遅ければ遅いほうが良い」
そう、声優の交代は視聴者には明らかにされない。そのために、実績の少ない新人声優の中から、声質の似た彼女を採用したのだから。
「えっ、でもそれってすごく難しくないですか? VTuberって台本通りじゃないって言うか、フリートークがすごく多いと思うんですけど」
「勿論、難しいね。でもやってもらうよ。まずは、過去の動画を見てキャラの癖を掴むところからだね。その後は声マネの練習をしてもらって、あとは彼女、料理ネタが多かったんだけど、君、料理は?」
「あ、ちょっとだけ、簡単なものなら」
「じゃあ自炊の回数も増やすようにしてね。特に動画で出て来る料理は全部一回は作ってみてね」
彼女は平常心を保とうとしているのか、笑顔のままで目が泳いでいるのが印象に残った。
それからの数日は、事務所でひたすら動画を見てもらって過ごした。流石に丸一日動画視聴と言っても集中力にも限度があるから、休憩代わりに声マネの練習や、バーチャル・ユーチューバーの3Dモデルを動かす練習もしてもらった。
彼女のほうも熱心に勉強してくれたようで、お昼には「料理、練習してるんですけど、種類が多くて、晩御飯だけじゃ食べきれないんですよ」そう言って自作のお弁当を広げていたものだった。
しばらくの練習期間の後、交代してから初の動画をアップした。
内容自体は過去動画の中から人気のあったものをピックアップしてつなぎ合わせた「10分で分かる」系統の自己紹介動画だ。これに要所で彼女の声で合いの手が入る。出来上がった動画は、過去動画と新しい声が違和感なく繋がるように何度かリテイクをかけたお陰もあり、アップロードして数日経っても、声が違うという話題は出て来なかった。「大丈夫ですよね」というのが挨拶代わりになるほど心配していた彼女も、公開から数日経ってやっと落ち着いてきたように見えた。
「少しずつフリートークも増やしていくけど、当分は録画だけでいくからね。ダメだと思ったらリテイク掛けるからそのつもりで」
「はいっ」
何本かの動画を公開しても、相変わらず声については話題にならなかった。リテイクは少なからず出ていたが。それでも本数を重ねる度にリテイクの回数も減ってきていて、これなら近いうちに生放送も出来るようになるな、というのが事務所全体で言われ始めた。その頃だった。
「あの、この事務所で、私、まだ会ったことのない方っています?」
そう言われた。彼女の動画は、この事務所で初めての声優交代ということもあって、事務所全員が交代で立ち会うことにしていた。元々人数の少ない零細企業だ、もう何本も動画を取っている中で全員立ち合いは済んでいる。
「いや? もう動画の立ち合いも二巡してるし、全員会ってるよ。どうしたの?」
「えっと、井上さんって方にはお会いしてないかなって」
一瞬、顔が嫌悪に歪みそうになるのを堪えて、何もなかったかのように返す。
「あー、どっか名前残ってた? 君が来るちょっと前にやめちゃったんだ。その人」
「あ、そうなんですねー。どこで見たのか覚えてないんですけど、何かで井上さんって人も居るんだ、って思って」
井上というのは、ある意味、声優交代の元凶だった。
うちの事務所では、数人のバーチャル・ユーチューバーのプロデュースを行っているが、そこで演じる声優は全員彼がスカウトしてきた人達だ。新しく来た彼女を除いて。
それだけであれば、仕事上何の問題もなかった。
だが、奴は仕事の範囲を逸脱した。
だから去ることになった。
人生から。
奴を刺したのは、恋人になったはずの声優だった。
奴を刺した声優は逮捕され、そうして新しいバーチャル・ユーチューバーの声優として、彼女がスカウトされた。
声優という人気商売だけあって、いくつかのニュースでは取り上げられたようだが、公に演じたキャラクタがマイナーなタイトルばかりだったせいか、ほとんど話題にはならなかった。もちろん、人気のあるバーチャル・ユーチューバーの声優だったことが漏れていたらそれどころでは済まなかっただろう。幸いにも、大きな不幸の中でわずかな幸いではあるが、バーチャル・ユーチューバーのキャラクタは中身さえどうにかすれば継続出来る状態で残ったのだ。
更に数本の動画を上げた後、生放送の企画が持ち上がった。
過去動画の視聴も料理の勉強も続けてもらってはいるが、その頃にはリテイクが掛かることもなくなり、事務所の中でも「彼女はあのキャラに似て来た」と言われ始めたからだ。とは言え、一発勝負の生放送で問題があってもいけない。この事務所でプロデュースしているバーチャル・ユーチューバーの一人とのコラボ企画として行うことになった。更に料理番組風にして会話の量を減らすことでボロが出にくいようにと配慮された。
「料理って、リアルの映像も映すのです?」
「スマホで撮ったのをVR空間に張り付けるんだ、昔、井上が伝手でやり方を教えてもらってきてね」
「井上って誰なのです?」
「あー、ごめん、昔居た人」
コラボ相手のバーチャル・ユーチューバーはうちがプロデュースしている中では人気のあるほうだ。普段は自宅からの配信をしており、事務所にはたまに打ち合わせに来るくらい。この彼女もスカウトは井上で、一時期、親密過ぎるんじゃないかと噂が立ったこともあったが、結局、噂は噂のまま消えた。別のバーチャル・ユーチューバーの声優が、井上は恋人だと事務所でカミングアウトしたからだ。それが、後々、殺人犯となってしまった声優だ。自宅配信が主体のため、犯人の声優との面識はほとんどなかったが、親密だと噂になる程に親しい井上の死は随分とショックだったようだ。彼女以外の、うちの事務所でプロデュースしているバーチャル・ユーチューバーのほとんどに言えることだが、事件からしばらくは配信も滞ったり、短時間の動画でお茶を濁すような行動があった。それも現在では元の配信頻度に戻っており、今回の生放送の相手役に選ばれた。
「やあ、早いね」
「ちょっと先に下拵えをしたかったのです」
レンタルスペースにいち早く現れた声優はそう言ってバックを下ろした。
まだキッチンの使えるレンタルスペースとして借りたこの部屋には、自分を含めた事務所のスタッフが放送機材のセッティングをしている最中だ。出演する二人にはもっと遅い時間を指定しており、到着前に機材のセッティングを済ませるつもりだったが、当てが外れてしまった。そう言えば、前の声優も収録開始より大分前からスタジオに入っていたなと思い出す。本人の見た目こそは違うが、行動パターンが随分と似てきた。
すぐに下拵えを始めようとする声優を制して、放送機材のセッティングを終わらせる。
キッチンを至近距離から撮影するためのカメラや、調理中の出演者の声を拾うマイクの配線など、キッチンを使われてしまうと設置し難いものも少なくない。
とは言ってもテレビスタジオのような大掛かりな機材は必要ない。すぐに設置を終わり、キッチンを明け渡す。
「キッチンはもう使っても大丈夫だよ」
「わかったのです」
「やり過ぎて放送中にやることがなくならないようにね」
「大丈夫なのです。油抜きとか、お魚の塩降りをしておきたいだけなのです」
キッチンに調理器具を広げて、さっそく準備を始める。
調理器具の大部分は声優の私物で、事務所の車を使って機材と一緒に運び込んだものだ。鍋やフライパンといった一般的なものだが、大小何種類もある。必要だと言うので持って来はしたものの、こんなに多く必要なのか釈然としないものを感じるが、調理する本人が必要だと言うならしょうがない。
下拵えが進むうちにコラボ相手の彼女も到着し、軽く挨拶を交わす。
うちの事務所では所属しているバーチャル・ユーチューバー同士であっても、個人情報は漏らさないようにしている。それには本名も含まれる。個人情報の保護という観点も勿論あるし、もう一つ、こういうコラボの時にうっかり本名で呼ばないように、というのもある。うっかり生放送で言ってしまったら取り返しがつかなくなるし、ファンの中には中の人が実在しているという事実をなぜか嫌う人もいる。名前を知らなければ呼びようもない。
本名を教え合わない。
説明はしていたはずだった。うっかり放送中に呼び間違えないようにという理由であることも。だが、その理由では、普段から本名で呼ばないという程度の話にしかならない。そして、その程度でよかったはずだった。
放送直前の簡単な打ち合わせ。
流れを確認して、キッチンに二人が立つ。
待ち時間の雑談。
話題が共通ではあっても放送で言えない事務所の話になったのは偶然だったのか。
爆弾は音もなく破裂した。
「確かに居ましたねぇ。あ、そうそう、私も本名は井上って言うんですよ。だから事務所の中だとあの人が呼ばれるたびに反応しちゃって……」
そんな会話が聞こえてきた。
死んだ人間の話題なんて放送前にテンションが下がりかねない。だから話題を変えるように会話に入ったほうがいいかと思い、機材から顔を上げた。
ドサリ。
会話の続きは聞こえず、キッチンには声優が一人で立っていた。
その足元には、彼女が。
胸に突き立った包丁。
「なにをしてる!」
スタッフの一人が叫んだ。
彼女の口からゴボゴボと溢れる血。
胸の部分が徐々に赤く染まる。
「え? だって井上は殺さないといけないのですよ?」
そう言った声優はいつも通りの笑顔だった。
後日。捜査に訪れた警官に質問された。
声優は警察には、井上は恋人で浮気されたのが許せなかったと供述しているそうだ。
しかし、コラボ相手の彼女とは初対面のはずだし、女同士でもある。同性愛をどうこう言うつもりはないが、初対面であって恋人ではないと警官には説明した。
「では、以前に殺されたこの事務所の井上さんとの関係はどうです?」
次に出て来た質問にも、似たような答えしか返せなかった。
あの井上とは面識がないはずだ、と。声優がこの事務所に関わったのは井上が死んだ後だから、と。
その後は事務所での勤務態度、勤務時間や趣味を含めた広い範囲の質問が行われた。はっきりとは言わなかったが、精神的に病んでいる病んでいる可能性や、薬物使用も含めて疑っているようだった。確かに、直前まで普通に話していた相手を刺したんだ、疑わないわけにもいかないか。
「最後にもう一度確認しますが、以前に殺された井上さんとの面識はないんですね?」
分からない。
「井上さん殺害の容疑者と、同じ供述をしていましてね。どうにもあの容疑者と同じ目にあったとしか思えないんですがね。生前の井上さん、もしくは同じ手口を使っていた井上と名乗る誰か、本当に面識はないんですかね」
ない、はずだ。としか言えなかった。
数日後、詐欺を働いていた井上夫妻が続けて刺殺されたという報道が行われ、詐欺の片棒を担いでいたのではないかと言われ、しばらくの後、事務所は閉鎖された。
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