愛を知らずに愛を乞う

藤沢ひろみ

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54.二人で見る月

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 入浴した後に月を見ることが、那岐の習慣になった。

 那岐の部屋には窓がない。
 勤めのための寝室に備え付けの丸テーブルと椅子を、掃き出し窓の傍まで運び窓を開放する。

 季節的に夜風が部屋に入ってくるのが心地良かった。
 テーブルの上に安住が運んでくれた飲み物を置き、広々とした寝室の端で那岐は椅子に深く腰掛けくつろぐ。

 安住が入ってきた時のために、寝室の照明は入口の扉の横にあるもののみ点けておく。月を見るのなら、部屋が明るいままでは野暮というものだ。

「贅沢だ……」
 深く椅子に座り瞼を閉じ、那岐はうっとりと零した。

 広い部屋の隅にいるという空間の使い方といい、月を眺めながらくつろぐ時間といい、せかせかと過ごしていた以前とは違い優雅ささえ感じる。

 時間の使い方に余裕があるのが、金持ちだ。これは那岐が館に来て導き出した、貧乏人との違いである。貧乏人は無駄な時間を惜しみ、働かなくてはならないからだ。
 ただ、こんなふうに過ごしてはいても、那岐自身が金持ちということではない。

「これがハーブティーなんかじゃなくて酒だったら、かっこいいんだけどな」
 那岐はティーカップを口に運んだ。

 穂香は夜は葡萄酒を飲んで過ごすことが多いと聞いた。
 那岐は酒が得意ではないので選ばないが、いかにも大人の女というような過ごし方に少し憧れはする。

 窓の外を向いていた那岐は、寝室の扉が開く音に室内を振り返った。

 安住ならば、那岐が居ようが居まいが必ずノックをする。
 入ってきたのは、祥月だった。だが、今夜は勤めの日ではない。

 窓側の照明は点けていないので、祥月は那岐に気付かない。祥月が那岐の部屋に向かおうとするのが分かり、那岐は慌てて椅子から立ち上がり、ここですと声を上げた。

「ここに居たか」
 近付いてくる祥月の手には本があった。

 今夜の勤めは弥生である。弥生の所へ行く前に、本を届けに来てくれたのだ。

「希望していた園芸の本を持ってきたぞ。今度は庭師の真似事でもする気か?」
「ありがとうございます」
 那岐は祥月から本を受け取った。

「勉強熱心と言って欲しいですね。どうせ庭園を見るなら、少しでもお役に立つことをしたいですから」

 雑草かどうかの違いが分かるだけでも、庭師の仕事の邪魔にはならない。花の知識があれば庭の散策も時間が潰せるという考えからだったが、目的を持って本を読むことは那岐にも読む気を起こさせ有意義な時間になる。

 祥月はテーブルに置かれたティーカップを見下ろした。
「部屋の明かりもつけずに、月を見ながらお茶か?」

「そうです。月が明るくて綺麗なので、見ていました。月見酒ならぬ、月見茶です」

「ちゃんと禁酒しているようだな」
 祥月が口元を緩める。細長い耳飾りが、月明かりできらりと光った。

 細い月を見て祥月を重ねてしまったことが、記憶に甦る。

 自分が祥月に恋をしているのではないかと勘違いしそうになったことを思い出し、那岐は少しばかり動揺して次の言葉が出て来ない。

「確かに、雲一つなくくっきりと綺麗な月だ。ここへ来るのに、夜空など見上げもしなかった」
 祥月は那岐と並んで月を見上げた。那岐はその綺麗な横顔を見た。

「夜にしか会わないからか、那岐はよく月を見ているように思う。月が好きか?」

「え……?」
 戸惑うような声を出してしまい、祥月が那岐の方を向く。

 月と祥月を重ねてしまっていたせいで、月が好きかと尋ねられると違う意味が含まれているように思えた。

 そんなわけもないのに心を読まれたような気がして、顔が少し熱くなった。

 祥月の黒い瞳が、迷うことなくまっすぐに那岐を見つめた。まるで心を暴かれそうな視線に緊張が走る。

 目を逸らせずに、那岐は祥月を見つめ返した。
 どちらも口を開くことなく、ただ月明かりに照らされる互いの顔を見つめた。

 ただそれだけのことなのに、那岐は心が震えた。胸の奥から何かが湧き上がってくるような感覚だった。

 静かに祥月の手が那岐の頬に触れる。右頬に手を添えられ、少し緊張した。
 キスをされるのだと思った。それなのに目を閉じることもできず、那岐は祥月をただ見つめ続けた。

「………」

 頬に触れていた温かな感触が離れた。
 予想と違う行動に、那岐は戸惑いの表情を浮かべた。

「さて、そろそろ行くとしよう」
 思い出したように祥月が告げ、那岐は我に返った。

「そうですね。弥生が待ちかねてますよ」
「うむ」

 那岐は扉まで祥月を見送った。

 扉を閉めて一人になると、那岐は脱力して深く溜め息をついた。
 急に動き出したかと思うほど、心臓がうるさいくらいに騒ぎ出す。

「な、何だ今の……。あれじゃ、まるで……っ」

 普段キスなどしないのに、何故そんなことを期待してしまったのか。自分の勘違いぶりが恥ずかしい。

 まるで逃げるように那岐は窓の傍まで戻り、椅子に腰掛け月を見上げた。

 抱き合うよりも短いのに、濃密に感じた時間。
 いずれ飽きて手放されることを望んでいたはずなのに、とても離れがたく感じた。

 ただ傍にいるだけで、見つめ合うだけなのに、胸は高まり苦しい。
 勘違いではなく、まさか本当に祥月を好きになってしまったのだろうか。

 気持ちは高揚するようで、少し苦しい。
 似た感覚を、那岐は知っている。遠い過去、遊華楼へ来る以前にも経験したことがある。

 否定するように、那岐は首を横に振った。
「いや、普通、ここは穂香だろ。なんで、よりによって……」

 遊華楼へ来るまでは、普通に女性と付き合っていたこともあった。十代の頃のことなので、所詮は子供の恋愛だとも言える。

 那岐にとって恋愛とは、楽しいものだった。こんなふうに、苦しくなるようなものではない。
 これは本当に、同じものなのかとも迷う。

 静かに見つめ合った祥月の顔を思い出すと、胸がきゅっと締め付けられた。

 けれど、これほどに揺さぶられる感情と、込み上げてくる愛しい想いを、そうではないと言い切れない。

「……愛……しい?」

 ぽつりと唇から零れた言葉は、すとんと那岐の心に落ちた。

 生きてきた中で、初めての感覚だった。
 恋よりも重く深く、優しいようで切なく辛く、想う気持ちが心から溢れ出るようだ。

 人を好きになるという感情は、単純なものである。それなのに今、心に渦巻く感情は、今まで知るものよりもとても複雑だ。

 那岐は溜め息とともに、テーブルに肘をつき項垂れた。
「俺は、男は恋愛対象じゃないぞ……」

 問題はそれだけではない。

 身分も大違いだ。たかだか愛人の身で王族に懸想するなど、身の程をわきまえていないにも程がある。

「どう考えてもまずいだろ……。まさか、これくらいで処罰されたりしないよな」

 優しく見つめられた祥月の瞳を思い出し、裏切りのようで申し訳なくなった。
 祥月が優しくしてくれるのは、愛人だからに過ぎない。

 雰囲気に流され勘違いしただけなら良かった。

 この恋は、自覚した途端に終わりを迎えるものだ。

 こんな感情に、気付くべきではなかった。
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