彼女と結婚するまでに

藤沢ひろみ

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8.山下の頼みごと

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 月曜日、裕也は朝から気分が良かった。それが成果として現れるように、デスクの上の仕事を軽快にこなしていき、昼前には編集長へ提出するデータもほぼ完成しかかっていたほどだ。

「よ、高城」
 イスの背凭れに体重を預け裕也が一息ついていると、背後から声を掛けられる。振り返ると山下が立っていた。山下は、裕也が今の編集部に異動になった頃から一番仲良くしている同僚だ。

 裕也が現在働いているのは、中堅の出版社である。流れ流れて、現在は書籍編集部にいる。希望していた写真と関わる職場ではないが稀に関わることもでき、やりがいもあり今の仕事は気に入っている。
 山下は裕也よりも先に配属されていた先輩なのだが、年の近い社員がいないので、そんな垣根も取っ払い仲良くしていた。

 山下は両手を裕也の肩に乗せると、ポンポンと軽く叩いた。
「なーんか、お前今日機嫌良くねえ?」
 にやついた顔で見られ、そんなに分かりやすかったのかと裕也は小さく笑った。

「もしかして、万馬券当たったとか?」
 山下は裕也に顔を近づけると声を潜める。

 いい気分だったのに、しょうもないものと一緒にされたような気がして途端に唇を尖らせる。
「山下さんじゃないんだから」
 休みのたびに馬の名前を連呼している山下と一緒にしないでほしい。裕也はデスクに向き直った。

 自分が機嫌がいい理由は分かっている。浅沼のことだ。

 裕也にとって、昨日は驚きの連続だった。
 大学を卒業した日以来、六年ぶりに浅沼と再会したこと。浅沼が和美の弟だったこと。そして、浅沼に告白されたこと。

 浅沼に告白された後、裕也はどういう顔で和美と浅沼のいる席に戻ればいいのかと悩んだ。だが席に戻れば、浅沼はすでに帰った後だった。
 ほっとしたような、短い時間しか一緒にいられなくて残念なような、自分でもよく分からない気持ちだった。

 告白された時も、浅沼に抱きしめられただけで何かされたりしたわけでもなく、連絡先すらも聞かれなかった。

 卒業式の日に浅沼に嫌いだと告げられ、もう関わることはないと、携帯電話の買い替えを機に浅沼の連絡先は削除したので、裕也は連絡先を知らない。

 言いたいことだけ言って去ってしまい、浅沼がどうするつもりなのかが分からない。
 告白したことで満足して終わった、ということもあり得る。
 そもそも、裕也には婚約者がいる。告白されたからといって、どう応えられるわけでもないのだ。

 しかし、裕也のそんなややこしい悩みもそっちのけになる気分にさせてくれるのが、浅沼に嫌われていたのではなかったということだった。

 当時の裕也は、自分でも驚くほどにショックを受けて、それはもう落ち込んで仕方がなかった。

 裕也にとって浅沼は、可愛い後輩であり弟であり親友だった。彼女と別れた時にもそこまで落ち込むこともなかったというのに、浅沼に嫌いだと宣告された日は一日中、いったい自分の何がダメだったのかと激しく過去を振り返ったものだ。

 裕也はイスを回転させると、背後にいた山下の方を向く。
「山下さん。本当だけど嘘、ってどういう意味だと思う?」

「あぁ?」
 裕也の問いに、山下の語尾が上がった。それから首を傾げる。
「意味わかんねぇんだけど」

「嫌いって言われて、でもそれは本当だけど嘘なんだってさ」
 裕也の言葉にさらに山下は首を傾げる。それから手をポンと叩くとにやりと笑った。
「何? お前、まさか彼女に……」

「違う。彼女とは、すこぶる順調だ!」
 裕也は和美と順調につきあっていることを強調する。まだ互いの身内しか知らないが、和美とはすでに婚約中なのだ。

 ふむ、と山下は顎に手を当てた。
「本当だけど嘘ってことは、嫌いだけど嘘ってことだろ? てことは好きってことじゃねえの? 嘘だけど本当ってのだったらマズイだろうけど」
「そうだよなぁ。いい意味なんだよなぁ……」

 浅沼に、卒業の日の言葉が嘘だと言われた。その後に告白までされたものの、裕也はその言い回しが引っ掛かっていた。
 やはり嫌っている部分もあるという意味に思える。そう思うと、素直に全部を喜ぶこともできない。

「いやぁ、日本語って難しいよな!」
 裕也は目の前でしきりに頷いている山下を見た。
「で、山下さんはさっきから何故ここに?」

 山下の雰囲気から、何か用事があって声を掛けてきたのだと分かる。山下は、待ってましたとばかりに笑顔になると、裕也の肩に手を置き肩を揉み始めた。

「あのさ、高城って今夜予定あったりなかったりする?」
「……なかったりするけど」

 そういうことか、と裕也は肩を竦ませた。肩まで揉んでくるということは、よほどお願いしたい何かがあるということだ。こういうところが山下は分かりやすい。

「実は、今日の夕方に神谷先生がこっち出てくるんだけどさ」

 神谷先生というのは、山下が担当している作家だ。そういえば、地方に住んでいるが、近々編集部へ来られるという話を聞いたのを裕也は思い出した。

「夜に接待予定だったんだけど急な打ち合わせが入って、どうしても今晩先生に同行できなくなったんだわ。新幹線の到着迎えに行くのまではできるんだけど、後のこと頼まれてくれないか? 同行の方は俺じゃなくても何とかなるけど、打ち合わせは外せなくてよ」
 山下は顔の前で両手を合わせてお願いした。

「いいよ」
 何を頼まれるのかと心配したが、それならば裕也にも手助けできる。裕也は山下の頼みを快く引き受けた。

 山下の顔が笑顔になり、裕也のイスを回転させてデスクに向けると再び肩を揉み始める。
「やっぱ高城頼りになる! マジ感謝!」
「いいって、これくらい。でも、接待ってどこへ連れて行ったらいいんだ?」

 自分が担当していない作家なので、どういう所へ連れて行けば喜ばれるかが分からない。
 三十代後半の女性の作家だと聞いている。その年頃の女性が喜びそうな場所を裕也が考えかけると、山下がデスクの上に紙を置いた。

「これ、食事予約してある店。七時半予約な。その後は先生に頼まれてるから、特に何かしなくてもそこ連れてくだけでいいから。ちゃんとした観光は明日俺が付き合うから、今日の先生のリクエストだけ付き合ってあげてくれ」

 すでに山下が準備していて、本当に裕也は同行するだけのようだ。ホームページから印刷されたものを見ると、有名な高級料亭だ。
 それから、と山下の話は続き、デスクの上に名刺が置かれた。

「食事の後、ホストクラブに行ってみたいんだって。で、そういう店を色々やってるオーナーの知り合いいるから、そいつのとこ連れてく予定で、指定されたのがココ。楽しませてもらえるよう、そいつに頼んである。これ一応名刺渡しとく。店行って俺の名前言ったら、オーナーが出てきてくれると思う。俺がいなくても、何なりといいようにしてくれるはずだから、後は適当に先生に楽しんでもらってくれ。任せたぞ」

「……」

 説明する山下をよそに、裕也はぼんやりと名刺を見た。店の名前は『Lovers』と書かれていた。
 その名に覚えがある。そしてそれは、自分の名刺ケースに入っているはずだ。

「Lovers……」
 何かが起こりそうな予感に、裕也はごくりと唾を飲み込んだ。
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