蘭華伝

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序章-13月に舞う月は

4 唯一の味方

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「ちょっと、林雪英リン・ソリョン

 所在なさげに俯きながら立ち尽くしていた雪英の前に、重さを含んだ高い声が投げられる。
 両脇に友人や取り巻きの妓女を連れた愉琳が腕組みをしたまま、冷たい雰囲気を全面に出して雪英の前へ立ちはだかった。
「わざわざ言わなくてもおわかりでしょうけど、没落して売られてきた宮女の分際で私達より前に立とうとなんて考えない事ね」
 笑ってはいるが、声色は明らかに苛立っている。先程受けた叱責による悔しさや歯痒さを、全て雪英にぶつけている事は誰の目にも明白だった。
 どうにもならない怒りをぶつける先は、自分より立場が下の者だと古くから決まっている。
 全ての生き物に備わっている本能が、弱々しい少女の胸を容赦なく刺し始めていた。
「あら、大丈夫よ。こんな頼りなくておどおどした子に、陛下の前に立つ度量なんてあるわけがないわ。人前に立つ事すらまともに出来ないこんな子、女官長様が許可しないわよ」
「今の内に身の程を知らせておくのよ、叶わない希望なんて抱かないように。あなたのように頭の悪そうな子が半端な気持ちで舞うなんて許さない。私達まで恥をかくわ。だからそうならないように忠告してあげているの。それが、先にいる者としての責任であり優しさでしょう?」
 同じ身分の友人である宮妓の言葉を受けて、愉琳がそう続ける。
「ねえ雪英。まさかとは思うけど、あなたのような卑しい身分の小娘が陛下のお手付きや両民の妻になれるだなんて、思っていないわよね? 叶わない望みを少しでも抱いていたのなら、さっさと捨てなさい。常に困ったような顔をしてみっともない。可哀想ぶっているつもり? 人を苛立たせる事しかできない田舎娘がこの教坊にいると知られたら、私達にも迷惑よ」
 真っ赤な唇は吊りあがっているのに、目は完全に据わっている。自尊心の強い美少女だけに、底意地の悪さと高慢さが余計に強調されている。
 その姿は、抵抗できない小動物をじわじわ嬲りながら食べようとする猛獣のようだった。

「ちょっと、愉琳! 言い過ぎじゃないの? 言い方ってものがあるでしょーが!」

 愉琳達と雪英の間に、潤寿の大声が割って入った。
 角が立たないように、あえて黙っているつもりだった。だが、とうとう耐え切れなくなり、気付けば雪英を庇う形で愉琳の前へ潤寿が身を乗り出していた。
「あら、間違った事は言っていないつもりだけど?」
「たとえ言ってる事が間違ってなくても、相手を萎縮させたら意味無いわよ! それに、あなたの言ってる事、半分以上が悪口なんだけど!? 間違ってる以前の問題よ! 言いたい事は的確に伝えるよう考えなさいって、女官長方にょかんちょうがたにも教わってるでしょ!?」
「そう思うなら雪英本人が言い返せばいいじゃない。そんな事もできない癖に、大勢の高貴な方々の前に出るよう指名されたら、困るのは雪英じゃないかしら? そもそも、『平民ピョンミン』のあなたが『両民リャンミン』の私達に随分な物言いじゃない? 女官長様の推薦でここへ来た身だからって、あなたも調子に乗り始めたの? 卑しい子と一緒にいると、やはり卑しく染まるのね」
「なんですってぇ!?」
 尊大な自尊心によって増幅された図太さを押し付ける愉琳に、潤寿が真っ向から反発した。
 そんな激しい争いの中、当の標的である雪英は潤寿の右肩にそっと左手の指先を置き、頭を小さく横に振った。
「いいの、潤寿…………。愉琳様が正しいわ……、いいの……ごめんなさい……」
 長い睫毛を伏せたまま、ポツリと呟く。そのまま、伏せがちな視線を愉琳の方へ上げた。

「…………ご忠告、ありがとうございます…………。……取るに足らない身に、そのような高望みなど微塵も抱いておりません…………どうか、ご杞憂をお治めください…………私など、心配の種にもなり得ません……、……不快な想いを抱かせてしまい、申し訳ありませんでした……」

 一切の反抗も含まれていない弱々しい声で言葉を紡ぎ、雪英は静かに頭を下げた。
 俯いた物憂げな顔を長い髪が隠す、とても頼りない姿だった。

「っ…………!」
 だが、その姿に愉琳はかえって苛立ちを覚え、笑みが消えると共に咄嗟に右手を振り上げそうになった。その激情は一瞬の事で、右手は宙で跳ねるだけで止まったが。

 流されるように従順で、打っても響かない。当たり前のように謝罪の言葉を呟くその姿に、無性に腹が立つ。
 こんなにも弱々しく頼りない相手に、心の奥底で燻る悔しさと虚しさを感じた事自体が腹立たしい。その原因を作った相手が憎らしい。
 何より、自分がこんなにも苛立っているのに、目の前の気弱な相手は何一つ気づいていない。
 ただ人形のように、時が過ぎる事を待っている。その事実が、一番憎たらしくてたまらない。

 だが、そんな心の機微など一切無かった事にして息をつき、愉琳はまた口の端を吊り上げた。
「それと、教坊中の掃除と衣装の洗濯も今日中に全部終えなさい。勿論一人でね」
「ちょっと! 教坊の掃除係は、今日は違う子でしょ? 洗濯だって一人じゃ……」 
「その子ならちょっと用があるの。だから一緒に寄宿坊へ戻るわ。雪英はそもそも卑しい下女として教坊へ売られてきたのでしょう? 私達宮妓が稽古に集中できるように、雪英には自分の仕事をしてもらうべきじゃない?」
 何も言わない雪英の代わりに抗議した潤寿に、涼しげな顔で愉琳がそう返した。
 卑劣な真意はどうあれ愉琳の言葉そのものは正論で、妓女の数が増えて年々大きくなっている教坊には、水仕事や雑用を行う宮女のような存在が必要である。それが、雪英が後宮ではなく教坊の方に売られたそもそもの理由だ。
 それに反論する上手い言葉など、潤寿には浮かばない。下手に反抗しようものなら、そのとばっちりは雪英が受ける事となる。
 あくまでも憎い相手は雪英であり、潤寿の事は目障りだとは思っているが、あまり眼中に無い。出自による身分は彼女達の方が上であり、取り立てて美人というわけではない潤寿は競争相手にならない。
 そんな見下しから来る感情が、皮肉にも彼女が虐めや嫌がらせに遭わない理由の一つとなっていた。
「……なら、私も手伝うわ。私も雪英と同室だもの、この広い教坊を一人で掃除して洗濯までするなんて、何刻かかるか……夕餉どころか湯浴みにも間に合わないわ」
「潤寿は今日、炊事番じゃなかったかしら? 教坊全体の夕餉を無かった事にするつもり? 怠けていた愚図な雪英を潤寿が手伝ったせいで夕餉がなくなった、と報告しようかしら?」
 クスクスと馬鹿にするように微笑みながら、愉琳は事もなさげにそう言い捨て、他の宮妓達と共に寄宿坊へと帰って行った。
 残された潤寿は怒りと悔しさを抱えながら、何も言わない雪英に心配の念を向けた。

 数刻が経ち、日はすっかり暮れて空も暗く染まっている。
 夕餉の時間はとっくに過ぎてしまい、寄宿坊にいる妓女達はそれぞれ湯浴みをしたり、部屋で休んでいる頃だ。
 そんな中、雪英の華奢な人影だけが、帰るべき場所にまだ戻れずにいた。

「………………」

 稽古場の中から窓を拭き、床を掃く。一人でそれを終える頃には空が暗くなっていたが、休む間もなく何十枚もの衣装が積まれている置き場へ向かった。
 教坊の裏庭にある洗濯場まで数枚の衣装を運び、洗い終えたそれらを籠に入れて物干し場まで運び、干し終えたらまた教坊へ戻って次の衣装を籠に入れ、洗濯場の池へ行って洗い、干しに行く。
 外界から閉ざされた内廷の中だけとはいえ、教坊と後宮を囲う敷地はとても広い。後宮だけを見ても、きゅうむねや部屋がたくさん建ち並び、大きな庭園や食堂もある。その離れである教坊まで含めると、そこらの町よりずっと広い。この中だけで生活が成り立ってしまうほどだ。
 その二つを繋ぐ裏庭は王宮内でもとても広大で、が出ていても迷い込んでしまいそうになる。ましてや夜になると寂しげで、風が吹くとどこか不気味にも思えてしまう。
 後宮ほどではないにしろ、それでも広い教坊から裏庭の奥にある洗濯場まで、一度行き来するだけでも時間がかかってしまう。それを何度も何度も繰り返す内に、細い体はどんどん体力を奪われていく。
 ただ運ぶだけではなく洗濯と物干しまでするのだから、尚更に時間がかかってしまう。軽くはない上質な布を何枚も運んだ細腕に、疲れによる痺れがどんどん滲んでいく。
 他の宮妓達が親しげに並んで食堂や自室へ向かう姿を尻目に、雪英だけは一人きりで何度も何度も往復し、黙々と仕事に尽くし続けた。
 すれ違う宮妓達による無視と嘲笑を受けながら、独りきりで何度も。

 ようやく掃除と洗濯の仕事を終えた後、誰もいない廊下でふと足を止め、城壁の上に広がる夜空へ顔を向けた。
(………………)
 朧月が雲の隙間から顔を出し、ほんのり紅いような白い光を放っている。
 その光をぼんやりと眺めながら、自然に吐息をつく。ようやく立ち止まる事の出来た体の中に、たまらない心細さと寂しさのような気持ちが取り止めもなく積もっていく。
 一人だけ取り残された空間で、ぽっかりと空いてしまったような気持ちのまま、ただ夜空を眺め続ける。
 薄い雲が月をまた覆い隠そうとして、誰にも気付かれないままに、何もかも消してしまいそうな静寂に包まれて――。

「――雪英!」

 孤独な静けさを唐突な声に引き裂かれ、ビクッと肩が上下した。
 立派な中庭を臨む渡り廊下で、大きな声がいつも以上によく響く。自分を呼ぶ声の方へ咄嗟に顔を向けると、長い髪を下ろした潤寿が食堂の方から走ってきた。
「ごめんね、全然手伝えなくて……夕餉の仕度を終えて、手伝いに行こうと思ったんだけど、なかなか上手くいかなくて……食器の洗い物もあって……」
 慌しく駆け寄って来たかと思うと、息を切らしながらそう言葉を紡ぐ。そんな潤寿の姿に、雪英はまだ呆気にとられていた。
「本当は、水仕事は一人だけじゃなくて、下級の……それこそ、例えば都の商家の子とか、私みたいにあまり身分の高くない妓女達でするものだし、そもそも今までは後宮の宮女達の仕事でもあったけど……あいつら、勝手にあなたに押し付けて……、……あいつら、あなたが一人きりで何度も衣装を運んでいるのを遠くから見て、笑ってた……ここで私が出たら、次にどうなるか、なんて考えちゃって……、力が無くて、言い訳ばっかりでごめん……」
 歯痒そうに、そして気まずそうに、斜め下に目を伏せながら潤寿が言葉を続ける。
「湯浴みには、まだ何とか間に合うと思う。もうあいつらは部屋にいる頃よ。……雪英の分の夕餉をちょっとでも取っておこうと思ったけど、あいつらに捨てられて……。ごめんね。とにかく、早く戻ろう? 明日は、私と一緒に早く食堂に行きましょう。配膳の仕事は私も一緒にするから。……私は私で、別の仕事があるから雪英とずっと一緒にはいられなくて、凄く心配だけど……私には、あいつらの見ていない所でしか手助けができなくて……なんて、これだって言い訳よね。本当に助けたいなら、そんなの気にせず傍にいるべきだもの。口先ばっかりで、ごめん……」
 教坊では――正確に言えばそもそもこの国全土では、生まれついた身分が何よりも優先される。実家が多額の銀を教坊へ納めている令嬢達に、家柄で劣る上に宮女出身の潤寿が歯向かう事は出来ない。
 相手がその気になれば潤寿にも処罰が下されて、雪英の立場も更に弱くなる。
 身分より実力を重視する女官長ですらも、この伝統的な身分制度は守っている。そこに私情を挟む事はない。

「せめて……せめて少しでも、雪英の辛さを減らせたら、って……ある意味一番卑怯かもしれないけど、私は雪英の味方だって事だけは覚えていてほしいの。あなたが酷い仕打ちを受けるのを、見ているだけしか出来なかったとしても、私はそれに加わりたくない。見ているだけの存在も同罪だって、わかってる……虫の良い話だってわかってる……ただ、私は……――」

 あいつらとは違う。そう言いかけた言葉は、声が付く前に消えた。

 きつい仕打ちを受けている相手をその場で救えない以上、たとえ直接関わっていなくても、実質的には加担しているのと同じだ。
 いくら心の中で批難していても、無視や嘲笑を浴びせる少女達と変わらない。それをわかっているからこそ、言葉がしどろもどろになってしまう。
 自分が卑怯だという事も、自分の立場や居場所を守りたい想いも感じている。どうにも言葉にし辛い気まずさで、どんな顔をしていいかわからない。
 潤寿のその複雑な感情は、風に乗って雪英の心の中に静かに届いていた。

「……………――」
「……、雪英?」
 一言も話さず立ち尽くしている雪英の姿に、潤寿は不意に口を噤んで正面を見上げた。
 月明かりだけが頼りの暗い渡り廊下で、雲が広がってしまうと相手の顔もよく見えない。何も言わずにただ静かに聞いている雪英が何を思っているのか不安で、気を悪くしているのかもしれないと思った。
 だが、潤寿のその心配とは裏腹に、雪英の中には別の感情が浮かび上がっていた。

「いいえ……、潤寿。ありがとう。あなたの存在が、私を救い出してくれているわ……。卑怯なんかじゃない…………あなたは、とても綺麗で強い人……」

 鈴の音のように控えめで可憐な声が、薄暗い闇の中で小さく言葉を紡ぐ。
 表立って助けられない歯痒さを痛感しながら、それでも自分の信念を曲げずに真摯な想いを向けてくれた潤寿の存在が、取り留めのない孤独の中で聞こえた一筋の声のようで。
 曇り空の向こう側に光る、一点の星が来てくれたように思えて。その救いが、たまらなく申し訳なくて。

「あなたがとても眩しくて優しい人だという事を、私は知っているわ……。私の事で、あなたが気を病んでしまう必要なんてないの……。あなたは私を助けてくれた……だから……――」
 覆い隠すように広がっていた雲の合間から、月がまたゆっくりと顔を出す。
 灯りのない空間で、この世から隠れていたようなか細い少女の輪郭を確かに照らし出していく。
「――ありがとう、潤寿」
 静かに紡がれた言葉と共に、雪解けのような笑みが咲く。
 漂い流される小舟のような自分に道標をくれようとしている、そんな優しさに対する申し訳なさと感謝から自然に溢れ出た、儚くも穏やかな微笑みだった。

(…………!)
 月明かりが雪英を照らしたその瞬間、パチパチと瞬いていた潤寿の両目が見開く。それと共に、ハッと息を呑んだ喉の奥が静かに震えた。
 その吐息も感情も、胸の中で次々と湧き起こってははち切れて、人知れず全身に広がっていく。表に出る前に、無意識の内にその感情達を抱き締めた。

 慈しむように目を細めた、真っ白に輝くか細い姿。人ではなく天からの使者だと言われても信じてしまいそうなほど、あまりにも美しくて目が眩んでしまう。
 無力さを感じる自分を救ってくれたかのような微笑みが、月の下で静かに揺れる白い花のように儚い。
 その姿がこの世のものとは思えないほど神々しいとすら感じて、そして愛おしくて――。

「…………? 潤寿…………?」
「…………ううん。ほんのちょっとでも心から笑えたら、こっちの勝ちよ」
 無意識の内にポツリと呟いた潤寿の顔もまた、先程までとは違った表情にいつの間にか変えられていた。
 それは青白い月明かりで微かに照らされたものの、すぐにまた暗闇に隠されてしまったが。

 明るく気丈に振る舞っている普段の笑顔や、悔しさに怒りを感じていた表情ではない。
 ただ行き場のない愛しさを持て余した静かな微笑みが、人知れず確かに、そこに浮かんでいた。
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