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序章-13月に舞う月は
3 舞う花達
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翌朝、宮妓達は朝餉を済ませ、舞の稽古の為に教坊の広場へと集まった。
いち早く自分達の身支度を整えた宮妓達の中で、雪英は潤寿に助けてもらいながら炊事や衣装の準備を行い、朝餉もままならないままに慌しく稽古場へ合流した。
既に創られている無言の壁に押しやられ、身の置き場のない気まずさを胃の奥に抱えながら。
全員が揃った所で、今日は新入りの雪英も稽古に混ざり、いずれ後列に並ぶ為に舞踊を学ぶ事となった。
「雪英。舞を習っていた事はありますか」
前に立つ蓮玉が、厳粛な声でそう尋ねた。
全員が集まっている中で名前を呼ばれた雪英は肩をビクリと上下させ、おずおずと目を伏せた。
「…………いいえ……ほんの少し、指導を受けたのみで…………あまり、嗜んではおりませんでした…………」
鈴のような細い声で、ぼそりと雪英がそう答える。刹那、クスクスと嘲笑う声が波のように広がった。
その連鎖に唯一抗議するかのように、潤寿だけはムッとした顔で眉間に皺を寄せていた。
郊外出身とはいえ、元は中流貴族の令嬢という事もあり、当然ながら雪英にも舞踊や楽器を習う機会はあった。
だが、幼い頃から病弱で伏せる事が多かったため、激しい動きを必要とされる舞を習い続ける事が出来なかった。だから、舞踊は基礎すらもあまり馴染みが無い。
座ったままでも出来る琴と筝も幼い頃に習いかけたが、長時間の練習が出来ないため、それなりにしか習得できなかった。
今まではそれを気にしないようにしていたが、この場に来た事で雪英は自身のつまらなさを改めて恥じた。
貴族の娘でありながら、芸事が――特に舞踊が出来ないという事は、この国では無教養も同然なのだから。
(…………本当に……捨て去っても惜しくない、何の取り得もない身であるのに…………)
いっそのこと、このまま消えてしまいたい。
居た堪れなさと恥ずかしさから、そんな想いが心臓にズシンと圧し掛かった。
うなだれている雪英の様子に特段の反応を見せず、嘲笑の波が広がる宮妓達の輪を一瞥して蓮玉が後ろへ下がる。
代わりに指導役の女官が舞踊の稽古を始め、宮妓達は各々と散らばった。
始めは基礎の稽古から入り、それから数人に分かれて群舞の練習へと入る。
出自や実力によって出番が異なるため、彼女達はそれぞれの課題を練習し、時には指導役の女官に叱責を受けながら練習を続ける。
器楽が奏でる音の中、妓女達のしなやかな動きが時と共に流れていった。
本格的な演舞を初めて習う雪英も、先輩である妓女達の所作を見ながら静かに身を動かし、せめて邪魔にならないようにと『型』を覚えていく。
本人は全く自信の無い顔で控えめに動いていたが、その気持ちに反して指先から爪先までが自然に音を紡いでいた。
風が吹けば倒れそうなほど細くて白い体は、銅鑼や笛の音に導かれ、他の宮妓達の舞踊の中に静かに溶け込んでいく。――その所作に、自信も自覚も無いままに。
(………………!)
チラチラと雪英の様子を伺っていた潤寿の顔が、時間が進むにつれて心配から驚きへと塗り替えられていく。
初心者とは思えないほどしなやかで優美な動きに視線が縫い止められ、危うく自分が間違えてしまいそうになる。それが何度も続き、次第に自分よりも雪英の動きに集中してしまっていた。
だが、自分の斜め後ろにいた潤寿の様子など、雪英には知る由も無い。
この光景を遠くから眺めていた蓮玉が自分をジッと見つめていた事すらも、物憂げな瞳には映されていなかった。
正午までの稽古が終わり、数刻の休息の後に再開され、夕刻には独舞の稽古が始まった。
その名の通り独りで舞うもので、ここでは選ばれた者にしか習得が許されていない。独舞の指南は女官長である蓮玉が行うが、その指導は特に厳しい事で知られている。
その厳しさと恐ろしさを物語るように、この時間になると重々しい空気が教坊全体を包み込む。指導される予定の宮妓達は緊張した面持ちで出番を待ち、そうでない残りの妓女達は着まずそうな顔で唇を結んでいる。
その指導を知らない雪英だけは、憂いを帯びた表情のまま一人きり俯き続けていた。
笛と筝の演奏が始まり、厳かな音色と共に中央で少女が舞い始める。白い上衣を纏った右腕を天に伸ばし、同時に左脚も宙に浮かせた。
独舞役に選ばれているのは、ここにいる妓女達の中でも特に父親の身分が高い、主に文官を務める中級貴族の娘達だ。
無論、出自だけでなく実力も重視されるが、そもそも幼い頃から芸事を仕込まれるには裕福でないと難しい。だから必然的に、独舞を教わるほど実力のある妓女は、名家の令嬢ばかりになる。
彼女達の父親も、娘を是非にと内教坊に頼み込み、より良い花嫁修業を受けられる事を望んでいる。だからこそ、彼女達に対する指導には特に厳しい熱が入っていた。
「指先が伸びていませんよ。首の短い不恰好な姿を高貴な方々にお見せしたいですか? 爪先は遊んでいるのですか? それとも沓が合わなくなりましたか?」
淡々と、静かだがしっかり通る声で、素朴な疑問を投げかけるかのように蓮玉が言葉を放つ。
ただ見ているだけでは気付かないほどの些細な手抜きも間違いも、彼女は一切容赦しない。
たった一つの小さな動きも決して見逃さない鋭い眼光は、まだ若い少女達の体を確実に射抜いている。
「そこは以前にも教えた筈です。何故まだできないのですか?」
蓮玉の静かで厳かな声に、少女はビクッと怯えたように瞬きしながらも踊り続けた。
決して怒鳴りつける事はせず、声を荒げる事もなく的確に問いかけ、指摘する。だが、蓮玉の淡々とした声色は、かえって少女達を萎縮させる。慌ててしまう事でまた間違え、それが三度続いた時、蓮玉が手で合図して器楽の演奏を止めた。
「止めます」
ただ一言告げたきり、中心で疲れ果てて息を切らしている少女には見向きもせず、無言のまま蓮玉は次を促す。静かに打ちのめされた少女は、不甲斐なさに泣きそうな顔をしながら壁際まで下がり、息を切らしながらも次の少女の舞に目を向けた。
王都やその周辺にも存在するような一般の教坊とは違い、内教坊には王族や両民を優美な舞で楽しませるという使命がある。時には異国から来た有人をもてなす場でも活躍する程に、宮妓達はこの国の教養を示す責務を担っている。その重大な誇りと自尊心が、蓮玉の厳しい叱責に込められている。
同じ演目で舞う少女もいれば、違う課題を充てられている少女もいる。それぞれが音楽に合わせて全身で舞い、その難しさに段々と動きが乱れ、蓮玉から『質問』を投げられて焦りながら舞う。厳しく恐ろしい指導役の存在を気にしてしまい、疲れもあって最後までこなせない。
怒っているともいないともとれる無表情な顔が、まるで責め立てているかのように見えてしまう。それを意識してしまい、普段であれば出来た筈の事を失敗してしまう。
その精神的な弱さすらも蓮玉にとっては改善してほしい点だが、うら若く未熟な少女達には難しい話だった。
「あなたが最後ですね、愉琳。今日は最後まで到達出来ると信じていますよ」
その声を受けて、この教坊で最も家柄の良い令嬢である呉愉琳が中央へ立つ。昨日、来たばかりの雪英の前に立ち真っ先に冷たい悪意を向けた、あの令嬢だった。
派手な化粧を施した華やかな顔には、緊張が滲み出ている。真剣な面持ちで、始まった笛の音に合わせて大きな裾を翻し、細い体をふわりと回転させた。
今までの宮妓達よりも明らかに上手く、柔らかい体を存分に使って正確に舞っている。出自の良さから来る高慢な自尊心を持っているが、それに裏付けされる程の技量も確かにあった。
だが、それだけでは蓮玉に認めさせるにはまだ足りない。それだけでなく、この舞踊は素早く激しい足捌きが求められ、覚えるだけでもとても難しい。
速さを増す音楽に反して、体の動きが徐々に鈍くなる。中盤からは体力が奪われていき、疲れている事が傍目にもわかるほどに、足がもつれそうになっている。
「足が動いていませんよ。以前痛めたという右足はまだ治りませんか?」
「っ、はい……」
「痛めていたのは左足と聞きましたが?」
明らかに皮肉だとわかる声色の指摘に、愉琳はハッと目を見開き、悔しげに唇を噛んで俯く。寄り合った眉根が震え、小さな顔には何に対するものかわからない屈辱感が溢れていた。
「あなたのお父様からは、来週の花見の宴であなたの独舞の場を設けてほしいと懇願されておりますが……肝心のあなたがそれでは、こちらは対処の仕様がありません。恥をかいても構わないのであれば、引き続きあなたにこの題目を任せますが。荷が重いようであれば身を引く事もまた、自分を正しく見つめられるという美しさに繋がります」
どうにか最後まで中断されずに終える事が出来たものの、なんとか踊りきれたというのみで、充分に習得出来たとは言い難い。重々しい無言の指摘が、愉琳に嫌でもそれを痛感させた。
「あなたは歩き始めた頃から、ご両親の手立てにより舞踊を続けてきた身です。その想いを無駄にしたいのですか? 十五年以上舞を習っていながら未だにこれを完璧にこなせないのであれば、これ以上の見込みは無いと思っても致し方ありません。もう少し易しい物に替えた方があなたの為、ひいてはあなたのお父様の為ですが、あなたはどうしたいですか?」
無機質な声で紡がれる言葉は、怒鳴られるよりも余程心に刺さる。
「……より一層の修練を重ね、精進致します」
反論する事も出来ず、震える息と共に言葉を繋ぎ、愉琳は俯いたまま密かに唇を噛み締めた。
舞を習っている期間が長ければ長いほど、求められるものの程度も高くなる。自尊心が強い分、『出来ない』という事が悔しい。自分ではもう限界だと、それを認めたくない。その悔しさが雰囲気にも滲んでいる。
そんな風景を遠目から見つめ、華やかな世界の厳しすぎる光景に雪英は陰ながら圧倒されていた。
愉琳や他の先輩宮妓に対する心配のような居た堪れない気持ちで、自分とは縁遠い世界を覗いているような遠い気持ちでいたのだが――。
「……雪英。前へ出て、今日どれほど習得できたか見せて頂けますか?」
瞬間、空気が止まる。名前を呼ばれた雪英本人も、何が起きたのかすぐには理解出来なかった。
「…………、あ…………」
「適性や課題を見極める為に、あなたの所作を披露して下さい。思うままに、今日学んでいた演目で構いません」
基礎の動きがどれほど習得できているか、それを見る為にという理由で蓮玉は雪英を呼んだ。
隣に並んでいた潤寿が、心配そうに雪英を見る。雪英本人も戸惑っていたが、立ち尽くしているわけにもいかず、言われるがままにおずおずと前へ出た。
没落した貧乏貴族の娘の拙い動きを見て、嗤ってやりたい。そんな気持ちから、独舞の指導に打ちのめされていた宮妓達はあからさまに鼻で笑い、他の妓女達も密かに冷笑していた。ただ一人、複雑な心配を抱いている潤寿だけを除いて。
細すぎる体を貫き折ってしまいそうな勢いで、全員の視線が雪英一人に集中する。
琴の演奏が始まり、雪英の腕が動く。――その刹那、陰湿めいた嘲笑が一瞬で消え去った。
「………………!」
深い袖が地面をさらうしなやかな動き、柔らかく反る背中、静かな気品を纏う身のこなし。生まれ持った気品が、そのまま舞踊に表れているような穏やかな型。
雪英のそれは、ただの妓女どころか宮妓に確実に向いている。特に、高度な舞を専門とする『舞手』となる素養が充分にある。
舞踊が最も重要な伝統的教養とするこの国では、『舞手』となれば妓女としての地位が――本人の身分や名声が格段に上がり、重宝される。これまでに舞手となった妓女は数少ないが、雪英にはその可能性が充分にある。
それを、ここにいる誰もが感じ取ってしまった。だからこそ、ここにいる全員が雪英を初めて見た時以上に息を呑んだ。
昨日とは違う感情が否応なしに彼女達の心を駆け抜けて、多かれ少なかれ跡を残した。雪英本人の想いを素通りして、本人がそれを知らないにも関わらず。
心の中のざわつきを持て余している妓女達の中で、潤寿だけは昨日の懸念と忠告が――正確に言えば今日新たに感じた心配が現実の物になる予感を、密かに察してしまっていた。
「…………わかりました。もう結構です。それでは、今日はここまでにします」
何かを含んだような表情を一瞬だけ見せつつ、すぐにいつもの無表情で蓮玉がそう告げ、この日の舞踊の稽古は終わった。
雪英としては、拙い基礎の動作を危なげなく終えられて良かった、という小さな安堵を感じる程度にしか思っていなかった。
だから、自分を見る周りの目が先程までとは違う事にも、気づく事が出来なかった。
いち早く自分達の身支度を整えた宮妓達の中で、雪英は潤寿に助けてもらいながら炊事や衣装の準備を行い、朝餉もままならないままに慌しく稽古場へ合流した。
既に創られている無言の壁に押しやられ、身の置き場のない気まずさを胃の奥に抱えながら。
全員が揃った所で、今日は新入りの雪英も稽古に混ざり、いずれ後列に並ぶ為に舞踊を学ぶ事となった。
「雪英。舞を習っていた事はありますか」
前に立つ蓮玉が、厳粛な声でそう尋ねた。
全員が集まっている中で名前を呼ばれた雪英は肩をビクリと上下させ、おずおずと目を伏せた。
「…………いいえ……ほんの少し、指導を受けたのみで…………あまり、嗜んではおりませんでした…………」
鈴のような細い声で、ぼそりと雪英がそう答える。刹那、クスクスと嘲笑う声が波のように広がった。
その連鎖に唯一抗議するかのように、潤寿だけはムッとした顔で眉間に皺を寄せていた。
郊外出身とはいえ、元は中流貴族の令嬢という事もあり、当然ながら雪英にも舞踊や楽器を習う機会はあった。
だが、幼い頃から病弱で伏せる事が多かったため、激しい動きを必要とされる舞を習い続ける事が出来なかった。だから、舞踊は基礎すらもあまり馴染みが無い。
座ったままでも出来る琴と筝も幼い頃に習いかけたが、長時間の練習が出来ないため、それなりにしか習得できなかった。
今まではそれを気にしないようにしていたが、この場に来た事で雪英は自身のつまらなさを改めて恥じた。
貴族の娘でありながら、芸事が――特に舞踊が出来ないという事は、この国では無教養も同然なのだから。
(…………本当に……捨て去っても惜しくない、何の取り得もない身であるのに…………)
いっそのこと、このまま消えてしまいたい。
居た堪れなさと恥ずかしさから、そんな想いが心臓にズシンと圧し掛かった。
うなだれている雪英の様子に特段の反応を見せず、嘲笑の波が広がる宮妓達の輪を一瞥して蓮玉が後ろへ下がる。
代わりに指導役の女官が舞踊の稽古を始め、宮妓達は各々と散らばった。
始めは基礎の稽古から入り、それから数人に分かれて群舞の練習へと入る。
出自や実力によって出番が異なるため、彼女達はそれぞれの課題を練習し、時には指導役の女官に叱責を受けながら練習を続ける。
器楽が奏でる音の中、妓女達のしなやかな動きが時と共に流れていった。
本格的な演舞を初めて習う雪英も、先輩である妓女達の所作を見ながら静かに身を動かし、せめて邪魔にならないようにと『型』を覚えていく。
本人は全く自信の無い顔で控えめに動いていたが、その気持ちに反して指先から爪先までが自然に音を紡いでいた。
風が吹けば倒れそうなほど細くて白い体は、銅鑼や笛の音に導かれ、他の宮妓達の舞踊の中に静かに溶け込んでいく。――その所作に、自信も自覚も無いままに。
(………………!)
チラチラと雪英の様子を伺っていた潤寿の顔が、時間が進むにつれて心配から驚きへと塗り替えられていく。
初心者とは思えないほどしなやかで優美な動きに視線が縫い止められ、危うく自分が間違えてしまいそうになる。それが何度も続き、次第に自分よりも雪英の動きに集中してしまっていた。
だが、自分の斜め後ろにいた潤寿の様子など、雪英には知る由も無い。
この光景を遠くから眺めていた蓮玉が自分をジッと見つめていた事すらも、物憂げな瞳には映されていなかった。
正午までの稽古が終わり、数刻の休息の後に再開され、夕刻には独舞の稽古が始まった。
その名の通り独りで舞うもので、ここでは選ばれた者にしか習得が許されていない。独舞の指南は女官長である蓮玉が行うが、その指導は特に厳しい事で知られている。
その厳しさと恐ろしさを物語るように、この時間になると重々しい空気が教坊全体を包み込む。指導される予定の宮妓達は緊張した面持ちで出番を待ち、そうでない残りの妓女達は着まずそうな顔で唇を結んでいる。
その指導を知らない雪英だけは、憂いを帯びた表情のまま一人きり俯き続けていた。
笛と筝の演奏が始まり、厳かな音色と共に中央で少女が舞い始める。白い上衣を纏った右腕を天に伸ばし、同時に左脚も宙に浮かせた。
独舞役に選ばれているのは、ここにいる妓女達の中でも特に父親の身分が高い、主に文官を務める中級貴族の娘達だ。
無論、出自だけでなく実力も重視されるが、そもそも幼い頃から芸事を仕込まれるには裕福でないと難しい。だから必然的に、独舞を教わるほど実力のある妓女は、名家の令嬢ばかりになる。
彼女達の父親も、娘を是非にと内教坊に頼み込み、より良い花嫁修業を受けられる事を望んでいる。だからこそ、彼女達に対する指導には特に厳しい熱が入っていた。
「指先が伸びていませんよ。首の短い不恰好な姿を高貴な方々にお見せしたいですか? 爪先は遊んでいるのですか? それとも沓が合わなくなりましたか?」
淡々と、静かだがしっかり通る声で、素朴な疑問を投げかけるかのように蓮玉が言葉を放つ。
ただ見ているだけでは気付かないほどの些細な手抜きも間違いも、彼女は一切容赦しない。
たった一つの小さな動きも決して見逃さない鋭い眼光は、まだ若い少女達の体を確実に射抜いている。
「そこは以前にも教えた筈です。何故まだできないのですか?」
蓮玉の静かで厳かな声に、少女はビクッと怯えたように瞬きしながらも踊り続けた。
決して怒鳴りつける事はせず、声を荒げる事もなく的確に問いかけ、指摘する。だが、蓮玉の淡々とした声色は、かえって少女達を萎縮させる。慌ててしまう事でまた間違え、それが三度続いた時、蓮玉が手で合図して器楽の演奏を止めた。
「止めます」
ただ一言告げたきり、中心で疲れ果てて息を切らしている少女には見向きもせず、無言のまま蓮玉は次を促す。静かに打ちのめされた少女は、不甲斐なさに泣きそうな顔をしながら壁際まで下がり、息を切らしながらも次の少女の舞に目を向けた。
王都やその周辺にも存在するような一般の教坊とは違い、内教坊には王族や両民を優美な舞で楽しませるという使命がある。時には異国から来た有人をもてなす場でも活躍する程に、宮妓達はこの国の教養を示す責務を担っている。その重大な誇りと自尊心が、蓮玉の厳しい叱責に込められている。
同じ演目で舞う少女もいれば、違う課題を充てられている少女もいる。それぞれが音楽に合わせて全身で舞い、その難しさに段々と動きが乱れ、蓮玉から『質問』を投げられて焦りながら舞う。厳しく恐ろしい指導役の存在を気にしてしまい、疲れもあって最後までこなせない。
怒っているともいないともとれる無表情な顔が、まるで責め立てているかのように見えてしまう。それを意識してしまい、普段であれば出来た筈の事を失敗してしまう。
その精神的な弱さすらも蓮玉にとっては改善してほしい点だが、うら若く未熟な少女達には難しい話だった。
「あなたが最後ですね、愉琳。今日は最後まで到達出来ると信じていますよ」
その声を受けて、この教坊で最も家柄の良い令嬢である呉愉琳が中央へ立つ。昨日、来たばかりの雪英の前に立ち真っ先に冷たい悪意を向けた、あの令嬢だった。
派手な化粧を施した華やかな顔には、緊張が滲み出ている。真剣な面持ちで、始まった笛の音に合わせて大きな裾を翻し、細い体をふわりと回転させた。
今までの宮妓達よりも明らかに上手く、柔らかい体を存分に使って正確に舞っている。出自の良さから来る高慢な自尊心を持っているが、それに裏付けされる程の技量も確かにあった。
だが、それだけでは蓮玉に認めさせるにはまだ足りない。それだけでなく、この舞踊は素早く激しい足捌きが求められ、覚えるだけでもとても難しい。
速さを増す音楽に反して、体の動きが徐々に鈍くなる。中盤からは体力が奪われていき、疲れている事が傍目にもわかるほどに、足がもつれそうになっている。
「足が動いていませんよ。以前痛めたという右足はまだ治りませんか?」
「っ、はい……」
「痛めていたのは左足と聞きましたが?」
明らかに皮肉だとわかる声色の指摘に、愉琳はハッと目を見開き、悔しげに唇を噛んで俯く。寄り合った眉根が震え、小さな顔には何に対するものかわからない屈辱感が溢れていた。
「あなたのお父様からは、来週の花見の宴であなたの独舞の場を設けてほしいと懇願されておりますが……肝心のあなたがそれでは、こちらは対処の仕様がありません。恥をかいても構わないのであれば、引き続きあなたにこの題目を任せますが。荷が重いようであれば身を引く事もまた、自分を正しく見つめられるという美しさに繋がります」
どうにか最後まで中断されずに終える事が出来たものの、なんとか踊りきれたというのみで、充分に習得出来たとは言い難い。重々しい無言の指摘が、愉琳に嫌でもそれを痛感させた。
「あなたは歩き始めた頃から、ご両親の手立てにより舞踊を続けてきた身です。その想いを無駄にしたいのですか? 十五年以上舞を習っていながら未だにこれを完璧にこなせないのであれば、これ以上の見込みは無いと思っても致し方ありません。もう少し易しい物に替えた方があなたの為、ひいてはあなたのお父様の為ですが、あなたはどうしたいですか?」
無機質な声で紡がれる言葉は、怒鳴られるよりも余程心に刺さる。
「……より一層の修練を重ね、精進致します」
反論する事も出来ず、震える息と共に言葉を繋ぎ、愉琳は俯いたまま密かに唇を噛み締めた。
舞を習っている期間が長ければ長いほど、求められるものの程度も高くなる。自尊心が強い分、『出来ない』という事が悔しい。自分ではもう限界だと、それを認めたくない。その悔しさが雰囲気にも滲んでいる。
そんな風景を遠目から見つめ、華やかな世界の厳しすぎる光景に雪英は陰ながら圧倒されていた。
愉琳や他の先輩宮妓に対する心配のような居た堪れない気持ちで、自分とは縁遠い世界を覗いているような遠い気持ちでいたのだが――。
「……雪英。前へ出て、今日どれほど習得できたか見せて頂けますか?」
瞬間、空気が止まる。名前を呼ばれた雪英本人も、何が起きたのかすぐには理解出来なかった。
「…………、あ…………」
「適性や課題を見極める為に、あなたの所作を披露して下さい。思うままに、今日学んでいた演目で構いません」
基礎の動きがどれほど習得できているか、それを見る為にという理由で蓮玉は雪英を呼んだ。
隣に並んでいた潤寿が、心配そうに雪英を見る。雪英本人も戸惑っていたが、立ち尽くしているわけにもいかず、言われるがままにおずおずと前へ出た。
没落した貧乏貴族の娘の拙い動きを見て、嗤ってやりたい。そんな気持ちから、独舞の指導に打ちのめされていた宮妓達はあからさまに鼻で笑い、他の妓女達も密かに冷笑していた。ただ一人、複雑な心配を抱いている潤寿だけを除いて。
細すぎる体を貫き折ってしまいそうな勢いで、全員の視線が雪英一人に集中する。
琴の演奏が始まり、雪英の腕が動く。――その刹那、陰湿めいた嘲笑が一瞬で消え去った。
「………………!」
深い袖が地面をさらうしなやかな動き、柔らかく反る背中、静かな気品を纏う身のこなし。生まれ持った気品が、そのまま舞踊に表れているような穏やかな型。
雪英のそれは、ただの妓女どころか宮妓に確実に向いている。特に、高度な舞を専門とする『舞手』となる素養が充分にある。
舞踊が最も重要な伝統的教養とするこの国では、『舞手』となれば妓女としての地位が――本人の身分や名声が格段に上がり、重宝される。これまでに舞手となった妓女は数少ないが、雪英にはその可能性が充分にある。
それを、ここにいる誰もが感じ取ってしまった。だからこそ、ここにいる全員が雪英を初めて見た時以上に息を呑んだ。
昨日とは違う感情が否応なしに彼女達の心を駆け抜けて、多かれ少なかれ跡を残した。雪英本人の想いを素通りして、本人がそれを知らないにも関わらず。
心の中のざわつきを持て余している妓女達の中で、潤寿だけは昨日の懸念と忠告が――正確に言えば今日新たに感じた心配が現実の物になる予感を、密かに察してしまっていた。
「…………わかりました。もう結構です。それでは、今日はここまでにします」
何かを含んだような表情を一瞬だけ見せつつ、すぐにいつもの無表情で蓮玉がそう告げ、この日の舞踊の稽古は終わった。
雪英としては、拙い基礎の動作を危なげなく終えられて良かった、という小さな安堵を感じる程度にしか思っていなかった。
だから、自分を見る周りの目が先程までとは違う事にも、気づく事が出来なかった。
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