私は誰にも愛されていない悪役妻を守るーー大玄王朝の異聞録

tairo

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第三十一話  大玄守天閣

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「彼は...なぜ五千両だけなんだ?」
単岳は手の中の銀票を見て、罵りたい気持ちを抑え、恐怖の気配を感じて口をつぐんだ。
「完全な本なら一万両出すが、断片なら出さない。」林承天はボロ布を小さな四角に畳んだ。
単岳は口を開けたまま、確かにその通りだと思い、自分が林承天の罠に嵌まったような気がした。
「ここまで話したんだから、名前を教えてくれないか?友達になろう。」単岳は白い歯を見せて笑った。
長年の人を見る目で、この神秘的な青年の品性が良いとわかっていた。江湖を渡るのは殺し合いではなく、人付き合いだ。友達が多いほど道も広がり、困った時に助け合える。
「葉北安だ。」林承天は断らず、江湖で使っている偽名を告げた。
北武盟は北方武林における頂点勢力であり、その支部は北方の主要な都市に広がっている。彼らと友好関係を築くことは悪いことではなく、将来蛮族が襲来した際には、これが蛮族に対する強力な抵抗勢力となるだろう。
「単岳だ。」単岳は拱手の礼をした。
葉北安?この名前はさらに耳馴染みがある。見た目も聞いたこともあるような気がするが、どうしても相手が誰なのか思い出せない。奇妙だ。
「単盟主。」
「おお、どうもどうも。」
単岳は本をしまい、目を細めて言った。
「こんなに良い孤本を本当に買わないのか?買って帰ってしっかり勉強すれば、それはそれで素晴らしいことだと思うが。」
「いらない、自分で持っておいてくれ。」
林承天は白い目を向けた。前世で多くの「先生」から学んできた彼に、こんなものが必要だろうか?
「ああ、この機会を逃したらもう二度とないぞ!」単岳は立ち上がり、お尻を叩きながらわざとらしく惜しむふりをした。
「単盟主、お気をつけて。」林承天は軽く笑った。
「さあ~、行くぞ」
単岳はまたため息をつくと、自分の焼き鳥を手に持ち、虚空を踏んで天武城の方へと飛び去った。
「殿下、あの方はどなたで?」単岳が遠ざかってから、黄婉児が好奇心に目を輝かせて尋ねた。
「北武盟の盟主、単岳だ」林承天は立ち上がりながら答えた。
北武盟!
程海は驚きを隠せなかった。彼はかつて塞北軍に所属しており、北武盟の名は当然知っていた。
名だたる北武盟の盟主が、まさかあのような風体だとは思いもよらなかった。
「北武盟…」
黄婉児が呟く。彼女も祖父から渡された『江湖名录』で北武盟に関する記述を少し読んだことがある程度で、深い知識は持っていない。
「程海、この刀法はお前にぴったりだ。本王を失望させるな」
林承天は小さく畳んだ布を差し出した。
程海は驚愕し、慌てて片膝をついた。
「このような貴重な剣技、どうか殿下、よくお考えください!」
これは殿下が五千両もの銀を費やして手に入れたものだ。自分のような武人が受け取るなど、とても恐れ多い。
「私が持てと言ったのだ。お前が習得できなかったら、罰を与えるぞ。」
林承天の声音は強く、有無を言わせぬ威圧感を帯びていた。
「ありがたき幸せ!必ずや殿下のご期待に応えてみせます!」
程海は主の気性をよく理解しており、恭しく両手で小さな木札を受け取った。
この小さな出来事を終え、一行は再び野営を楽しみ、やがて夕焼けが空を染める頃、馬車はゆるりと天武城へと戻っていった。
「殿下、鎮国公府に到着いたしました。」
馬車の中で、林承天はそっと黄婉児の小さな手を離し、静かに囁く。
「すぐに、お前を迎えに行く。」
長い睫毛がかすかに震え、瞳の奥に喜びと恥じらいが入り混じる。小さくうつむきながら、黄婉児は柔らかな声で答えた。
「婉児は、いつまでも殿下をお待ちしております……」
林承天は自分の頬を指さし、まるでならず者のような笑みを浮かべながら言った。
「別れのキスのひとつもないのか?」
「殿下……」
黄婉児はますます恥ずかしくなり、小さな頭をさらに深くうつむかせる。
――殿下は本当に、いつも意地悪ばかり……。
そんな様子に、林承天もさすがにそれ以上からかうのをやめようとした――その刹那、頬にひんやりとした感触が触れた。
一瞬の出来事に呆ける間もなく、気がつけば黄婉児はすでに真っ赤になった耳を隠すように、そそくさと馬車を降りていった。
馬車の中には、彼女の甘い香りだけがふわりと漂い、名残惜しげに揺らめいていた。
林承天は微笑み、穏やかに呟く。
「程海、屋敷へ戻るぞ。」
「はっ、殿下!」

楚王府
「殿下、剣をお戻しいたしました。」
符生は両手で長剣を捧げ、恭しく頭を下げる。
林承天の視線が鋭く光る。
「――龍淵。」
林承天の冷ややかな瞳が鋭く光り、低く一喝する。
「――龍淵。」
すると、まるで歓喜するかのように剣が震え、次の瞬間、鞘を飛び出し彼の手の中へと吸い込まれるように収まった。
潜龍在淵、騰げば九天。
隠災と符生の瞳孔が同時に震えた。
この瞬間の林承天は、まるで世を超越した剣仙のごとく、傲然とその場に立っていた。剣の道を極めた者でなくとも、彼を包み込む恐るべき剣気を感じ取ることができた。
それは、すべてを呑み込むかのような圧倒的な威圧感。周囲の空間すら、かすかに歪んで見えるほどだった。
「――カッ!」
龍淵が鞘へと戻ると、林承天の雰囲気は一瞬にして変わる。
神韻を隠し、どこか人畜無害な穏やかさを纏った、いつもの姿へと戻っていた。
――やはり、剣湖での長い鍛錬を経て、龍淵はようやくかつての鋭さを取り戻したようだ。
思い返せば、初めて龍淵を手にした時は、ただの錆びついた鉄塊かと思い、危うく捨ててしまうところだった。
林承天は剣を大切に収めると、ふと符生の手元に目をやる。
そこには、まだ癒えていない剣傷の痕が残っていた。
「お前、あの老人と手合わせしたのか?」
「はい、殿下。」
「動くな。まずは体内に残ったあの老人の剣気を消してやる。」
林承天は掌に真気を凝縮し、一気に符生の胸元へと押し当てた。
「ぐっ……!」
低く苦しげな呻き声が漏れ、符生の口元から古い淤血が滲み出る。
体内に残留していた剣気は、林承天の圧倒的な真気によって瞬く間に押し潰され、かき消された。
しばらくすると、符生の体は驚くほど軽くなり、まるで重りが取れたかのような解放感を覚えた。
「感謝いたします、殿下!」
療傷丹を服用し、隠災と林承天の運気による補助を受けたことで、符生の状態は瞬く間に全盛へと戻っていく。
「隠災、狼首と鬼面はすでに姑蘇へ到着しているか?」
「殿下、ご報告いたします。すでに到着し、巳蛇らと合流しました。現在、例の東瀛の浪人どもの行方を追っております。」
「宋王の者たちは、すでに商会の宿に分散して匿ってあります。」
「よし。すべての準備が整い次第、始めろ。一人も生かしておくな。」
林承天の双眸は冷たく光り、そこに宿るのは紛れもない殺意。
――あの件に関わった者も、勢力も、全て残らず清算してやる。
「承知いたしました。」
隠災は深く頭を垂れた。
殿下の盤上に、いよいよ駒が置かれ始める――。

大玄皇宮・守天閣
白衣の道袍が床に静かに垂れ、長い銀白の髪は冬の雪のごとく。
清澄なる瞳を持ち、年若い少年のような顔立ちの 呂問玄 は、穹頂の下で静かに座し、星々が煌めく夜空を見つめていた。
幾千もの夜をこうして過ごしただろうか。
星辰の流転を見守りながら、星天の力を借り、天下の未来を占い、大玄王朝の吉凶を推し量る。
そんな静寂を破るように、小道童がそっと囁いた。
「閣主、楚王殿下がお見えです。」
「楚王?またあの小僧か。」
呂問玄は小さくため息をつきながら、口元に微かな笑みを浮かべた。
呂問玄は、なんとも言えない苦笑を浮かべた。
林承天が天武に戻り、宮中に禁足されてからというもの、何かにつけてこの守天閣にやって来るようになった。曰く、「学問を学びに来た」――。
最初は興味深く思っていたが、次第に気づいた。この 生意気な小僧、学びに来たのではなく、完全に 自分を便利屋扱い しているのだと。
思い返せば、あの時が初めてだった。
長年の修行で培った心の静けさを、たった一人の弟子に乱され、思わず声を荒げそうになったのは――。
「……もう直接上がらせてやれ。」
拂塵を軽く払いつつ、呂問玄は深くため息をついた。
「かしこまりました。」
道童は恭しく一礼し、そのまま階下へと降りていった。
しばらくして、銀色の四爪龍袍 に身を包んだ林承天が、まるで自宅にでも帰ってきたかのように 堂々と 守天閣の階段を上がってきた。
「先生!お久しぶりです!」
そう言って、にこやかに礼を取る。
呂問玄も仕方なく立ち上がり、礼を返した。
「楚王殿下。」
二人の目が合う。
林承天は、この顔を見るたびに心の底から思うのだった。
――やっぱりこいつ、おかしい。
もうすぐ七十に手が届くというのに、顔は自分よりも若々しい。
これでは「仙人」と呼ばれるのも当然だ。
「さて、今日はどうしてこんなところへ?」
呂問玄は穏やかに問いかけた。
林承天はにやりと笑い、まるで世間話をするかのような気軽さで口を開いた。
「先生に、一つ占ってもらいたくて。」

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