東へ征(ゆ)け ―神武東征記ー

長髄彦ファン

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第十章 纏向の悲劇

第51話 天神の子 

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 日向ひむか軍は鏡を使った奇襲攻撃が成功し、ヤマト兵の戦意を喪わせるとともに、副将安日彦あびひこに重傷を負わせた。
 これに乗じて一気に攻勢をかけることも不可能ではなかった。
 だが軍師の椎根津彦しいねつひこは慎重だった。副将軍の道臣みちのおみも賛同した。
 知略では並ぶ者なき椎根津彦と、武勇無双の道臣が揃って言うのだから、口にこそ出さないが他将も同感であろう。
 椎根津彦の進言に従い、日向軍はぴたりと動きを止めた。
 そしてそれは正しかった。
 敵の戦意は明らかに低下したが、このまま勝てるかといえば、そう簡単には事が運ばないのがいくさである。
 ここは敵勢力のど真ん中で、地理にも不案内なうえに、伏兵がどこに潜んでいるかも分からなかった。
 そんな中で闇雲に突進するのは無謀に過ぎる。
長髄彦ながすねひこどのは風馳電掣ふうちでんせいの方。油断は禁物です」
 風馳電掣とは風の如く駆け、稲妻のような速さで攻撃するという中国のことわざである。
 そうした驚異的な勇者が一人でもいれば、圧倒的に不利な戦況でも簡単にひっくり返すことができるという意味だ。
 そのことは序盤は互角に戦った孔舎衛坂くさえのさかの戦いで、総大将の五瀬命いつせのみことが負傷したとたんに日向軍が総崩れとなったことでも明らかである。
「できるならこれ以上の無益な殺し合いは避けたい。〈クニ〉といってもしょせん同じ倭の民なのだ」
 磐余彦いわれひこにも無益な戦闘は避けたいという意識が強くあった。

 日向軍とヤマト軍の激突があった日から数日後、ヤマトの海石榴市つばいち来目くめ弟猾おとうかし弟磯城おとしきらの姿を認めることができる。
 海石榴市は現在の奈良県桜井市にあったとされる古代の市場で、軽市かるのいち餌香市えがのいちと並び古代三大市として知られる。
 市には倭国内のあらゆる地域からさまざまな物資が運ばれ、多くの人が行き交っている。
 朝早くから夕刻まで取引が行われ、穀物から野菜や木の実、干し魚などのほか、熊や鹿、猪の毛皮や絹の織物、北の海産物など珍しい品も見られる。
 さらにはるばる海の向こうからもたらされる、貴重な金属やガラス製品もあった。
 
 来目たちは商人に化けて、交換品として南海産の貝や吉備の塩、鉄鋌てっていなどを持ち込んだ。
 どれも高値で売れるものばかりである。
 特に吉備の塩を見せると、商人たちは喜んで他の物と交換した。
 塩は暮らしに欠かせない必需品であると同時に、重要な戦略物資だった。
 ざる一杯の塩は、金の首飾りとほぼ同じ値で取り引きされた。
「ヤマトの塩も大したことはねえからな」
 来目は得意気に言った。
 塩の産地は吉備だが、製塩技術は今は亡き稲飯命いなひのみことが伝えたものである。
 良い品物を持っている人間は丁重に扱われ、情報も自然に集まってくるのは、いつの世も変わらない。
 商人たちは来目たちの歓心を買うために、競うようにヤマトの内情を伝えた。
 その結果、ヤマトは必ずしも一枚岩ではないこと、現政権に不満を持っている豪族も少なくないことなどが分かってきた。
 農機具や武器など、金属加工の技術水準もある程度探ることができた。
 はっきり言って、畿内きない諸国の技術は九州や吉備よりさまざまな面で劣っている。
 九州には常に大陸や半島から新たな技術や物資が流れ込み、国同士の競争も厳しいため必死でそれを取り入れようとする。
 それに比べ、ヤマトの技術は十年は遅れていると椎根津彦が言っていたが、本当だった。
 日向軍は数的には依然として圧倒的に不利だが、戦術さえ誤らなければまだまだ戦える。
 孔舎衛坂でおかした過ちのように、大軍と正面からぶつかるような愚を繰り返さなければよいのである。

 その頃から、海石榴市では奇妙な噂が流れるようになった。
「去年は大風に大水、その前は日照りに流行はやり病。繰り返し災いが起きるのは王の徳が足りないからじゃ」
「そうじゃ。現王ニギハヤヒは所詮王の器ではない。天の眼鏡にかなう新しき王が西から現れる」
「その御方は聡明で武勇に優れ、なおかつ人望があるので自然に人が集まるそうな」
「羨ましいことじゃ」
「しかも天神の子孫らしい」
 こうした噂を流しているのはむろん来目や弟猾、弟磯城らである。
 彼らは商人や猟師に化けて神出鬼没、ヤマトのあちこちに現れては「西から来る新しい王」の噂を広めていった。
 『六韜りくとう』の〈竜韜りゅうとう〉の章「王翼おうよく」にある遊士ゆうしとは、敵の情勢を常に監視し、弁舌によって敵方の意向を探り、人心を操る役目の者である。
 的確な情報を掴むことにより、戦いを有利に導くことができるだけでなく、偽の情報を流して敵陣を霍乱かくらんさせることも含まれる。
 いわゆる間諜(スパイ)である。

 ヤマトの民は噂に不安に怯えるとともに、或る種の期待を抱くようになった。
「天神の子が間もなくやってくるとよ」
「そうすれば民は救われるそうだ」
 噂は燎原りょうげんを焼く火のように静かに広がっていった。
 いまや民だけでなく、豪族たちの間でも西から来た天神の子(つまり磐余彦)の噂でもちきりである。
「なんと、その方は天羽羽矢あまのははやをお持ちなのか」
「すると天神の子孫ということになる」
「ヤマトの王として迎える資格があるのではないか」
 これらはみな椎根津彦の指令のもと、来目や弟猾らが大和盆地で流した噂である。
 真実を交えているだけに、広がるのもきわめて早い。
「噂では日向の軍は先発隊で、間もなく本隊も駆けつけるという。その数七千」
「七千!」
「いやいや、吉備も合流すれば万は超えるはず」
「万じゃと!」
 こうした尾鰭がついたのは、倭国内の乱れに加え、終わることのない搾取によるヤマト政権への不満が募っていたからであろう。
 ここに至って、豪族たちにとっても磐余彦の存在はもはや無視できないものになってきた。

 現ヤマト王のニギハヤヒは、祖先が生駒山に降臨した伝承を持つ、隠れもない正統な王である。
 だがその高貴な血筋に反して、ニギハヤヒは豪族たちの人望がなかった。
 尊大で人を惹き付ける魅力に欠けるうえに、決断力にも欠けていた。
 重要な案件――豪族間の紛争解決や外国との交渉など――をずるずると引き延ばして、勝利の機会を逸することが一度ならずあった。
 さらにニギハヤヒが王位にいたばかりの頃に、連合を構成するいくつかの国に対し武力をもって制圧したことが尾を引いて、未だその恨みを忘れていない国も少なくなかった。
 その筆頭が長髄彦の出身国出雲である。
 その意味で〈連合国家ヤマト〉とは、いわば個人商店の集まりである。
 形としてニギハヤヒが王に推戴すいたいされているが、各々の「クニ」の統治まで口出しされたくはない。
 太平の世なら王はニギハヤヒでも構わない。
 国全体に関わる問題についてのみ豪族たちの意見を聞き、彼らの既得権を侵さぬ範囲でまつりごとを行えばいい。
 それがもっとも摩擦が少ない。
 しかし今、風雲急を告げる大陸の情勢を見るにつけ、ヤマト王に求められるのは英雄性である。
 加えて国難をものともせず、乗り越えようとする覇気や胆力である。
 その点ニギハヤヒにはそれらが決定的に欠けていた。 
 いざ連合軍を結成しようにも、今のヤマトは国ごとに武器が異なり軍制もばらばらで、兵の数こそ揃うが所詮烏合の衆にすぎない。
 そのことは図らずも、此度こたびの日向との戦いで実証されてしまった。
 強い軍隊とは、よく訓練された兵士と統率力のある指揮官、さらに規格が同じで扱いやすい武器が揃っていなければならない。
 むろん兵站へいたん(補給)の重要性も見逃がせない。

 これまでヤマト国に於いて王位に就けるのは、偉大なる女王卑弥呼の血筋の者に限られてきた。
 その点ニギハヤヒは紛れもなく天孫族てんそんぞくの一員で、正統な血を受け継ぐ者である。
 だからこそ少々器量が乏しくとも、国をべる役割が与えられたのだ。
 ただ如何せん凡庸な王であるとの評価は、衆目の一致するところである。
「総論は賛成だが各論が反対なのは誰も同じじゃ。これを仕切るには相当血を流す覚悟がいるが、ニギハヤヒにはとても無理じゃろう」
 不満を抱きつつも、豪族たちも半ばあきらめかけていた。
 そこへ磐余彦が颯爽と現れた。
 人品いやしからず、知性と風格を兼ね備えた勇者との評判だ。
 しかもこの若者が「天孫族の一員かもしれぬ」ということがきわめて重い意味を持った。
 偉大なる女王が、千々ちぢに乱れた倭国を治めてからすでに百年が過ぎた。
 その時朝貢した魏はすでになく、蜀も呉も滅び中原ちゅうげんの覇者は晋へと変わっている。
 その晋すらも未だ安定しない激動の時代である。
 それなのにニギハヤヒは旧王の威光にすがるのみで、時代の急激な変化に対応できていない。
 これでは倭国統一はおろか、連合する国々でさえ離れていってしまう。
 豪族たちが強い不安を抱いた折も折、天孫族の血を引くと噂される若者の一団が西から攻め上ってきた。
 これはヤマトの豪族たちにとっても、願ってもない機会である。
 古く濁った血脈けつみゃくを一掃し、新たな血を入れれば政権の延命を可能にするかもしれない。
――今こそ新たな王を迎え入れるべきではないか?
 豪族たちの多くが思いはじめていた。
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