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第十章 纏向の悲劇
第50話 金色の鵄
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戦端が開かれてから十日余りが過ぎた。
緒戦の勢いのまま日向軍が優勢かと思われたが、長髄彦率いるヤマト本隊はさすがに強かった。
陣容を立て直したヤマトの軍勢は、少々の奇襲攻撃には動じなくなった。
まず夜襲に備え、昼と夜の部隊を分けて二十四時間態勢を取った。
さらに一箇所に固まっていた兵を分散させ、奇襲に遭う部隊があればすぐに近隣の部隊が駆けつけるようにした。
一度に受ける被害を最小限にする防戦術である。
これにより、当初は有効だった日向の奇襲戦法も目に見えて効果が薄れてきた。
戦いは完全に膠着状態に陥った。
消耗戦になれば数が少ないほうが圧倒的に不利になる。
日向の兵たちの間に焦りの色が浮かんだ。
宇陀から物資が届いたのはそんな頃である。
剣根が送ってきたのは武器や武具などが主だが、中に見慣れぬものがあった。
「何だ、これは?」
荷を調べていた道臣が気づいた。
非常に薄い銅の円盤である。これが八十枚もあった。
「鏡にしては薄すぎるな」磐余彦も首を傾げた。
皆が疑問に思うのも当然だった。
この時代の鏡は大半が青銅製で、主に祭祀などに使われるが、厚さも一センチ強ありずっしりと重かった。
その点この銅板は非常に軽かった。軽すぎる。
鎧にするには薄すぎて、剣や鏃に簡単に貫かれてしまうだろう。
なぜか鏡を磨く丹(水銀)も添えられていた。
丹はもともと井光が吉野の山中で掘っていたもので、豊富にあるが戦いには無用のはずである。
「これをどうするのだ」
磐余彦が訊ねると、椎根津彦がそっと耳打ちした。
「なるほど、それは面白い!」
磐余彦の顔にぱっと赤みがさした。
翌日から、日向の陣では奇妙な作業が密かに行われていた。
船から外してきた大きな帆布を縫い合わせているのである。
さらに吉野の民から集めた布も縫い付けると、一枚の巨大な四角い布になった。
それを木を組んだ骨組みに掛けると、巨大な凧が出来上がった。
下には細長い布を二本、足のように垂らしている。これは舵の役割を果たすようだ。
凧の起源は古く、紀元前四世紀から三世紀にかけて中国で発明されたと伝えられる。
「凧はその昔、墨子が編み出したものといわれています」
そう語る椎根津彦は呉の軍師の家系の出である。
「墨子?」
墨子は紀元前四世紀ごろの中国戦国時代の思想家である。
墨家集団と呼ばれる学派を率い、博愛や非攻といった理想主義的な思想を説き、防御・守城の技術集団としても優れていたと伝えられる。
「誰が乗る?」
「身の軽い者がよいでしょう」
磐余彦の問いに椎根津彦が即座に答えた。
皆の目が一斉に来目に集まる。
「へっ?」
来目が大きな目をさらに広げてきょとんとした。
「ちくしょう。天才軍師だか何だか知らねえが、仕返しするなんざ、やっぱり根性悪いぜ」
椎根津彦の口の端が僅かに上がっているのを見て、来目が嚙みついた。
「何のことやら…」
椎根津彦が首を傾げ、平然と答える。
椎根津彦と弟猾が翁と媼に化けて天香具山に土を採りにいく際に、来目が面白半分に殊更惨めな化粧をさせたことを、椎根津彦が忘れるはずもない。
今回の人選はそれに対する意趣返しなのかもしれない。
ただ、そのことは抜きにしても、体重の軽さや身のこなしの見事さを勘案すれば、来目が適任であることは疑いようがなかった。
山の上に強い上昇気流が吹いている。
「そーれ引け!」
力自慢の日向兵たちがいっせいに綱を引いた。
すると来目を乗せた凧は風を受けて空高く舞い上がった。
おお、とどよめきが起こる。
「うわあ!」
来目が悲鳴をあげた。
それも一瞬のことで、「こりゃあすごい!」と歓声に変わった。
上空からは敵の布陣が一目瞭然である。
「正面の丘に伏兵。数は三十!」
その場所に一斉に火矢が放たれる。
先端には硫黄の粉がたっぷり仕込んである。
地面に落ちた火矢は、たちまち辺りの枯れ草に燃え広がった。
「右の茂みに四十、いや五十!」
来目の指示に従い、次々に火矢が飛ぶ。
茂みはすぐに紅蓮の炎に包まれた。
「あちちち!」
潜んでいた敵兵があぶり出され、退却を余儀なくされる。
この時代、火薬はまだない。黒色火薬の発明は六世紀か七世紀の中国だとされる。
しかし火薬の原料となる硫黄は、発火しやすい物質として古から存在が知られてきた。
火山国である倭(日本)では、硫黄は容易に採取できる。
殊に磐余彦たちの故郷、九州では九重山や霧島山、阿蘇山などで硫黄が自然露出している。
硫黄の鼻を衝く臭気に、ヤマトの兵は震え上がった。
「目が痛い!」
「臭い、鼻が腐る!」
刺激に堪えきれず、敵兵はほうほうの体で逃げ出した。
来目はさらに左の窪みにいた伏兵も発見し、指示を送った。
今度は矛を持った部隊が一斉に襲いかかり、全滅させる。
伏兵を配した効果もなく、ヤマト軍は撤退せざるをえなかった。
自軍の劣勢を見て、ヤマトの大将長髄彦は歯噛みした。
三輪山とその一帯は自分たちが知り尽くした土地である。
数の上でも圧倒的に有利なはずだったが、敵の三次元の索敵と、思いもかけぬ新兵器によって地の利を生かした戦いができずにいる。
「くそう、あの空に浮かぶものから丸見えなのだな」
少人数で分散配置する戦術が功を奏さなくなった結果、ヤマトの兵は次第に中央に固まりはじめた。
「まだ大丈夫だ。数の上ではこちらが圧倒的に有利だ」
日向の兵は多く見積もっても二百人ほど。
対するヤマトの軍勢は未だ六百を超える。
しかも敵は三輪山中腹の斜面に位置し、あと少し時間が経てばまともに西日に晒されることになる。
「やつらは眩しくて目も開けられない筈だ」
とヤマト兵の誰もが考えた。
そのとき日向軍の中央で、一人の将兵が丘の上に立った。
なんと、敵の大将磐余彦その人である。
腰に剣を佩き、すっくと立った磐余彦の姿は、日の光を一身に浴びてヤマト軍からもはっきりと見えた。
磐余彦は一礼すると静かに舞を始めた。
両手を広げて僅かに膝を曲げ、地面を摺りながらゆっくりと足を動かし、静かに身体を右に回す。
鮮やかな舞を披露しながら磐余彦は朗々と謡い上げる。
みつみつし 来目の子らが
粟生には 韮一本 そ根が茎
そ根芽繋ぎて 撃ちてし止まむ
「強い来目の軍勢の家の垣下に粟が生え、その中に韮が一本混じっている。その韮の根本から芽までつないで抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう」
という意味の来目舞である。
舞が最高潮を迎えたところで、磐余彦が腰の剣をすらりと抜いた。
熊野の山中で高倉下に託された神剣、布都御魂剣である。
勇壮な舞が一段と力強さを増していく。
みつみつし 来目の子らが
垣下に 植えし椒 口疼く
我は忘れず 撃ちてし止まむ
「強い来目の軍勢の家の垣下に植えた山椒は、口に入れるとひりひりするが、そんな敵の攻撃の手痛さは今も忘れない。今度こそ撃ち破ってやろう」
はじめヤマトの兵たちは、磐余彦に弓を射掛けようとした。
ところが舞が始まり磐余彦が布都御魂剣を抜くと、ヤマトの兵は霊威に撃たれたように弓を引くことができなくなった。
今では皆が茫然と舞に見入っている。
舞が最高潮に達したとき、磐余彦はさっと破邪の剣を振り下ろした。
時を置かずして、やんやの喝采が起こった。
もはや敵味方の区別はなかった。
舞を終えた磐余彦が剣を鞘に収め、弓を手にした。
ちょうどその時、太陽が葛城の山の端に差しかかった。
日没前で輝きをいっそう増した夕陽が降り注ぎ、三輪山の山体が羞うように茜色に染まった。
いま磐余彦と日向の軍勢は強烈な西日を浴びている。
日向兵にとってヤマト兵は逆光になり、圧倒的に有利だ。
攻めるなら今をおいてない、ヤマト兵の誰もがそう考えた。
その時、上空で弧を描くように飛んでいた一羽の鵄が舞い降りてきた。
磐余彦が雛から育てたイツセである。
イツセが、磐余彦の持つ弓の弓弭にふわりと止まった。
ヤマト兵の目がイツセに注がれた。
と、その時、
「今だ、顔を上げよ!」
道臣の号令に、磐余彦の背後に潜んでいた八十人の日向兵が一斉に顔を上げた。
その刹那、煌く光の束がヤマトの軍勢を襲った。
八十人の兵は皆、頭に平瓦を紐でくくりつけていた。
椎根津彦が天香具山から持ち帰った土で焼いた、八十枚の平瓦である。
平瓦の表面には薄い銅板、つまり鏡をはめ込んでいる。
吉野の山で採取した水銀で念入りに磨き込み、一点の曇りもない。
その鏡が強い西日を反射して、目も眩むような輝きとなって襲いかかったのである。
ヤマト兵の目からは、鵄が自らまばゆい光を放ったのかと思ったであろう。
夕闇に目が慣れていたヤマト兵たちは大混乱に陥った。
「目が痛い!」
「祟りだ、祟りに違いない!」
「恐ろしや!」
八十枚の鏡が集めた光が容赦なく浴びせられ、ヤマト兵は腰を抜かすほど狼狽えた。
今や兵卒ばかりか将兵までが震え慄いている。
「やつらは日の光まで思うままに操れるのか」
ひとたび動揺が生まれると、手の施しようがなかった。
ヤマト兵の中には恐怖のあまり戦線を離脱する者が相次いだ。
作戦が的中した椎根津彦が口の端を僅かに上げた。
「風声鶴唳のさまですね」
戦いに敗れた軍が、風の音や鶴の鳴き声にも驚いて敗走するという中国の故事である。
ヤマト軍の惨状はまさにその様相を呈していた。
ヤマト軍が大混乱に陥るなか、磐余彦は静かに弓を構えた。
ヤマト軍までの距離は約千尺(三百メートル)。並みの弓ならなかなか届く距離ではない。しかも当てるとなると至難の業だ。
――この弓と矢なら届く。
天鹿児弓に天羽羽矢を番えた磐余彦は、きりりと弦を引き絞った。
「兄たちの仇」
一瞬息を止め、上空に向けて矢をひゅんと放った。
鋭い弓鳴の音がして、黒羽の矢は空気を切り裂いてヤマトの陣に向けてまっすぐ飛んでいった。
狙う相手はただ一人、敵の大将長髄彦である。
矢は三輪山から吹き下ろす風にも乗り、意思を持ったように敵陣めがけて飛んでいった。
そのとき、ヤマトの陣でも夕暮れ迫る宙を黒い筋が飛来するのを感じた者がいた。
長髄彦の兄、安日彦である。
「危ない!」
とっさに安日彦が長髄彦を突き飛ばした。
ずんと鈍い音がして安日彦の身体を矢が貫いた。
うめき声を発して安日彦が倒れる。
「兄者!」
長髄彦が駆け寄った。
「危なかった……ぞ」
苦しい息の下で安日彦が言う。
「兄者、しっかりしろ。死ぬな!」
矢は安日彦の肩の下の肉を貫通していた。
幸いにして、ぎりぎりのところで肺は外れたようだ。
兄の肩を貫いた黒い矢羽を見て長髄彦は驚愕した。
黒羽の矢は他にもあるが、鉄芯で作られているのは自分が知る限り一つしかない。
「これは、天羽羽矢!」
今から十数年前、周防の狩場で気まぐれに日向の小僧に呉れてやった矢に違いなかった。
これを真似て、天羽羽矢の複製品を作ったというならまだ分かる。
しかしこれは、紛れもなく自分が与えた正真正銘の天羽羽矢である。
長髄彦の脳裏に、忘れていた遠い記憶が蘇った。
あの小僧か――
そのとき長髄彦の中では、
――よくぞここまで来た。
という思いとともに、自分の軽はずみな行動によって、手強い敵を作ってしまったことへの悔恨の念が湧き起こった。
緒戦の勢いのまま日向軍が優勢かと思われたが、長髄彦率いるヤマト本隊はさすがに強かった。
陣容を立て直したヤマトの軍勢は、少々の奇襲攻撃には動じなくなった。
まず夜襲に備え、昼と夜の部隊を分けて二十四時間態勢を取った。
さらに一箇所に固まっていた兵を分散させ、奇襲に遭う部隊があればすぐに近隣の部隊が駆けつけるようにした。
一度に受ける被害を最小限にする防戦術である。
これにより、当初は有効だった日向の奇襲戦法も目に見えて効果が薄れてきた。
戦いは完全に膠着状態に陥った。
消耗戦になれば数が少ないほうが圧倒的に不利になる。
日向の兵たちの間に焦りの色が浮かんだ。
宇陀から物資が届いたのはそんな頃である。
剣根が送ってきたのは武器や武具などが主だが、中に見慣れぬものがあった。
「何だ、これは?」
荷を調べていた道臣が気づいた。
非常に薄い銅の円盤である。これが八十枚もあった。
「鏡にしては薄すぎるな」磐余彦も首を傾げた。
皆が疑問に思うのも当然だった。
この時代の鏡は大半が青銅製で、主に祭祀などに使われるが、厚さも一センチ強ありずっしりと重かった。
その点この銅板は非常に軽かった。軽すぎる。
鎧にするには薄すぎて、剣や鏃に簡単に貫かれてしまうだろう。
なぜか鏡を磨く丹(水銀)も添えられていた。
丹はもともと井光が吉野の山中で掘っていたもので、豊富にあるが戦いには無用のはずである。
「これをどうするのだ」
磐余彦が訊ねると、椎根津彦がそっと耳打ちした。
「なるほど、それは面白い!」
磐余彦の顔にぱっと赤みがさした。
翌日から、日向の陣では奇妙な作業が密かに行われていた。
船から外してきた大きな帆布を縫い合わせているのである。
さらに吉野の民から集めた布も縫い付けると、一枚の巨大な四角い布になった。
それを木を組んだ骨組みに掛けると、巨大な凧が出来上がった。
下には細長い布を二本、足のように垂らしている。これは舵の役割を果たすようだ。
凧の起源は古く、紀元前四世紀から三世紀にかけて中国で発明されたと伝えられる。
「凧はその昔、墨子が編み出したものといわれています」
そう語る椎根津彦は呉の軍師の家系の出である。
「墨子?」
墨子は紀元前四世紀ごろの中国戦国時代の思想家である。
墨家集団と呼ばれる学派を率い、博愛や非攻といった理想主義的な思想を説き、防御・守城の技術集団としても優れていたと伝えられる。
「誰が乗る?」
「身の軽い者がよいでしょう」
磐余彦の問いに椎根津彦が即座に答えた。
皆の目が一斉に来目に集まる。
「へっ?」
来目が大きな目をさらに広げてきょとんとした。
「ちくしょう。天才軍師だか何だか知らねえが、仕返しするなんざ、やっぱり根性悪いぜ」
椎根津彦の口の端が僅かに上がっているのを見て、来目が嚙みついた。
「何のことやら…」
椎根津彦が首を傾げ、平然と答える。
椎根津彦と弟猾が翁と媼に化けて天香具山に土を採りにいく際に、来目が面白半分に殊更惨めな化粧をさせたことを、椎根津彦が忘れるはずもない。
今回の人選はそれに対する意趣返しなのかもしれない。
ただ、そのことは抜きにしても、体重の軽さや身のこなしの見事さを勘案すれば、来目が適任であることは疑いようがなかった。
山の上に強い上昇気流が吹いている。
「そーれ引け!」
力自慢の日向兵たちがいっせいに綱を引いた。
すると来目を乗せた凧は風を受けて空高く舞い上がった。
おお、とどよめきが起こる。
「うわあ!」
来目が悲鳴をあげた。
それも一瞬のことで、「こりゃあすごい!」と歓声に変わった。
上空からは敵の布陣が一目瞭然である。
「正面の丘に伏兵。数は三十!」
その場所に一斉に火矢が放たれる。
先端には硫黄の粉がたっぷり仕込んである。
地面に落ちた火矢は、たちまち辺りの枯れ草に燃え広がった。
「右の茂みに四十、いや五十!」
来目の指示に従い、次々に火矢が飛ぶ。
茂みはすぐに紅蓮の炎に包まれた。
「あちちち!」
潜んでいた敵兵があぶり出され、退却を余儀なくされる。
この時代、火薬はまだない。黒色火薬の発明は六世紀か七世紀の中国だとされる。
しかし火薬の原料となる硫黄は、発火しやすい物質として古から存在が知られてきた。
火山国である倭(日本)では、硫黄は容易に採取できる。
殊に磐余彦たちの故郷、九州では九重山や霧島山、阿蘇山などで硫黄が自然露出している。
硫黄の鼻を衝く臭気に、ヤマトの兵は震え上がった。
「目が痛い!」
「臭い、鼻が腐る!」
刺激に堪えきれず、敵兵はほうほうの体で逃げ出した。
来目はさらに左の窪みにいた伏兵も発見し、指示を送った。
今度は矛を持った部隊が一斉に襲いかかり、全滅させる。
伏兵を配した効果もなく、ヤマト軍は撤退せざるをえなかった。
自軍の劣勢を見て、ヤマトの大将長髄彦は歯噛みした。
三輪山とその一帯は自分たちが知り尽くした土地である。
数の上でも圧倒的に有利なはずだったが、敵の三次元の索敵と、思いもかけぬ新兵器によって地の利を生かした戦いができずにいる。
「くそう、あの空に浮かぶものから丸見えなのだな」
少人数で分散配置する戦術が功を奏さなくなった結果、ヤマトの兵は次第に中央に固まりはじめた。
「まだ大丈夫だ。数の上ではこちらが圧倒的に有利だ」
日向の兵は多く見積もっても二百人ほど。
対するヤマトの軍勢は未だ六百を超える。
しかも敵は三輪山中腹の斜面に位置し、あと少し時間が経てばまともに西日に晒されることになる。
「やつらは眩しくて目も開けられない筈だ」
とヤマト兵の誰もが考えた。
そのとき日向軍の中央で、一人の将兵が丘の上に立った。
なんと、敵の大将磐余彦その人である。
腰に剣を佩き、すっくと立った磐余彦の姿は、日の光を一身に浴びてヤマト軍からもはっきりと見えた。
磐余彦は一礼すると静かに舞を始めた。
両手を広げて僅かに膝を曲げ、地面を摺りながらゆっくりと足を動かし、静かに身体を右に回す。
鮮やかな舞を披露しながら磐余彦は朗々と謡い上げる。
みつみつし 来目の子らが
粟生には 韮一本 そ根が茎
そ根芽繋ぎて 撃ちてし止まむ
「強い来目の軍勢の家の垣下に粟が生え、その中に韮が一本混じっている。その韮の根本から芽までつないで抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう」
という意味の来目舞である。
舞が最高潮を迎えたところで、磐余彦が腰の剣をすらりと抜いた。
熊野の山中で高倉下に託された神剣、布都御魂剣である。
勇壮な舞が一段と力強さを増していく。
みつみつし 来目の子らが
垣下に 植えし椒 口疼く
我は忘れず 撃ちてし止まむ
「強い来目の軍勢の家の垣下に植えた山椒は、口に入れるとひりひりするが、そんな敵の攻撃の手痛さは今も忘れない。今度こそ撃ち破ってやろう」
はじめヤマトの兵たちは、磐余彦に弓を射掛けようとした。
ところが舞が始まり磐余彦が布都御魂剣を抜くと、ヤマトの兵は霊威に撃たれたように弓を引くことができなくなった。
今では皆が茫然と舞に見入っている。
舞が最高潮に達したとき、磐余彦はさっと破邪の剣を振り下ろした。
時を置かずして、やんやの喝采が起こった。
もはや敵味方の区別はなかった。
舞を終えた磐余彦が剣を鞘に収め、弓を手にした。
ちょうどその時、太陽が葛城の山の端に差しかかった。
日没前で輝きをいっそう増した夕陽が降り注ぎ、三輪山の山体が羞うように茜色に染まった。
いま磐余彦と日向の軍勢は強烈な西日を浴びている。
日向兵にとってヤマト兵は逆光になり、圧倒的に有利だ。
攻めるなら今をおいてない、ヤマト兵の誰もがそう考えた。
その時、上空で弧を描くように飛んでいた一羽の鵄が舞い降りてきた。
磐余彦が雛から育てたイツセである。
イツセが、磐余彦の持つ弓の弓弭にふわりと止まった。
ヤマト兵の目がイツセに注がれた。
と、その時、
「今だ、顔を上げよ!」
道臣の号令に、磐余彦の背後に潜んでいた八十人の日向兵が一斉に顔を上げた。
その刹那、煌く光の束がヤマトの軍勢を襲った。
八十人の兵は皆、頭に平瓦を紐でくくりつけていた。
椎根津彦が天香具山から持ち帰った土で焼いた、八十枚の平瓦である。
平瓦の表面には薄い銅板、つまり鏡をはめ込んでいる。
吉野の山で採取した水銀で念入りに磨き込み、一点の曇りもない。
その鏡が強い西日を反射して、目も眩むような輝きとなって襲いかかったのである。
ヤマト兵の目からは、鵄が自らまばゆい光を放ったのかと思ったであろう。
夕闇に目が慣れていたヤマト兵たちは大混乱に陥った。
「目が痛い!」
「祟りだ、祟りに違いない!」
「恐ろしや!」
八十枚の鏡が集めた光が容赦なく浴びせられ、ヤマト兵は腰を抜かすほど狼狽えた。
今や兵卒ばかりか将兵までが震え慄いている。
「やつらは日の光まで思うままに操れるのか」
ひとたび動揺が生まれると、手の施しようがなかった。
ヤマト兵の中には恐怖のあまり戦線を離脱する者が相次いだ。
作戦が的中した椎根津彦が口の端を僅かに上げた。
「風声鶴唳のさまですね」
戦いに敗れた軍が、風の音や鶴の鳴き声にも驚いて敗走するという中国の故事である。
ヤマト軍の惨状はまさにその様相を呈していた。
ヤマト軍が大混乱に陥るなか、磐余彦は静かに弓を構えた。
ヤマト軍までの距離は約千尺(三百メートル)。並みの弓ならなかなか届く距離ではない。しかも当てるとなると至難の業だ。
――この弓と矢なら届く。
天鹿児弓に天羽羽矢を番えた磐余彦は、きりりと弦を引き絞った。
「兄たちの仇」
一瞬息を止め、上空に向けて矢をひゅんと放った。
鋭い弓鳴の音がして、黒羽の矢は空気を切り裂いてヤマトの陣に向けてまっすぐ飛んでいった。
狙う相手はただ一人、敵の大将長髄彦である。
矢は三輪山から吹き下ろす風にも乗り、意思を持ったように敵陣めがけて飛んでいった。
そのとき、ヤマトの陣でも夕暮れ迫る宙を黒い筋が飛来するのを感じた者がいた。
長髄彦の兄、安日彦である。
「危ない!」
とっさに安日彦が長髄彦を突き飛ばした。
ずんと鈍い音がして安日彦の身体を矢が貫いた。
うめき声を発して安日彦が倒れる。
「兄者!」
長髄彦が駆け寄った。
「危なかった……ぞ」
苦しい息の下で安日彦が言う。
「兄者、しっかりしろ。死ぬな!」
矢は安日彦の肩の下の肉を貫通していた。
幸いにして、ぎりぎりのところで肺は外れたようだ。
兄の肩を貫いた黒い矢羽を見て長髄彦は驚愕した。
黒羽の矢は他にもあるが、鉄芯で作られているのは自分が知る限り一つしかない。
「これは、天羽羽矢!」
今から十数年前、周防の狩場で気まぐれに日向の小僧に呉れてやった矢に違いなかった。
これを真似て、天羽羽矢の複製品を作ったというならまだ分かる。
しかしこれは、紛れもなく自分が与えた正真正銘の天羽羽矢である。
長髄彦の脳裏に、忘れていた遠い記憶が蘇った。
あの小僧か――
そのとき長髄彦の中では、
――よくぞここまで来た。
という思いとともに、自分の軽はずみな行動によって、手強い敵を作ってしまったことへの悔恨の念が湧き起こった。
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