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第九章 墨坂の決戦
第43話 雛を育てる
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磐余彦と日向の兵たちは、意を決して熊野の山中を進んだ。
だが、行く手に立ちはだかる山々はあまりにも険しく、取り巻く自然も苛烈だった。
故郷九州の緑深い峰々に比べても、切り立った岩峰が圧倒的に多い。
急峻な登り下りの連続で、兵士たちは息も絶え絶えである。
たびたび休憩を取らねばならないが、休む間もなくヤマビルやダニが襲ってくる。
草深く人跡稀な深山で、獣道すら見つけるのが難しい。
歯を食いしばって前進しても、道に迷うことたびたびで、心が折られることも一度や二度ではなかった。
そんな磐余彦たちをさらに苦しめたのが、過酷な湿気である。
九州の山を自在に駆け巡った男たちにとっても、あまりの湿度の高さに日を追うごとに気持ちが沈み、身体の疲労も積み重なっていった。
「九州の山とは勝手が違うな」
ふだんは滅多に弱音を吐かない日臣が愚痴をこぼすほど、この地の気候は九州とはまるで違った。
とりわけ驚かされたのは、空は晴れているのに森の中だけ雨が降ることだった。
空気中の水蒸気が木の葉に触れ、雫となって降ってくるこの現象は、「樹雨」と呼ばれる。
雨が上がるとすぐに地面から蒸気が立ちのぼり、靄に包まれて一寸先も見えなくなるのだ。
常に道迷いの危険がつきまとった。
小休止を取り、大木の根元で身体を休めた来目の傍で、褐色の大きな蛙が大きな鳴き声を上げた。
「くそう、蛙まで馬鹿にしやがって」
げろげろと嘲うような声に、苛立ちが募った来目が拳で叩き潰そうとした。
「触るな、毒がある!」
椎根津彦が叱った。
ナガレヒキガエルという蟇蛙の仲間で、白い液体の毒を持ち、触れるとひどい炎症を起こし失明する恐れがある。
さらに体内に入ると幻覚などの症状を起こすことがある。
来目が足元に生えた白い半透明のキノコを見つけた。
可憐というより幽玄という言葉がふさわしい妖しげなキノコである。
「ほう、珍しいな」
またも触れようとする来目。
「それも駄目だ!」
今度は日臣が怒鳴った。
「それは毒キノコだ」
銀竜草である。別名幽霊茸ともいい、茎に猛毒がある。
「ちぇっ、とんでもねえところだぜ」
悪態をつく間にも容赦なく疲労がのしかかった。
早くも西の稜線に日が沈みかけている。
「やれやれ、今日も野宿だな」
来目はぶつぶつ言って早々に草むらに寝転がった。
食事も干し飯と僅かな干魚という粗末なものだ。食糧も尽きかけている。
翌日は苔蒸した大岩を迂回して進んだが、どれほど前に進めたかは誰にも分からなかった。
みな口にこそ出さないが、果たしてこの深い山を越えられるだろうか、そんな思いに駆られながら山道を歩いている。
せわしない息遣いを聞いていると、肉体的にも精神的にも限界が近づいているのが分かる。
月が煌々と照り、星が瞬く夜。
静かに鳴く虫の声が、疲れた身体に束の間の安らぎを与えてくれる。
だが磐余彦は孤独だった。
一軍を率いる将として、兵士たちの前で弱音を吐くことは断じてできない。
たとえ気心の知れた日臣や来目に対しても――彼らは気にも留めなかっただろうが――ひとたび泣き言を言い出せば、自分自身がとめどなく崩れてしまいそうな気がした。
これが血を分けた兄弟なら、弱音や愚痴を吐露することができたかもしれない。
その意味で、三人の兄たちを喪ったことが、改めて磐余彦の心に重くのしかかっていた。
そんなことが続いた或る日、山中を行軍していると藪の中からぴいぴいと鳴き声が聞こえてきた。
声のする先を探ると、まだ産毛の残る若い鳥が落ちていた。
猛禽類の雛のようだが、ひもじいのか黄色い嘴でしきりに鳴き声をあげている。
誤って巣から落ちたようだ。見上げると高い木の上に巣がある。
来目が雛を拾い上げて見上げた。
「可哀想だが、こりゃ登れそうもねえ」
たとえ巣に戻せても、いったん人間の匂いのついた雛を親鳥が育てることはない。
巣立ちにはまだ時間がかかりそうだ。
非情なようだが雛が死ぬのはもはや時間の問題だった。
「それを吾にくれ」磐余彦が言った。
「すぐに死んじまいますよ」
来目の言うように、人の手で野鳥を雛から育てるのは至難の業である。
だが磐余彦は諦めなかった。
「やってみる」
それから磐余彦は雛鳥の世話に夢中になった。
内面の葛藤はともかく、丹敷戸畔を倒したのちに鬼気迫る言葉で兵を勇気づけ、ここまで導いてきた磐余彦である。
熱い言葉を発する時だけでなく、冷然と沈思する姿にも王者の風格が漂いつつあった。
それが一転してあれこれ頭を悩ませながら、時には不安な眼差しで雛の世話をする姿は、純朴な少年に帰ったようだった。
その落差を兵士たちは好もしく思った。
幸いなことに雛鳥は至って健康で、磐余彦が鳥餅で捕まえた小鳥の肉を千切って与えると夢中で食らいついた。
その後も厳しい山中の行軍を続けながら、磐余彦は矢で小鳥やネズミを仕留めて雛に新鮮な肉を与えた。
そのうちに兵士たちも「これを食わせてやってください」と貴重な山鳥の肉を持って来るようになった。
すくすく育つ若い鳥の生命力が、兵士たちの倦んだ心を和ませ、活力を吹き込んだようである。
ちなみに鷹狩に使う鷹は、巣立ち前後の雛を捕えて飼育する。
この頃の幼鳥は「巣鷹」と呼ばれ、人に慣れて飼いやすくなるという。
若鳥は昼は足紐を結わえて磐余彦の肩当に止まり、夜は鳥籠に入れて寒さ除けに毛皮でくるんでやった。
おかげでひと月もすると羽が生え揃い、その頃にはすっかり磐余彦に懐いていた。
成長してみると、鷹よりも一回り小さい猛禽である。それでも羽を広げると人間の両手の幅ほどもあった。
鵄である。
磐余彦は鵄に死んだ兄の名をとってイツセと付けた。
イツセは磐余彦の肩で大人しくしていたかと思うと、さっと飛び立って上昇気流に乗り、どこかへ飛んでゆく。
ほとんど羽を動かさずに風に乗って滑空するのが鵄の特徴である。
「もう帰って来ないのでは」
と心配していると、さっと羽音がして磐余彦の肩に止まった。
「帰ってきた!」
来目も日臣も目を輝かせて童のように喜んだ。
イツセのお蔭で、荒みがちだった兵士たちにも笑顔が見られるようになった。
だが、行く手に立ちはだかる山々はあまりにも険しく、取り巻く自然も苛烈だった。
故郷九州の緑深い峰々に比べても、切り立った岩峰が圧倒的に多い。
急峻な登り下りの連続で、兵士たちは息も絶え絶えである。
たびたび休憩を取らねばならないが、休む間もなくヤマビルやダニが襲ってくる。
草深く人跡稀な深山で、獣道すら見つけるのが難しい。
歯を食いしばって前進しても、道に迷うことたびたびで、心が折られることも一度や二度ではなかった。
そんな磐余彦たちをさらに苦しめたのが、過酷な湿気である。
九州の山を自在に駆け巡った男たちにとっても、あまりの湿度の高さに日を追うごとに気持ちが沈み、身体の疲労も積み重なっていった。
「九州の山とは勝手が違うな」
ふだんは滅多に弱音を吐かない日臣が愚痴をこぼすほど、この地の気候は九州とはまるで違った。
とりわけ驚かされたのは、空は晴れているのに森の中だけ雨が降ることだった。
空気中の水蒸気が木の葉に触れ、雫となって降ってくるこの現象は、「樹雨」と呼ばれる。
雨が上がるとすぐに地面から蒸気が立ちのぼり、靄に包まれて一寸先も見えなくなるのだ。
常に道迷いの危険がつきまとった。
小休止を取り、大木の根元で身体を休めた来目の傍で、褐色の大きな蛙が大きな鳴き声を上げた。
「くそう、蛙まで馬鹿にしやがって」
げろげろと嘲うような声に、苛立ちが募った来目が拳で叩き潰そうとした。
「触るな、毒がある!」
椎根津彦が叱った。
ナガレヒキガエルという蟇蛙の仲間で、白い液体の毒を持ち、触れるとひどい炎症を起こし失明する恐れがある。
さらに体内に入ると幻覚などの症状を起こすことがある。
来目が足元に生えた白い半透明のキノコを見つけた。
可憐というより幽玄という言葉がふさわしい妖しげなキノコである。
「ほう、珍しいな」
またも触れようとする来目。
「それも駄目だ!」
今度は日臣が怒鳴った。
「それは毒キノコだ」
銀竜草である。別名幽霊茸ともいい、茎に猛毒がある。
「ちぇっ、とんでもねえところだぜ」
悪態をつく間にも容赦なく疲労がのしかかった。
早くも西の稜線に日が沈みかけている。
「やれやれ、今日も野宿だな」
来目はぶつぶつ言って早々に草むらに寝転がった。
食事も干し飯と僅かな干魚という粗末なものだ。食糧も尽きかけている。
翌日は苔蒸した大岩を迂回して進んだが、どれほど前に進めたかは誰にも分からなかった。
みな口にこそ出さないが、果たしてこの深い山を越えられるだろうか、そんな思いに駆られながら山道を歩いている。
せわしない息遣いを聞いていると、肉体的にも精神的にも限界が近づいているのが分かる。
月が煌々と照り、星が瞬く夜。
静かに鳴く虫の声が、疲れた身体に束の間の安らぎを与えてくれる。
だが磐余彦は孤独だった。
一軍を率いる将として、兵士たちの前で弱音を吐くことは断じてできない。
たとえ気心の知れた日臣や来目に対しても――彼らは気にも留めなかっただろうが――ひとたび泣き言を言い出せば、自分自身がとめどなく崩れてしまいそうな気がした。
これが血を分けた兄弟なら、弱音や愚痴を吐露することができたかもしれない。
その意味で、三人の兄たちを喪ったことが、改めて磐余彦の心に重くのしかかっていた。
そんなことが続いた或る日、山中を行軍していると藪の中からぴいぴいと鳴き声が聞こえてきた。
声のする先を探ると、まだ産毛の残る若い鳥が落ちていた。
猛禽類の雛のようだが、ひもじいのか黄色い嘴でしきりに鳴き声をあげている。
誤って巣から落ちたようだ。見上げると高い木の上に巣がある。
来目が雛を拾い上げて見上げた。
「可哀想だが、こりゃ登れそうもねえ」
たとえ巣に戻せても、いったん人間の匂いのついた雛を親鳥が育てることはない。
巣立ちにはまだ時間がかかりそうだ。
非情なようだが雛が死ぬのはもはや時間の問題だった。
「それを吾にくれ」磐余彦が言った。
「すぐに死んじまいますよ」
来目の言うように、人の手で野鳥を雛から育てるのは至難の業である。
だが磐余彦は諦めなかった。
「やってみる」
それから磐余彦は雛鳥の世話に夢中になった。
内面の葛藤はともかく、丹敷戸畔を倒したのちに鬼気迫る言葉で兵を勇気づけ、ここまで導いてきた磐余彦である。
熱い言葉を発する時だけでなく、冷然と沈思する姿にも王者の風格が漂いつつあった。
それが一転してあれこれ頭を悩ませながら、時には不安な眼差しで雛の世話をする姿は、純朴な少年に帰ったようだった。
その落差を兵士たちは好もしく思った。
幸いなことに雛鳥は至って健康で、磐余彦が鳥餅で捕まえた小鳥の肉を千切って与えると夢中で食らいついた。
その後も厳しい山中の行軍を続けながら、磐余彦は矢で小鳥やネズミを仕留めて雛に新鮮な肉を与えた。
そのうちに兵士たちも「これを食わせてやってください」と貴重な山鳥の肉を持って来るようになった。
すくすく育つ若い鳥の生命力が、兵士たちの倦んだ心を和ませ、活力を吹き込んだようである。
ちなみに鷹狩に使う鷹は、巣立ち前後の雛を捕えて飼育する。
この頃の幼鳥は「巣鷹」と呼ばれ、人に慣れて飼いやすくなるという。
若鳥は昼は足紐を結わえて磐余彦の肩当に止まり、夜は鳥籠に入れて寒さ除けに毛皮でくるんでやった。
おかげでひと月もすると羽が生え揃い、その頃にはすっかり磐余彦に懐いていた。
成長してみると、鷹よりも一回り小さい猛禽である。それでも羽を広げると人間の両手の幅ほどもあった。
鵄である。
磐余彦は鵄に死んだ兄の名をとってイツセと付けた。
イツセは磐余彦の肩で大人しくしていたかと思うと、さっと飛び立って上昇気流に乗り、どこかへ飛んでゆく。
ほとんど羽を動かさずに風に乗って滑空するのが鵄の特徴である。
「もう帰って来ないのでは」
と心配していると、さっと羽音がして磐余彦の肩に止まった。
「帰ってきた!」
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