東へ征(ゆ)け ―神武東征記ー

長髄彦ファン

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第八章 苦の海魔の山

第39話 海神を鎮める

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 ゴトビキ岩に参詣したのち、磐余彦いわれひこは再び船上の人となった。
 一行は二隻の船に分乗した。目指すは伊勢である。
 一隻は椎根津彦しいねつひこが舵を取り、磐余彦や日臣ひのおみ来目くめが乗り込んだ。
 もう一隻は吉備の船頭が操り、稲飯命いなひのみこと三毛入野命みけいりののみことが乗った。
 ここから紀伊半島に沿って熊野灘を北上し、伊良湖水道を抜ければ伊勢湾に入ることができる。
 湾内は太平洋の荒波とは違って波も穏やかであろう。
 伊勢に上陸して、比較的越えやすい宇陀の山塊さんかいを抜ければヤマトはすぐそこである。
日神ひのかみに向かうのは天道に逆らう行い」という五瀬命いつせのみことの遺訓を守って、東からヤマト攻略を果たす計画だった。

 ところが新宮しんぐうの湊を出て間もなく、雲行きが怪しくなった。
 行く手に黒い雲が渦を巻いている。
 風が急に勢いを増し、腰の高さほどもある白波が立ちはじめた。
 季節外れの暴風が襲ってきたのである。
 大波がうねるたびに船が大きくかしいだ。
「いったん岸に着けましょう」
 椎根津彦の判断に従い、船を岸に戻すことになった。
 だが、稲飯命や三毛入野命らが乗る吉備の船は波頭に乗り上げてしまい、木の葉のようにくるくると回り始めた。
「いかん!」
 操縦が利かなくなった船が、みるみる間に沖に流されてゆく。
 運よく転覆を免れても、このままでは黒潮にぶつかってしまう。
 ひとたび黒潮に呑み込まれたら、延々と太平洋を漂流することになる。

 その間も風はいっそう強さを増し、海面を激しく波立たせている。
 横殴りの雨に煙って数間先も見通せなくなってきた。
 それでも磐余彦を乗せた船はなんとか岸まで辿り着けそうだ。
 だが稲飯命や三毛入野命の乗る船は、為す術もなく逆巻く波にもてあそばれている。
「このままでは転覆するぞ!」
 磐余彦が必死で叫ぶが、見守るだけで手の出しようがない。
 哀れな人間の願いをあざわらうように、さらに強い風が吹き荒れ、吉備の船が大きく傾いた。
 危うく転覆は免れたが、その拍子に稲飯命の身体が宙に舞った。
「危ない!」
 海に落ちたと思われた稲飯命だったが、なんとか船縁ふなべりにしがみついていた。
「待っていろ!」
 磐余彦が助けに行こうと身を乗り出した。
「なりませぬ!」
 日臣が懸命に抑える。
 飛び込んだところで自分まで道連れになるのが落ちだ。
「離せ、日臣!」
 磐余彦があらがうが、日臣は背中からがっしりと抱き着いて離さない。
 磐余彦は稲飯命の姿をただ見守るしかなかった。
 すると、稲飯命が突如立ち上がり、剣を抜いた。
「ああ、わが祖先は天神、母は海神である。なのになぜ吾を陸に苦しめ、海に苦しめるのか!」
 叫ぶと同時に大波が押し寄せ、稲飯命は波に自ら身を投じた。
「稲飯兄!」
 磐余彦の悲痛な叫びも、荒れ狂う嵐に容赦なくかき消された。

 だが悲しんでいる暇はない。吉備の船にはまだ三毛入野命が残っている。
 ミケを入れた葛籠つづらを抱いたまま、三毛入野命は帆柱にしがみついていた。
 だが次の大波がどすんとぶつかった途端、吉備の船はめりめりと真っ二つに裂けた。
 あっと思う間もなく三毛入野命の身体が宙に浮く。次の瞬間には、三毛入野命は無情にも海に投げ出されていた。
「三毛兄!」
 磐余彦が叫んだ。今にも海に飛び込みそうな勢いである。
「なりません!」
 日臣がふたたび必死で抱き止める。
 そのとき、目の前に葛籠が海面を漂ってきた。
 みゃあみゃあ鳴く声が微かに聞こえる。
 ミケは生きている!
「引き揚げろ!」
 日臣が必死で竿を伸ばして籠を引き寄せた。
 籠から出すと、ずぶ濡れになりながらもミケは無事だった。来目が抱き抱える。
 磐余彦の目の前で、海面から首だけを出した三毛入野命が叫んだ。
「ミケを頼む!」
「承知しました!」
 磐余彦が叫ぶ。

 ところが、次の瞬間にミケが暴れ出し、来目の腕からするりと抜けていった。
「ああっ!」来目が悲鳴を上げる。
 皆が必死で追いかけるが、ミケは甲板を素早く駆け抜けると、船縁から身を躍らせて自ら海に飛び込んだ。
 なんと、三毛入野命目がけて泳いでいくつもりだ。
 だが、小さなミケの姿はあっという間に波間に消えていった。
「どうか我が身で海を鎮めさせたまえ!」
 そう叫んだ三毛入野命も同時に海中に消えた。
 三毛入野命ばかりか、託されたミケまでも喪ってしまったのだ。
「申し訳ありません!」
 来目が船底に頭をこすりつけて詫びた。
 だが、責める者はいない。誰もが仕方のないことだと分かっていた。
 『日本書紀』によれば、稲飯命は鋤持神さいもちのかみになり、三毛入野命は常世とこよの国に旅立ったとある。
 この時代、嵐や雷、火山の噴火、地震などの自然現象は神の怒りと信じられてきた。
 海神の怒りを鎮めるには生贄いけにえが必要であると。
 皇統十二代景行けいこう天皇の御世、皇子の日本武尊やまとたけるのみことにまつわる伝承でも、日本武尊の妻弟橘媛おとたちばなひめが暴風を鎮めるために浦賀うらが水道の海中に身を投じた悲劇が描かれている。

 磐余彦は愕然とした。
 僅かの期間に、五瀬命も含め一挙に三人の兄を失ってしまったのである。
 四人兄弟だったのが、あっという間に自分独りになってしまった。
 しかし、もはや帰る場所はない。
 ここまでついてきてくれた仲間のためにも、ここで諦めるわけにはいかなかった。 
 身体中が濡れ鼠になり、汗と涙が入り混じった生臭い塩水が顔にこびりついている。
 それでも磐余彦には不思議と不快な思いはなかった。
 それこそがいま生きているあかしであり、生への執着の何よりの証拠だった。
 磐余彦には波の音ですら、自分はまだ生きねばならぬという叱咤に聞こえた。
「水を掻き出せ!」
 椎根津彦は身体を船に縛りつけて、必死の形相で舵を操っている。
 髪をふり乱し、目を血走らせて叫ぶその姿は、さながら魔神が乗り移ったようである。
 椎根津彦の祖先もまた、母国の滅亡に際し、命からがら海に出て倭の地に辿り着いたのである。
 怒号が飛び交う中、舵を取る者、櫂をぐ者、荷が飛ばされぬよう支える者と、皆が必死で働いている。
 生への執着が皆の心をひとつにして、自分の役割を必死で果たそうとしている。

 気が付くとわずかに風向きが変わった。
 見ればまるで荒波に立ちはだかるように、巨大な岩が屹立きつりつして見える。
 柱状節理ちゅうじょうせつりの大絶壁である。
 そのさまが盾のように見えることから、盾ヶ崎たてがさきと呼ばれている。
「あの岩を目印に向かえ!」
 椎根津彦はためらわずに命じた。
 「おおっ!」
 漕ぎ手が必死の形相で櫂を漕ぐ。
 間もなく船は入り江の中に入っていった。
 前方に浜が見えてきて、あと少しで辿り着くというとき、どーんと横から波が寄せてきた。
 その瞬間、身体がふわりと浮いたような感覚に襲われた。
 船が宙を舞ったのだ。
 次の瞬間、激しく波に叩き付けられ、一行は海に投げ出されてしまった。
「磐余彦さま!」
「ここにいる!」
 椎根津彦の叫びに磐余彦も必死で応えるが、大波を被って息ができない。
 記憶が遠のく。

 そのとき、強い力でぐいっと腕を引かれた。
「しっかりしろ!」
 磐余彦を引き上げたのは見知らぬ顔の男だった。
 日に焼けた顔に逞しい腕。このあたりの漁師のようだ。
 磐余彦をはじめ海に投げ出された日向の兵は、漁師たちに救われ浜に辿り着くことができた。
 それでもまだ、助かったという実感はない。
 皆ずぶ濡れで、歯の根が合わないほど震えている。
 漁師たちがすぐに漁師小屋に担ぎ込んで、火をおこした。
 水浸しの衣を脱いでむしろにくるまる。
 白湯がふるまわれると、ようやく人心地がついた。
 見回すと日臣、来目、椎根津彦の顔もあった。
「みな無事だったな」
 磐余彦はようやく安堵の吐息をついた。
 
 一刻ほどして、海はようやくいだ。
「海神の怒りが鎮まったのか」
 磐余彦の呟きに応えるように、海鳥の悲しげな鳴き声が耳に届いた。 
 『日本書紀』によれば、磐余彦たちが漂着したのは荒坂津あらさかのつという地で、諸説あるが、現在の三重県熊野市の二木島にぎしま湾が有力である。
 二木島湾は南北二つの岬に囲まれた天然の良港で、湾を囲む南北の岬に二つの神社が建っている。
 伝承によれば、稲飯命の亡骸は湾の南端に漂着し、室古むろこ神社に葬られた。
 三毛入野命の遺体は見つからなかったが、御霊みたまは湾の北端の阿古師あこし神社に祀られている。 
 二木島町では、漂着した磐余彦を助けたという故事にちなむ祭りが行われてきた。
 祭のハイライトは関船競漕せきぶねきょうそうという神事で、室古神社と阿古師神社の氏子たちが二せきの船に乗り、白木綿の胴巻きを締めた姿で懸命に漕ぎ、速さを競う勇壮な祭だという。

 また宮崎県高千穂町には、三毛入野命は海難で死んだのではなく、高千穂に帰ったという伝承が残っている。
 暴風によって磐余彦とはぐれた三毛入野命がやむなく高千穂に戻ると、民は鬼八きはちという鬼に支配され苦しんでいた。
 そこで三毛入野命が鬼八を退治し、平和をもたらしたという物語である。
 その後三毛入野命は、鵜目姫うめひめめとって高千穂を治めたと伝えられる。
 高千穂神社ではこの伝承にちなんで、毎年旧暦十二月に鬼八を慰霊する猪掛祭ししかけまつりが行われている。
 高千穂神楽の原形とも伝えられる神事である。
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