東へ征(ゆ)け ―神武東征記ー

長髄彦ファン

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第八章 苦の海魔の山

第37話 名草戸畔の抵抗 

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「あの卑しい男に負わされた傷で死ぬのは……無念だ!」
 五瀬命いつせのみことの最期の叫びが、磐余彦いわれひこの耳に繰り返し響いた。
「やはりあの時、引くべきではなかった!」
 磐余彦は激しく悔いた。
 〈あの時〉とは、吉備において、総大将の地位を五瀬命に譲るという話が出た時である。
 五瀬命は大将の器ではない。
 そのことは日向ひむかの者は皆分かっていた。なればこそ磐余彦は、頑としてねつけるべきだったのだ。
――吾が譲ったばかりに、むざむざと兄を死なせてしまった! 
 悔いることはまだある。
 生駒山から真っ直ぐ東を目指し、ヤマトに攻め入るのは日神ひのかみに向かって戦いを挑むことを意味する。
 日神は天の道に通じる絶対無二の存在であり、決して侵してはならないものである。 
 戦いに際し、禁忌を侵すのは自ら身を滅ぼす原因となる。
――その誤りに気づいていながら、なぜ身をしてでも止めなかったのか?
 理由は分かっている。 
 誘惑に負けたのである。
 山一つ越えれば、ヤマトはすぐ目の前だった。
 そのほうが楽だし、手っ取り早い。
 皆、長旅で疲れている。だから一刻も早く終わらせたい、と願うのは当然の成り行きといえる。
 しかし、その一見〝楽な″道を選んだばかりに、今まで自分を信じ、苦楽を共にしてくれた多くの兵を失ってしまったのだ――。
 だが嘆いている暇はなかった。
 総大将の五瀬命を失い、全軍が動揺している。これを落ち着かせ、元に戻すのはおのが役目である。
 磐余彦には新たな指揮官として、全軍をべる責任があった。
 日臣ひのおみをはじめ、部下たちにもむろん異存はなかった。
 来目くめ椎根津彦しいねつひこにしても、五瀬命だけの誘いだったら、この遠征には付き従わなかったであろう。
 磐余彦がいたからこその従軍であることは、疑いようがない。
 兵の数は大きく減ってしまったが、陸路を進む隼手はやての部隊を合わせればまだ何とか戦うことはできる。
 宇陀うだでは隼手とともに剣根つるぎねが武器を揃えて待っていてくれる筈だ。
 日向軍は五瀬命を喪った哀しみを乗り越え、勇を鼓舞して前進することにした。

 南へ進路をとった日向軍の船は、紀伊の名草邑なくさむらの浜に上陸した。
 現在の和歌山市と海南かいなん市との市境、名草山の麓である。
 兵士たちは陸に上がれると喜んだが、この地を治める豪族の名草戸畔とべはヤマトに通じていた。
 磐余彦たちは敵の只中に上陸してしまったのである。
 ちなみに「戸畔」とは女性首長のことである。
 祭祀を司る女性がまつりごとも行う例としては、邪馬台国やまたいこくの女王卑弥呼ひみこが良く知られている。
 しかしそれから少し時代が進むと、ヤマト王ニギハヤヒのように、男王が政祭両方の権力を併せ持つようになってきた。
 その一方で、ヤマトの支配が未だ及ばぬ地域では女性首長が残っていた。
 名草戸畔もその一人である。

 話は少し遡るが、磐余彦たちが上陸するより少し前に、名草戸畔のもとをヤマトの使者が訪れていた。
「もし日向の兵がこの辺りに現れたなら、必ず討ち果たして欲しい。褒美は思いのままに与えよう」
「承知いたしました」
 名草戸畔はすぐさま応じた。
 そうとも知らず磐余彦たちは紀伊の森を抜け、名草山の麓に広がる集落を訪れた。
 集落の中央に高殿たかどのが建っており、中から名草戸畔が現れた。
 白い衣を纏った初老の女である。
 磐余彦が礼儀に従ってこの地を通過したい旨を伝えると、女はさかきを振って叫んだ。
「神のお告げじゃ。この者どもを倒せ!」
 ”神託しんたく”などではなく、ヤマトの差し金なのだが、数十人の名草兵が一斉に襲いかかった。
 だが、来目のしらせによってすでに伏兵の存在を察知していた磐余彦たちは、あっという間にこれを撃退した。
 日向兵の武器が、吉備の鉄を鍛えた鉄剣や青銅のやじりだったのに対し、名草の兵は未石斧せきふ石鏃せきぞくの矢しか携えておらず、太刀打ちできないのは明らかだった。
 名草兵の多くが負傷してうめき声を上げる中、名草戸畔はなおも抵抗を試みた。
 しかし剣を持つ手も覚束ないほどよろけている。
「殺さずに捕らえよ!」
 磐余彦が命じると、日臣はすぐに名草戸畔を生け捕りにした。
 両手をがっしりと抑えられ、名草戸畔は苦悶の表情を浮かべた。
「放してやれ」磐余彦が日臣に命じると、名草戸畔はがっくりと膝をついた。
「おとなしく従えば命までは奪わぬ」
 そう言ながら磐余彦が近づこうとした時、名草戸畔はふいに立ち上がった。
 首に掛けた黄金の首飾りを引きちぎり、思いがけない速さで突進してくる。
 手の中で何かがきらりと光った。
「死ね!」
 名草戸畔が叫びながら振り上げたのは、細長い針だった。
 磐余彦に突き刺す寸前、日臣がすれ違いざまに名草戸畔を斬った。
「ぎゃあっ!」
 名草戸畔は血しぶきを上げて倒れた。
 磐余彦は無事だったが、全身に返り血を浴び、頬にもねっとりと黒い血がこびりついた。
「不吉な」
 すぐに顔を洗い流したが、嫌な感じは拭えなかった。ぞくりと不吉な予感がした。
 名草戸畔が首飾りに仕込んだ針は長さ二寸(約六センチ)ほどで、先端にはトリカブトの毒が塗ってあった。
 刺されれば死は免れなかっただろう。
 
 名草邑を制圧した日向軍は、この先どのルートを辿るべきか話し合った。
「こんな所までヤマトの力が及んでいたとなれば、迂闊に陸路をゆくのは危険です。やはりここは紀伊半島を回り、東の伊勢からヤマトに攻め込むべきでしょう」
 日臣が主張した。
「だが、それでは時間がかかりすぎます。いったん海に出ると見せかけて紀ノ川を遡ったほうがよいと考えます」
 椎根津彦は安全策を望んでいる。
「そうだよ。隼手や剣根もあんまり長く待たされると不安になっちまう。おいらは紀ノ川に戻るほうに賛成だな」
 珍しく来目も口を挟んだ。
 皆の意見を黙って聞いていた磐余彦が最後に口を開いた。
「吾は海を回る道を選びたい。死の間際に兄が言ったように、『日神に向かって敵を討つのは天道に逆らう行い』である。だから遠回りであっても、伊勢まで海路を行き、東からヤマトを攻めたいと思う」
「磐余彦さまがそうおっしゃるなら従います」
 椎根津彦が即座に応じ、皆も揃ってうなずいた。
 一行は紀伊半島を回るべく二隻の船に戻った。
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