東へ征(ゆ)け ―神武東征記ー

長髄彦ファン

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第六章 吉備の鍛冶神

第29話 吉備の娘たち

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 そのころ児島の吉備の王館では、鷲羽王わしゅうおうが側近たちを集め、密かに話し合っていた。
 その中に顔に赤い隈取くまどりを施し、長い顎髭をたくわえた異形いぎょうの男がいた。
 男の名は玄狐げんこ、元は持衰じさいである。
 持衰とは「魏志倭人伝」に記された倭国における特殊な職で、魏への朝貢の際に船に乗り組んで、航海の安全をひたすら祈る役目を果たす。
 航海の間、持衰は頭をかずしらみも取らない。
 服は垢にまみれ、肉食をせず女性も近づけない。
 航海が成功すれば莫大な褒美手にするが、失敗すれば殺される。
 きわめて非情な運命の仕事である。
 玄狐はかつて、魏への航海でみごと役目を果たした功績により、今では吉備王の側近となっている。
「我が君、なぜあの日向ひむかの者どもに肩入れするのです。もしヤマトに知られれば、吉備にも責めが及びますぞ」
「玄狐どのの言う通りです。力衰えたりとはいえ、未だヤマトの力は強大。危ない橋を渡ってはなりません」
 臣下が口々に言うのを聞いて吉備王は迷いはじめた。
 すかさず玄狐が言う。
「吾に成算があります」

 次の日、五瀬命いつせのみことが舟で高島から児島に渡ると、玄狐が待っていた。
「おお、日向の皇子、お待ちしておりました。今日は酒など酌み交わしながら日向の話などお聞かせ願いたいものです」
「おう、それはちょうどよい。俺は戦は得意だが細かい仕事は苦手でな。武器の調達などは磐余彦いわれひこに任せっきりでやることがない。退屈していたところだ」
 酒の席には吉備の若い女が酒を用意して待っていた。
 女が纏った薄い衣の裾から、つややかでなまめかしい太腿が覗く。
 五瀬命の喉がごくりと鳴った。
「こちらは日向の皇子さまじゃ。まもなくヤマトを平定なさる」
「まあ頼もしい」
 女がふくよかな肉体をぴったりと押し付けて、五瀬命の杯に酒を注いだ。
 すすめられるままに、五瀬命は続けざまに杯を重ねた。
 玄狐はそんな五瀬命の顔をしげしげと見てため息をついた。
「やれ惜しいことだ」
「何のことだ?」
 すでにほろ酔い加減の五瀬命が訊ねた。
「武勇、知略、果敢な決断、どれをとってもあなた様のほうが上ですのに、残念です」
「磐余彦と比べてということか」五瀬命が眉をひそめた。
 玄狐がにやりとする。
「吾はあなた様こそ、総大将にふさわしいお方だと思っております」
 五瀬命がふんと鼻を鳴らした。
「仕方あるまい。日向では末子が王位に就くと決まっておる。その定めに従って父が磐余彦を皇太子に据えたのじゃ」
「ですが、それはあくまで日向にいる時の話。こうして皆さまが国を出られた以上、力ある者が王となるのが道理ではありませぬか」
「そうはいっても……」
 五瀬命が舌打ちした。
 父が決めたこととはいえ、五瀬命には心のどこかにわだかまりがあったことは否めない。
 その痛いところを衝かれたのである。
「それに、ヤマトでは長子が王位に就くのがならい。末子の磐余彦さまが王になったとして、果たしてヤマトの民臣は素直に従いますかな」
 五瀬命はむう、とうなったきり考え込んでしまった。
「まあそう深く考え込まずに、今宵は楽しい時を過ごしましょう」
 若い女の手が、いつの間にか五瀬命の腰に絡みついていた。
 五瀬命が女を見ると、篝火かがりびに照らされた女の瞳が妖しく光った。

 同じころ高島では、日臣ひのおみ椎根津彦しいねつひこに文字を習っていた。
 それを少し離れた場所から見守る女たちがいる。
 いずれも若い娘で、吉備王が身の回りの世話を焼かせるため、高島に派遣したのである。
 はじめ娘たちは、逞しい日向の若者を獣のように怖れ、乱暴されるのではないかと警戒した。
 だが凛々しく涼やかな顔立ちと、意外なほど礼儀正しく節度ある振る舞いに、逆に女たちのほうが熱を上げてしまった。
 娘たちに最も人気が高いのは日臣で、次に知性的な椎根津彦が続いた。
 だが二人とも決して不埒ふらちなことはしない。
 磐余彦は別格で、目の前に立つと緊張のあまり何も言えなくなってしまうようだ。気品に圧倒されてしまうのである。
 その点剽軽ひょうきん来目くめは話も上手で、いつの間にか女たちを手懐てなづけてしまった。
 その結果吉備王は、玄狐を通じてヤマトにも秋波しゅうはを送っていることが分かった。
「やはり油断がならぬ」
 来目の報告に椎根津彦も顔を引き締めた。
 今は同盟を結んでいるが、形勢次第ではこの先吉備がどう動くか分からない。
「吉備を頼りすぎるのは危険だな」
 磐余彦の言葉に皆がうなずいた。

 日臣は高島に着いてからも鍛錬を怠らず、一方で吉備の兵士に剣の稽古をつける日々を送っていた。
 吉備の娘たちはしきりに熱い視線を送るが、日臣はまったく振り向く素振りを見せなかった。
「あの人、あたしらにゃ見向きもしないよ」
「きっと日向にいい女でもいるのかね」
「ありゃあ、ただの朴念仁ぼくねんじんだね」
 退屈そうに見守る娘たちのさざめきをよそに、日臣は夕方からは椎根津彦に文字を習うことに熱中していた。
 はじめはなかなか覚えられなかったが、一度こつを掴むとめきめき上達し、今では三百以上の漢字が書けるようになった。
 目覚ましい上達ぶりである。
 日臣の場合は生来の身体能力に加え、学習能力や記憶力も高いことがうかがえる。
 その上達の早さは、呉の軍師である父の手ほどきを受けた椎根津彦も舌を巻くほどである。
 この日も日臣は、二十以上の漢字を覚えた。
 夕暮れまで学習を続け、ようやく酒を呑む段になったのだが、日臣は杯を手に、空に向かってまだ字を書いている。
 横目で見ていた来目が呆れたように言った。
「どうせ明日になりゃ忘れるんだから、さっさと飲もうぜ」
 来目は娘たちに囲まれてすっかりいい気分になっている。
 その言葉にかっとなった日臣が傍にあった石を投げつけた。
「おっ」
 来目がとっさのところでよけた。勘の鈍い者なら命中していたところだ。
「まあまあ、あまり根を詰めるのもからだに毒です」
 椎根津彦が執り成すように言った。
「珍しいな、日臣兄いがこんなに熱くなるとは」
 来目も首をかしげる。
 武芸一辺倒だった日臣が、勉学に熱中しているのが物珍しいのだろう。
「面白すぎて止められんのだ!」
 日臣が顔を赤らめながら叫んだ。
 娘たちが「かわいい」と嬌声きょうせいをあげた。

 日臣は初め、椎根津彦とそりが合わなかった。
 磐余彦には盲目的に忠節を誓い、言われるままに行動するのが美徳と教えられてきた日臣だった。
 その点、時には磐余彦の意見を真っ向から否定する椎根津彦は、忠義の人とは映らなかったのである。
 しかし教えを乞ううちに、椎根津彦が常に深い洞察を伴って意見していることに気づき、次第に耳を傾けるようになった。
 なかでも兵法や暦学、天文学は、人の上に立つ将としての知力や胆力の源となる。
 将が誤った判断をすれば、たちどころに兵の命は失われるからだ。
「よし、今日はもうやめだ。酒にしよう」
 ふーっと息をついて日臣が天を見上げた。
「いいとも」
 椎根津彦が微笑で応じた。
 〈勉強〉が終わるのを今か今かと待ち構えていた吉備の娘たちが、いそいそと酒や肴を手に近づいてきた。
「さあ、今度は私と一戦交えませぬか」
「そうそう、無粋な勉学など仕舞いにして、と楽しい時を過ごしましょう」
 娘たちは期待に熱く胸をときめかせている。
 衣の合わせを開けて胸の谷間を露わにしたり、裾をわざとめくり上げて太腿を大胆に晒す娘もいる。
 この時代は自由恋愛で、遠来の客でもこれと見込んだ男には一夜のとぎの女があてがわれた。
 殊に日臣や椎根津彦のように若くて武勇に優れた男たちは大いに歓迎された。
 この男たちと一夜を営み、優秀なたねが授かれば、生まれてくる子はきっと優れた若者に成長するだろう。
 その子が目ざましい武勲を挙げれば、族長となることも不可能ではない――。
 吉備の男には悪いが、この機を逃したら二度とよい男には恵まれないかもしれない。
 女たちがはかない夢を抱き、懸命に誘いをかけるのにもしかるべき理由があったのである。

「磐余彦さまといると力がみなぎってくる。吾は命を捧げても惜しくはない」
 酒を呑みながら、日臣が呟いた。
「たしかに、あの方には不思議な魅力がある。それはやつかれも感じる」
 椎根津彦が応じると、日臣はふいに向き直った。まっすぐに見て深々と頭を下げる。
「はじめ、先生のことは好かぬと思った。だがこの戦は力だけでは勝てぬ。先生の知略が必要なのだ」
 日臣の目は真剣そのものである。
「熱い人だなあ」椎根津彦の唇がわずかに動いた。
「しかし先生はなぜ磐余彦さまに従う気になったのです?」
 今度は日臣が訊ねる番である。
「あの方は不思議な方です。学があるのは塩土老翁しおつちのおじさまのお蔭でしょう。加えて野育ちなのにみやびさを備えておられる。まるで生まれながらにして天の嗣子ししのようだ」
 磐余彦は日向で塩土老翁から学問をひと通り学んできた。
 日臣も椎根津彦から学ぶようになって、磐余彦の学識がどれほどのものか、分かるようになった。
「それに、あの方には軍事の才能もあると診た。これは学んでできるものではない。持って生まれた才覚がおありになる。だから面白い」
「先生がそう思ってくれるなら吾も嬉しい。これからもよろしくお願いする!」
 日臣が深々と頭を下げると、椎根津彦は僅かに目を細め、静かにうなずいた。

 火にくべた小枝がぱちぱちとはぜた。
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