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第六章 吉備の鍛冶神
第28話 相槌を打つ
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どろどろに溶けた液状の金属が鋳型に流し込まれている。
むせ返るような熱と、金属が焦げる臭いが辺りに立ちこめる。
その中で十数人が忙しく働いている。ここは吉備の鍛冶場である。
「この鋳型からは一度に二十本の鏃ができます」
右眼に眼帯をした初老の男が誇らしげに胸を張った。
男の名は剣根、吉備の鍛冶の棟梁である。
「すごい」
傍で見ていた磐余彦は息を呑んだ。
金属工房は日向にもあったが、ここは規模がまったく違う。
日向が零細な町工場なら、吉備は大企業の最新鋭工場に匹敵する。
黒曜石を削いで作られる石鏃は、殺傷力は鉄の鏃と遜色ないが、大きさも重さもばらばらで、武器としての命中精度に欠ける。
一つ一つ手作りなので大量生産もしにくい。
その点型に流し込んでできる金属の鏃ならば、重さも形も均質にできるという利点があり、精度は格段に上がる。
隣の窯場からきん、きん、と鋭い金属音が響いた。
二人の逞しい若者が上半身裸で汗だくになりながら、大きな金槌を交互に振り下ろしている。
〈相槌を打つ〉という言葉の由来は、この作業から来ている。
彼らが叩いているのは真っ赤に灼けた鉄塊である。
「儂の息子たちです」
剣根は白いものが混じった髭を、手でしごきながら満足気にうなずいた。
大陸出身の剣根は、若い頃に製鉄技術を伝えに海を渡り、吉備の女と恋仲になって倭国に留まったという。
今では二人の子も鍛冶職人として腕をふるっている。
「芯には柔らかい鉄を用いて、その周りを硬い鉄で覆って延ばしています」
「なぜ、二つの鉄を重ねるのですか」
磐余彦が訊ねた。
「硬い鉄はよく斬れますが折れやすいのが欠点です。芯に柔らかい鉄を用いることで、粘りが出て折れにくくなります」
「なるほど」
これには日臣も興味深げにうなずいた。
剣士の日臣にとって、よい剣は喉から手が出るほど欲しいものである。
青銅剣は柔らかいため刃こぼれしやすい。そこである程度の厚みが必要となるが、そのぶん重いのが悩みの種である。
その点鉄剣は軽くて段違いに扱いやすい。特に剣根が拵える剣は格段に強く、斬れ味も鋭いのである。
日臣が試しに太さ一寸ほどの木の枝を斬ってみると、すぱっと切れた。
枝の切り口も鮮やかで、歯こぼれもまったくない。
「これはすごい」
日臣の目が輝いた。
剣は剣士にとって何物にも代えがたい武器で、誰もがよく斬れる剣を渇望する。
その上扱いやすく折れない剣ならば、何を置いても欲するのは当然である。
これまで主に兵站を担当してきたのは来目である。
食糧はもちろんだが、この先は本格的な戦いに備えて剣や矛、鎧なども整えねばならない。
そこで来目の手助けをする意味もあって、磐余彦が鍛冶工房を訪ねる機会が自然に増えた。
初めて会ったとき、磐余彦は剣根が右目に眼帯をしているのが気になった。
「戦で負った傷ですか」
「ああ、これですか」
剣根は眼帯を押さえてにやりとした。
「この目は天目一箇神に捧げました」
天目一箇神は日本神話に登場する鍛冶と製鉄の神である。
天照大神の孫にあたり、またの名を天御影神とも呼ばれる。
名前の由来は、鍛冶職人が真っ赤に熱せられた鉄の色で温度を測るのに片目を瞑ったことにある。
この時代、失明は鍛冶職人の一種の職業病ともいえた。
職人たちは炉の温度を知るため、できるだけ窯の覗き穴に目を近づけようとする。
そうしているうちに火の粉が目に入ってしまい、失明するのである。
ちなみに天一目箇神も、その姿は片目である。
「ところで、この矢を直していただきたいのですが」
磐余彦が背中の歩鞘から一本の矢を抜いて剣根に差し出した。
黒い矢羽に黒い鏃の矢である。
それを見て剣根は左眼を大きく見開いた。
「これは……!」磐余彦と矢を交互に見つめて絶句した。
「熊を仕留める時に使ったのですが、それ以後まっすぐ飛ばなくなりました」
黒鬼退治に使った矢である。
「これはもしや……」
剣根の表情に驚愕が走った。
「天羽羽矢では?」
「あっ、ご存知なのですね!」
今度は磐余彦が驚く番だった。
剣根はそれには答えず、両手で押し頂くように黒い矢を受け取ると、なめるように見た。
「間違いない。天羽羽矢じゃ」
「知っておられるなら話は早い。これを直していただきたいのです」
黒鬼の硬い頭蓋骨を貫いたせいで、鏃の先端が曲がってしまったのだ。
日向の鍛冶に修理を依頼したが、「吾には手に余ります」と断られたのである。
しかし剣根は返事をせずに黙り込んでしまった。
「どうしたのですか?」
磐余彦が重ねて問うが、剣根は答えない。
「ひょっとして長髄彦どのと関わりがあるのでは?」
椎根津彦が問いかけると、剣根はびくっとした。
「そうなのですね。吾も遠い昔にお会いしたのですが、なぜかこの弓矢を託されたのです」
磐余彦の言葉に、剣根はようやく納得がいったようだった。
そして意を決したように語りだした。
「儂はかつて、これと同じものを作ろうとしました」
今から十数年前、出雲の王だった長髄彦が、不意に剣根の館を訪ねて来たという。
出雲と吉備は中国山地を境に、日本海側と瀬戸内海側に分かれている。
長髄彦がわざわざ険しい山を越えてきたのには理由があった。
「これはヤマト王の印だ。これと同じものを汝に作って欲しい」
そう言って長髄彦が見せたのが天羽羽矢である。
「出雲の鍛冶では作れぬと言われたのだ。汝、これと同じものが作れぬか」
剣根はなぜ王の矢と同じものを作らせようとするのか尋ねた。
「訳は言えぬ。だがどうしても要るのだ」
しかし、当時の技術では同じものはできなかった。
なぜなら長髄彦が持ってきた天羽羽矢は鍛造の鉄鏃だったからである。
倭国では鉄製品の製造が始まったばかりで、しかも溶かした鉄を型に流し込む鋳造品が大半だった。
鋳造鉄は脆いのが弱点である。
それに対し鍛造は、銑鉄(溶かした鉄)の脱炭処理を行い、硬い鋼に変えてから成型する。当時の世界最先端の技術である。
そのころの剣根の工房では、まだ鋳鉄を叩いて鍛える程度の製品しか作れなかった。
鋳鉄と鍛鉄ではまず硬さや耐久性が格段に違う。
鋳造品の代表格が鋳物で、鍛造品には刀剣や刃物がある。
日本刀は「玉鋼」と呼ばれる鉄素材を用い、繰り返し叩いて鍛えられる。非常に根気のいる作業である。
湾曲した片刃の斬れ味鋭い日本刀が作られるのは、十世紀(一説には九世紀)以降といわれる。
そして砂鉄を使ったタタラと呼ばれる製鉄技術が確立するのも、早くても六世紀後半と考えられている(岩鉄は銅やリンなどの不純物が多く含まれているのに対し、日本海側の砂鉄は純度が高いのが特徴である)。
剣根は当時を振り返って磐余彦に言った。
「あの矢は唐土で作られた最新のもので、倭国のものは飛距離、強さ、硬さのどれをとっても敵いません。儂は精一杯試してみたのですが、あのときは力不足で作れませんでした」
剣根は淡々と話しながら、悔いを残しているようだった。
「そこで長髄彦さまにはやむなく一番出来がよいものをお渡ししました」
職人の誇りにかけて、納得がゆかないものを渡す屈辱はいかばかりか。
「ところが長髄彦さまはにっこり笑って『これでよい』と仰ってくださいました」
「心の広いお方なのですね」
磐余彦は今から十数年前に禁を犯して周防に渡り、長髄彦と邂逅した時のことを思い出した。
その時長髄彦は、幼い自分に弓矢を呉れたばかりか、弓の指南までしてくれたーー。
「はい。その一言で儂は救われました」
「それでは、吾が頂いたのが剣根どのの作った矢なのですね」
しかし剣根は激しく首を振った。
「これは紛うことなき真正の天羽羽矢。儂が作ったものではありません」
「では、何のために偽物を作らせたのでしょう?」
「さあ…」
剣根も首をひねった。
その問いに答えたのは椎根津彦である。
「おそらく偽物、いや剣根どのが作られた矢を、今のヤマト王に差し出したのでしょう。天羽羽矢と偽って」
「なんと!」磐余彦が驚いた。
しかし剣根は得心したようだった。
「なるほど、これで長髄彦さまがわざわざ天羽羽矢とそっくりの矢を儂に作らせた訳が分かりました」
と深くうなずいた。
長髄彦はむざむざと王の印をニギハヤヒに渡したくなかったのであろう。
それを渡すぐらいなら、偽物でよいと考えたのか――。
話は少し遡る。
何代か前、ヤマト王権の王位継承を巡って王族の間で争いが起きた。
争いに敗れたヤマトの王族素戔嗚は、王の証である弓矢を強奪し、出雲に逃亡して自らの王国を築いた。出雲王国である。
時は流れ、絶え間ないヤマトの攻勢に疲弊した出雲は、素戔嗚の死後間もなくヤマトへ従属した。
決断したのは新たに出雲王となった長髄彦で、素戔嗚の婿養子にあたる。
長髄彦はヤマト王ニギハヤヒの臣下の列に加えられ、さらに服属の証として、かつて素戔嗚がヤマトから奪ったヤマトの真宝・天鹿児弓と天羽羽矢を差し出すよう命じられた。
長髄彦と磐余彦が出逢ったのはちょうどそのころである。
そのとき何を思ったのか、長髄彦は本物の天鹿児弓と天羽羽矢を磐余彦に与え、さらに剣根に作らせた偽の矢を本物と偽り、ヤマト王に献上したのである。
それが偽物であるとも知らぬニギハヤヒは大いに喜び、長髄彦はヤマト王権の重臣として迎えられて今日に至っている。
「儂はその時思うような鏃ができなかったことを恥じ、伽耶(朝鮮半島南部の国)に渡って修業を積み、ようやく鍛造の技を我が物にしました。これがそうです」
剣根は小屋の奥から大事そうに一本の矢を取り出し、磐余彦に恭しく捧げた。
「おお」
ずっしりと重く、穂先が黒光りしている。
うっかり穂先に触れると手の皮が破れそうになるほど鋭い。
真正の天羽羽矢と寸分違わぬ出来である。
剣根の職人としての執念が、先端技術の習得を可能にさせたのであろう。
「儂はこの矢を献上しようとヤマトに遷られた長髄彦さまをお訪ねしましたが、『もはや不要』と言われ、お納めいただくことは叶いませんでした」
「『いずれこれを持つにふさわしい者が現れる』とでも言われたのでは?」
椎根津彦の言葉に剣根が飛び上がらんばかりに驚いた。
「よくお分かりで! これはきっと天一目箇神のお導きに違いありません」
剣根は磐余彦に跪いて懇願した。
「儂も連れて行って下さい。子らも立派に成長し、この地にはもはや未練はありません。せっかくのお導きならば、あなた様のお役に立ちましょう」
こうして剣根も日向軍に加わった。
優れた武器を製造する鍛冶職人が加わったことで、日向軍の士気はいやが上にも高まった。
むせ返るような熱と、金属が焦げる臭いが辺りに立ちこめる。
その中で十数人が忙しく働いている。ここは吉備の鍛冶場である。
「この鋳型からは一度に二十本の鏃ができます」
右眼に眼帯をした初老の男が誇らしげに胸を張った。
男の名は剣根、吉備の鍛冶の棟梁である。
「すごい」
傍で見ていた磐余彦は息を呑んだ。
金属工房は日向にもあったが、ここは規模がまったく違う。
日向が零細な町工場なら、吉備は大企業の最新鋭工場に匹敵する。
黒曜石を削いで作られる石鏃は、殺傷力は鉄の鏃と遜色ないが、大きさも重さもばらばらで、武器としての命中精度に欠ける。
一つ一つ手作りなので大量生産もしにくい。
その点型に流し込んでできる金属の鏃ならば、重さも形も均質にできるという利点があり、精度は格段に上がる。
隣の窯場からきん、きん、と鋭い金属音が響いた。
二人の逞しい若者が上半身裸で汗だくになりながら、大きな金槌を交互に振り下ろしている。
〈相槌を打つ〉という言葉の由来は、この作業から来ている。
彼らが叩いているのは真っ赤に灼けた鉄塊である。
「儂の息子たちです」
剣根は白いものが混じった髭を、手でしごきながら満足気にうなずいた。
大陸出身の剣根は、若い頃に製鉄技術を伝えに海を渡り、吉備の女と恋仲になって倭国に留まったという。
今では二人の子も鍛冶職人として腕をふるっている。
「芯には柔らかい鉄を用いて、その周りを硬い鉄で覆って延ばしています」
「なぜ、二つの鉄を重ねるのですか」
磐余彦が訊ねた。
「硬い鉄はよく斬れますが折れやすいのが欠点です。芯に柔らかい鉄を用いることで、粘りが出て折れにくくなります」
「なるほど」
これには日臣も興味深げにうなずいた。
剣士の日臣にとって、よい剣は喉から手が出るほど欲しいものである。
青銅剣は柔らかいため刃こぼれしやすい。そこである程度の厚みが必要となるが、そのぶん重いのが悩みの種である。
その点鉄剣は軽くて段違いに扱いやすい。特に剣根が拵える剣は格段に強く、斬れ味も鋭いのである。
日臣が試しに太さ一寸ほどの木の枝を斬ってみると、すぱっと切れた。
枝の切り口も鮮やかで、歯こぼれもまったくない。
「これはすごい」
日臣の目が輝いた。
剣は剣士にとって何物にも代えがたい武器で、誰もがよく斬れる剣を渇望する。
その上扱いやすく折れない剣ならば、何を置いても欲するのは当然である。
これまで主に兵站を担当してきたのは来目である。
食糧はもちろんだが、この先は本格的な戦いに備えて剣や矛、鎧なども整えねばならない。
そこで来目の手助けをする意味もあって、磐余彦が鍛冶工房を訪ねる機会が自然に増えた。
初めて会ったとき、磐余彦は剣根が右目に眼帯をしているのが気になった。
「戦で負った傷ですか」
「ああ、これですか」
剣根は眼帯を押さえてにやりとした。
「この目は天目一箇神に捧げました」
天目一箇神は日本神話に登場する鍛冶と製鉄の神である。
天照大神の孫にあたり、またの名を天御影神とも呼ばれる。
名前の由来は、鍛冶職人が真っ赤に熱せられた鉄の色で温度を測るのに片目を瞑ったことにある。
この時代、失明は鍛冶職人の一種の職業病ともいえた。
職人たちは炉の温度を知るため、できるだけ窯の覗き穴に目を近づけようとする。
そうしているうちに火の粉が目に入ってしまい、失明するのである。
ちなみに天一目箇神も、その姿は片目である。
「ところで、この矢を直していただきたいのですが」
磐余彦が背中の歩鞘から一本の矢を抜いて剣根に差し出した。
黒い矢羽に黒い鏃の矢である。
それを見て剣根は左眼を大きく見開いた。
「これは……!」磐余彦と矢を交互に見つめて絶句した。
「熊を仕留める時に使ったのですが、それ以後まっすぐ飛ばなくなりました」
黒鬼退治に使った矢である。
「これはもしや……」
剣根の表情に驚愕が走った。
「天羽羽矢では?」
「あっ、ご存知なのですね!」
今度は磐余彦が驚く番だった。
剣根はそれには答えず、両手で押し頂くように黒い矢を受け取ると、なめるように見た。
「間違いない。天羽羽矢じゃ」
「知っておられるなら話は早い。これを直していただきたいのです」
黒鬼の硬い頭蓋骨を貫いたせいで、鏃の先端が曲がってしまったのだ。
日向の鍛冶に修理を依頼したが、「吾には手に余ります」と断られたのである。
しかし剣根は返事をせずに黙り込んでしまった。
「どうしたのですか?」
磐余彦が重ねて問うが、剣根は答えない。
「ひょっとして長髄彦どのと関わりがあるのでは?」
椎根津彦が問いかけると、剣根はびくっとした。
「そうなのですね。吾も遠い昔にお会いしたのですが、なぜかこの弓矢を託されたのです」
磐余彦の言葉に、剣根はようやく納得がいったようだった。
そして意を決したように語りだした。
「儂はかつて、これと同じものを作ろうとしました」
今から十数年前、出雲の王だった長髄彦が、不意に剣根の館を訪ねて来たという。
出雲と吉備は中国山地を境に、日本海側と瀬戸内海側に分かれている。
長髄彦がわざわざ険しい山を越えてきたのには理由があった。
「これはヤマト王の印だ。これと同じものを汝に作って欲しい」
そう言って長髄彦が見せたのが天羽羽矢である。
「出雲の鍛冶では作れぬと言われたのだ。汝、これと同じものが作れぬか」
剣根はなぜ王の矢と同じものを作らせようとするのか尋ねた。
「訳は言えぬ。だがどうしても要るのだ」
しかし、当時の技術では同じものはできなかった。
なぜなら長髄彦が持ってきた天羽羽矢は鍛造の鉄鏃だったからである。
倭国では鉄製品の製造が始まったばかりで、しかも溶かした鉄を型に流し込む鋳造品が大半だった。
鋳造鉄は脆いのが弱点である。
それに対し鍛造は、銑鉄(溶かした鉄)の脱炭処理を行い、硬い鋼に変えてから成型する。当時の世界最先端の技術である。
そのころの剣根の工房では、まだ鋳鉄を叩いて鍛える程度の製品しか作れなかった。
鋳鉄と鍛鉄ではまず硬さや耐久性が格段に違う。
鋳造品の代表格が鋳物で、鍛造品には刀剣や刃物がある。
日本刀は「玉鋼」と呼ばれる鉄素材を用い、繰り返し叩いて鍛えられる。非常に根気のいる作業である。
湾曲した片刃の斬れ味鋭い日本刀が作られるのは、十世紀(一説には九世紀)以降といわれる。
そして砂鉄を使ったタタラと呼ばれる製鉄技術が確立するのも、早くても六世紀後半と考えられている(岩鉄は銅やリンなどの不純物が多く含まれているのに対し、日本海側の砂鉄は純度が高いのが特徴である)。
剣根は当時を振り返って磐余彦に言った。
「あの矢は唐土で作られた最新のもので、倭国のものは飛距離、強さ、硬さのどれをとっても敵いません。儂は精一杯試してみたのですが、あのときは力不足で作れませんでした」
剣根は淡々と話しながら、悔いを残しているようだった。
「そこで長髄彦さまにはやむなく一番出来がよいものをお渡ししました」
職人の誇りにかけて、納得がゆかないものを渡す屈辱はいかばかりか。
「ところが長髄彦さまはにっこり笑って『これでよい』と仰ってくださいました」
「心の広いお方なのですね」
磐余彦は今から十数年前に禁を犯して周防に渡り、長髄彦と邂逅した時のことを思い出した。
その時長髄彦は、幼い自分に弓矢を呉れたばかりか、弓の指南までしてくれたーー。
「はい。その一言で儂は救われました」
「それでは、吾が頂いたのが剣根どのの作った矢なのですね」
しかし剣根は激しく首を振った。
「これは紛うことなき真正の天羽羽矢。儂が作ったものではありません」
「では、何のために偽物を作らせたのでしょう?」
「さあ…」
剣根も首をひねった。
その問いに答えたのは椎根津彦である。
「おそらく偽物、いや剣根どのが作られた矢を、今のヤマト王に差し出したのでしょう。天羽羽矢と偽って」
「なんと!」磐余彦が驚いた。
しかし剣根は得心したようだった。
「なるほど、これで長髄彦さまがわざわざ天羽羽矢とそっくりの矢を儂に作らせた訳が分かりました」
と深くうなずいた。
長髄彦はむざむざと王の印をニギハヤヒに渡したくなかったのであろう。
それを渡すぐらいなら、偽物でよいと考えたのか――。
話は少し遡る。
何代か前、ヤマト王権の王位継承を巡って王族の間で争いが起きた。
争いに敗れたヤマトの王族素戔嗚は、王の証である弓矢を強奪し、出雲に逃亡して自らの王国を築いた。出雲王国である。
時は流れ、絶え間ないヤマトの攻勢に疲弊した出雲は、素戔嗚の死後間もなくヤマトへ従属した。
決断したのは新たに出雲王となった長髄彦で、素戔嗚の婿養子にあたる。
長髄彦はヤマト王ニギハヤヒの臣下の列に加えられ、さらに服属の証として、かつて素戔嗚がヤマトから奪ったヤマトの真宝・天鹿児弓と天羽羽矢を差し出すよう命じられた。
長髄彦と磐余彦が出逢ったのはちょうどそのころである。
そのとき何を思ったのか、長髄彦は本物の天鹿児弓と天羽羽矢を磐余彦に与え、さらに剣根に作らせた偽の矢を本物と偽り、ヤマト王に献上したのである。
それが偽物であるとも知らぬニギハヤヒは大いに喜び、長髄彦はヤマト王権の重臣として迎えられて今日に至っている。
「儂はその時思うような鏃ができなかったことを恥じ、伽耶(朝鮮半島南部の国)に渡って修業を積み、ようやく鍛造の技を我が物にしました。これがそうです」
剣根は小屋の奥から大事そうに一本の矢を取り出し、磐余彦に恭しく捧げた。
「おお」
ずっしりと重く、穂先が黒光りしている。
うっかり穂先に触れると手の皮が破れそうになるほど鋭い。
真正の天羽羽矢と寸分違わぬ出来である。
剣根の職人としての執念が、先端技術の習得を可能にさせたのであろう。
「儂はこの矢を献上しようとヤマトに遷られた長髄彦さまをお訪ねしましたが、『もはや不要』と言われ、お納めいただくことは叶いませんでした」
「『いずれこれを持つにふさわしい者が現れる』とでも言われたのでは?」
椎根津彦の言葉に剣根が飛び上がらんばかりに驚いた。
「よくお分かりで! これはきっと天一目箇神のお導きに違いありません」
剣根は磐余彦に跪いて懇願した。
「儂も連れて行って下さい。子らも立派に成長し、この地にはもはや未練はありません。せっかくのお導きならば、あなた様のお役に立ちましょう」
こうして剣根も日向軍に加わった。
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