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第二章 出雲の狼
第8話 美し国ヤマト
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熊肉の粥を半分ほど啜った塩土老翁は、目に見えて血色が良くなった。
「遠い昔に、儂は一度だけヤマトに行ったことがあります」
粥の椀を置いた塩土老翁は、遠くを見るような目で言った。
「それはそれは、美し国でした。山は青く稲が豊かに稔り、民も穏やかに暮らしておりました」
磐余彦もうなずいて言った。
「吾もいつかヤマトに行ってみたいものです。そして長髄彦どのにも弓矢を頂いた御礼が言えれば」
塩土老翁はそれには答えず、眼光鋭く磐余彦を睨んだ。
「いま長髄彦どのは、ヤマト王を支える将軍の一人としてヤマトにおわします。お行きになるのは結構ですが、敵か味方か、どちらのお立場で行かれるかが問題です」
磐余彦ははっとしてすぐに答えた。
「つまり我が日向がヤマトと戦う危険性も孕んでいる以上、安易に行くことはできぬということですね」
「ご明察」
塩土老翁は賢い弟子の言葉に満足気に目を細めた。
「さすがにそれは、難しいですね…」磐余彦は頭をかいた。
倭国では百年ほど前まで小さなクニ同士が争い、殺し合うという殺伐とした時代が長く続いた。
その時一人の女王が現れ、三十ものクニグニを束ねてひとつの連合体が出来上がった。国の名はヤマト、女王の名は卑弥呼である。
卑弥呼女王の下、民は心を一つにして働いた。その結果国は治まり、民の暮らしが安定するとともに四方の国々から多くの交易品が集まるようになった。
北の珍しい魚や毛皮、東からは翡翠、南からはゴホウラなどの貴重な貝。祭祀に欠かせない丹(水銀)も吉野の山から掘り出された。
富を蓄え力を備えたヤマトは、魏の皇帝に朝貢の使者を送った。女王はその返礼として皇帝から「親魏倭王」の金印を授かり、銅鏡百枚を下賜された。
ヤマトはその時期、紛れもなく絶頂期を迎えていた。
しかし――
女王が薨じてすでに半世紀が過ぎた。
「ヤマトは未だ強大です。しかし大きな課題が残っております」
塩土老翁はいったん言葉を切り、ぽつりと言った。
「実は唐土では、晋の皇帝と親族の間で争いが起きているようです」
「なんと!」
大陸では魏、呉、蜀が覇を競った『三国志』の時代はすでに終わり、晋が興った。西暦二六五年のことである。
しかしその晋も、初代皇帝司馬炎の死後、皇族同士の争いが起き、ふたたび天下は乱れた。
世にいう八王の乱である。
塩土老翁は唐土に残ったかつての仲間を通じて、彼の地の情勢をいち早く掴んでいた。
「だから、今のヤマトは案外弱いかもしれません」
「それはなぜ?」
磐余彦は驚いて訊ねた。
「自らの力で国の舵取りをしようとしないからです」
磐余彦ははっとした。
「こののち誰が唐土の覇権を握るかは、儂にも分かりかねます。しかしだからといって、このまま手を拱いて次なる脅威が現れるのを眺めているだけでは、すぐに立ち行かなくなりましょう」
「たしかに、新たな国が倭国にとって脅威となることも、十分に考えられます」
磐余彦は眉間に皺を寄せてうなずいた。
いまや大陸の情勢は大きく変化し、新たに興った半島の部族も着々と力を蓄え、倭国への進出を虎視眈々と狙っていると考えてよい。
それなのに、倭国では未だ政の主体はクニ(部族)単位で、クニとクニの枠を越えた政治体制は整っていない。
「ヤマトが弱いと言った理由はまさにそこにあります。本質は部族連合にすぎない国が、大国の膝下にひとたび跪くと、自ら国の舵取りをしようとする心が弱くなるのは自然の理なのです」
連合政権内ではさまざまな問題が沈殿し、今では国全体を統べる意図すら衰えてきているように映る。
長らく大国に庇護されてぬくぬく過ごした国が、その後ろ盾を失った時の狼狽えぶりと悲惨な末路は、歴史が証明している。
「海の向こうの大国が一度に動員できる兵の数は、百万にも及びましょう。ひとたび攻め来れば日向はおろか筑紫、いや倭国全体を以てしても瞬く間に呑み込まれるでしょう」
塩土老翁の言葉は、未だ見ぬ異国への憧れよりも、むしろ恐怖を際立たせた。
「いずれにせよ、今までのようにただ唐土に臣下の礼を取るだけでは、倭国はいずれ立ち行かなくなります。幸い大陸と倭国の間には海があります。むしろ大陸が混乱している今この時こそ、この国が生まれ変わるよい機会なのです」
「そのためには倭国をひとつに纏めなければならない、ということですね」
磐余彦の言葉に、塩土老翁は何度もうなずいた。
塩土老翁や磐余彦が危機感を抱くのには理由がある。
九州は大陸や半島に近い。それだけに海の向こうの情勢の変化にも敏感で、警戒心も強い。
どの勢力と手を結ぶのが自分にとって最も利益をもたらすか、どの程度距離を置くべきか、常に考えて行動している。
九州の勢力が大陸や半島の進んだ文化や技術を積極的に採り入れながらも、安易に外国勢力に臣従しなかったのは、そうした危機への嗅覚が優れていたからである。
その点ヤマトは大陸・半島から遠いぶん、無垢なくらい大陸の制度や文物に頼りきっている。
信じて従うことは悪いことではない。
だが大陸は百戦錬磨、狡猾老獪な狐狸の如き連中がうようよいる。
うわべは貴人を装いながら、衣の下には野盗にも等しい卑しい性根が透けて見えるのが、ヤマトの連中には分からないようだ。
ヤマトの純朴すぎる外交を見るにつけ、このまま倭国の舵取りを任せるにはいささか危険だと言わざるをえない。
「いずれにせよ、吾がヤマトへ行くのは難しいようですね」
磐余彦が言うと塩土老翁は首を振り、「だからこそ、行かねばならぬのです!」と絞り出すように言った。
磐余彦があっけに取られていると、
「お行きなされ、磐余彦さま」
塩土老翁は繰り返し言い、にやりと笑った。
「儂は磐余彦さまに、ヤマトの地で倭国を束ねる役目に就いていただきたいのです」
「えっ、吾がですか?」
磐余彦は困惑して塩土老翁の顔を見た。からかわれていると思ったのである。
しかし塩土老翁は、思いがけないほど強い力で磐余彦の手を握って言った。
「そうです。それができるのは磐余彦さましかおらぬ、と儂は信じております」
その顔はあくまでも真剣だった。
(第二章終わり)
「遠い昔に、儂は一度だけヤマトに行ったことがあります」
粥の椀を置いた塩土老翁は、遠くを見るような目で言った。
「それはそれは、美し国でした。山は青く稲が豊かに稔り、民も穏やかに暮らしておりました」
磐余彦もうなずいて言った。
「吾もいつかヤマトに行ってみたいものです。そして長髄彦どのにも弓矢を頂いた御礼が言えれば」
塩土老翁はそれには答えず、眼光鋭く磐余彦を睨んだ。
「いま長髄彦どのは、ヤマト王を支える将軍の一人としてヤマトにおわします。お行きになるのは結構ですが、敵か味方か、どちらのお立場で行かれるかが問題です」
磐余彦ははっとしてすぐに答えた。
「つまり我が日向がヤマトと戦う危険性も孕んでいる以上、安易に行くことはできぬということですね」
「ご明察」
塩土老翁は賢い弟子の言葉に満足気に目を細めた。
「さすがにそれは、難しいですね…」磐余彦は頭をかいた。
倭国では百年ほど前まで小さなクニ同士が争い、殺し合うという殺伐とした時代が長く続いた。
その時一人の女王が現れ、三十ものクニグニを束ねてひとつの連合体が出来上がった。国の名はヤマト、女王の名は卑弥呼である。
卑弥呼女王の下、民は心を一つにして働いた。その結果国は治まり、民の暮らしが安定するとともに四方の国々から多くの交易品が集まるようになった。
北の珍しい魚や毛皮、東からは翡翠、南からはゴホウラなどの貴重な貝。祭祀に欠かせない丹(水銀)も吉野の山から掘り出された。
富を蓄え力を備えたヤマトは、魏の皇帝に朝貢の使者を送った。女王はその返礼として皇帝から「親魏倭王」の金印を授かり、銅鏡百枚を下賜された。
ヤマトはその時期、紛れもなく絶頂期を迎えていた。
しかし――
女王が薨じてすでに半世紀が過ぎた。
「ヤマトは未だ強大です。しかし大きな課題が残っております」
塩土老翁はいったん言葉を切り、ぽつりと言った。
「実は唐土では、晋の皇帝と親族の間で争いが起きているようです」
「なんと!」
大陸では魏、呉、蜀が覇を競った『三国志』の時代はすでに終わり、晋が興った。西暦二六五年のことである。
しかしその晋も、初代皇帝司馬炎の死後、皇族同士の争いが起き、ふたたび天下は乱れた。
世にいう八王の乱である。
塩土老翁は唐土に残ったかつての仲間を通じて、彼の地の情勢をいち早く掴んでいた。
「だから、今のヤマトは案外弱いかもしれません」
「それはなぜ?」
磐余彦は驚いて訊ねた。
「自らの力で国の舵取りをしようとしないからです」
磐余彦ははっとした。
「こののち誰が唐土の覇権を握るかは、儂にも分かりかねます。しかしだからといって、このまま手を拱いて次なる脅威が現れるのを眺めているだけでは、すぐに立ち行かなくなりましょう」
「たしかに、新たな国が倭国にとって脅威となることも、十分に考えられます」
磐余彦は眉間に皺を寄せてうなずいた。
いまや大陸の情勢は大きく変化し、新たに興った半島の部族も着々と力を蓄え、倭国への進出を虎視眈々と狙っていると考えてよい。
それなのに、倭国では未だ政の主体はクニ(部族)単位で、クニとクニの枠を越えた政治体制は整っていない。
「ヤマトが弱いと言った理由はまさにそこにあります。本質は部族連合にすぎない国が、大国の膝下にひとたび跪くと、自ら国の舵取りをしようとする心が弱くなるのは自然の理なのです」
連合政権内ではさまざまな問題が沈殿し、今では国全体を統べる意図すら衰えてきているように映る。
長らく大国に庇護されてぬくぬく過ごした国が、その後ろ盾を失った時の狼狽えぶりと悲惨な末路は、歴史が証明している。
「海の向こうの大国が一度に動員できる兵の数は、百万にも及びましょう。ひとたび攻め来れば日向はおろか筑紫、いや倭国全体を以てしても瞬く間に呑み込まれるでしょう」
塩土老翁の言葉は、未だ見ぬ異国への憧れよりも、むしろ恐怖を際立たせた。
「いずれにせよ、今までのようにただ唐土に臣下の礼を取るだけでは、倭国はいずれ立ち行かなくなります。幸い大陸と倭国の間には海があります。むしろ大陸が混乱している今この時こそ、この国が生まれ変わるよい機会なのです」
「そのためには倭国をひとつに纏めなければならない、ということですね」
磐余彦の言葉に、塩土老翁は何度もうなずいた。
塩土老翁や磐余彦が危機感を抱くのには理由がある。
九州は大陸や半島に近い。それだけに海の向こうの情勢の変化にも敏感で、警戒心も強い。
どの勢力と手を結ぶのが自分にとって最も利益をもたらすか、どの程度距離を置くべきか、常に考えて行動している。
九州の勢力が大陸や半島の進んだ文化や技術を積極的に採り入れながらも、安易に外国勢力に臣従しなかったのは、そうした危機への嗅覚が優れていたからである。
その点ヤマトは大陸・半島から遠いぶん、無垢なくらい大陸の制度や文物に頼りきっている。
信じて従うことは悪いことではない。
だが大陸は百戦錬磨、狡猾老獪な狐狸の如き連中がうようよいる。
うわべは貴人を装いながら、衣の下には野盗にも等しい卑しい性根が透けて見えるのが、ヤマトの連中には分からないようだ。
ヤマトの純朴すぎる外交を見るにつけ、このまま倭国の舵取りを任せるにはいささか危険だと言わざるをえない。
「いずれにせよ、吾がヤマトへ行くのは難しいようですね」
磐余彦が言うと塩土老翁は首を振り、「だからこそ、行かねばならぬのです!」と絞り出すように言った。
磐余彦があっけに取られていると、
「お行きなされ、磐余彦さま」
塩土老翁は繰り返し言い、にやりと笑った。
「儂は磐余彦さまに、ヤマトの地で倭国を束ねる役目に就いていただきたいのです」
「えっ、吾がですか?」
磐余彦は困惑して塩土老翁の顔を見た。からかわれていると思ったのである。
しかし塩土老翁は、思いがけないほど強い力で磐余彦の手を握って言った。
「そうです。それができるのは磐余彦さましかおらぬ、と儂は信じております」
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(第二章終わり)
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