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第二章 出雲の狼
第5話 貝の腕輪
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今から十数年前、磐余彦は周防(山口県)の地で一人の男に出会った。
このとき磐余彦はまだ十二歳。兄の五瀬命に誘われるままに海を渡り、密かに本州の地を踏んだのである。
「海を越えてはならぬ」
日向の王である父ウガヤフキアエズは、息子たちにそう厳命していた。
この頃九州島は北半分は筑紫王、南の大半を日向王が支配し、均衡が保たれていた。
これに対し本州の西の大部分はヤマトの版図で、異国の者が断りなく立ち入ることは固く禁じられていた。
見つかれば殺されても文句は言えない。
しかし五瀬命は本州と九州を行き来する交易船の船頭を買収し、本州西端の周防に上陸した。
ただしそこはヤマトと同盟関係にある出雲の領地だった。
五瀬命たちが陸に上がって、まずしたことは狩りである。
持ってきた食料はあらかた底をつき、とにかく腹が空いていた。
ウサギでも山鳥でも何でもいい、何か仕留めて腹に収めたい、その一心だった。
藪を分け入り、息を潜めていると右手の草むらで微かな音がした。
磐余彦は腰をかがめ、忍び足で近づいた。おそらく草むらの中に鳥が潜んでいる。
そのとき甲高い鳴き声がした。
ケーン、ケーン
――キジだ。
磐余彦は矢を番え、弦を引き絞ってキジが飛び立つ瞬間を待った。
さっと草が揺れ、羽影が右目の隅をよぎった。察知したキジが飛び立ったのだ。
――しめた!
磐余彦が矢を放った。矢は空を切り裂き、キジに向けてまっすぐ飛んでいる。
仕留めた、と思った瞬間、別の方角から黒い筋が横切るのが見えた。黒い矢だ。しかも磐余彦の矢より数段速い。
あっと思う間もなく羽がぱっと散った。黒矢がキジの体を貫いたのである。キジは真っ逆さまに落ちていった。
磐余彦の矢は虚しく空に弧を描き、藪の中に消えた。だが黒い矢さえ邪魔をしなければ、磐余彦の矢がキジを捉えていたはずである。
磐余彦は駆け寄って、キジの骸を見た。黒い矢はキジの身体を深々と貫いていた。
その時、左手の木陰から一人の男がゆっくりと姿を現した。
長身で隆々とした肉付きの偉丈夫である。厚い胸板から伸びた逞しい腕に黒い弓を抱えている。
男が放つ鋭い眼光に射られ、磐余彦は息を呑んだ。狼のような目だ、と思った。
「小僧、お前もあのキジを狙っていたのか?」
上から浴びせる低い声が威圧的だった。
磐余彦は首をすくめて小さく肯いた。十二歳の童には、それ以外の術はなかった。
「この辺りの者ではないな?」
ふたたび肯く磐余彦。
ちらっと五瀬命のいるほうを窺ったが、五瀬命は藪に隠れたまま姿を現さない。
卑怯ではない。むしろやむをえないことである。
九州の国々が、本州西部を支配するヤマト連合とは長い戦いの後の休戦状態にあったことはすでに述べた。
つまり磐余彦たちがやったことは、敵の支配地域への無断侵入である。
しかも勝手に猟をした。それがどれほど重大な罪であるかぐらいは、幼い磐余彦でも弁えていた。
見つかったら殺されても文句は言えない。もしここで五瀬命が現れたとしても、一緒に殺されるのが落ちだ。
ならば犠牲者は少ないほうがいい、と磐余彦は覚悟を決めた。
しかし男はふっと笑い、キジを突き出した。
「欲しいなら呉れてやる」
「えっ!」
「小僧もなかなかいい腕をしている。俺の矢が当たらなければ、汝が仕留めていた」
磐余彦は戸惑った。まさか禁断の猟を見逃され上に、獲物まで貰えるとは考えもしなかった。
戸惑いながら手を差し出すと、いきなり右腕を掴まれた。磐余彦は驚いてその手をふりほどこうとしたが、太い腕は巌のようにびくともしない。
ただし男の目から殺気は消えていた。
「まだまだ細いな」男がぼそりと言った。
磐余彦は恥じらうとともに頬を染めた。
「幾つになる」
「……十二です」
「励むがよい」
男は眼を細めて言うと、くるりと背を向けた。
そのまま足早に立ち去ろうとしている。
「どうすれば弓が上達するでしょうか?」
男の後ろ姿に、磐余彦はとっさに声をかけた。
振り返った男の顔は、ぽかんと口をあけ、あきれたような表情をしていた。
無理もない。
この小僧は、殺されても仕方のないところを見逃して貰ったうえに、弓の手ほどきまで受けようというのだ。
いくら子供とはいえ虫がよすぎる。
「聞きたいのか?」
「お教えください!」
磐余彦は必死で声をあげながら駆け出していた。
「ただで教えろというのか?」
男の顔にはすでにからかいの気分が芽生えていたが、磐余彦にはそれを理解する余裕もなかった。
いそいで腕にはめていた貝輪を外し、男に差し出した。
「これでいかがでしょう」
それを見るなり男はかっと目を見開いた。
「これは、ゴホウラではないか!」
ゴホウラ(護法螺)とは琉球など南の島で採れる大型の巻貝である。内側に美しい光沢があることから螺鈿細工などに用いられる。
正倉院の御物の中にも認められる貴重な貝である。
しかもこの小僧は、金の首飾りや翡翠の勾玉まで身につけている。
翡翠は越(新潟)の奴奈川(姫川)でしか採れない高価な宝石で、王族だけが身に帯びることができる。
「汝はどこから来た?」
「はい、日向から参りました。父はウガヤフキアエズと申します」
男の目がふたたび大きく見開かれた。
このとき磐余彦はまだ十二歳。兄の五瀬命に誘われるままに海を渡り、密かに本州の地を踏んだのである。
「海を越えてはならぬ」
日向の王である父ウガヤフキアエズは、息子たちにそう厳命していた。
この頃九州島は北半分は筑紫王、南の大半を日向王が支配し、均衡が保たれていた。
これに対し本州の西の大部分はヤマトの版図で、異国の者が断りなく立ち入ることは固く禁じられていた。
見つかれば殺されても文句は言えない。
しかし五瀬命は本州と九州を行き来する交易船の船頭を買収し、本州西端の周防に上陸した。
ただしそこはヤマトと同盟関係にある出雲の領地だった。
五瀬命たちが陸に上がって、まずしたことは狩りである。
持ってきた食料はあらかた底をつき、とにかく腹が空いていた。
ウサギでも山鳥でも何でもいい、何か仕留めて腹に収めたい、その一心だった。
藪を分け入り、息を潜めていると右手の草むらで微かな音がした。
磐余彦は腰をかがめ、忍び足で近づいた。おそらく草むらの中に鳥が潜んでいる。
そのとき甲高い鳴き声がした。
ケーン、ケーン
――キジだ。
磐余彦は矢を番え、弦を引き絞ってキジが飛び立つ瞬間を待った。
さっと草が揺れ、羽影が右目の隅をよぎった。察知したキジが飛び立ったのだ。
――しめた!
磐余彦が矢を放った。矢は空を切り裂き、キジに向けてまっすぐ飛んでいる。
仕留めた、と思った瞬間、別の方角から黒い筋が横切るのが見えた。黒い矢だ。しかも磐余彦の矢より数段速い。
あっと思う間もなく羽がぱっと散った。黒矢がキジの体を貫いたのである。キジは真っ逆さまに落ちていった。
磐余彦の矢は虚しく空に弧を描き、藪の中に消えた。だが黒い矢さえ邪魔をしなければ、磐余彦の矢がキジを捉えていたはずである。
磐余彦は駆け寄って、キジの骸を見た。黒い矢はキジの身体を深々と貫いていた。
その時、左手の木陰から一人の男がゆっくりと姿を現した。
長身で隆々とした肉付きの偉丈夫である。厚い胸板から伸びた逞しい腕に黒い弓を抱えている。
男が放つ鋭い眼光に射られ、磐余彦は息を呑んだ。狼のような目だ、と思った。
「小僧、お前もあのキジを狙っていたのか?」
上から浴びせる低い声が威圧的だった。
磐余彦は首をすくめて小さく肯いた。十二歳の童には、それ以外の術はなかった。
「この辺りの者ではないな?」
ふたたび肯く磐余彦。
ちらっと五瀬命のいるほうを窺ったが、五瀬命は藪に隠れたまま姿を現さない。
卑怯ではない。むしろやむをえないことである。
九州の国々が、本州西部を支配するヤマト連合とは長い戦いの後の休戦状態にあったことはすでに述べた。
つまり磐余彦たちがやったことは、敵の支配地域への無断侵入である。
しかも勝手に猟をした。それがどれほど重大な罪であるかぐらいは、幼い磐余彦でも弁えていた。
見つかったら殺されても文句は言えない。もしここで五瀬命が現れたとしても、一緒に殺されるのが落ちだ。
ならば犠牲者は少ないほうがいい、と磐余彦は覚悟を決めた。
しかし男はふっと笑い、キジを突き出した。
「欲しいなら呉れてやる」
「えっ!」
「小僧もなかなかいい腕をしている。俺の矢が当たらなければ、汝が仕留めていた」
磐余彦は戸惑った。まさか禁断の猟を見逃され上に、獲物まで貰えるとは考えもしなかった。
戸惑いながら手を差し出すと、いきなり右腕を掴まれた。磐余彦は驚いてその手をふりほどこうとしたが、太い腕は巌のようにびくともしない。
ただし男の目から殺気は消えていた。
「まだまだ細いな」男がぼそりと言った。
磐余彦は恥じらうとともに頬を染めた。
「幾つになる」
「……十二です」
「励むがよい」
男は眼を細めて言うと、くるりと背を向けた。
そのまま足早に立ち去ろうとしている。
「どうすれば弓が上達するでしょうか?」
男の後ろ姿に、磐余彦はとっさに声をかけた。
振り返った男の顔は、ぽかんと口をあけ、あきれたような表情をしていた。
無理もない。
この小僧は、殺されても仕方のないところを見逃して貰ったうえに、弓の手ほどきまで受けようというのだ。
いくら子供とはいえ虫がよすぎる。
「聞きたいのか?」
「お教えください!」
磐余彦は必死で声をあげながら駆け出していた。
「ただで教えろというのか?」
男の顔にはすでにからかいの気分が芽生えていたが、磐余彦にはそれを理解する余裕もなかった。
いそいで腕にはめていた貝輪を外し、男に差し出した。
「これでいかがでしょう」
それを見るなり男はかっと目を見開いた。
「これは、ゴホウラではないか!」
ゴホウラ(護法螺)とは琉球など南の島で採れる大型の巻貝である。内側に美しい光沢があることから螺鈿細工などに用いられる。
正倉院の御物の中にも認められる貴重な貝である。
しかもこの小僧は、金の首飾りや翡翠の勾玉まで身につけている。
翡翠は越(新潟)の奴奈川(姫川)でしか採れない高価な宝石で、王族だけが身に帯びることができる。
「汝はどこから来た?」
「はい、日向から参りました。父はウガヤフキアエズと申します」
男の目がふたたび大きく見開かれた。
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