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第一章 黒鬼

第3話 咆哮を貫いて

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 月が中空に懸かった。
 ふいに茂みが揺れる音がして、あわいの中に小山のような影が浮かんだ。
――奴だ!
 黒い塊が、四本の脚で大地を踏みしめながら悠然と近づいてくる。
 月の光が差し込む位置まで来ると、胸元に白い三日月型の模様が見えた。
 全長六尺(約百八十センチ)余、重さは六十貫(約二百二十五キロ)を超える巨大なツキノワグマである。
 磐余彦いわれひこが黒鬼を間近に見るのは初めてだった。 
 だが黒鬼であることを示す紛れもない証拠がはっきり見えた。
 背中に刺さった二本の矢である。村人が放った矢がそのまま残り、まるで昆虫の触覚のように見える。むろん虫にしては巨大すぎるが。

 黒鬼までの距離は十間(約十八メートル)足らず。心臓が高鳴り、知らず知らずのうちに弦を引く右手に力が入る。
――強く弓を引こうとするあまり、馬手めてに余計な力を入れてはならぬ。
 この弓矢を授けてくれた男の言葉を思い出し、引きすぎた弦をわずかに戻した。
 それとともに弓手ゆんでをしっかり握り直す。
 弓はなによりも左右の手の均衡が大事である。右手の馬手と左手の弓手の均衡が取れていなければ、矢は正確に飛ばないのだ。
 弓は弾力のある木に竹を重ね、さらに薄い鉄板を各所に貼り付けてある。
 この剛弓を弾けるのは磐余彦だけである。
 矢は鷲羽の四枚羽。通常の三枚羽と異なり、回転せずにまっすぐ飛ぶ。
 軌道は安定するが、回転しないため殺傷力は三枚羽に比べて劣る。そのぶん通常の何倍も重い鉄のやじりを装着している。
 矢柄やがらも竹に漆を幾重にも塗って簡単には折れない。 
 それでも、黒鬼の厚い皮と肉を貫いて心臓まで達するのは至難の業であろう。
 毒は使いたくない。肉を食いたいからだ。
 となれば頭を狙うしかない。木の上から頭蓋骨をまっすぐ射貫いて、硬い骨を突き破って脳に達することができれば、いくら黒鬼でも無事では済まない筈だ。
 唯一の勝機はそれしかない、と磐余彦は見極めている。

 黒鬼は背中の毛をたてがみのように逆立てて、悠然とこちらに向かってくる。
 巨大な頭を左右に動かし、勝ち誇るようにあたりを睥睨へいげいしている。
 黒鬼の前では狼も引き下がる、という噂は本当だろう。
 しかし黒鬼はまだ警戒を怠っていない。その証拠に耳が小刻みに動いている。
 あたりを見回した黒鬼は、わずかに首を振った。
 その顔がふっと緩んだように見えた。
 すると、後ろからもう一匹の熊が現れた。黒鬼の半分ほどの大きさしかない。
 メスである。メス熊はあたりを気にすることなく一目散に走ってくる。
 団栗が食べたくてたまらないのだ。
 そのメスを追いかけるように黒鬼が走ってきた。その姿には、先ほどまでの警戒心は感じられない。
 まずメスが磐余彦がいる木の真下を通り過ぎ、つづいて黒鬼が通りかかった。

――いまだ!
 磐余彦は息を止め、馬手をさっと離した。矢は風切音を立てる間もなく、真上から黒鬼の頭めがけて飛んだ。
 ぎゃあ!
 絶叫が山全体を揺るがした。
 矢は黒鬼の右眼に深々と突き刺さっていた。
 磐余彦は頭蓋骨を真上から狙ったのだが、とっさに黒鬼が頭を上げたため、わずかに頭頂を外れてしまったのだ。
 だが、鏃が脳まで達したのは間違いない。
 しかし黒鬼はいささかもたじろがなかった。
 残された左眼をかっと見開き、樹上の磐余彦を睨みつけると、怒りの叫びを上げた。
 木々を震わせ、大地を揺るがす凄まじい咆哮だった。
 黒鬼の左眼には憤怒の炎が燃えさかっている。
 呪いが掛けられる――磐余彦はとっさに目を逸らした。

 黒鬼が磐余彦のいる木めがけて突進し、激しくぶつかった。
 ずしんとした衝撃で幹が大きく揺れ、磐余彦は振り落されそうになった。
 団栗がばらばらと頭や顔に降りかかる。
 もう一度体当たりを食らえば、間違いなく振り落とされるだろう。
 万一木に登ってくるようなら、飛び降りるしかない。
 そして黒鬼はそれを待っている。
 いずれにせよ、無事に逃げられる可能性はほとんどない。
 磐余彦は死を覚悟した。
 ところが黒鬼は二、三歩下がったところで足がよろけ、どすんと尻餅をついた。ふたたび大地が揺れた。
 黒鬼は真っ赤な口を開けて苦しそうに呻いていたが、そのうちに動きが止まり、一度ぶるっと大きく体を震わせるとぴくりとも動かなくなった。
 メス熊はいつの間にか消えていた。

 静寂が訪れ、長い時間が過ぎた。それでも磐余彦は待った。
 死んだと思わせて迂闊に近づくと、突然身を起こし、鋭い鈎爪かぎづめで顔をえぐられる。
 これは罠だ。最後の詰めを誤ってはならぬ。磐余彦の本能がそう告げていた。
 磐余彦は逸る心を抑えて静かに待った。
 さらに時が過ぎた。先に痺れを切らしたのは黒鬼だった。
 黒鬼はのそりと立ち上がり、恨めし気に樹上を見上げた。
――やはり、まだ生きていた!
 黒鬼は木に登るのを諦めたのか、踵を返して森のほうにゆっくりと歩いていく。
 矢は脳まで達している筈だが、なんという生命力だ。
 磐余彦は驚嘆すると同時に焦った。
 黒鬼はこのまま逃げてしまうつもりだ。だが、傷が癒えたら何倍もの憎悪で村に災いをもたらすだろう。
 磐余彦は覚悟を決めた。
 ひとつ大きく息を吐くと、剣を手にゆっくり木を降りていった。

 地に足を着けて振り返った瞬間、心臓が凍りついた。
 正面に巨大な影があった。
 いつの間にか黒鬼が仁王立ちになり、待ち構えていた。胸の白い三日月が月夜に照らされてはっきりと見えた。
 黒鬼は去ったと見せかけて磐余彦を待ち伏せていたのだ。
 なんという狡猾な奴。まさに悪鬼だ。
 黒鬼の右眼は矢に貫かれて血まみれになっている。
 だが残された左眼は怒りの炎に燃え、磐余彦を見据えている。
 ごおっ。
 黒鬼が闇を切り裂いて吠えた。黄泉の国まで届くような咆哮だった。
(骨まで食ってやる。頭も噛み砕いて脳みそを啜ってやる!)
 激しい憎悪が伝わってきた。
 磐余彦の動悸が激しくなった。黒鬼との距離は四間(約七メートル)もない。
 次の瞬間、黒鬼が四つん這いになり猛烈な速さで突進してきた。
 磐余彦はとっさに身を投げ、すんでのところで凶暴な爪をかわした。
 どんと大きな音がして木が揺れた。ふたたび団栗がばらばらと降った。
 木の幹には黒鬼がえぐった深い爪痕が刻まれている。まともに食らったら首が吹っとんでいただろう。
 起き上がった磐余彦の手に剣はなかった。
 すれ違いざまに黒鬼の喉元に突き刺したのである。その代償として黒鬼の爪跡が磐余彦の頬にうっすらと刻まれていた。
 磐余彦はもはや寸鉄も帯びていなかった。これ以上戦う術はない。
 だが、黒鬼もそれが限界だった。
 黒鬼はなんとか身を起こしたが、間もなく地響きをたてて崩れ落ちた。
 ふたたび静寂が訪れた。
 しかしこれも罠かもしれないと思うと、容易には動けなかった。黒鬼の巨体を凝視したまま時が過ぎていった。
 だが黒鬼は二度と動かなかった。
――今度こそ終わりだ。
 磐余彦はがっくりと地面に膝をついて大きな息を吐いた。今は身も心も抜け殻の状態だった。
 そのとき胸にこみ上げたのは歓喜よりも、寂寞せきばくとした哀しみである。
――これで私も呪われるかもしれない。
 そのことがどれほどの意味を持つのか、磐余彦にも分からないわけではない。

 磐余彦は日向ひむかの皇太子である。
 父であるウガヤフキアエズ王の皇嗣こうしとして、次の王となる定めを背負っている。
 その皇太子が、熊と一対一の決闘をしたのである。そんな無謀な戦いは、王を継ぐべき者としてあるまじき愚挙だった。
 幸い磐余彦は勝ったからよいが、まだ安心はできなかった。黒鬼が死の間際に呪いをかけたかもしれないからだ。
 もし磐余彦がその呪いを浴びていれば、国そのものの行く末に暗雲が立ち込める。
 呪われた王を戴く国の未来が、明るい筈がなかった。
 だが磐余彦には別の考えがあった。
 自分には三人の兄がいる。もし自分が倒されても、三人のうちの誰かが跡を継げばよい。
 この時代の王は末子相続で、自分は成り行き上、皇太子となっただけのことである。
――それに、父の新たな后となった筑紫の王女との間に生まれた皇子もいる。
 狼の遠吠えを聞きながら、磐余彦は頭に浮かんだ考えをすぐに打ち消した。
――そんなことより、いまはこの獲物をどう守るかだ。
 来目たちが来るまでは、ここに留まるしかない。この場を離れてしまうと、せっかくの獲物である黒鬼の亡骸が狼や狐に食い散らかされてしまうだろう。

「十日経っても吾が帰って来なければ、来目くめ日臣ひのおみに高千穂の森を探すように言ってください」
 磐余彦は師の塩土老翁しおつちのおじにだけは、高千穂に来ることを告げていた。
 それを知れば、来目や日臣は必ず駆けつけてくれる筈である。
 ぼんやりした頭で考えた磐余彦は、そのまま深い眠りに落ちていった。
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