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勾玉の姫(二)
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二
そのころ、はるか西の出雲国では国王、大国主が浮かない顔で朝堂に入ってきた。
朝堂にはすでに重臣や長老たちが一堂に会し、大国主の出御を待っていた。
筆頭格の重臣少彦名が玉座の前に進み出た。
「ヤマトによる覇業はますます進み、周辺諸国はこぞって従っております。吾らもいずれ従わざるをえなくなりましょう。ならば今が潮時ではあるまいか、と存ずる」
議題はヤマト連合へ臣従することの諾否である。
「少彦名殿の言うとおりじゃ。戦いになれば国中に戦禍が及びましょう。ヤマトは領土は今のままでよいと申しております」
「臣下の礼さえ保てばよいのなら、これほど楽な話はない」
他の重臣の意見も一致していた。
つまり、誰も戦いたくないのである。
本州西域の雄として名を馳せた出雲国も、ヤマトによる度重なる侵攻によって薄皮を剥がれるように領土を失っていった。
弥生時代の王権は、鉄を確保できるか否かで優劣が決まったとされる。
出雲はこれまで、北部九州から日本海に沿って大陸や朝鮮半島から鉄を確保してきた。
だが近年、吉備の勢力と組んだヤマトが、北九州から瀬戸内海に至るルートを使って鉄のほとんどを支配するようになった。
その結果、出雲の力が弱まり衰退していったのは当然の成り行きだった。
出雲国が先王素戔嗚の死を機に、ヤマトとの停戦に応じたのは三年前。
ヤマトはその後も着々と兵力を増し、出雲への圧力を強めている。次に戦えば出雲が大きな痛手をこうむるのは明らかだ。
ヤマトへの臣従――実質的な降伏を呑むことは、もはや既定路線だった。
問題は降伏の条件である。
ヤマトは服属の証しとして、出雲の宝である天叢雲剣(別名草薙剣)を献上せよと言ってきた。
これは素戔嗚が八岐大蛇《やまたのおろち》を退治した際に大蛇の尻尾から取り出した剣で、出雲にとってはかけがえのない神剣である。
だが、「剣一本で済むならば、出雲にとっても悪い話ではない」という老臣の言葉に、皆がうなずいた。
国王である大国主は、一同の話を黙って聞いている。
やる気を失っているようにも見える。王とはいえ、他国との紛争には熱心ではなかった。
意見はそのまま「剣の献上」で纏まるかと思われた。
その時、朝堂の扉が勢いよく開けられた。
「私は納得できませぬ!」
一陣の風とともに飛び込んできたのは大国主の正妃、スセリヒメである。
「このような屈辱は父なら断じて受け入れなかったでしょう。応じるぐらいなら、いっそ戦って潔く死んだほうがましです!」
スセリヒメは居並ぶ旧臣、長老たちを見回して叱咤した。だが、老人たちはスセリヒメの視線を避けるように俯くばかりだった。
皆が応じないことにスセリヒメは怒りを募らせた。
「恥ずかしや。腰抜けどもが!」
顔を真っ赤にして目を吊り上げ、固く握った拳を震わせている。
スセリヒメは勇猛で知られた素戔嗚の愛娘で、大国主はその婿養子である。
それも大国主が素戔嗚の王宮に訪ねて来たとき、迎えに出たスセリヒメが一目惚れしたのがきっかけだった。
はじめ素戔嗚は大国主との結婚に反対し、さまざまな妨害を試みた。
「父があなたに仕掛けた毒蛇や蜂、ムカデに襲われそうになったときも、追い払い方を教えてあげたのは私ですよ」
そしてとうとう、大国主とスセリヒメは素戔嗚に内緒で国を逃げ出した。つまり駆け落ちしたのである。
こうしたいきさつがあって、大国主はようやく素戔嗚に認められ、スセリヒメと結婚した。
「あなたが出雲王の座に就くことができたのも私のお蔭だということをお忘れなく」
それは紛れもない事実である。だから大国主はいつまでもスセリヒメには頭が上がらないのだ。
ヤマトに献上するという天叢雲剣も、元はといえば大国主がスセリヒメとの婚姻の際に、義父である素戔嗚から譲られたものである。
だが大国主にとっては命に換えても守るべきものという意識は薄かった。
「父が生きておられれば、ヤマト如きに屈することはなかったでしょうに」
スセリヒメの怒りのボルテージは上がる一方だ。もともと勝気な女だが、こうなると誰にも止められなかった。
大国主は臣下や民に優しく評判が良かった。ひとたび戦いとなると先頭に立ち、得意の弓で敵将を次々に射倒した。
また王宮にあってはスセリヒメを献身的に愛した。素戔嗚にとっては申し分のない婿殿だった。
唯一の問題は、大国主が他の女性にも優しかったことだ。
この時代の王族には何人もの后がいて、それが当然のことと考えられていた。
大国主の最初の妻・因幡のヤガミヒメは『古事記』にも記されたように大国主の兄たち(八十神)の求婚を断り、大国主と結婚した。ここまでは麗しい純愛だった。
しかしヤガミヒメは、大国主がスセリヒメと婚姻したと知るやいなや、恐ろしさから子供を置いて逃げてしまった。
その時の大国主の気持ちは、悲しみよりも虚無感が先に立ったのではないか。
大国主にしてみれば、ヤガミヒメと結婚したばかりに兄神たちに恨まれ、二度も殺されてしまった(その度に母親のサシクニワカヒメが神に頼んで大国主を生き返らせてくれたのだが…)のに、今さら逃げられては力が抜けたというのが正直な気持ちだったろう。
次の妻カムヤタテヒメとの間には、事代主という子ももうけた。ただしこの子もやはりスセリヒメの迫害を恐れて王宮には上げず、さっさと漁師にしてしまった。
『古事記』や『日本書紀』によれば、大国主には六人の妻がいたことになっている。『出雲国風土記』には、さらに三人の妻の名が記されている。
そして大国主は「妻」たちとの間に百八十人もの子を成したという。
それだけ多くの子を残したのは、単に王だったからというより、大国主自身に男としての魅力があったからだろう。
出雲大社が縁結びの神様として有名なのは、主祭神の大国主命が稀代の艶福家だったことも少なからず関係しているのかもしれない。
よく鍛えられて盛り上がった胸の筋肉、すらりと伸びた四肢、なめし革のような滑らかな肌。
絵に描いたような整った顔立ちで、つぶらな瞳がくしゃっと崩れ白い歯がこぼれたりすると、女たちは揃ってとろけそうな顔になる。
目の覚めるような美青年であり、かつ冷たい印象はなく声も優しげで穏やかだ。
まったく罪つくりな男なのである。
(つづく)
そのころ、はるか西の出雲国では国王、大国主が浮かない顔で朝堂に入ってきた。
朝堂にはすでに重臣や長老たちが一堂に会し、大国主の出御を待っていた。
筆頭格の重臣少彦名が玉座の前に進み出た。
「ヤマトによる覇業はますます進み、周辺諸国はこぞって従っております。吾らもいずれ従わざるをえなくなりましょう。ならば今が潮時ではあるまいか、と存ずる」
議題はヤマト連合へ臣従することの諾否である。
「少彦名殿の言うとおりじゃ。戦いになれば国中に戦禍が及びましょう。ヤマトは領土は今のままでよいと申しております」
「臣下の礼さえ保てばよいのなら、これほど楽な話はない」
他の重臣の意見も一致していた。
つまり、誰も戦いたくないのである。
本州西域の雄として名を馳せた出雲国も、ヤマトによる度重なる侵攻によって薄皮を剥がれるように領土を失っていった。
弥生時代の王権は、鉄を確保できるか否かで優劣が決まったとされる。
出雲はこれまで、北部九州から日本海に沿って大陸や朝鮮半島から鉄を確保してきた。
だが近年、吉備の勢力と組んだヤマトが、北九州から瀬戸内海に至るルートを使って鉄のほとんどを支配するようになった。
その結果、出雲の力が弱まり衰退していったのは当然の成り行きだった。
出雲国が先王素戔嗚の死を機に、ヤマトとの停戦に応じたのは三年前。
ヤマトはその後も着々と兵力を増し、出雲への圧力を強めている。次に戦えば出雲が大きな痛手をこうむるのは明らかだ。
ヤマトへの臣従――実質的な降伏を呑むことは、もはや既定路線だった。
問題は降伏の条件である。
ヤマトは服属の証しとして、出雲の宝である天叢雲剣(別名草薙剣)を献上せよと言ってきた。
これは素戔嗚が八岐大蛇《やまたのおろち》を退治した際に大蛇の尻尾から取り出した剣で、出雲にとってはかけがえのない神剣である。
だが、「剣一本で済むならば、出雲にとっても悪い話ではない」という老臣の言葉に、皆がうなずいた。
国王である大国主は、一同の話を黙って聞いている。
やる気を失っているようにも見える。王とはいえ、他国との紛争には熱心ではなかった。
意見はそのまま「剣の献上」で纏まるかと思われた。
その時、朝堂の扉が勢いよく開けられた。
「私は納得できませぬ!」
一陣の風とともに飛び込んできたのは大国主の正妃、スセリヒメである。
「このような屈辱は父なら断じて受け入れなかったでしょう。応じるぐらいなら、いっそ戦って潔く死んだほうがましです!」
スセリヒメは居並ぶ旧臣、長老たちを見回して叱咤した。だが、老人たちはスセリヒメの視線を避けるように俯くばかりだった。
皆が応じないことにスセリヒメは怒りを募らせた。
「恥ずかしや。腰抜けどもが!」
顔を真っ赤にして目を吊り上げ、固く握った拳を震わせている。
スセリヒメは勇猛で知られた素戔嗚の愛娘で、大国主はその婿養子である。
それも大国主が素戔嗚の王宮に訪ねて来たとき、迎えに出たスセリヒメが一目惚れしたのがきっかけだった。
はじめ素戔嗚は大国主との結婚に反対し、さまざまな妨害を試みた。
「父があなたに仕掛けた毒蛇や蜂、ムカデに襲われそうになったときも、追い払い方を教えてあげたのは私ですよ」
そしてとうとう、大国主とスセリヒメは素戔嗚に内緒で国を逃げ出した。つまり駆け落ちしたのである。
こうしたいきさつがあって、大国主はようやく素戔嗚に認められ、スセリヒメと結婚した。
「あなたが出雲王の座に就くことができたのも私のお蔭だということをお忘れなく」
それは紛れもない事実である。だから大国主はいつまでもスセリヒメには頭が上がらないのだ。
ヤマトに献上するという天叢雲剣も、元はといえば大国主がスセリヒメとの婚姻の際に、義父である素戔嗚から譲られたものである。
だが大国主にとっては命に換えても守るべきものという意識は薄かった。
「父が生きておられれば、ヤマト如きに屈することはなかったでしょうに」
スセリヒメの怒りのボルテージは上がる一方だ。もともと勝気な女だが、こうなると誰にも止められなかった。
大国主は臣下や民に優しく評判が良かった。ひとたび戦いとなると先頭に立ち、得意の弓で敵将を次々に射倒した。
また王宮にあってはスセリヒメを献身的に愛した。素戔嗚にとっては申し分のない婿殿だった。
唯一の問題は、大国主が他の女性にも優しかったことだ。
この時代の王族には何人もの后がいて、それが当然のことと考えられていた。
大国主の最初の妻・因幡のヤガミヒメは『古事記』にも記されたように大国主の兄たち(八十神)の求婚を断り、大国主と結婚した。ここまでは麗しい純愛だった。
しかしヤガミヒメは、大国主がスセリヒメと婚姻したと知るやいなや、恐ろしさから子供を置いて逃げてしまった。
その時の大国主の気持ちは、悲しみよりも虚無感が先に立ったのではないか。
大国主にしてみれば、ヤガミヒメと結婚したばかりに兄神たちに恨まれ、二度も殺されてしまった(その度に母親のサシクニワカヒメが神に頼んで大国主を生き返らせてくれたのだが…)のに、今さら逃げられては力が抜けたというのが正直な気持ちだったろう。
次の妻カムヤタテヒメとの間には、事代主という子ももうけた。ただしこの子もやはりスセリヒメの迫害を恐れて王宮には上げず、さっさと漁師にしてしまった。
『古事記』や『日本書紀』によれば、大国主には六人の妻がいたことになっている。『出雲国風土記』には、さらに三人の妻の名が記されている。
そして大国主は「妻」たちとの間に百八十人もの子を成したという。
それだけ多くの子を残したのは、単に王だったからというより、大国主自身に男としての魅力があったからだろう。
出雲大社が縁結びの神様として有名なのは、主祭神の大国主命が稀代の艶福家だったことも少なからず関係しているのかもしれない。
よく鍛えられて盛り上がった胸の筋肉、すらりと伸びた四肢、なめし革のような滑らかな肌。
絵に描いたような整った顔立ちで、つぶらな瞳がくしゃっと崩れ白い歯がこぼれたりすると、女たちは揃ってとろけそうな顔になる。
目の覚めるような美青年であり、かつ冷たい印象はなく声も優しげで穏やかだ。
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(つづく)
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