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カウンセリングの後は、なぜかいつもぐったりと疲れてしまう。
アパートの部屋に帰ってきたリサは、とにかく熱いシャワーを浴びたくてしょうがなかった。昨夜遅くまでやっていた編曲作業のせいか、朝早くからあったリハーサルのせいか、それとも長年通っているのに慣れないカウンセリングのせいか、肩が凝り固まっている。
適当に荷物を置いて、脱衣所で服を脱ぎ捨て、シャワーコックをひねる。
ここ最近給湯器の調子が悪く、お湯の栓をひねっても水の温度が上がるのに時間がかかるのは覚悟していた。しかしいくら辛抱強く待っても、シャワーから出る水は冷たいままだ。
「もう、なんで」
思わず悪態を声にして、リサは下着の上にインドの更紗生地の軽いバスローブを羽織り、玄関を出た。
アパートの共同廊下は薄暗く、シンと静まり返っていた。電気メーターや古い配線が一箇所に集まっていて、その横に今は使われていな煙突の名残がある。その煙突の中にガス管があり、いかにもポンコツに見える給湯器はその横に取り付けてあった。
ガスメーターを確認するが、針はピクリとも動かない。主電源を切り、もう一度スイッチを入れるが、その機械はうんともすんとも音を立てなかった。
こういう機械のことはさっぱり分からない。リサはもう一度悪態をついて、止まったままの給湯器の側面を軽く殴りつける。
「温かいシャワーを浴びたいだけなのに!」
物に対して言葉で説得できるなら多少は効果があるかもしれないが、もちろん機械は停止したままだ。ガックリと肩を落としてため息をつく以外にできることは何もない。
その時、リサは背後に人の気配を感じて振り返った。
ここは共用スペースなので、もちろん他の住人が通りかかってもおかしくない。なんとなくバスローブの襟元をかき寄せて、廊下の照明がぼんやり照らし出す階段の踊り場に目を向けた。
四十代くらいの男性が、そちらも驚いた顔をしてこちらを見返してきた。
さっきの独り言が聞かれただろうかと恥ずかしくなって、リサは誤魔化すように伝わるか伝わらないかくらいの会釈をして、また計器が集まる壁に向きなおる。
もう一度、給湯器の電源を落とした。五秒数えて、またスイッチを入れる。その数秒の間に、背後の男性はまた階段を上り始めていた。
やはり動かない。苛立ちを募らせながら、リサは他に何かできないかと、無意味にガスの元栓を開けたり閉じたりしてみる。
「あの……何かお困りですか?」
突然声をかけられて、リサはビクリと肩を震わせた。
「ああ、すみません。僕は上に住んでる者ですが」
振り返ると、三階への階段の途中から、あの男性が気遣わしげにこちらを見ている。彼の着ている綺麗なシルエットのジャケットや、抱えている物の良さそうな書類カバンを観察し、眼差しもどこか優しげな雰囲気の人だなという第一印象に、リサは警戒を解いた。
「あ、えっと……お湯が止まっちゃって……」
リサが答えると、彼は少し眉を寄せながら階段を下りて来る。
「いきなり止まったのかい?」
彼はリサの横に立ち、給水栓を緩めた。給湯器の奥でかすかな水音がする。
「ここ何週間か、ちょっと調子が悪いなとは思ってたんですけど……」
彼から春の夜の匂いがした。
そんなことを頭の隅で思って、ちょっと自分に呆れる。外気をまとってやって来た男性が、埃っぽい廊下の空気をかき混ぜてるだけだ。
「君、引っ越してきたばかりだろう」
「はい。二、三週間前に」
「その時、大家とは会った?」
リサは首を振った。契約書の交換などは全部仲介業者に任せて、ここに引っ越してきたのだ。
「このボイラーはだいぶ古い。新規の住人には、大家は整備点検されたボイラーか、新しい物を用意するべきなんだけど」
彼はそう言いながら、改めて機械の電源を入れた。途端に給湯器が本来の唸り声をあげる。
「あ、すごい、直った」
思わず声をあげてしまう。しかし男性の顔は曇ったままだった。
「いや、ちょっと待って。ほら、この目盛りがこのままでいてくれれば……」
二人で固唾を飲んで、その小さな計器の針を見守る。給湯器は断続的に低い音を立てているが、やがてそれが途切れ途切れになってくる。
「あ……あれ?」
そして急に針が左端のゼロまで戻り、機械音も止まる。
失望のため息を吐きそうになったが、一拍早く、そばに立つ彼が怒りをわずかに滲ませた息をついて、リサはそっちに気をとられる。
「君、ここを借りる時の契約書、すぐ出せるかい?」
「え?」
リサは隣に顔を向ける。思わず至近距離で、その男性と顔を見合わせてしまった。彼の、うっすら口周りや顎をおおう髭や、整髪料はあまり使ってなさそうな白髪交じりの髪を見て、会社勤めではなさそうだなと思う。
「契約書なら部屋のどこかに……」
「とっておいで」
なぜか彼の言うことを素直にきいてしまう。リサは玄関から部屋に戻って、重要書類をまとめて放り込んでいる段ボール箱を引きずり出した。
クリップで留めた契約書の束はすぐに見つけたが、廊下に戻る前に自分の格好に気がついて、今更なんだか気恥ずかしくなってしまった。バスローブの下に下着とキャミソールを着ているが、リサは急いでバスルームで脱ぎ散らかした服を着なおした。
「あの、これ、契約書です」
廊下では相変わらずあの男性が給湯器に難しい顔をしていた。リサが着替えたのに気がついたのか、こちらを向いた時は少し目を見開いたが、それ以上のリアクションは無い。彼は書類を受け取って、一枚一枚めくりだした。
「ほら、ここに『電気、ガス等の設備は乙が責任を負う』と書いてある。つまり大家だ。賃貸では大家が設備費を払うのが決まりなんだよ」
「へぇ……」
契約書にサインした時、リサはそんなことろくに確かめもしなかった。ただ契約期間と敷金、賃料を確認しただけだ。
目の前に立つその男性が、どこか苦笑に似た笑い声をこぼした。
「『へぇ』じゃなくて、これからのことを考えよう」
「えっと……つまり」
「大家に電話してみようか」
「……でも私、電話番号知りません」
「僕が知ってる」
彼は手早くカバンから携帯電話を取り出した。電話を操作し耳に当て、彼は「大丈夫だよ」とでも言うように小さく微笑む。リサはその展開の早さに、情けなくもぽかんと突っ立っているだけだった。
「ああ、ヴェングラーだ。……いいだろ別に。どうせくだらないテレビ番組でも見てたんだろう」
電話が通じたのか、彼は気さくな様子で向こうの相手と喋りだす。もしかしたらここに住んで長いのかもしれない。リサは大家の顔も知らないが、ヴェングラーと名乗った彼は状況を説明し、淀みなく話を進めていた。
「ずいぶん古い給湯器じゃないか。多分、点火装置が劣化してるんだよ。いや、僕の部屋じゃない。その下の階だ。……えーっと……」
彼が電話を耳から外し、リサに目を向けた。彼の双眼は、どこか澄んだような琥珀の色だ。
「君、名前は?」
彼の眼差しに一瞬喉が詰まったようになって、リサはどもりながら自分の名を告げる。
「リ……リサ・シライ、です」
「シライ?」
ドイツでは珍しい名前だから、いつも聞き返されるのには慣れている。リサはもう一度自分の苗字を発音した。
彼はとりあえずというように頷いて、また電話に戻った。
「とにかく、お湯が使えないのはかわいそうだよ。明日? シライさん、大家は明日の十二時、修理工を連れてくるって……一時の方がいい?」
リサと大家に挟まって、彼はどんどん話をつけてくれる。彼が大家との電話を切った時には、リサの胸は感謝の気持ちでいっぱいになっていた。
「ありがとうございます。私、大家さんの連絡先も知らなかったので、本当に助かりました」
携帯をポケットにねじ込みながら、彼はまた微笑んでくれる。
「大したことじゃない。僕はこの大家とは長い付き合いだから」
そして彼は「君も知っておいたほうがいい」と、リサに大家の電話番号を教えてくれた。
それが終わると、二人の間に一瞬の奇妙な間があいた。どちらとも言いたいことは何かあるはずなのに、それをどう言葉にするべきか分からない、微妙な沈黙だ。
「あの……じゃあ、本当にありがとうございました」
「うん……いや、あの……じゃあ君は今夜、お湯が使えないけど」
リサがこの状況に区切りをつけようとした時、彼がかぶせるように言葉を繋げた。
「もし、よかったら、僕のところでシャワー使うかい? ……いや、待って、それはいけないな。年頃の女性に……失礼だった。すまない、忘れてくれ。きっと友達か、彼氏か、頼れる人はもっと他にいるに決まってるね」
何か慌てたように畳み掛けて、彼は困ったように手で首をさする。リサも驚いて、ちょっと思考停止してしまった。
どうやら彼は親切を差し出し、慌ててそれを引っ込めたようだ。
彼の中で自己完結してしまった思考の経路は理解できた。ありがたい申し出だが、確かに初対面の男性のシャワーを使うのは躊躇するところだ。
「ええっと、とりあえず、僕はこういう者だ。君の真上に、独り住いしてる」
彼はジャケットの内ポケットから名刺を出した。自分の身元をはっきりさせ、リサを安心させようとしているらしい。
シンプルな白地の名刺には、黒い文字がエンボス加工で盛り上がって、「Professor(プロフェッサー). フランツ・ヴェングラー」という名が綴られている。
「じゃあ、また」
よほどさっきの申し出を恥じているのか、彼は逃げるように背を向けて足早に廊下から去って階段を上り、視界から消えた。取り残されたリサはほとんど言葉も返せず、ただ手に名刺を持ってそこに取り残される。
——……なんだか、素敵な人だった。親切だし。
リサは部屋の中に戻り、ラップトップの電源を入れる。
名刺にある大学は、この地方では名が知られた名門だ。ネットでその大学のホームページを出して、「フランツ・ヴェングラー」の名前を検索した。すぐに先ほどの彼の名前と写真、所属している学会や論文のリストが出てくる。写真の画像は粗く、さっき廊下で会った本人よりも威厳があって冷たく見えた。
リサは彼の琥珀色の目の色を思い出す。どこか深みのある声。額にかかる少し長めの髪。初対面だったのに不思議と心地いい、独特の雰囲気。
ある小さな衝動を感じるまま、リサはピアノの蓋を開けた。鍵盤に指を滑らせ、思うままに音を紡ぐ。
日常の中でごく稀に、こんなふうになんの気負いもなく、自分の中から音楽が溢れ出す時がある。ある小さなひらめきがメロディーを生み、リサはそれを多声的に重ね合わせていった。
どれだけ夢中になってピアノに向かっていたのか、終止和音に行き着いたリサはハッと我にかえる。そして急いで五線紙のノートを取り出して、今自分が作り出した曲をそこに必死に書き留めた。音符を殴り書きして、指の間からインスピレーションが零れ落ちる前になんとかその曲を紙の上に留め置こうとする。
そしてもう一度、今度は慎重に丁寧に、その曲を最初からなぞってみる。生まれ落ちたばかりのこの曲は、たった数分足らずの長さで、改善の余地がある破綻があちこちにあるが、リサにとっては久しぶりのオリジナルのものだ。
それからしばらくリサはピアノの前に座って、自作の曲を弾いては楽譜を手書きで修正し、また曲を練り直すという作業に没頭した。
下から、ピアノの音が聞こえてくる。
フランツはキッチンに立ってお湯を沸かしながら、今しがた言葉を交わした彼女のことを考えていた。というよりも、自分の愚行のことについて、かもしれない。
本当の心からの親切心だったとはいえ、若い女性を自室に誘うような発言をしてしまったのを思い出すと、どこかに頭を打ち付けたくなる。
——何を過敏反応しているんだ。ただ、下の住人と言葉を交わしただけだ。もう関わりもない。
悶々としていると、ふと聞こえてきたピアノのメロディーに気をとられる。
フランツが今まで聞いたのことのない、なんとも形容しがたい音楽だった。いわゆる現代音楽のジャンルなのだろうが、絶妙な不協和音と、クラシック特有の調和が取れた和声が混じり合っている。積み重ねられる旋律は無機質なのに、どこか感傷的でさえある。
ティーポットにお湯を注ぎながら、フランツは脳内で該当しそうな作曲家を列挙してみるが、どれも当てはまらない。一瞬、彼女に直接尋ねてみればいいのではないかとも思ったが、すぐにその思いつきは打ち消した。
下から漏れ聞こえてくる曲は、ティーポットの中の茶葉が開くのを待つ間に終わってしまった。フランツはいつも通り律儀に銀の盆にティーセットを並べ、書斎でそれを味わうためにキッチンから出ようとする。
その時、またピアノが聞こえてきた。今度は曲を細切れにして、何かを試行錯誤するように和音を変えたりメロディーの音域を変えている。
——……彼女のオリジナル?
そう思い至り、フランツはまたキッチンに戻る。あまり座り心地は良くないが、カウンターチェアに腰掛け、お茶を飲みながら聞こえてくる音色に耳をそばだてた。
単純に、この音楽が好きだと思った。
何かを慎重に組み立てるように、和声とメロディーが進んでは止まり、しばらくの間をおいて、またピアノが奏でられる。斬新でありながら、どこか郷愁を誘うような旋律。重く悲しい響きを滲ませたかと思うと、ふと春の陽だまりを感じさせる美しい和声が連なる。
いつの間にかフランツは、すっかりその音楽の虜になっていた。
アパートの部屋に帰ってきたリサは、とにかく熱いシャワーを浴びたくてしょうがなかった。昨夜遅くまでやっていた編曲作業のせいか、朝早くからあったリハーサルのせいか、それとも長年通っているのに慣れないカウンセリングのせいか、肩が凝り固まっている。
適当に荷物を置いて、脱衣所で服を脱ぎ捨て、シャワーコックをひねる。
ここ最近給湯器の調子が悪く、お湯の栓をひねっても水の温度が上がるのに時間がかかるのは覚悟していた。しかしいくら辛抱強く待っても、シャワーから出る水は冷たいままだ。
「もう、なんで」
思わず悪態を声にして、リサは下着の上にインドの更紗生地の軽いバスローブを羽織り、玄関を出た。
アパートの共同廊下は薄暗く、シンと静まり返っていた。電気メーターや古い配線が一箇所に集まっていて、その横に今は使われていな煙突の名残がある。その煙突の中にガス管があり、いかにもポンコツに見える給湯器はその横に取り付けてあった。
ガスメーターを確認するが、針はピクリとも動かない。主電源を切り、もう一度スイッチを入れるが、その機械はうんともすんとも音を立てなかった。
こういう機械のことはさっぱり分からない。リサはもう一度悪態をついて、止まったままの給湯器の側面を軽く殴りつける。
「温かいシャワーを浴びたいだけなのに!」
物に対して言葉で説得できるなら多少は効果があるかもしれないが、もちろん機械は停止したままだ。ガックリと肩を落としてため息をつく以外にできることは何もない。
その時、リサは背後に人の気配を感じて振り返った。
ここは共用スペースなので、もちろん他の住人が通りかかってもおかしくない。なんとなくバスローブの襟元をかき寄せて、廊下の照明がぼんやり照らし出す階段の踊り場に目を向けた。
四十代くらいの男性が、そちらも驚いた顔をしてこちらを見返してきた。
さっきの独り言が聞かれただろうかと恥ずかしくなって、リサは誤魔化すように伝わるか伝わらないかくらいの会釈をして、また計器が集まる壁に向きなおる。
もう一度、給湯器の電源を落とした。五秒数えて、またスイッチを入れる。その数秒の間に、背後の男性はまた階段を上り始めていた。
やはり動かない。苛立ちを募らせながら、リサは他に何かできないかと、無意味にガスの元栓を開けたり閉じたりしてみる。
「あの……何かお困りですか?」
突然声をかけられて、リサはビクリと肩を震わせた。
「ああ、すみません。僕は上に住んでる者ですが」
振り返ると、三階への階段の途中から、あの男性が気遣わしげにこちらを見ている。彼の着ている綺麗なシルエットのジャケットや、抱えている物の良さそうな書類カバンを観察し、眼差しもどこか優しげな雰囲気の人だなという第一印象に、リサは警戒を解いた。
「あ、えっと……お湯が止まっちゃって……」
リサが答えると、彼は少し眉を寄せながら階段を下りて来る。
「いきなり止まったのかい?」
彼はリサの横に立ち、給水栓を緩めた。給湯器の奥でかすかな水音がする。
「ここ何週間か、ちょっと調子が悪いなとは思ってたんですけど……」
彼から春の夜の匂いがした。
そんなことを頭の隅で思って、ちょっと自分に呆れる。外気をまとってやって来た男性が、埃っぽい廊下の空気をかき混ぜてるだけだ。
「君、引っ越してきたばかりだろう」
「はい。二、三週間前に」
「その時、大家とは会った?」
リサは首を振った。契約書の交換などは全部仲介業者に任せて、ここに引っ越してきたのだ。
「このボイラーはだいぶ古い。新規の住人には、大家は整備点検されたボイラーか、新しい物を用意するべきなんだけど」
彼はそう言いながら、改めて機械の電源を入れた。途端に給湯器が本来の唸り声をあげる。
「あ、すごい、直った」
思わず声をあげてしまう。しかし男性の顔は曇ったままだった。
「いや、ちょっと待って。ほら、この目盛りがこのままでいてくれれば……」
二人で固唾を飲んで、その小さな計器の針を見守る。給湯器は断続的に低い音を立てているが、やがてそれが途切れ途切れになってくる。
「あ……あれ?」
そして急に針が左端のゼロまで戻り、機械音も止まる。
失望のため息を吐きそうになったが、一拍早く、そばに立つ彼が怒りをわずかに滲ませた息をついて、リサはそっちに気をとられる。
「君、ここを借りる時の契約書、すぐ出せるかい?」
「え?」
リサは隣に顔を向ける。思わず至近距離で、その男性と顔を見合わせてしまった。彼の、うっすら口周りや顎をおおう髭や、整髪料はあまり使ってなさそうな白髪交じりの髪を見て、会社勤めではなさそうだなと思う。
「契約書なら部屋のどこかに……」
「とっておいで」
なぜか彼の言うことを素直にきいてしまう。リサは玄関から部屋に戻って、重要書類をまとめて放り込んでいる段ボール箱を引きずり出した。
クリップで留めた契約書の束はすぐに見つけたが、廊下に戻る前に自分の格好に気がついて、今更なんだか気恥ずかしくなってしまった。バスローブの下に下着とキャミソールを着ているが、リサは急いでバスルームで脱ぎ散らかした服を着なおした。
「あの、これ、契約書です」
廊下では相変わらずあの男性が給湯器に難しい顔をしていた。リサが着替えたのに気がついたのか、こちらを向いた時は少し目を見開いたが、それ以上のリアクションは無い。彼は書類を受け取って、一枚一枚めくりだした。
「ほら、ここに『電気、ガス等の設備は乙が責任を負う』と書いてある。つまり大家だ。賃貸では大家が設備費を払うのが決まりなんだよ」
「へぇ……」
契約書にサインした時、リサはそんなことろくに確かめもしなかった。ただ契約期間と敷金、賃料を確認しただけだ。
目の前に立つその男性が、どこか苦笑に似た笑い声をこぼした。
「『へぇ』じゃなくて、これからのことを考えよう」
「えっと……つまり」
「大家に電話してみようか」
「……でも私、電話番号知りません」
「僕が知ってる」
彼は手早くカバンから携帯電話を取り出した。電話を操作し耳に当て、彼は「大丈夫だよ」とでも言うように小さく微笑む。リサはその展開の早さに、情けなくもぽかんと突っ立っているだけだった。
「ああ、ヴェングラーだ。……いいだろ別に。どうせくだらないテレビ番組でも見てたんだろう」
電話が通じたのか、彼は気さくな様子で向こうの相手と喋りだす。もしかしたらここに住んで長いのかもしれない。リサは大家の顔も知らないが、ヴェングラーと名乗った彼は状況を説明し、淀みなく話を進めていた。
「ずいぶん古い給湯器じゃないか。多分、点火装置が劣化してるんだよ。いや、僕の部屋じゃない。その下の階だ。……えーっと……」
彼が電話を耳から外し、リサに目を向けた。彼の双眼は、どこか澄んだような琥珀の色だ。
「君、名前は?」
彼の眼差しに一瞬喉が詰まったようになって、リサはどもりながら自分の名を告げる。
「リ……リサ・シライ、です」
「シライ?」
ドイツでは珍しい名前だから、いつも聞き返されるのには慣れている。リサはもう一度自分の苗字を発音した。
彼はとりあえずというように頷いて、また電話に戻った。
「とにかく、お湯が使えないのはかわいそうだよ。明日? シライさん、大家は明日の十二時、修理工を連れてくるって……一時の方がいい?」
リサと大家に挟まって、彼はどんどん話をつけてくれる。彼が大家との電話を切った時には、リサの胸は感謝の気持ちでいっぱいになっていた。
「ありがとうございます。私、大家さんの連絡先も知らなかったので、本当に助かりました」
携帯をポケットにねじ込みながら、彼はまた微笑んでくれる。
「大したことじゃない。僕はこの大家とは長い付き合いだから」
そして彼は「君も知っておいたほうがいい」と、リサに大家の電話番号を教えてくれた。
それが終わると、二人の間に一瞬の奇妙な間があいた。どちらとも言いたいことは何かあるはずなのに、それをどう言葉にするべきか分からない、微妙な沈黙だ。
「あの……じゃあ、本当にありがとうございました」
「うん……いや、あの……じゃあ君は今夜、お湯が使えないけど」
リサがこの状況に区切りをつけようとした時、彼がかぶせるように言葉を繋げた。
「もし、よかったら、僕のところでシャワー使うかい? ……いや、待って、それはいけないな。年頃の女性に……失礼だった。すまない、忘れてくれ。きっと友達か、彼氏か、頼れる人はもっと他にいるに決まってるね」
何か慌てたように畳み掛けて、彼は困ったように手で首をさする。リサも驚いて、ちょっと思考停止してしまった。
どうやら彼は親切を差し出し、慌ててそれを引っ込めたようだ。
彼の中で自己完結してしまった思考の経路は理解できた。ありがたい申し出だが、確かに初対面の男性のシャワーを使うのは躊躇するところだ。
「ええっと、とりあえず、僕はこういう者だ。君の真上に、独り住いしてる」
彼はジャケットの内ポケットから名刺を出した。自分の身元をはっきりさせ、リサを安心させようとしているらしい。
シンプルな白地の名刺には、黒い文字がエンボス加工で盛り上がって、「Professor(プロフェッサー). フランツ・ヴェングラー」という名が綴られている。
「じゃあ、また」
よほどさっきの申し出を恥じているのか、彼は逃げるように背を向けて足早に廊下から去って階段を上り、視界から消えた。取り残されたリサはほとんど言葉も返せず、ただ手に名刺を持ってそこに取り残される。
——……なんだか、素敵な人だった。親切だし。
リサは部屋の中に戻り、ラップトップの電源を入れる。
名刺にある大学は、この地方では名が知られた名門だ。ネットでその大学のホームページを出して、「フランツ・ヴェングラー」の名前を検索した。すぐに先ほどの彼の名前と写真、所属している学会や論文のリストが出てくる。写真の画像は粗く、さっき廊下で会った本人よりも威厳があって冷たく見えた。
リサは彼の琥珀色の目の色を思い出す。どこか深みのある声。額にかかる少し長めの髪。初対面だったのに不思議と心地いい、独特の雰囲気。
ある小さな衝動を感じるまま、リサはピアノの蓋を開けた。鍵盤に指を滑らせ、思うままに音を紡ぐ。
日常の中でごく稀に、こんなふうになんの気負いもなく、自分の中から音楽が溢れ出す時がある。ある小さなひらめきがメロディーを生み、リサはそれを多声的に重ね合わせていった。
どれだけ夢中になってピアノに向かっていたのか、終止和音に行き着いたリサはハッと我にかえる。そして急いで五線紙のノートを取り出して、今自分が作り出した曲をそこに必死に書き留めた。音符を殴り書きして、指の間からインスピレーションが零れ落ちる前になんとかその曲を紙の上に留め置こうとする。
そしてもう一度、今度は慎重に丁寧に、その曲を最初からなぞってみる。生まれ落ちたばかりのこの曲は、たった数分足らずの長さで、改善の余地がある破綻があちこちにあるが、リサにとっては久しぶりのオリジナルのものだ。
それからしばらくリサはピアノの前に座って、自作の曲を弾いては楽譜を手書きで修正し、また曲を練り直すという作業に没頭した。
下から、ピアノの音が聞こえてくる。
フランツはキッチンに立ってお湯を沸かしながら、今しがた言葉を交わした彼女のことを考えていた。というよりも、自分の愚行のことについて、かもしれない。
本当の心からの親切心だったとはいえ、若い女性を自室に誘うような発言をしてしまったのを思い出すと、どこかに頭を打ち付けたくなる。
——何を過敏反応しているんだ。ただ、下の住人と言葉を交わしただけだ。もう関わりもない。
悶々としていると、ふと聞こえてきたピアノのメロディーに気をとられる。
フランツが今まで聞いたのことのない、なんとも形容しがたい音楽だった。いわゆる現代音楽のジャンルなのだろうが、絶妙な不協和音と、クラシック特有の調和が取れた和声が混じり合っている。積み重ねられる旋律は無機質なのに、どこか感傷的でさえある。
ティーポットにお湯を注ぎながら、フランツは脳内で該当しそうな作曲家を列挙してみるが、どれも当てはまらない。一瞬、彼女に直接尋ねてみればいいのではないかとも思ったが、すぐにその思いつきは打ち消した。
下から漏れ聞こえてくる曲は、ティーポットの中の茶葉が開くのを待つ間に終わってしまった。フランツはいつも通り律儀に銀の盆にティーセットを並べ、書斎でそれを味わうためにキッチンから出ようとする。
その時、またピアノが聞こえてきた。今度は曲を細切れにして、何かを試行錯誤するように和音を変えたりメロディーの音域を変えている。
——……彼女のオリジナル?
そう思い至り、フランツはまたキッチンに戻る。あまり座り心地は良くないが、カウンターチェアに腰掛け、お茶を飲みながら聞こえてくる音色に耳をそばだてた。
単純に、この音楽が好きだと思った。
何かを慎重に組み立てるように、和声とメロディーが進んでは止まり、しばらくの間をおいて、またピアノが奏でられる。斬新でありながら、どこか郷愁を誘うような旋律。重く悲しい響きを滲ませたかと思うと、ふと春の陽だまりを感じさせる美しい和声が連なる。
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