あなたが私を手に入れるまで

青猫

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第三章

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 セリーナが消えた。
 レオンがやっとその事実を受け止めるまでには、少々時間がかかった。

 開拓団の四人の身柄を確保した夜。レオンとマットは彼らに軍の隊舎の部屋をあてがい、これからのことを話し合った。フランク・ブランソンが殺害された可能性は濃厚になってきていたが、根拠となるのは今のところ彼らの証言だけだ。
 一人の裁判官が死亡した土砂崩れを事故と見せかけるには、その後の事後処理に当たった者たちを買収できるだけの金と、各方面に口をつぐませる影響力が必要だ。霧中の敵はただの悪党ではなく、大きな権力を持つ者の可能性が高い。
 足元をすくわれないためにも、これまでの経緯を報告する上司を見極めなくてはならない。
 いつの間にか東の空が白ばみ、冬の遅い日の出が徹夜になったレオンの目に眩しく刺さる。兵士として、一晩寝ないくらいはなんでもないが、最初は軽んじていた噂が重く現実味を帯びていくに従って、レオンは鈍い頭痛を覚えていた。
「じゃあ、この件はできるだけ内密に、ラデツキー少佐に直接報告するってことだな」
 朝の冷たく澄んだ空気に白い息を吐きながら、マットがそう確認する。
「ああ。少佐はギリアン伯父とも旧知で、汚職などを毛嫌いする潔癖人物だ。彼が事故の再調査を命じてくれれば、大手を振って関係者から聞き取りができる。開拓者のあの四人からも調書を取ろう」
 しかしその時点では、まだ時間が早すぎた。夜が明けたばかりの早朝では、勤勉な軍人でもまだ登庁してくる時間ではない。
 レオンは一度家に帰ることにした。着替えて妻の顔を少しでも見れば、寝不足の疲れも消えるはずだ、と。
 なのに、家には誰もいなかった。
 こざっぱりした生活の空間は、レオンが家を出た時と同じままだ。寝室さえ白々しいほど整っていて、妻がここで休んだ形跡さえない。
 朝一番のミルクを持ってやってきた女中のリサも、セリーナが家にいないことをレオンが告げると、戸惑った表情になった。
「昨晩はレオン様が夜勤になるから、夕食も簡単に済ませると、早めに帰るように言われて……。きっと朝のパンを買いに行ったんじゃないでしょうか?」
 しかしいくら待っても、セリーナは帰ってこなかった。焦れてレオンが探しに出ても、その姿は見当たらない。
——久しぶりに家に縛られない一晩で、友人の家に泊まっただけかもしれない。今頃そこでゆっくり朝食をとっていたり……。
 しかし彼女の性格なら、泊まりで外出する場合は、行き先を書き置きくらいするはずだ。
 何か嫌な予感がレオンの足元から這い上がってきた。
「一体どこに行ってしまったんでしょう?」
 リサが途方に暮れてそう呟く。
 もう昼前の時間になろうとしていた。レオンはなんとか冷静に、この状況をもう一度確かめてみた。
「家に何者かが押し入った形跡はない。彼女の靴や外套が無いのを見ると、どこかに出かけて、その先で事故に巻き込まれたのか……」
 そこでレオンは言葉を飲み込み、自分の手が震えているのに気がついた。自分の心が傾く地軸が突如消えてしまい、その理由もわからず、立ちすくんでしまう。
 きっと何か、些細な理由で帰りが遅れているだけだ。早朝の買い物に行って、友達と会って、お茶をして時間を忘れているとか。
 そう思おうとしたが、いよいよ陽が高くなって、この異常事態がレオンの動揺をさらに大きくしていく。
 レオンは震える拳を口元に当て、指の節に歯を立てた。痛みが、僅かながらレオンを冷静にさせてくれた。
 リサに、何かあったらすぐに知らせてくれと留守を頼み、馬に跨る。レオンは再び自隊の兵舎へと向かった。レオンの隊には、若いながら忠実な部下が揃っている。公私混同だろうと何だろうと構わなかった。彼女を探すためなら、手段など選んでいられない。

+++++++++++
 
 セリーナが最初に感じたのは、ひどい頭痛だった。重い瞼をやっと持ち上げるが、目に映るのは暗闇だけで、自分がどこにいるのかもわからない。
 顔の左側が腫れ上がっているらしく、口の中には血の味がした。手がうしろで縛られている。冷たい石の床からなんとか身を起こすと、身体のあちこちがさらに痛んだ。
 混乱したのはほんの始めだけだった。セリーナはすぐに記憶をたどり寄せ、自分がどんな状況にあるか、どれほど愚かかを思い知る。
 セリーナがいる部屋はどうやら地下にあるらしい。次第に暗闇に目が慣れていき、窓のない石壁が見える。鼻につく空気は湿っていて、カビの匂いがした。
 ドアを見つけてそこによろよろと歩み寄るが、もちろん鍵がかかっていた。
「……誰か」
 喉がべっとりと張り付いて、不明瞭なかすれ声にしかならない。もう一度、力を振り絞って息を吸い込み声を上げる。
「そこに誰かいる?」
 すると、荒々しい足音が近づいてくるのがドアの向こう側から聞こえてきた。次の瞬間、ドアに拳が打ち付けられたのか、蝶番がガチャリと鳴り響く。
「目が覚めたか?」
 酒でしゃがれた男の声に、無駄だと知りながらセリーナは懇願した。
「お願い、助けて。ここから出して」
 セリーナをあざ笑う声が闇に大きく反響し、姿もわからない男の気配はまた遠ざかっていく。
 セリーナは力尽きて、ずるずるとドアにもたれかかって床に腰を下ろす。なんとかここから抜け出す道はないかと、恐怖に凍りついたままの思考を働かせようとした。
——時間の感覚はないけれど、いずれレオンが異変に気がついてくれるわ。私を探してくれるはず。
 しかし、ここが一体どこなのか、セリーナにさえわからない。
——これからどうなるの……?
 寒さと不安と恐怖、そして謂れのない暴力による痛みが綯い交ぜになって、身体がガタガタと震えだす。僅かな希望は夫のレオンだけだ。
——お願い、レオン。私を見つけて。
 祈りが届くように、セリーナはきつく目を閉じてそれだけを念じだ。
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