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第二章
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夫は今夜は夜勤で帰らない。セリーナはそれを理由に、夕飯の準備は今日はいらないからと、女中のリサを早くに帰らせた。おかげで一人の時間ができて、胸にわだかまる不安を無理に押し隠す必要がなくなりホッとする。
あれからどうしても、兄のアレクセイがもたらした、役人の間で囁かれているという噂のことを考えてしまう。フランクはレオンに殺されただなんて滑稽な話、気にしないでさっさと忘れてしまえればいいのだが、なかなかそうもいかなかった。
一体なぜ、そして誰が人の不幸をさらに弄ぶような噂を流しているのだろう。
一つ思い当たるのが、アイゼンシュタイン夫人だった。
お茶会の席であからさまにセリーナを見下して、さも面白そうに「フランク・ブランソン様が死んで一番得をしたのは誰かしら?」と言った彼女。思い出すだけでも怒りがこみ上げる。ただその場を後にするだけでなく、彼女の顔にカモミールティーをぶちまけてやればよかったのだ。
フランクを失った不慮の事故も、レオンと出会えた幸運も、そこに疑うべきものなどないはずだ。
——でも……二度目の結婚は、降ってきた幸運というものとは違うかもしれないわ。レオンがずっと私を想っていたというのは事実だし、その恋がちょっと真っ直ぐすぎるのよね。
家庭のある女性、または男性に恋をしてしまったら、どういう行動が一般的だろうか。
秘密の恋心を持ってしまっても、いずれ疲れて諦めるのが穏便だろう。もしくは玉砕覚悟で相手に告白し、ふられたり、不倫なんて関係になったり。セリーナが想像できるのはそのくらいだ。
しかしレオンの場合、その秘する片恋いは何年も衰えず、彼は影からセリーナを見つめ、後をつけていた。その年頃の男性には珍しく、純潔さえ保って。
しかも彼は、この結婚のために階級を上げようと、北の山岳国境に赴いて山賊の捕縛作戦に志願した。聞くところによると、どうやらかなりの強行策だったらしい。逮捕された賊の中には死傷者も多かったそうだ。
セリーナは、彼が具体的にそこで何をしたのかは知らない。武勇といえど、人に対して剣を振るう行為について、軽々しく興味本位で接するべきではないと思ったからだ。
とにかく、彼の恋は強固なものだった。言い換えれば、彼はセリーナのためならなんでもしてしまいそうな危うさがある。
一輪の花が欲しいというセリーナの言葉だけで、バラを求めて貴族の屋敷に忍び込もうとしてしまうくらい。
——って、私、何考えてるの?
レオンを疑う方向に思考が流れていきそうで、セリーナは小さく唇を噛んだ。そして、何か自分を安心させてくれるものはないかと、ある櫃のふたを開ける。
そこには、以前の重要書類や手紙などが入っている。
その中からフランクのつけていた日記を見つけて、手に取った。故人のものでも、日記を読むというのは罪悪感が湧き上がる。セリーナは心の中で謝って、彼の文字に目を走らせた。
フランクは几帳面な性格で、そこには仕事での覚書から、日々の些細な出来事までが書かれている。
はたして生前のフランクは、鈍感な自分とは違い、妻に恋を募らせていた男の存在に気がついていただろうか。もしくは何か、身の危険を感じていたりはしなかっただろうか。
しかし予想通り、どんなに遡って読んでも、そこに綴られていたのは、かつてあった彼の恙無い日常や仕事このことだ。
やはりあの頃のレオンは、セリーナどころかフランクに対してさえも、自分の存在は欠片とも認識させなかったに違いないのだ。
——『貴女の不幸を願ったことなんて、俺は一度もありませんでした』
いつかのレオンの言葉が蘇る。その時の、彼の真摯な眼差しも。
そこに疑いの余地はないと、セリーナは自分の直感を信じることにした。
仮にもし、レオンがフランクを殺すほど邪悪ならば、セリーナとの初夜まで漕ぎ付けるのにあんなに時間がかかった人物像には当てはまらないだろう。
くだらない噂話に流されて疑心暗鬼になるところだったと、セリーナは肩を落とす。
その時、ふと手元にあった日記にまた目を落とした。最後のページに、見覚えのある名前があった。
——アイゼンシュタイン卿
フランクはその日、アイゼンシュタイン卿と面談し、何かを話し合ったようだ。その断片的な情報が書き散らされている。
『アイゼンシュタイン卿にはひどく失望した。少年法の制定に尽力してくれる方だと思っていたが、手酷く裏切られた。未成年の犯罪を大人と同じように裁いてはとても更生など見込めないと、何度も話し合ったのに。今まで多くの未成年犯罪の判例を提供してきたが、全て水の泡となってしまった。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。すぐにでも王都に出向き、地方自治よりも決定権のある国議会にこの現状を訴えてみよう。』
流れるようなフランクの筆跡に、どこか荒いような雰囲気がある。それにつられてか、セリーナの胸の内がぞわりと粟立った。
確かに、フランクは軽犯罪から重大な非行行為まで、子供の裁判を受け持つことが多かった。そして常々、未成年の将来を考慮した判決を出すのは担当の裁判官に左右されてしまうと嘆いて、少年法の制定を待ち望んでいたのだ。議員や貴族の集まりでは、熱心にその必要性を議論しようとしていた。
少年法の制定をめぐって、アイゼンシュタイン卿と何があったのだろう。
セリーナはさらにフランクの日記を読み漁ったが、それ以前の記述では、アイゼンシュタイン卿の名は面会の覚書程度にしか出てこない。
——だめだわ。いくら考えたって、憶測にしかならない。こうなったら直接本人と話してみなくちゃ。
セリーナの元からの、思い立ったら行動に移すという性格が急いている。てきぱきと日記などを片付けて、外出の用意をする。
一瞬、書き置きを残していくべきだろうかと思案した。しかしどうせレオンが帰る予定は明朝だ。いずれにせよ、夫より自分が帰ってくる方が早いだろうと思った。
セリーナはコートと襟巻きをしっかり着込んで、積もった雪に照らされた夜へと踏み出し、貴族の屋敷のある街の一角へと足を向けた。
あれからどうしても、兄のアレクセイがもたらした、役人の間で囁かれているという噂のことを考えてしまう。フランクはレオンに殺されただなんて滑稽な話、気にしないでさっさと忘れてしまえればいいのだが、なかなかそうもいかなかった。
一体なぜ、そして誰が人の不幸をさらに弄ぶような噂を流しているのだろう。
一つ思い当たるのが、アイゼンシュタイン夫人だった。
お茶会の席であからさまにセリーナを見下して、さも面白そうに「フランク・ブランソン様が死んで一番得をしたのは誰かしら?」と言った彼女。思い出すだけでも怒りがこみ上げる。ただその場を後にするだけでなく、彼女の顔にカモミールティーをぶちまけてやればよかったのだ。
フランクを失った不慮の事故も、レオンと出会えた幸運も、そこに疑うべきものなどないはずだ。
——でも……二度目の結婚は、降ってきた幸運というものとは違うかもしれないわ。レオンがずっと私を想っていたというのは事実だし、その恋がちょっと真っ直ぐすぎるのよね。
家庭のある女性、または男性に恋をしてしまったら、どういう行動が一般的だろうか。
秘密の恋心を持ってしまっても、いずれ疲れて諦めるのが穏便だろう。もしくは玉砕覚悟で相手に告白し、ふられたり、不倫なんて関係になったり。セリーナが想像できるのはそのくらいだ。
しかしレオンの場合、その秘する片恋いは何年も衰えず、彼は影からセリーナを見つめ、後をつけていた。その年頃の男性には珍しく、純潔さえ保って。
しかも彼は、この結婚のために階級を上げようと、北の山岳国境に赴いて山賊の捕縛作戦に志願した。聞くところによると、どうやらかなりの強行策だったらしい。逮捕された賊の中には死傷者も多かったそうだ。
セリーナは、彼が具体的にそこで何をしたのかは知らない。武勇といえど、人に対して剣を振るう行為について、軽々しく興味本位で接するべきではないと思ったからだ。
とにかく、彼の恋は強固なものだった。言い換えれば、彼はセリーナのためならなんでもしてしまいそうな危うさがある。
一輪の花が欲しいというセリーナの言葉だけで、バラを求めて貴族の屋敷に忍び込もうとしてしまうくらい。
——って、私、何考えてるの?
レオンを疑う方向に思考が流れていきそうで、セリーナは小さく唇を噛んだ。そして、何か自分を安心させてくれるものはないかと、ある櫃のふたを開ける。
そこには、以前の重要書類や手紙などが入っている。
その中からフランクのつけていた日記を見つけて、手に取った。故人のものでも、日記を読むというのは罪悪感が湧き上がる。セリーナは心の中で謝って、彼の文字に目を走らせた。
フランクは几帳面な性格で、そこには仕事での覚書から、日々の些細な出来事までが書かれている。
はたして生前のフランクは、鈍感な自分とは違い、妻に恋を募らせていた男の存在に気がついていただろうか。もしくは何か、身の危険を感じていたりはしなかっただろうか。
しかし予想通り、どんなに遡って読んでも、そこに綴られていたのは、かつてあった彼の恙無い日常や仕事このことだ。
やはりあの頃のレオンは、セリーナどころかフランクに対してさえも、自分の存在は欠片とも認識させなかったに違いないのだ。
——『貴女の不幸を願ったことなんて、俺は一度もありませんでした』
いつかのレオンの言葉が蘇る。その時の、彼の真摯な眼差しも。
そこに疑いの余地はないと、セリーナは自分の直感を信じることにした。
仮にもし、レオンがフランクを殺すほど邪悪ならば、セリーナとの初夜まで漕ぎ付けるのにあんなに時間がかかった人物像には当てはまらないだろう。
くだらない噂話に流されて疑心暗鬼になるところだったと、セリーナは肩を落とす。
その時、ふと手元にあった日記にまた目を落とした。最後のページに、見覚えのある名前があった。
——アイゼンシュタイン卿
フランクはその日、アイゼンシュタイン卿と面談し、何かを話し合ったようだ。その断片的な情報が書き散らされている。
『アイゼンシュタイン卿にはひどく失望した。少年法の制定に尽力してくれる方だと思っていたが、手酷く裏切られた。未成年の犯罪を大人と同じように裁いてはとても更生など見込めないと、何度も話し合ったのに。今まで多くの未成年犯罪の判例を提供してきたが、全て水の泡となってしまった。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。すぐにでも王都に出向き、地方自治よりも決定権のある国議会にこの現状を訴えてみよう。』
流れるようなフランクの筆跡に、どこか荒いような雰囲気がある。それにつられてか、セリーナの胸の内がぞわりと粟立った。
確かに、フランクは軽犯罪から重大な非行行為まで、子供の裁判を受け持つことが多かった。そして常々、未成年の将来を考慮した判決を出すのは担当の裁判官に左右されてしまうと嘆いて、少年法の制定を待ち望んでいたのだ。議員や貴族の集まりでは、熱心にその必要性を議論しようとしていた。
少年法の制定をめぐって、アイゼンシュタイン卿と何があったのだろう。
セリーナはさらにフランクの日記を読み漁ったが、それ以前の記述では、アイゼンシュタイン卿の名は面会の覚書程度にしか出てこない。
——だめだわ。いくら考えたって、憶測にしかならない。こうなったら直接本人と話してみなくちゃ。
セリーナの元からの、思い立ったら行動に移すという性格が急いている。てきぱきと日記などを片付けて、外出の用意をする。
一瞬、書き置きを残していくべきだろうかと思案した。しかしどうせレオンが帰る予定は明朝だ。いずれにせよ、夫より自分が帰ってくる方が早いだろうと思った。
セリーナはコートと襟巻きをしっかり着込んで、積もった雪に照らされた夜へと踏み出し、貴族の屋敷のある街の一角へと足を向けた。
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