あなたが私を手に入れるまで

青猫

文字の大きさ
上 下
19 / 50
第二章

19

しおりを挟む
 その日は朝から一段と冷え込み、昼頃には灰色の空から雪が舞い始めていた。
 セリーナと女中のリサは、氷が張る前に井戸から水を汲みおきし、暖炉の手入れをして薪と炭の量を点検し、コートの内側に入れる綿を梳いたりと、忙しくも楽しく働いていた。
 ちょうどお茶を入れる時間に、若い郵便配達人が肩や帽子の上に雪を積もらせてやってきた。セリーナはその配達人にも一杯のミルクティーを差し出し、彼からは一通の封筒を受け取った。
「まあ。こんなピンクで可愛らしい封筒をもらうのなんて、ずいぶん久しぶり」
「すみません。雪で少し濡れてしまって」
 温かい飲み物にホッとした様子の配達人がそう謝るのを、セリーナは微笑んで「いいのよ」と受け流す。彼はリサにクッキーをもらって、礼を言って「まだ配達があるので」と去って行った。
 セリーナは冷たい風が入らないようにドアをしっかり閉めて、届いた封書を裏返す。
「差出人は……あら、男爵夫人だわ」
 エリーゼ・グリフトン男爵夫人は、セリーナがブランソンの姓だった時に交流があった女性だ。まだうら若いが、ちょっとした美食家で、セリーナが育てていた香草にも当時興味を持っていくれていた。
 彼女らしい上品なピンクの封筒を開けると、香水の香りが移された花柄の便箋が出てくる。
 厳しい冬に、遠い春を感じさせる手法だ。今やすっかり洗濯石鹸の香りに馴染んでいるが、セリーナもフランクと生活していた頃は、何種類かの香水を衣服や手紙に使い分けていたのをふと思い出す。
「何かのお誘いですか?」
 リサが好奇心を隠しきれずに尋ねてくる。セリーナは文面に目を通しながら頷いた。
「ええ。女性だけ集まって、お茶会を開くんですって。どうやらハーブティーの飲み比べが趣旨みたい」
 この地方都市に住む貴族の数は、首都と比べるとずっと少なく、夜会などを開くにあたっては、いつもそれらしい人物を集めるのに貴族たちは苦労している。だから役人の高官や、地元の豪族も貴族のコミュニティーには頻繁に出入りする機会があるのだ。
 セリーナも以前は、そういった人々が開く集まりにはよく招待されてた。しかしここずっと軍人の妻となってからは、パタリとそんな誘いも無くなっていたのに。
 手紙の最後には、エリーゼの華奢な綴りでこう書かれていた。
『しばらくご連絡をしないでごめんなさいね。あの悲劇的な事故に私も心を痛め、セリーナ様の行く末を案じておりました。セリーナ様が新しい生活を始められ、まだこの街に留まっていらっしゃると風の便りで聞いて、どんなに安心したことか。ぜひ、また以前のように私とお喋りしてください。お茶会にいらっしゃるのを、楽しみにお待ちしております』
 最後まで読んで、セリーナはしばし考え込んだ。             
 以前、妻は夫の人間関係に付き合うべきだと、半ば義務感で貴族たちの集まりに末席で参加していた。けれどそれを忌み嫌っていたわけではない。堅苦しい思いもしたが、上品な人々との交流は楽しいことも多かった。
 教養のある会話。皆がさらりと披露するピアノの腕前。輸入品の珍しいお茶やお菓子。
「奥様、悩むことないじゃないですか。まずレオン様にお伺いしてごらんなさい」
 リサがそう促してくれる。
 セリーナは「そうね。そうしてみるわ」と、小さく頷いた。

「もちろん。ぜひ行っていらっしゃい。貴女が行きたのなら、俺は反対なんかしません」
 夫婦二人で夕飯をとっている時に、男爵夫人のお茶会に出席してもいいかと訊くと、レオンの返事は予想通りのものだった。
「ありがとう。なら明後日の午後は家を空けますけど、あなたが帰ってくるまでには私も戻るようにしますから」
「時間なんか気にしないで、楽しんできてください」
 そう言って夕食を綺麗に平らげた夫の表情を、セリーナは注意深く観察した。
 レオンは感情をそのまま表に出すことはほとんどないが、セリーナは彼の微妙な眉の角度や口元の様子が少しだけ読み取れるようになってきていた。
「何か、心配事でも?」
 彼の目に、ほんの僅かな影がよぎったように見えて、セリーナはそう尋ねた。レオンは、ぎくりとでもしたのか一瞬固まって、ゆっくり首を振る。
「あ……いえ、何も」
「レオン。私の兵隊さん。些細なことでも、きちんと言って」
 自分でもちょっと押しが強いかと思ったが、セリーナはテーブルの上で夫の手を取った。こうでもしないと、彼は未だに片恋でもしているかのように、全てが遠慮がちだ。
 困ったように目を泳がせていたレオンは、がっしりとした肩を少し丸めて、やっと言い始める。
「セリーナ……その貴族のお茶会に着ていくドレスはありますか?」
「着ていくもの?」
 セリーナは続いて「もちろん」と答える。
「でも夜会じゃないんだから、ドレスなんかでなくていいのよ。普段着とは違う、きちんとした訪問着ね」
「でも、以前のフランク殿の屋敷から、ここに荷物を運ぶ時、ずいぶん衣装を売ったでしょう?」
 この話の方向が見えて、セリーナはため息をつきたくなるのをぐっと堪えた。
 この若い夫は、妻に与えられる家や衣装で、愛情の大きさが決まるとでも思っているのだろうか。
「ええ。もう着れなくなった若すぎるデザインのものや、無駄にあった似通ったドレスは売りました。気に入ったものだけ残して、むしろ清々したわ」
「フランク殿との、思い出の品もあったのでは……。俺がもっと大きな家を用意できたら、貴女のクローゼットだってもっと余裕があって」
 ここでレオンがフランクの名を出したことに、セリーナは心の隅でムッとした。
 どうして亡き人と自分を比べようとするのか。しかも、比べても仕方のない家の大きさや衣装の数なんてものを。
「彼との思い出は、ドレスを売ったからといって無くなるものじゃないわ。哀れむようなこと、言わないでください。それに、私にはちゃんと、要るだけの衣装はあるんです」
 空になった夕食の皿を下げようと立ち上がると、レオンも慌てて立ち上がった。
「すみません……! 俺、違うんです。哀れむなんて、そんなことは決して、」
 これ以上喧嘩みたいな言い合いをしたくなくて、セリーナは彼に背を向けた。台所に入り、ガシャンと音を立てて皿を台に乗せる。今度こそ深くため息をついて、右手の掌で両目を覆った。
 これは喧嘩なんかじゃない。自分か勝手にへそを曲げてるだけだ。そうわかっていても、何か遣る瀬ないような想いが渦巻いていた。
 順調に見えても、この若い夫との結婚生活はまだどこか噛み合わないところがある。レオンが時々固執する、こういった「妻に与えられる物」「夫の社会的身分」という秤に意味がないことを、どうやって伝えればいいのだろう。
「セリーナ」
 台所のドアがノックされ、その声の方を見ると、レオンがまるで迷子になった少年のような面持ちで戸口に立ち竦んでいた。
「怒っているんですか……?」
 そうやって訊くのはずるい。
「少しね」
「俺……すみません」
 こんな時、年下の夫という存在が、ひどく手にあまる。世間に多い男性優位を振りかざすような亭主の方が、まだ扱いやすいのではないかとすら思ってしまう。
「私が怒っている時どうすればいいか、もう知っているでしょう?」
 そう言って、セリーナは彼に近づいた。
 二人には身長差もあるが、それ以上に、何か別の種族ではないかとすら思ってしまうほどの体格差がある。けれどレオンはセリーナの前では決して声を荒げたり、力を誇示することはない。妻に手を伸ばす時はいつもこうして、おずおずと目線で「触れていいか」と訊いてくる。
「謝罪のキスを」
 セリーナがそう促すと、彼が身をかがめてきて短い巻き毛が頬に触れた。続けて、唇が目尻にそっと押し当てられる。
 彼の大きな体が緊張を解いた。セリーナも、腰に回る彼の腕に身を預けて目を閉じる。
「私はあなたでちゃんと満ち足りてるのよ……」 
 そう囁くと、レオンの身体が僅かに打ち震えたように感じた。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

後宮の棘

香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。 ☆完結しました☆ スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。 第13回ファンタジー大賞特別賞受賞! ありがとうございました!!

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

家出したとある辺境夫人の話

あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
『突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました』 これは、一通の置き手紙からはじまった一組の心通わぬ夫婦のお語。 ※ちゃんとハッピーエンドです。ただし、主人公にとっては。 ※他サイトでも掲載します。

生まれ変わっても一緒にはならない

小鳥遊郁
恋愛
カイルとは幼なじみで夫婦になるのだと言われて育った。 十六歳の誕生日にカイルのアパートに訪ねると、カイルは別の女性といた。 カイルにとって私は婚約者ではなく、学費や生活費を援助してもらっている家の娘に過ぎなかった。カイルに無一文でアパートから追い出された私は、家に帰ることもできず寒いアパートの廊下に座り続けた結果、高熱で死んでしまった。 輪廻転生。 私は生まれ変わった。そして十歳の誕生日に、前の人生を思い出す。

【完結】私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね

江崎美彩
恋愛
 王太子殿下の婚約者候補を探すために開かれていると噂されるお茶会に招待された、伯爵令嬢のミンディ・ハーミング。  幼馴染のブライアンが好きなのに、当のブライアンは「ミンディみたいなじゃじゃ馬がお茶会に出ても恥をかくだけだ」なんて揶揄うばかり。 「私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね! 王太子殿下に見染められても知らないんだから!」  ミンディはブライアンに告げ、お茶会に向かう…… 〜登場人物〜 ミンディ・ハーミング 元気が取り柄の伯爵令嬢。 幼馴染のブライアンに揶揄われてばかりだが、ブライアンが自分にだけ向けるクシャクシャな笑顔が大好き。 ブライアン・ケイリー ミンディの幼馴染の伯爵家嫡男。 天邪鬼な性格で、ミンディの事を揶揄ってばかりいる。 ベリンダ・ケイリー ブライアンの年子の妹。 ミンディとブライアンの良き理解者。 王太子殿下 婚約者が決まらない事に対して色々な噂を立てられている。 『小説家になろう』にも投稿しています

勝手にしなさいよ

恋愛
どうせ将来、婚約破棄されると分かりきってる相手と婚約するなんて真っ平ごめんです!でも、相手は王族なので公爵家から破棄は出来ないのです。なら、徹底的に避けるのみ。と思っていた悪役令嬢予定のヴァイオレットだが……

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

(完結)私より妹を優先する夫

青空一夏
恋愛
私はキャロル・トゥー。トゥー伯爵との間に3歳の娘がいる。私達は愛し合っていたし、子煩悩の夫とはずっと幸せが続く、そう思っていた。 ところが、夫の妹が離婚して同じく3歳の息子を連れて出戻ってきてから夫は変わってしまった。 ショートショートですが、途中タグの追加や変更がある場合があります。

処理中です...