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第一章
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情事の翌朝、ついダラダラと寝床に留まってしまったが、ある時点で二人ともあたふたと着替えて、朝の準備を始めなければならなかった。
いつもより少し慌ただしい——そしてちょっと気恥ずかしい——朝食を済まし、レオンは軍に登庁する支度を始める。
「あの、これ」
セリーナはマフラーを自分の夫に差し出した。黒の毛糸で編み上げたそれは、編目模様もシンプルでシックな仕上がりになっている。
小さく首をかしげるレオンに、セリーナは自らマフラーを巻いてやった。冬の早朝は空気が凍てつくような寒さだ。真新しいマフラーはこれから出勤する彼を、少しでも温めてくれるだろうか。
「もしかして、これ……」
レオンはやっと思い至ったかのように目を見開いて、そっとマフラーに触れた。
「私が編みました。黒なら、制服にも合うかなと思って」
セリーナはレオンの表情を伺った。兵士という職業柄か、若々しい顔立ちに表れる感情はいつも控えめだ。
昨夜、二人はやっと夫婦の本懐を遂げた。結婚式を挙げてから初夜まで何週間もかかったが、それまでの道のりはそれなりに意味のあることだったと思う。今朝、同じベッドの上で恥ずかしげに微笑みつつ、自然な仕草でセリーナの髪に指を絡めてきたレオンを見て、やっとセリーナは自分が彼の妻となれた喜びを噛みしめることができたのだ。
「ありがとう……。大切にします」
レオンはわずかに耳の縁を赤くして、首に巻かれた毛糸に鼻を埋めた。こんな僅かな仕草が、セリーナの心にじんわりと染み込んで、つられてなんだか照れ臭くなってしまう。
レオンは少しだけ躊躇して、身をかがめてセリーナの頬に唇を寄せた。セリーナはすんなりとそれを受け入れ、「いってらっしゃい」と声をかける。
「今夜は、少し遅くなるかもしれません。湿地の測量の護衛をするんですが、その後に、下町の警邏任務についてる部下たちを見て回るので。先に、休んでいてください」
玄関を出て馬に跨りながら、レオンは夫らしくセリーナに言って聞かせる。彼を見上げて、セリーナは微笑む。
「わかりました。でも帰ってきたらカウチで寝たりしないで、ちゃんと寝室に来てくださいね」
レオンの張りのいい頬に、さっと赤みが差す。セリーナは気づかなかったふりをして、馬に乗った夫を見送った。
+++++++++++
湿地の中で地形や沼の深さを測っていく技師たちをレオンが眺めていると、すぐそばにマットが馬を寄せてきた。
「これからますます寒くなって、騎馬族の狩りが難しくなる季節だ。獲物を追って南下してくる可能性もある。地図の作成は急がせたほうがいいな」
副隊長の助言に、レオンは一度頷いた。つられて頭の中で兵の数を計算する。
「騎馬族は身軽で、沼が凍ればやすやすと街を囲む壁までやってこれる。警備の範囲を広げるように上に進言するつもりだが、街の警邏にも人員が必要だし、難しいな」
「ああ。最近はむしろ街中の方が物騒だから困る。麻薬の売人なんかの下っ端を捕まえても、なかなか犯罪集団の中核の正体がはっきりしないしさ」
その時、マットがちらりとこちらに目を向けてきた。「なんだ」と眼差しで問い返すと、微妙に口角を上げる。
「そのマフラー、似合ってんな。温かそうだし」
「……ああ」
妻が編んでくれたのだ、と自慢したい気もするが、多分マットにはお見通しなのだろう。レオンはかじかむ鼻頭をマフラーに擦り付けて、そこにセリーナの香りを探した。
「別に下世話な詮索はしないけどよ、奥さんとうまくいってんだろ?」
マットの勘の良さは相変わらずだ。レオンは昨夜のめくるめく情熱と快楽を思い出し、さらにマフラーを頬の高さまで引き上げて顔を隠した。
「まあ……ちゃんと夫婦としてやっていけると、少し自信みたいなものはついてきた」
「そっか。うん、そりゃ何より」
そして二人は測量技師が場所を変えるのに合わせてまた移動し、様々な数値を書きつける部下の監督を続ける。
辺りを見回し、特に緊急事態が差し迫る気配もないと確認すると、またマットが話しかけてきた。
「いや、なんかさ、お前が羨ましいよ。セリーナさんに片恋をしてた頃は、お前のことをバカで哀れな奴だと思ってたけど、こんな幸運があるんだな」
友人であり、信頼する第一の部下であるマットの言葉には、何の悪気もない。なのに、レオンはわずかに眉を寄せた。
「幸運、か。ただ、俺のこの幸せは、彼女の不幸がきっかけだ。彼女はフランク殿と本当に幸せな毎日を、」
「待った。それ以上は言うな」
隣を見やると、遮ったマットが渋い表情になっていた。
「確かに、フランク殿は不幸な事故で亡くなった。でも、どうしようもないことだろ。人智の及ばない自然災害だ。お前がそれに引け目を感じる必要なんてないんだよ」
彼の言うことは正しいと、頭ではわかる。しかしどうしても、レオンの胸の内には拭いきれない何かがあるのだ。
「俺との再婚で、セリーナは生活の質を落とした。彼女はうまく俺に隠しているが、何着かドレスを売ったようだし、以前の貴族との友好関係も途切れてしまったようなんだ」
「それは、いずれお前が軍で出世すれば、また与えてやれるものだ。それにさ、ほら、言うじゃないか。女にとっても寝床での快楽ってのがあって、それを与えてくれる男は金持ちや権力者にも勝るってさ」
マットのその軽口は、友を励まそうとしたものだったが、余計な内容も含まれていたかもしれなかった。ますますレオンの顔が曇る。
「昨夜は……俺は、自分が想いを遂げることばかりに夢中で、彼女のことは全然……」
「あぁぁ、だから、それはこれからだって! 俺も最初は女性側のこととか考えられなくて、痛いとか早いとか、全然気が利かないとか、かなり不評だったし。でも今はそんなことないぜ? 贔屓の女もいるしさぁ」
マットの自虐気味なフォローは失敗だった。レオンは「痛い、早い……気が利かない」と呟いて、昨夜自分は妻に気遣いもできなかったと思い出す。
「なあレオン、これからだって。気に病むよりも、こういうのは神秘なる女性への探究心だぞ」
そう言いながらマットは、なんで任務中にこんな話になってるんだと、少し泣きたい気分だ。
そして、新婚ほやほやのフェアクロフ夫妻といえば、とふと思い至る。
「あ、こんな話ししてる場合じゃなかった。レオン、実はちょっと気になる話を街で耳に入れたんだ。昨夜、場末の酒場で、セリーナさんの前夫、フランク・ブランソンのことを話題にしている男共がいてさ」
レオンも眼差しを鋭いものに変え、マットに先を促す。
「フランク殿が死んだ事故、夏の長雨による土砂崩れって言われているが、あれって現場調査されて出された結果だったのか?」
湿地の独特の臭いが冬の風に運ばれて、馬上の二人の鼻についた。
+++++++++
どこか心が軽やかだ。
セリーナは乾燥ハーブの手入れをしながら、いつの間にか鼻歌を歌っていた。その様子でリサにも、この夫婦がやっと手を取り合って男女の一歩を踏み出したことが伝わったようだ。なんとなく、女同士で意味の含んだ笑みが交わされる。
そしてその日の午後、掃除がひと段落して、女二人でお茶の用意をしていた時だった。珍しく来客があった。小綺麗な身なりで、小姓を従えた年配の男性は、一目で貴族とわかる人物だった。
「ごきげんよう、ブランソン夫人……ではなく、今はフェアクロフ夫人、でしたな。突然失礼いたします」
そう言って腰を折る男性に、セリーナは見覚えがあった。確か、前の夫フランクと一緒に出席した夜会で何度か会ったことがある。
「あ……アイゼンシュタイン卿。まあ、お久しぶりです」
「私のことを覚えていただけているとは」
「フランクの仕事で、かなりご助力いただいたと記憶しています」
リサに客用のお茶とお菓子の用意を指示して、セリーナはアイゼンシュタインを居間へと通した。広い部屋ではないが、家具も揃っているしこざっぱりとして、なんら恥じる住まいではない。なのに、アイゼンシュタインの部屋を見回し値踏みするような仕草が、セリーナの心に引っかかった。
「フランクの葬儀に、お花をいただきましたね。その節はありがとうございます」
「いや、お葬式に出席できれば一番でしたが、何しろフランク殿は急な事故で」
そこで一旦言葉を切って、アイゼンシュタインは同情の眼差しを向けてきた。
セリーナは、この男の要件は一体なんだろうと訝しむ。
確かに、亡き前夫と仕事上で関係のあった男で、縁がないわけではない。記憶によると、街の議会の貴族院に議席を持つアイゼンシュタイン卿は、裁判官だったフランクと子供の犯罪の問題についてよく話し合っていた。
「あれから、貴女がどのような状況にあるのかと、心配はしておりました。こうしてお伺いするのが遅くなって、まことに申し訳ない」
アイゼンシュタインはもったいぶった話し方で、セリーナの方に身を乗り出してくる。
「お心遣い、ありがとうございます。最初は寡婦として修道女院に入るつもりでしたが、思いがけない再婚の話がありまして、こうして新しい生活を始めましたの」
「そう噂では耳に入れておりました。ある軍人の求婚を受けた、と」
セリーナは一つ頷いた。
「ええ。この歳の女をもらってくれるなんて、レオンは心優しい夫で、本当に私は幸せ者です」
「優しい、ですか。ではフェアクロフという軍人は……何の思惑もなく貴女を娶った、と?」
アイゼンシュタインの言葉が理解できなくて、セリーナは小さく眉をしかめた。
「思惑?」
その不可解な言葉をそっくり繰り返してしまう。
アイゼンシュタインはティーカップに口をつけようとしたが、お茶の香りが気に食わなかったのか、あからさまに表情を歪めてまた茶器をテーブルに戻した。
「左様。思えば、フランク殿は本当に突然の不幸に見舞われました。しかしフェアクロフという男はその後、タイミングよく山岳国境で手柄を上げ、セリーナ様に求婚したそうですね。普通、世間ではこのようなトントン拍子はなかなかないものですよ」
セリーナの胸に、何か嫌なものが滲んで広がっていく。アイゼンシュタインの回りくどい話し方も、癇に障った。
「あの、アイゼンシュタイン様。今日わざわざお越しいただいたのは、そのようなことを私にお話いただくためだったのでしょうか?」
「あ、いや、お気に障ったのなら申し訳ない」
さすがに世慣れた身分らしく、アイゼンシュタインはそつなく雰囲気を取り繕った。
「ただ、フランク殿を亡くされて、セリーナ様の二度目の結婚生活は一体どのようなものかと、心配でして。住む家も小さくなり、かつて友好関係にあった上流階級とも縁が切れ、心細いのでは、と」
「まあ、お気遣いいただて。でも貴族の方々との交流は、フランクの仕事の延長にあったからで、私、当時でも自分は司法役人の妻であるだけと弁えていました。この生活も満ち足りてて、以前のものと比べたりはしませんわ」
セリーナの物言いに、アイゼンシュタインの目が一瞬獰猛に光った。
「なるほど。では今は、一介の軍人の妻となり、それに順応しているわけですね。前夫のことなど、すっかり忘れてしまっているようで、ある意味そのしたたかさに感心いたしますな」
瞬きを繰り返し、アイゼンシュタイン卿の言うことを理解した途端、セリーナは決然と立ち上がった。呼び鈴を鳴らすと、すぐにリサが居間に入ってくる。
「リサ、アイゼンシュタイン様はそろそろお帰りのようですから、外の従者に言いつけて馬車の用意をしてもらって」
リサは何かを察したのか、「はい」とだけ簡潔に返事をしていそいそと出て行った。
「セリーナ様、誤解しないでください。ただ私は、貴女がなぜこのような二度目の結婚に踏み切ったのか、少々気になっただけなのです」
アイゼンシュタインは貴族の所作と丁寧な言葉遣いで武装し、さらにセリーナに言い募った。
「何かありましたら、いつでもこのアイゼンシュタインがお力になります。それを忘れずにおいてください」
突然来訪したアイゼンシュタインが、また慌ただしく去っていく。
それからセリーナは、朝の軽やかな気分をすっかり台無しにされて、しばらく塞ぎ込んであれこれ考えを巡らせた。
レオンとの結婚は、セリーナにとっては確かに思いがけないものだった。ただ、レオンにとっては違うだろう。ずっと恋心を募らせて、フランクの死をきっかけにして、セリーナの前に求婚するために現れたのだから。
この結婚は彼にとって、思いがけないというよりもむしろ、夢想し、切望し、勝ち取ったもの、と言えるかもしれない。
——確かにレオンは、私が修道女院に行く寸前にタイミングを見て求婚し、軍での階級と給金を上げて、結婚式をあげたんだわ。それが「思惑」だと言うなら、そうなんだろうけど……。
こんなことを考えるのは不毛だ。早く夫が帰ってきてくれないだろうかと、セリーナは日が暮れようとしている窓の外を眺めた。
いつもより少し慌ただしい——そしてちょっと気恥ずかしい——朝食を済まし、レオンは軍に登庁する支度を始める。
「あの、これ」
セリーナはマフラーを自分の夫に差し出した。黒の毛糸で編み上げたそれは、編目模様もシンプルでシックな仕上がりになっている。
小さく首をかしげるレオンに、セリーナは自らマフラーを巻いてやった。冬の早朝は空気が凍てつくような寒さだ。真新しいマフラーはこれから出勤する彼を、少しでも温めてくれるだろうか。
「もしかして、これ……」
レオンはやっと思い至ったかのように目を見開いて、そっとマフラーに触れた。
「私が編みました。黒なら、制服にも合うかなと思って」
セリーナはレオンの表情を伺った。兵士という職業柄か、若々しい顔立ちに表れる感情はいつも控えめだ。
昨夜、二人はやっと夫婦の本懐を遂げた。結婚式を挙げてから初夜まで何週間もかかったが、それまでの道のりはそれなりに意味のあることだったと思う。今朝、同じベッドの上で恥ずかしげに微笑みつつ、自然な仕草でセリーナの髪に指を絡めてきたレオンを見て、やっとセリーナは自分が彼の妻となれた喜びを噛みしめることができたのだ。
「ありがとう……。大切にします」
レオンはわずかに耳の縁を赤くして、首に巻かれた毛糸に鼻を埋めた。こんな僅かな仕草が、セリーナの心にじんわりと染み込んで、つられてなんだか照れ臭くなってしまう。
レオンは少しだけ躊躇して、身をかがめてセリーナの頬に唇を寄せた。セリーナはすんなりとそれを受け入れ、「いってらっしゃい」と声をかける。
「今夜は、少し遅くなるかもしれません。湿地の測量の護衛をするんですが、その後に、下町の警邏任務についてる部下たちを見て回るので。先に、休んでいてください」
玄関を出て馬に跨りながら、レオンは夫らしくセリーナに言って聞かせる。彼を見上げて、セリーナは微笑む。
「わかりました。でも帰ってきたらカウチで寝たりしないで、ちゃんと寝室に来てくださいね」
レオンの張りのいい頬に、さっと赤みが差す。セリーナは気づかなかったふりをして、馬に乗った夫を見送った。
+++++++++++
湿地の中で地形や沼の深さを測っていく技師たちをレオンが眺めていると、すぐそばにマットが馬を寄せてきた。
「これからますます寒くなって、騎馬族の狩りが難しくなる季節だ。獲物を追って南下してくる可能性もある。地図の作成は急がせたほうがいいな」
副隊長の助言に、レオンは一度頷いた。つられて頭の中で兵の数を計算する。
「騎馬族は身軽で、沼が凍ればやすやすと街を囲む壁までやってこれる。警備の範囲を広げるように上に進言するつもりだが、街の警邏にも人員が必要だし、難しいな」
「ああ。最近はむしろ街中の方が物騒だから困る。麻薬の売人なんかの下っ端を捕まえても、なかなか犯罪集団の中核の正体がはっきりしないしさ」
その時、マットがちらりとこちらに目を向けてきた。「なんだ」と眼差しで問い返すと、微妙に口角を上げる。
「そのマフラー、似合ってんな。温かそうだし」
「……ああ」
妻が編んでくれたのだ、と自慢したい気もするが、多分マットにはお見通しなのだろう。レオンはかじかむ鼻頭をマフラーに擦り付けて、そこにセリーナの香りを探した。
「別に下世話な詮索はしないけどよ、奥さんとうまくいってんだろ?」
マットの勘の良さは相変わらずだ。レオンは昨夜のめくるめく情熱と快楽を思い出し、さらにマフラーを頬の高さまで引き上げて顔を隠した。
「まあ……ちゃんと夫婦としてやっていけると、少し自信みたいなものはついてきた」
「そっか。うん、そりゃ何より」
そして二人は測量技師が場所を変えるのに合わせてまた移動し、様々な数値を書きつける部下の監督を続ける。
辺りを見回し、特に緊急事態が差し迫る気配もないと確認すると、またマットが話しかけてきた。
「いや、なんかさ、お前が羨ましいよ。セリーナさんに片恋をしてた頃は、お前のことをバカで哀れな奴だと思ってたけど、こんな幸運があるんだな」
友人であり、信頼する第一の部下であるマットの言葉には、何の悪気もない。なのに、レオンはわずかに眉を寄せた。
「幸運、か。ただ、俺のこの幸せは、彼女の不幸がきっかけだ。彼女はフランク殿と本当に幸せな毎日を、」
「待った。それ以上は言うな」
隣を見やると、遮ったマットが渋い表情になっていた。
「確かに、フランク殿は不幸な事故で亡くなった。でも、どうしようもないことだろ。人智の及ばない自然災害だ。お前がそれに引け目を感じる必要なんてないんだよ」
彼の言うことは正しいと、頭ではわかる。しかしどうしても、レオンの胸の内には拭いきれない何かがあるのだ。
「俺との再婚で、セリーナは生活の質を落とした。彼女はうまく俺に隠しているが、何着かドレスを売ったようだし、以前の貴族との友好関係も途切れてしまったようなんだ」
「それは、いずれお前が軍で出世すれば、また与えてやれるものだ。それにさ、ほら、言うじゃないか。女にとっても寝床での快楽ってのがあって、それを与えてくれる男は金持ちや権力者にも勝るってさ」
マットのその軽口は、友を励まそうとしたものだったが、余計な内容も含まれていたかもしれなかった。ますますレオンの顔が曇る。
「昨夜は……俺は、自分が想いを遂げることばかりに夢中で、彼女のことは全然……」
「あぁぁ、だから、それはこれからだって! 俺も最初は女性側のこととか考えられなくて、痛いとか早いとか、全然気が利かないとか、かなり不評だったし。でも今はそんなことないぜ? 贔屓の女もいるしさぁ」
マットの自虐気味なフォローは失敗だった。レオンは「痛い、早い……気が利かない」と呟いて、昨夜自分は妻に気遣いもできなかったと思い出す。
「なあレオン、これからだって。気に病むよりも、こういうのは神秘なる女性への探究心だぞ」
そう言いながらマットは、なんで任務中にこんな話になってるんだと、少し泣きたい気分だ。
そして、新婚ほやほやのフェアクロフ夫妻といえば、とふと思い至る。
「あ、こんな話ししてる場合じゃなかった。レオン、実はちょっと気になる話を街で耳に入れたんだ。昨夜、場末の酒場で、セリーナさんの前夫、フランク・ブランソンのことを話題にしている男共がいてさ」
レオンも眼差しを鋭いものに変え、マットに先を促す。
「フランク殿が死んだ事故、夏の長雨による土砂崩れって言われているが、あれって現場調査されて出された結果だったのか?」
湿地の独特の臭いが冬の風に運ばれて、馬上の二人の鼻についた。
+++++++++
どこか心が軽やかだ。
セリーナは乾燥ハーブの手入れをしながら、いつの間にか鼻歌を歌っていた。その様子でリサにも、この夫婦がやっと手を取り合って男女の一歩を踏み出したことが伝わったようだ。なんとなく、女同士で意味の含んだ笑みが交わされる。
そしてその日の午後、掃除がひと段落して、女二人でお茶の用意をしていた時だった。珍しく来客があった。小綺麗な身なりで、小姓を従えた年配の男性は、一目で貴族とわかる人物だった。
「ごきげんよう、ブランソン夫人……ではなく、今はフェアクロフ夫人、でしたな。突然失礼いたします」
そう言って腰を折る男性に、セリーナは見覚えがあった。確か、前の夫フランクと一緒に出席した夜会で何度か会ったことがある。
「あ……アイゼンシュタイン卿。まあ、お久しぶりです」
「私のことを覚えていただけているとは」
「フランクの仕事で、かなりご助力いただいたと記憶しています」
リサに客用のお茶とお菓子の用意を指示して、セリーナはアイゼンシュタインを居間へと通した。広い部屋ではないが、家具も揃っているしこざっぱりとして、なんら恥じる住まいではない。なのに、アイゼンシュタインの部屋を見回し値踏みするような仕草が、セリーナの心に引っかかった。
「フランクの葬儀に、お花をいただきましたね。その節はありがとうございます」
「いや、お葬式に出席できれば一番でしたが、何しろフランク殿は急な事故で」
そこで一旦言葉を切って、アイゼンシュタインは同情の眼差しを向けてきた。
セリーナは、この男の要件は一体なんだろうと訝しむ。
確かに、亡き前夫と仕事上で関係のあった男で、縁がないわけではない。記憶によると、街の議会の貴族院に議席を持つアイゼンシュタイン卿は、裁判官だったフランクと子供の犯罪の問題についてよく話し合っていた。
「あれから、貴女がどのような状況にあるのかと、心配はしておりました。こうしてお伺いするのが遅くなって、まことに申し訳ない」
アイゼンシュタインはもったいぶった話し方で、セリーナの方に身を乗り出してくる。
「お心遣い、ありがとうございます。最初は寡婦として修道女院に入るつもりでしたが、思いがけない再婚の話がありまして、こうして新しい生活を始めましたの」
「そう噂では耳に入れておりました。ある軍人の求婚を受けた、と」
セリーナは一つ頷いた。
「ええ。この歳の女をもらってくれるなんて、レオンは心優しい夫で、本当に私は幸せ者です」
「優しい、ですか。ではフェアクロフという軍人は……何の思惑もなく貴女を娶った、と?」
アイゼンシュタインの言葉が理解できなくて、セリーナは小さく眉をしかめた。
「思惑?」
その不可解な言葉をそっくり繰り返してしまう。
アイゼンシュタインはティーカップに口をつけようとしたが、お茶の香りが気に食わなかったのか、あからさまに表情を歪めてまた茶器をテーブルに戻した。
「左様。思えば、フランク殿は本当に突然の不幸に見舞われました。しかしフェアクロフという男はその後、タイミングよく山岳国境で手柄を上げ、セリーナ様に求婚したそうですね。普通、世間ではこのようなトントン拍子はなかなかないものですよ」
セリーナの胸に、何か嫌なものが滲んで広がっていく。アイゼンシュタインの回りくどい話し方も、癇に障った。
「あの、アイゼンシュタイン様。今日わざわざお越しいただいたのは、そのようなことを私にお話いただくためだったのでしょうか?」
「あ、いや、お気に障ったのなら申し訳ない」
さすがに世慣れた身分らしく、アイゼンシュタインはそつなく雰囲気を取り繕った。
「ただ、フランク殿を亡くされて、セリーナ様の二度目の結婚生活は一体どのようなものかと、心配でして。住む家も小さくなり、かつて友好関係にあった上流階級とも縁が切れ、心細いのでは、と」
「まあ、お気遣いいただて。でも貴族の方々との交流は、フランクの仕事の延長にあったからで、私、当時でも自分は司法役人の妻であるだけと弁えていました。この生活も満ち足りてて、以前のものと比べたりはしませんわ」
セリーナの物言いに、アイゼンシュタインの目が一瞬獰猛に光った。
「なるほど。では今は、一介の軍人の妻となり、それに順応しているわけですね。前夫のことなど、すっかり忘れてしまっているようで、ある意味そのしたたかさに感心いたしますな」
瞬きを繰り返し、アイゼンシュタイン卿の言うことを理解した途端、セリーナは決然と立ち上がった。呼び鈴を鳴らすと、すぐにリサが居間に入ってくる。
「リサ、アイゼンシュタイン様はそろそろお帰りのようですから、外の従者に言いつけて馬車の用意をしてもらって」
リサは何かを察したのか、「はい」とだけ簡潔に返事をしていそいそと出て行った。
「セリーナ様、誤解しないでください。ただ私は、貴女がなぜこのような二度目の結婚に踏み切ったのか、少々気になっただけなのです」
アイゼンシュタインは貴族の所作と丁寧な言葉遣いで武装し、さらにセリーナに言い募った。
「何かありましたら、いつでもこのアイゼンシュタインがお力になります。それを忘れずにおいてください」
突然来訪したアイゼンシュタインが、また慌ただしく去っていく。
それからセリーナは、朝の軽やかな気分をすっかり台無しにされて、しばらく塞ぎ込んであれこれ考えを巡らせた。
レオンとの結婚は、セリーナにとっては確かに思いがけないものだった。ただ、レオンにとっては違うだろう。ずっと恋心を募らせて、フランクの死をきっかけにして、セリーナの前に求婚するために現れたのだから。
この結婚は彼にとって、思いがけないというよりもむしろ、夢想し、切望し、勝ち取ったもの、と言えるかもしれない。
——確かにレオンは、私が修道女院に行く寸前にタイミングを見て求婚し、軍での階級と給金を上げて、結婚式をあげたんだわ。それが「思惑」だと言うなら、そうなんだろうけど……。
こんなことを考えるのは不毛だ。早く夫が帰ってきてくれないだろうかと、セリーナは日が暮れようとしている窓の外を眺めた。
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