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第一章
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セリーナは貴族の令嬢ではない。父は官僚の高官で、つまるところ中産階級といわれる家庭で育った。大雑把にいってしまえば、前の夫のフランクも軍部に勤めるレオンも社会的にはその階級だ。
子供の頃から女子が受けるべき教育をしっかり授けてもらい、金銭的な苦労はしたことはないが、貴族たちの持つような派手で浪費的な価値観は持ち合わせていない。セリーナ自身、教養を身につけつつ、日々の生活にもしっかり地に足をつけた感覚を持っていると自負している。
字の読み書きはもちろんのこと、有名な詩の暗唱はできるし、歴史の知識もあるし、ピアノもまあまあ弾けるのと同時に、裁縫や料理も一通りできる。
とはいえやはり、常に女中や召使を雇っていた実家や前の夫との生活で、自分はかなり甘やかされていたのだなと、最近実感することも多い。
レオンが雇ってくれた女中はリサという名で、セリーナより十は年上だ。兵舎の食堂で働いていたのを引き抜かれたそうだ。
レオンが軍部にいる間、セリーナはこの女中のリサと二人だけで家の切り盛りする。家事のベテランがいるとはいえ、一日中怠惰に過ごすのはセリーナの主義に反した。
最初は「奥様には重すぎます」と洗濯カゴも運ばれせてくれなかった彼女だが、最近はずいぶんうち解けて、近頃は買い物も一緒に行くし、家事も分担してこなしている。
「どうやら奥様の方が香草の使い方にセンスがありますね」
二人で作ったスープの味見をして、リサは少し悔しそうに呟いた。
「でも手際の良さや、ソースの塩加減はあなたに敵わないわ」
女同士で笑みを交わして夕食の下ごしらえは終わった。レオンが帰ってきたら、スープを温め、オーブンに料理を入れて火を通せばいい。
「お茶でも淹れましょうか。奥様はほら、旦那様にプレゼントするマフラーを完成させなくてはいけませんよ」
「そうね」
セリーナは食堂の椅子に腰を下ろした。午後あたりから、少し身体が怠い。お茶はありがたかった。
「それで、昨夜は旦那様と……?」
リサがヤカンを火にかけながら、好奇心を滲ませた眼差しをちらりと向けてくる。セリーナは微笑んでちょっと肩をすくめて見せた。
「一緒のベッドに寝るようになっただけでも大進歩なの。あんまり急かさないで」
結婚式の夜からレオンが書斎のカウチで眠っていたことを、もちろんリサは承知していた。夫婦の営みのことをおおっぴらにする趣味はないが、それでもリサはこっそり心配してくれるので、セリーナは若い夫の大きすぎる愛情と拙さをそれとなく彼女に相談していた。
「レオン様は兵舎で暮らした頃から、ちょっと眩しいくらいの清廉さがありましたからねぇ」
小太りな身体を揺らして、リサも肩を落とした。今度はセリーナの好奇心が刺激される。
「え……レオンは軍ではどんな感じなの?」
リサは少し考えてから、どこか母親のような表情を作る。
「兵舎に暮らす若い兵士ってのは、だいたいが粗野なもんでね。私が働いていた食堂なんて、いつも小さな戦場でしたよ。喧嘩も珍しくないし、そこで働いてる女たちに態度は悪いし。でもレオン様だけは、いつも「ありがとう」とか「美味しかった」って言葉をかけてくれる方でね。小競り合いが起きると進んで仲裁に入るんだけど、不思議と周りから反感も買わずにその場を収めてしまう」
ティーカップに入れられたお茶の湯気を吸い込みながら、セリーナはリサの言葉に聞き入った。
「私を個人的に女中として雇いたいって申し出をいただいた時なんか、微笑ましかったですよ。『ある女性を娶るから、どうか彼女がつつがない日常を送れるように力を貸して欲しい。まずは彼女が喜ぶような家具を見繕いたい』っておっしゃって、ああ、恋が実ったんだなって」
セリーナはもっとその話が聞きたかったが、急にお腹に重い痛みを感じて慌てて立ち上がった。リサが困惑した表情を作る。
「奥様?」
「あ、大丈夫。ちょっとごめんなさい」
お手洗いで確認すると、やはり月のものが来ていた。セリーナの身体はだいたい規則的だが、今回は少し早かったのだ。
来た、と意識しだすと、途端にお腹が痛み出す。毎月一度のことだが、やはりこの痛みには辟易する。
リサが心配そうに様子をうかがってきたので、セリーナは湯たんぽを頼んだ。
「横になてってください。身体を冷やすのがいけないんですから、ちゃんとベッドに入って」
その言葉に甘えて、セリーナは寝室に上がってベッドに身を横たえた。
——タイミング悪いな……。昨夜進展があったから今夜も、って思ってたんだけど……
。
夫婦の営みのことは、二人の経験の差がどうとか考えずに、これから少しずつ進めればいいと思っていたが、ここで一旦休止だ。
次第に強くなる不快感と痛みを静かに耐えながら、セリーナはレオンの端正な横顔を思い浮かべていた。
「え……セリーナの体調が?」
レオンは、女中のリサから「奥様はベッドでお休みです」と聞かされた途端、普段は恐れなど顔に出さない軍人の習性をかなぐり捨てていた。上着も脱がずに寝室へと階段を登る。後ろからリサが慌て「あの、奥様はただ……」という言葉をかけてきたが、レオンは胸に広がる不安を押し退けられない。
「セリーナ」
寝室はランプの明かり一つだけだったが、ベッドに駆け寄ると、横になっているセリーナの顔色が悪いのはすぐに見て取れた。
「あ……レオン。おかえりなさい。ごめんなさい、私気がつかなくて……」
「どこが悪いんです? ああ、だめです。起き上がらないで」
レオンはオロオロとしながら、起き上がろうとするセリーナの肩を押し戻した。途端に彼女は何かに耐えるように息を詰めて、表情を苦しげにする。
苦い焦燥感がレオンの胸にこみ上げてきた。
「医者は呼んだのか? 早く診てもらわなくては……」
「レオン、待って。レオンったら」
戸口に立って苦笑しているだけのリサに思わず苛立ってしまったが、袖を引かれてレオンはもう一度ベッドの中の妻と向き合う。
リサが寝室のドアがそっと閉め、寝室には二人っきりになった。
「病気じゃないんです。月のもので、私は一日目と二日目、ちょっと痛みが強くて」
レオンは頭の中で、月のものとはどんな病だと、兵舎の病院で見聞きした話をできる限り思い出そうとする。
「あの、分かりますか? 女性特有の、ほら……月一度の」
「…………あ」
そういえば、軍部での座学で学んだ。女性の、月一度の身体の変化。
やっとそれに思い至って、レオンは小さく息を吐く。
「取り乱してすみません。今まであまり、女性のことを知らなかったので」
レオンは自然に、枕の上のセリーナの額に手を当てた。少し体温が低い気がする。それに病気ではないとしても、彼女は痛みを抱えているのだ。
「安心したけど、やはり、貴女が苦しんでるのを見るのは辛い。俺に何かできることはありますか?」
少し驚いたように、セリーナは瞬きを繰り返した。彼女のその睫毛の繊細さに、レオンは密かに息を詰める。
「……そう言ってくれるのが嬉しい。じゃあ、キスしてください」
今度はレオンが一瞬固まって、言葉の意味をとらえるまで時間がかかる。ベッドの中の妻は弱々しくも、どこかいたずらっぽく微笑んでいた。
「どこにですか?」
こんな問いは無粋だと気がついて、言った途端に頭を抱えたくなる。
「あなたの好きなところ」
セリーナの答えも難しいものだった。レオンはセリーナの全てが好きだから。
それでもベッドのそばに膝をついて、横になっている彼女に覆いかぶさり、ふっくらした唇にキスをする。
その夜もレオンはちゃんと寝室のベッドに入った。時々苦しそうに声を漏らす彼女を宥め、柔らかい彼女の腹部に体温を移し与えるようにずっと掌を当てていた。
子供の頃から女子が受けるべき教育をしっかり授けてもらい、金銭的な苦労はしたことはないが、貴族たちの持つような派手で浪費的な価値観は持ち合わせていない。セリーナ自身、教養を身につけつつ、日々の生活にもしっかり地に足をつけた感覚を持っていると自負している。
字の読み書きはもちろんのこと、有名な詩の暗唱はできるし、歴史の知識もあるし、ピアノもまあまあ弾けるのと同時に、裁縫や料理も一通りできる。
とはいえやはり、常に女中や召使を雇っていた実家や前の夫との生活で、自分はかなり甘やかされていたのだなと、最近実感することも多い。
レオンが雇ってくれた女中はリサという名で、セリーナより十は年上だ。兵舎の食堂で働いていたのを引き抜かれたそうだ。
レオンが軍部にいる間、セリーナはこの女中のリサと二人だけで家の切り盛りする。家事のベテランがいるとはいえ、一日中怠惰に過ごすのはセリーナの主義に反した。
最初は「奥様には重すぎます」と洗濯カゴも運ばれせてくれなかった彼女だが、最近はずいぶんうち解けて、近頃は買い物も一緒に行くし、家事も分担してこなしている。
「どうやら奥様の方が香草の使い方にセンスがありますね」
二人で作ったスープの味見をして、リサは少し悔しそうに呟いた。
「でも手際の良さや、ソースの塩加減はあなたに敵わないわ」
女同士で笑みを交わして夕食の下ごしらえは終わった。レオンが帰ってきたら、スープを温め、オーブンに料理を入れて火を通せばいい。
「お茶でも淹れましょうか。奥様はほら、旦那様にプレゼントするマフラーを完成させなくてはいけませんよ」
「そうね」
セリーナは食堂の椅子に腰を下ろした。午後あたりから、少し身体が怠い。お茶はありがたかった。
「それで、昨夜は旦那様と……?」
リサがヤカンを火にかけながら、好奇心を滲ませた眼差しをちらりと向けてくる。セリーナは微笑んでちょっと肩をすくめて見せた。
「一緒のベッドに寝るようになっただけでも大進歩なの。あんまり急かさないで」
結婚式の夜からレオンが書斎のカウチで眠っていたことを、もちろんリサは承知していた。夫婦の営みのことをおおっぴらにする趣味はないが、それでもリサはこっそり心配してくれるので、セリーナは若い夫の大きすぎる愛情と拙さをそれとなく彼女に相談していた。
「レオン様は兵舎で暮らした頃から、ちょっと眩しいくらいの清廉さがありましたからねぇ」
小太りな身体を揺らして、リサも肩を落とした。今度はセリーナの好奇心が刺激される。
「え……レオンは軍ではどんな感じなの?」
リサは少し考えてから、どこか母親のような表情を作る。
「兵舎に暮らす若い兵士ってのは、だいたいが粗野なもんでね。私が働いていた食堂なんて、いつも小さな戦場でしたよ。喧嘩も珍しくないし、そこで働いてる女たちに態度は悪いし。でもレオン様だけは、いつも「ありがとう」とか「美味しかった」って言葉をかけてくれる方でね。小競り合いが起きると進んで仲裁に入るんだけど、不思議と周りから反感も買わずにその場を収めてしまう」
ティーカップに入れられたお茶の湯気を吸い込みながら、セリーナはリサの言葉に聞き入った。
「私を個人的に女中として雇いたいって申し出をいただいた時なんか、微笑ましかったですよ。『ある女性を娶るから、どうか彼女がつつがない日常を送れるように力を貸して欲しい。まずは彼女が喜ぶような家具を見繕いたい』っておっしゃって、ああ、恋が実ったんだなって」
セリーナはもっとその話が聞きたかったが、急にお腹に重い痛みを感じて慌てて立ち上がった。リサが困惑した表情を作る。
「奥様?」
「あ、大丈夫。ちょっとごめんなさい」
お手洗いで確認すると、やはり月のものが来ていた。セリーナの身体はだいたい規則的だが、今回は少し早かったのだ。
来た、と意識しだすと、途端にお腹が痛み出す。毎月一度のことだが、やはりこの痛みには辟易する。
リサが心配そうに様子をうかがってきたので、セリーナは湯たんぽを頼んだ。
「横になてってください。身体を冷やすのがいけないんですから、ちゃんとベッドに入って」
その言葉に甘えて、セリーナは寝室に上がってベッドに身を横たえた。
——タイミング悪いな……。昨夜進展があったから今夜も、って思ってたんだけど……
。
夫婦の営みのことは、二人の経験の差がどうとか考えずに、これから少しずつ進めればいいと思っていたが、ここで一旦休止だ。
次第に強くなる不快感と痛みを静かに耐えながら、セリーナはレオンの端正な横顔を思い浮かべていた。
「え……セリーナの体調が?」
レオンは、女中のリサから「奥様はベッドでお休みです」と聞かされた途端、普段は恐れなど顔に出さない軍人の習性をかなぐり捨てていた。上着も脱がずに寝室へと階段を登る。後ろからリサが慌て「あの、奥様はただ……」という言葉をかけてきたが、レオンは胸に広がる不安を押し退けられない。
「セリーナ」
寝室はランプの明かり一つだけだったが、ベッドに駆け寄ると、横になっているセリーナの顔色が悪いのはすぐに見て取れた。
「あ……レオン。おかえりなさい。ごめんなさい、私気がつかなくて……」
「どこが悪いんです? ああ、だめです。起き上がらないで」
レオンはオロオロとしながら、起き上がろうとするセリーナの肩を押し戻した。途端に彼女は何かに耐えるように息を詰めて、表情を苦しげにする。
苦い焦燥感がレオンの胸にこみ上げてきた。
「医者は呼んだのか? 早く診てもらわなくては……」
「レオン、待って。レオンったら」
戸口に立って苦笑しているだけのリサに思わず苛立ってしまったが、袖を引かれてレオンはもう一度ベッドの中の妻と向き合う。
リサが寝室のドアがそっと閉め、寝室には二人っきりになった。
「病気じゃないんです。月のもので、私は一日目と二日目、ちょっと痛みが強くて」
レオンは頭の中で、月のものとはどんな病だと、兵舎の病院で見聞きした話をできる限り思い出そうとする。
「あの、分かりますか? 女性特有の、ほら……月一度の」
「…………あ」
そういえば、軍部での座学で学んだ。女性の、月一度の身体の変化。
やっとそれに思い至って、レオンは小さく息を吐く。
「取り乱してすみません。今まであまり、女性のことを知らなかったので」
レオンは自然に、枕の上のセリーナの額に手を当てた。少し体温が低い気がする。それに病気ではないとしても、彼女は痛みを抱えているのだ。
「安心したけど、やはり、貴女が苦しんでるのを見るのは辛い。俺に何かできることはありますか?」
少し驚いたように、セリーナは瞬きを繰り返した。彼女のその睫毛の繊細さに、レオンは密かに息を詰める。
「……そう言ってくれるのが嬉しい。じゃあ、キスしてください」
今度はレオンが一瞬固まって、言葉の意味をとらえるまで時間がかかる。ベッドの中の妻は弱々しくも、どこかいたずらっぽく微笑んでいた。
「どこにですか?」
こんな問いは無粋だと気がついて、言った途端に頭を抱えたくなる。
「あなたの好きなところ」
セリーナの答えも難しいものだった。レオンはセリーナの全てが好きだから。
それでもベッドのそばに膝をついて、横になっている彼女に覆いかぶさり、ふっくらした唇にキスをする。
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