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第一章
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最初からうまくいくと思ってたわけではない。セリーナだって前の夫との初めての時は無知で余裕がなくて、いろいろ恥ずかしいことをした気がする。
馬に乗って軍部に登庁するレオンの後ろ姿は、普段より心なしか肩が落ちている。朝食の時はいつもに増して口数が少なかった。セリーナは玄関の戸口で彼を見送って、視界からその姿が消えると、悩んでも仕方ないと気持ちを切り替えようとした。
この二度目の結婚において、セリーナが少々懸念していたのは自分自身の誠実さだった。亡くなったフランクと、二度目の夫のレオン。彼らの職業や社会的地位、生活水準を比較する気は無い。どんな生活でも、ある程度自分は適応できるはずだという自信があった。けれど閨のこととなると二人目の経験というのは未知の領域で、自分がその時になって何をどう感じるかなど予想もできなかったからだ。
——でも実際経験すると、比較もなにも無いわね。
もう亡き人との思い出と、今差し出される生々しい情熱は別次元のものだ。
セリーナは二階の窓を開けて寝室や書斎の空気を入れ替える。そしてベッドを整えようとして、思わず昨夜の彼の息遣いを思い出してしまった。かっと頬に熱が走る。
鍛え上げられた逞しい身体の重みや、持て余された情熱を灯した眼差し。制御を失った昂りが、セリーナを圧倒した。
——……って、何思い出してるの?!
これじゃあ自分まで初心な小娘みたいだ。
下の階から女中のリサがやってきた物音がする。セリーナはパチンと自分の両頬を叩いてから、ベッドのシーツを剥がして洗濯カゴに放り込んだ。
午前中、一通りの訓練が済むと、レオンの率いる若い隊員たちは飢えた狼の集団のように軍の食堂に殺到する。いつもならばレオンも一応は隊長の威厳を保ちながら、肉体を酷使するこの仕事に見合うだけの栄養補給の時間を楽しみにしていた。
しかし今日はなんとなく食欲がない。いや、正直に言えば腹はきちんと減っているのだが、胸に何か詰まっているような感覚がその空腹を打ち消していた。
「おい、昼飯早く行こうぜ」
後ろから声をかけられ、振り返るとマットとジャンが怪訝そうな表情でこちらを伺っている。「先に行ってくれ」と返すと、二人とも顔を見合わせてこちらに駆け寄ってきた。
「レオン、どうしたんだ。朝から少し様子が変だぞ」
「さっき俺と手合わせした時も、なんか覇気がなかったし」
勘のいいマットに見抜かれてしまうのはともかく、いつもへらへらとしているジャンにまでこう指摘されるということは、今日の自分は相当腑抜けているということなのだろう。
「あ、おまえ、まさかとうとう……」
レオンの様子を慎重に探っていたマットが、急に何かに思い至ったように目を見開いて少しばかりの笑顔を作る。この友人が何を考えているかすぐに分かった。とっさに首を振る。
「違う。うまくいかなかったんだ」
マットの表情が面白いようにガラリと曇った。そしてそれを見ていたジャンは、訳がわからないと言うように隊長と副隊長を見比べている。
「よし……じゃあ昼飯は少し奮発して街で食おう」
なぜそうなるのか。しかし断るのも面倒で、結局マットの提案に従うことにする。ジャンもちゃっかり着いて来たのは不可解ではあったが。
通常は夜だけ開店する小料理屋のオヤジをなだめすかして、男三人はその店の二階で昼飯を食べることにした。下ごしらえをしていたオヤジが、昨夜の残り物などを適当に出してくれる。
「え、えぇ?! だって隊長、結婚式したのもう何週間も前……」
驚きに声を上げたジャンが、慌てて自分の口を塞ぐ。
マットが「実はこいつ、まだ本懐遂げてないんだよ」と告げた、次の瞬間の反応がこれだった。
ジャンもレオンとは長い付き合いだ。軍に入ってから転々とする配属先が偶然ながらことごとく同じで、腐れ縁といってもいい。現在、レオンの隊では特に特別な役職は無いが、何かと気の利く男で、下っ端と上のつなぎ役として、調子のいいその性格も重宝されている。
しかしレオンの恋や念願の結婚、そして現在の夫婦の関係まで露わにしてしまうと、さすがに気まずさがあった。
「好き過ぎて、いざとなると頭が真っ白になる……。彼女に触れただけで終わってしまって、情けなくて死にそうだ」
レオンが皿の上の肉をいたずらに細切れにしながら呟くと、マットもジャンも絶句した。
「あ……のさ、そういうのは、ほら、経験数みたいな……? てか、すげえ。好き過ぎてとか、そんな恋、俺もしてみたい」
顔を真っ赤にして、ジャンは支離滅裂なフォローをしようと試みている。マットもガシガシと髪をかきむしりながら、皿に盛られた料理にフォークを突き立てた。
「まあ俺も初めて女抱いた時はいろいろテンパったけど、おまえの場合は気持ちが純粋すぎんのかなぁ」
軍人として強い精神力と統率力があるレオンだが、同時に真っ直ぐすぎるきらいがある。小隊を新設するにあたり、軍の上層部はそのレオンの気質を買ったようだ。そして、いつも物事を斜めから捉えがちなマットが副隊長に添えられた。
今のところ、この隊は二人のバランスもとれて、うまくいっている。ただそのトップに立つ男がまだ童貞だという事実は、やはりちょっとした懸案かもしれなかった。
マットは窓の外に一度視線を投げた。冬が近づいてきている。太陽の光は角度を鋭角にして、むしろ夏よりもますます白く街を照らし出していた。
どうしてこんな明るい時間から、下半身を刺激するような話を真剣にしなくてはならないのだと、マットは心の中で嘆いた。が、ここは友が男として階段を登るかどうかの瀬戸際だ。
「生々しい話になるけど、ちゃんと、こう……触ったか?胸とかヒップとかさ。男としては最終目的で頭いっぱいになるけど、ああいう前戯って、案外こっちもリラックスできるっていうかさ……」
レオンがむせ返る。そして視線を宙に彷徨わせた。昨夜の記憶を辿っているのだろうか。
「…………いや。キスをして、それで……。それで…………」
レオンは言葉を飲み込んで、深くうな垂れた。額がテーブルに鈍い音を立てて当たって、皿やグラスが揺れる。マットは「やれやれ、やっぱりか」と、大きな体躯をしぼませている友人を見やる。
「じゃあ次はちゃんと前段階を踏めよ? 女性ってのは受け入れる側なんだからさ」
こういうのは、初めて花街に行く十代の甥っ子とか、軍に入りたてのヒヨッコ兵士にかける言葉ではないだろうか。
未だに羞恥と後悔と苦悩で撃沈しているレオンを眺めながら、マットは「今夜は俺も女抱きに行こう」と、さもしい計画を練った。
馬に乗って軍部に登庁するレオンの後ろ姿は、普段より心なしか肩が落ちている。朝食の時はいつもに増して口数が少なかった。セリーナは玄関の戸口で彼を見送って、視界からその姿が消えると、悩んでも仕方ないと気持ちを切り替えようとした。
この二度目の結婚において、セリーナが少々懸念していたのは自分自身の誠実さだった。亡くなったフランクと、二度目の夫のレオン。彼らの職業や社会的地位、生活水準を比較する気は無い。どんな生活でも、ある程度自分は適応できるはずだという自信があった。けれど閨のこととなると二人目の経験というのは未知の領域で、自分がその時になって何をどう感じるかなど予想もできなかったからだ。
——でも実際経験すると、比較もなにも無いわね。
もう亡き人との思い出と、今差し出される生々しい情熱は別次元のものだ。
セリーナは二階の窓を開けて寝室や書斎の空気を入れ替える。そしてベッドを整えようとして、思わず昨夜の彼の息遣いを思い出してしまった。かっと頬に熱が走る。
鍛え上げられた逞しい身体の重みや、持て余された情熱を灯した眼差し。制御を失った昂りが、セリーナを圧倒した。
——……って、何思い出してるの?!
これじゃあ自分まで初心な小娘みたいだ。
下の階から女中のリサがやってきた物音がする。セリーナはパチンと自分の両頬を叩いてから、ベッドのシーツを剥がして洗濯カゴに放り込んだ。
午前中、一通りの訓練が済むと、レオンの率いる若い隊員たちは飢えた狼の集団のように軍の食堂に殺到する。いつもならばレオンも一応は隊長の威厳を保ちながら、肉体を酷使するこの仕事に見合うだけの栄養補給の時間を楽しみにしていた。
しかし今日はなんとなく食欲がない。いや、正直に言えば腹はきちんと減っているのだが、胸に何か詰まっているような感覚がその空腹を打ち消していた。
「おい、昼飯早く行こうぜ」
後ろから声をかけられ、振り返るとマットとジャンが怪訝そうな表情でこちらを伺っている。「先に行ってくれ」と返すと、二人とも顔を見合わせてこちらに駆け寄ってきた。
「レオン、どうしたんだ。朝から少し様子が変だぞ」
「さっき俺と手合わせした時も、なんか覇気がなかったし」
勘のいいマットに見抜かれてしまうのはともかく、いつもへらへらとしているジャンにまでこう指摘されるということは、今日の自分は相当腑抜けているということなのだろう。
「あ、おまえ、まさかとうとう……」
レオンの様子を慎重に探っていたマットが、急に何かに思い至ったように目を見開いて少しばかりの笑顔を作る。この友人が何を考えているかすぐに分かった。とっさに首を振る。
「違う。うまくいかなかったんだ」
マットの表情が面白いようにガラリと曇った。そしてそれを見ていたジャンは、訳がわからないと言うように隊長と副隊長を見比べている。
「よし……じゃあ昼飯は少し奮発して街で食おう」
なぜそうなるのか。しかし断るのも面倒で、結局マットの提案に従うことにする。ジャンもちゃっかり着いて来たのは不可解ではあったが。
通常は夜だけ開店する小料理屋のオヤジをなだめすかして、男三人はその店の二階で昼飯を食べることにした。下ごしらえをしていたオヤジが、昨夜の残り物などを適当に出してくれる。
「え、えぇ?! だって隊長、結婚式したのもう何週間も前……」
驚きに声を上げたジャンが、慌てて自分の口を塞ぐ。
マットが「実はこいつ、まだ本懐遂げてないんだよ」と告げた、次の瞬間の反応がこれだった。
ジャンもレオンとは長い付き合いだ。軍に入ってから転々とする配属先が偶然ながらことごとく同じで、腐れ縁といってもいい。現在、レオンの隊では特に特別な役職は無いが、何かと気の利く男で、下っ端と上のつなぎ役として、調子のいいその性格も重宝されている。
しかしレオンの恋や念願の結婚、そして現在の夫婦の関係まで露わにしてしまうと、さすがに気まずさがあった。
「好き過ぎて、いざとなると頭が真っ白になる……。彼女に触れただけで終わってしまって、情けなくて死にそうだ」
レオンが皿の上の肉をいたずらに細切れにしながら呟くと、マットもジャンも絶句した。
「あ……のさ、そういうのは、ほら、経験数みたいな……? てか、すげえ。好き過ぎてとか、そんな恋、俺もしてみたい」
顔を真っ赤にして、ジャンは支離滅裂なフォローをしようと試みている。マットもガシガシと髪をかきむしりながら、皿に盛られた料理にフォークを突き立てた。
「まあ俺も初めて女抱いた時はいろいろテンパったけど、おまえの場合は気持ちが純粋すぎんのかなぁ」
軍人として強い精神力と統率力があるレオンだが、同時に真っ直ぐすぎるきらいがある。小隊を新設するにあたり、軍の上層部はそのレオンの気質を買ったようだ。そして、いつも物事を斜めから捉えがちなマットが副隊長に添えられた。
今のところ、この隊は二人のバランスもとれて、うまくいっている。ただそのトップに立つ男がまだ童貞だという事実は、やはりちょっとした懸案かもしれなかった。
マットは窓の外に一度視線を投げた。冬が近づいてきている。太陽の光は角度を鋭角にして、むしろ夏よりもますます白く街を照らし出していた。
どうしてこんな明るい時間から、下半身を刺激するような話を真剣にしなくてはならないのだと、マットは心の中で嘆いた。が、ここは友が男として階段を登るかどうかの瀬戸際だ。
「生々しい話になるけど、ちゃんと、こう……触ったか?胸とかヒップとかさ。男としては最終目的で頭いっぱいになるけど、ああいう前戯って、案外こっちもリラックスできるっていうかさ……」
レオンがむせ返る。そして視線を宙に彷徨わせた。昨夜の記憶を辿っているのだろうか。
「…………いや。キスをして、それで……。それで…………」
レオンは言葉を飲み込んで、深くうな垂れた。額がテーブルに鈍い音を立てて当たって、皿やグラスが揺れる。マットは「やれやれ、やっぱりか」と、大きな体躯をしぼませている友人を見やる。
「じゃあ次はちゃんと前段階を踏めよ? 女性ってのは受け入れる側なんだからさ」
こういうのは、初めて花街に行く十代の甥っ子とか、軍に入りたてのヒヨッコ兵士にかける言葉ではないだろうか。
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