あなたが私を手に入れるまで

青猫

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第一章

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 やっとキスらしいキスができた。
 数日前は、夫が摘んできた花をもらいそういう雰囲気になったら接吻を、という計画を立てたはずが、なぜか彼を窃盗未遂にまで追い詰めることになってしまった。謝罪のキスなんてものをねだったが、やはりその接吻は頬だけで。
 しかも今日は、いつまでも謙虚すぎるような彼に焦れて、思わず怒ってしまった。が、まあ、唇同士のキスという目的は達したのだから、いいことにしよう。とセリーナは無理やり結論づける。
 そしてすっかり寝支度を整えて、ベッドの上からじっと寝室のドアを見ていた。かすかな物音も聞き逃すまいと、息を殺す。
 初めての本当のキス。柔らかい感触と、熱。それに心が震えたのは自分だけだったのだろうか。
 夕食中も、その後も、夫はいつもに増して無口だった。今夜も自分は独りで眠るのだろうかと、セリーナは悶々とする。あのキスは、夫を寝室に呼び込む効果はなかったのだろうか、と。
 その時、ドアの取っ手が小さく揺れた気がした。けれどやはり、ドアは開かない。
 セリーナは決然と一度深呼吸をして、ベッドから降りた。つかつかと裸足で部屋を横切り、内側からその扉を開ける。
「……あ」
 やはりそこには若い夫がいた。手に燭台を持って、狼狽えながらもこちらを凝視している。
「あの、俺……おやすみの、挨拶を」
 セリーナは無言で、レオンを見つめ返した。
 彼の望みはそんなものなのだろうか。ただの就寝の挨拶だけ?
 彼が一度固唾を飲んだ気配が伝わってくる。
「それか……キスをもう一度」
 レオンはわずかに頬を染め、ほとんど聞き取れない声でそう呟く。
 セリーナは一歩近づいて、彼の手にある蝋燭を吹き消した。そして背伸びして、彼の唇に触れる寸前で動きを止める。
 あとほんの少しで唇が重なる。その最後の衝動は、夫から欲しかった。
「……ん」
 ゆっくりとレオンは身をかがめ、セリーナの吐息を奪った。
 ただのキスだ。セリーナにはそれなりに経験があるはずなのに、その甘やかさに衝撃を覚える。
 いつの間にか、大きな手が腰に添えられていた。寝巻きの薄い生地越しに、掌の熱さが伝わってくる。
 どれだけの時間、二人はそうしてキスをしていたのか。やっと身を離すと、有り余る情熱を押し殺したようなため息が聞こえてきた。
「ねえ、……あなた今夜もカウチで寝るの?」
 セリーナはささやき声で問いかける。腰に添えられた彼の手が、ぎゅっと握り締められた。
「貴女が、大切なんです」
 頭が痛くなりそうだったが、セリーナはここで投げ出す気は無かった。
「じゃあベッドの中で、そうして」
 レオンの手をとって、部屋の中へと引っ張る。
 彼はそれ以上何も言わず、後手にドアを閉めた。


 自分の体重で沈み込むマットレス。横になって、同じ高さに並ぶ彼女の顔。わずかな身じろぎも伝わる、一緒の上掛け。
 レオンは、夢ならいっそ覚めてくれと思った。
 下半身に血が集まって、まともな思考を手放してしまいそうだ。
「そんな端っこにいたら、ベッドから落ちてしまうわよ」
 セリーナの手がこちらに伸びてきて、レオンの夜着の袖を引っ張った。
「いえ……あの、俺、さっきのキスで、もうかなり……」
 まともなセリフが出てこない。レオンは布団の中で妻と向かい合って、その手を握る。それだけでバカみたいに欲情した。ますます彼女に身を寄せるわけにはいかなくなる。
 唇を重ねる接吻は一度しただけで、まるで焼ごてのようにレオンの心に強烈な焼印を残した。その引力に逆らえず、こうして寝室まで足を踏み入れてしまったのが、正しい選択だったどうかわからない。
「……ねえ、確認したいのだけど」
 寝室の闇に、彼女の声が硬く響いた。
 悲しいことにレオンは、妻の苛立ちを含んだ声をすっかり聞き分けられるようになっていた。普段穏やかな音色が変わって、まっすぐな矢のように容赦がない。
「私たち、結婚したんですよね?」
 彼女の問いに、レオンは「はい」と答えた。結婚という事実は、レオンの勲章だ。
「あなたは、私の夫ですよね?」
 今度はしばらく時間をおいて、レオンは一つ頷いた。自分がセリーナの夫。そう言葉にすると、胸がいっぱいになる。
「なら私に触れて」
 その直接的な言葉に、レオンは息を吸いこもうと口をパクパクさせることしかできなかった。己の滑稽さに、ナイフで自分の喉をかっ切りたくなる。
 闇の中でも彼女がじっとこちらを見ているのがわかった。その眼差しに、抗えるわけがない。
 レオンは、自分の真実をゆっくりと口にした。
「俺、経験がなくて……」
 妻より年下といえど、レオンはとっくに成人している。しかも兵士だ。童貞という事実は、やはり恥ずかしかった。
 けれど、ならばどうすればよかったのだろう。
 人妻だったセリーナに恋に落ちた頃、レオンは軍に入隊したてで、確かに周りの同年代の男たちは恋人を作ったり花街の遊びを覚え始めていた。自分もそうすればよかったのだろうか。
「ずっと貴女に恋をしていて、どうしても軽々しいことができなかったんです」
 レオンの声はベッドの中で消え入るように響いた。どんな反応が返ってくるだろうと身構えていると、一拍置いて、頬に彼女の柔らかい手のひらがそっと添えられる。
「じゃあ、ゆっくり進むのがいいかしらね。あなたがそう願うなら」
 レオンはやっと肩の強張りを解いて、「はい」と短く返事をした。
 何かがレオンの心をはち切れんばかりに満たしていて、彼女に対して今はとても性的なことができると思えなかった。たとえ体が昂ぶっていても、だ。
 それでも、一度知ったキスをレオンは求めた。ベッドの中央に体をずらして、彼女との隙間を狭くする。
「……おやすみなさい、セリーナ」
 もう一度、唇を重ね合わせる。
 そして二人はお互いに息を殺して、一つベッドの中で微妙な距離を保ち続けた。
 どれだけ時間が経ったのか、最初に寝息をたて始めたのはセリーナだった。レオンはその穏やかな呼吸を音楽のように楽しんだ。彼女から伝わってくる微かな香りを感じ、暗闇に浮かぶ寝顔を飽くことなく眺め、夜はふけていく。
 そして夜明け近くになってやっと、レオンは幸せの灰が降り積もったような心地で微睡みに沈む。
 こうしてこの夫婦はやっと、同じ安らぎを共にした。
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