あなたが私を手に入れるまで

青猫

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第一章

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 レオンは一介の兵士であり、特別な身分も財産もないが、父は地方豪族フェアクロフ家の次男だった。といっても父の時点ですでに、家督の恩恵からは外れた境遇だ。その息子ともなれば、自力で生きる術を見るける必要がある。レオンは幸い身体が丈夫に生まれ、子供の頃から腕っ節だけは強かった。兵士という身分は、自分に合っていると思う。
 母はレオンの幼い頃に病で早逝したが、代わりに父からはそれなりの愛情と教養の全般も与えてもらった。上流階級の生活の一端を覗くことは伯父との交流でよくあったし、父も育った環境の矜持だけはしっかり持ち合わせていたのだ。
 そんな訳で、レオン・フェアクロフという若い軍人は、自分が平民でありながら、中途半端に特権階級にも縁を持ってしまっている、どちらともつかない曖昧な身分なのだという自覚を持っていた。
 レオンがセリーナに恋をしたのは、まだ軍でヒヨッコと呼ばれていた頃だ。上官の厳しい訓練と、公共施設の警備任務を往復する毎日だった。

 何年も前のある日、留置所から裁判所への護送任務が言い渡された。
 逮捕された盗人たちに身分証明などの手続きをさせたり、弁護士との面会に連れて行くのだ。素行が悪い者ばかりなので、格式高い裁判所ではその者たちに張り付いて、問題を起こさないように見張るのが仕事だった。
 初めての任務内容に、レオンはそれなりに緊張していたが、自分が担当する盗人の集団を見て愕然とした。皆、殆どまだ子供だったのだ。
 こんな時、レオンは自分の立ち位置がどれほど曖昧かを突きつけられる。
 レオンはただの兵士に過ぎないが、平民の最下層のことは殆ど知らない。かといって彼らを賤しい下民として、自分と切り離して考えられるほど、特権階級に近い意識もなかった。
 こんな子供が窃盗をするのには絶対ひっ迫した理由があるはずだと、少年にかけた手錠を引きながら悶々とするしかなかった。
 そして案の定、子供たちに面会したのは悪徳の弁護士だった。袖の下を握らせないと、何も仕事をしない腐った奴だ。子供らは自動的に罪状と裁判の日程を決められ、まるで家畜のようにまた護送馬車に詰め込まれた。
 気分が悪くなって、レオンは休憩時間に裁判所の中庭に逃げ込んだのだった。遣る瀬ない気持ちと、ただの警備兵では何もできない虚しさが、若いレオンの気概を挫いていた。
 その時だ。中庭の東屋の陰で、一組の男女が深刻な声色で何かを囁き合っている声が聞こえた。
——『あなた、何とかしなくては。このままではあの子供たちをさらにどん底に落とすことになります』
——『分かっている。分かっているんだよ、セリーナ。あの子供たちの実情や、元締めの組織のことが少しでわかればいいのだが。それはあの弁護士の役割だ』
——『弁護士ですって? あの弁護士、シラフの時の方が少ないような劣悪な男です。あなただって知っているでしょう』
——『私の出す判決が子供たちの未来をさらに暗くする……。私がその苦悩を感じていないとでも? 正義とは何なのか、まるで分からなくなる時があるんだよ』
 レオンは物陰からそっと、その二人の男女を覗き見た。
 男は裁判官の黒衣を着ていて、女性はどうやらその男の妻であるようだ。
——『フランク……ねえ、私に考えがあるの。この犯罪の裏事情がどんなものか、私に調べさせてちょうだい』
 落ち着いた女性の声は、どこか凛とした強さがあった。レオンはその中庭に注ぐ陽光に、彼女の顔が照らされるのを見た。
 今となって思い返せば、その時すでに、彼女の強い眼差しの美しさに心臓を貫かれたのかもしれない。とにかく後日、レオンはどうしても気になって、セリーナ・ブランソンが何をするつもりなのか、後をつけることにした。
 彼女は洗濯女として、貧民街の住民に紛れ込み、そこで子供たちの母親から何気なく話を聞いたり、おしゃべりな娼婦から窃盗団の元締めのことを聞き出したりしていた。
 ずっと影から彼女のことを見ていたレオンは、とにかくハラハラしどおしだった。今までこんな治安の悪いところに来たこともないだろうに、セリーナはうまく立ち回って、せっせと洗濯と情報収集をこなしていた。しかし、ひやりとする場面も何度かあったのだ。
 すれ違っただけで口笛を吹いてニヤニヤ笑う下衆。セリーナの請け負った洗濯物から上着を盗もうとする悪ガキ。下着の洗い方が悪いと怒鳴って悪態を吐き散らす娼婦に対して、セリーナはいかにも不慣れで苦労していた。
 そんな彼女のために、陰ながらでもできるだけのことをしようとしているうちに、すっかり恋に落ちてしまっていた。
 しかし、彼女は自分より大人で、夫があり、社会的身分も格上だった。始まった途端に苦悩を背負い込んだレオンの恋は、どこかの時点で諦める必要があった。
 それは、友人達と花街に繰り出した時だったかもしれない。けれどそこの女達はあまりにも軽薄過ぎて、過多な誘惑にはむしろ幻滅させられた。レオンは酒を楽しむことに専念して、女と個室にしけ込むことは結局しなかった。
 もしくは、ある町娘が顔を真っ赤にして恋文を差し出してきたのが、苦しい片思いを終わらせる潮時というものだったかもしれない。それでも、レオンはその娘に丁寧に慰めの言葉をかけ、一人娘を兵士のもとになんか嫁がせてたまるかと怒り狂っている厳格な両親のもとへと帰らせた。せめてキスをとねだられ、結局初めての唇はその町娘に与えたが。
 決して、こんな奇跡のような幸運が転がり込んでくるとは、信じていなかった。それなのに今、セリーナは自分と同じ屋根の下で暮らしている。

「おかえりなさい」
 セリーナが、その言葉を自分のために紡ぐ。そして自分はやっぱり、次の言葉は未だに自然な口調で言えない。
「ただいま……帰りました」
「あら、ブーツが泥だらけ」
「ああ、これは」
 妻の指摘に、レオンは玄関の外で大まかに泥をふるい落とした。
「今日は午後、西の丘から湿地まで行ったのです」
「あら、私も午後は西の城壁の外にいたんですよ」
 ええ貴女を丘の上から見ていました、という言葉は喉元まで出かかって飲み下された。彼女にはもちろん故人を想う時間が必要だし、レオンは十分それを理解しわきまえているつもりだが、それをなんだか覗き見したような後ろ暗さがあった。
 ふと、セリーナの右手に金色に光るものを見つけ、上着を脱ぐ動作が止まった。華奢な右手の薬指に、黄金の指輪がはまっていた。それは彼女の肌の色によく馴染み、まるで当たり前のようにそこに居座っている。
「今日はリサが鶏肉を焼いてくれたんです。ソースを作るのは私も少し手を出させてもらいました。こう見えても私、ハーブの使い方には一家言あって……。レオン?」
 レオンの視線が自分の右手に注がれているのにやっと気がついて、セリーナはハッと表情を変えて慌ててその指輪を指から抜こうとする。
「……っごめんなさい。これは、今日ちょっとだけ」
「セリーナ。いいんです。……セリーナ」
 レオンは彼女の両手を包み込んだ。皮膚が固く無骨な自分の手が、彼女の白い手に被さる。
「俺の贈った銀の指輪もまだしてくれていますね。それなら、いいんです。貴女が亡き人を懐かしく思っても、俺のところに帰ってきてくれるなら、それでいい」
 それはまぎれもないレオンの真実の気持ちだった。なのに一瞬、自分の言葉に胸が軋む。
「本当に?」
 妻が強い眼差しでこちらを見上げている。
「レオン、あなたのその優しさをどう受け止めればいいか分ならないわ。毎晩毎晩、待っているのは独り寝の夜だけなんだもの」
 静かな声に滲んでいるのが憤りなのだと察して、レオンは狼狽え彼女の手を放す。すると今度は、セリーナの手が強い力でレオンの手を握ってきた。
「本当に、私がこの家に収まっているだけで満足なんですか? あなた、私の夫でしょう。なのに一生、書斎のカウチで眠るつもりなんですか?」
 レオンが最初に認識したのは、理由は分からないがセリーナが怒っているということだ。そして彼女の瞳は怒りに燃えても美しいのだと、何か逃避めいたことを考えていた。
「お、俺は……貴女の名誉を守りたくて……」
 絞り出した言葉は先が続かなかった。
「私の名誉? 一体それはなんなんですか? 夫からまともにキスもしてもらえない妻に、どんな名誉があるんです」
 そして沈黙がおりた。
 セリーナの燃え上がった怒りは、すぐに鎮火したようだった。レオンの手を握る力は弱々しくなり、後悔をにじませて目が伏せられる。そのどちらも、レオンには残念だった。
 こんな時どうすればいいかなど、わからない。けれど彼女が「まともにキスもしてもらえない」と憤っているならば。前も「謝罪のキス」というのを促されたのだから。一歩踏み出してもいいのかもしれない。
 レオンはおずおずと尋ねる。
「キス、してもいいですか?」
 頷くセリーナの頬が染まっている。その頬を両手で包み込んで、レオンは身を屈めた。
 唇と唇が触れ合う。たったそれだけの行為がどうしてこんなに甘美なのか。
 ゆっくりと慎重に、レオンはそのキスを深くした。彼女の吐息を味わい、湧き上がる情熱の手綱を思わず手放しそうになる。
 ふっくらとした下唇を味わって、妻の表情を確かめるためにそっと目を開けた。
「……ずっと、こうしたかった」
「ならすればよかったのよ」
 囁き声で言葉をかわす。レオンは自分の心臓が喉元までこみ上げてきているのではないかと錯覚した。
 そしてレオンも男だ。熱に染まった思考が、ちらりと不穏なことを考えた。
 このままセリーナを抱き上げて、ずっと足を踏み入れてなかった寝室になだれ込もうか。
 しかし。
「さあ、夫婦の第一歩を踏み出したことですし、夕飯にしましょう」
 セリーナはすっかり気を取り直していた。
 レオンは湧き上がったままの熱を持て余しながら、妻が鼻歌交じりに食卓を整えているのを見遣ることしかできなかった。
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