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第一章
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人生で二度も着るとは思わなかった純白のドレスの裾をそっとあげて、セリーナは教会の信者席の真ん中を静かに歩いた。
——この場合、ヴァージンロードとは言えないわよね……。
変な罪悪感のようなものが心に引っかかるが、ここで引き返すわけにもいかず、前を見据えて歩を進める。蝋燭だけの照明とベールで視界は心もとないが、祭壇の前に立って自分を待っている男の視線は突き刺さるように感じられた。
レオン・フェアクロフ。背が高く、着ている軍服のせいもあって、威圧感がある。やっと彼の側に辿り着いて隣に立つと、ますますその屈強な雰囲気に気圧されそうになった。
「今日、私たちがここに集ったのは、この男女の神聖なる誓いを神前で見届け……」
神父がどこか単調な口調で、結婚式を始める。
セリーナはぼんやりとそれを聞き流しながら、自分にとって二度目となるこの結婚式にこぎつけるまでの数ヶ月を振り返っていた。
セリーナは旧姓をソロコフという。地方の行政官の娘としてそれなりの教育を受け育ち、十九の時に父の知人、この街の裁判官のフランク・ブランソンと見合いをして結婚した。平和な子供時代は終わったが、セリーナはすぐにブランソン夫人という役割に順応した。
秩序ある召使いを抱えた屋敷。地方都市の裁判官という職に就いた主人を、陰ながら支える日常。
平穏な生活だった。
七つ年上のフランクとの夫婦仲は良かったと思う。彼は常にセリーナを大切な伴侶として尊重する紳士だったし、セリーナは教養豊かで貞淑な妻だった。子供ができないのが唯一の二人の気がかりだったが、貴族と違い役人は家名を継続する責任は殆どない。二人とも、そのうち授かるだろうと思っていた。
その日常が突然、フランクの死によって断ち切られた。
例年になく続いた夏の豪雨の中、地方都市と王都を結ぶ街道で、山の土砂崩れに巻き込まれたのだ。フランクの乗った馬車は、水を吸って重くなった土砂の中から五日後にやっと発見された。
「汝、レオン・フェアクロフは、病める時も健やかな時も、生涯この女を愛すると誓いますか?」
神父の言葉の言葉に、セリーナは過去に飛んでいた意識を現実へと引き戻した。いつの間にか、結婚の儀式は肝心なところまで進んでいたらしい。
向かい合った目の前の男に手をそっと握られる。
「誓います」
あっさりと、なんの躊躇いもなく男は宣言した。
同じ問いに、今度はセリーナが答えなくてはならない。
顔にかかったベール越しに、セリーナはもう一度レオン・フェアクロフを観察した。
無骨な軍人らしい手。天から恵まれたような完璧な体躯と、さらにそれを研ぎ澄ましたような佇まい。赤みのある癖毛の茶髪。何もかもを見通すような、まっすぐな眼差し。そのどれもが若々しく、セリーナを圧倒する。
「……生涯、この男を愛すると誓いますか?」
セリーナは一度固唾を飲んだ。向き合って両手を握る彼の手に、少しだけ力が込められた気がした。
「誓います」
不安がそのまま声を掠れさせた。チラリと、二人目の夫となる男を見上げるが、彼の表情は何も読み取れない。
「では、指輪の交換を」
この婚姻のために用意されたのは、銀の指輪だ。フランクとの金の結婚指輪は、この教会に来る前に外しておいた。その前夫との結婚の証をどう処分するべきなのかわからず、結局小物入れの一番奥にしまいこんだ時は、言いようのない後ろめたさに襲われた。未亡人として故人との指輪をずっと身につけることになるだろうと思っていたのに、新しい結婚指輪が人生に転がりこんでくるとは。
ところどころに傷跡があるいかにも軍人らしい指が、その指輪をセリーナの薬指にはめた。セリーナも、彼の薬指に揃いのものを滑らせる。
「では、新郎は新婦にキスをしてよろしい」
怖いくらいゆっくりとベールが上げられると、堪らなく逃げ出したいような衝動が、セリーナの胸にこみ上げてくる。
この結婚式の参列者は少ない。セリーナの母は既に他界し、父は高齢のため出席を諦めた。兄と、フランク・ブランソンの屋敷で長年仕えてくれた侍女だけが、セリーナ側の親族席に座っている。新郎側には、この奇妙な縁談をまとめ上げたレオン・フェアクロフの伯父と、軍の高官と数名の若い兵士たちだけだ。
この将来が輝かしい若い男の側に妻として立つのが、どうしようもなく恥ずかしかった。レオン・フェアクロフには、若く純真な乙女が相応しいはずなのに。寡婦となったセリーナ・ブランソンには、喪に服したまま修道院に入るという、寂しくも常識的な未来が待っていたはずなのに。
「……そんな顔をしないでください。俺は絶対に、貴女を幸せにしてみせますから」
ハッと我に返って、彼の真っ直ぐな眼差しを受け止める。
ぎこちなく身をかがめて、彼は一瞬躊躇するように顔を傾けるのを止めた。セリーナは彼の熱い視線が唇を焦がすのを感じる。
しかし次の瞬間には、春の蝶が肌をかすめるような感触が頬、こめかみ、そして額へと滑り、それがキスだったと気がつくのに一拍遅れるほどだった。
「神のみ前にて、二人は夫婦として結ばれたことを宣言します」
神父がそう言って結婚式を締める。
セリーナはなぜか今になって、レオン・フェアクロフとの縁談が急に身に降りかかった時のことを思い出していた。
「えっと……ちょっと待ってください、フェアクロフ様。あなたの、甥御様……とですか?」
それは、亡くなった夫フランクの葬儀から一ヶ月ほどが経ち、彼の遺品の整理もやっと終わる目処がたった、ある夏の日だった。
地方豪族のギリアン・フェアクロフが彼の甥を引き連れて訪問し、突如セリーナを甥の伴侶としたいと申し出てきたのだ。
その頃のセリーナはフランクの残した財産を整理し、自分の今後の身の振り方を決めようとしていた。
役人の寡婦として三十を超えた女が堅実な余生を望むなら、修道女会に寄付をして自らも尼になる道が一番だ。早すぎる世俗との別れは辛いが、現実的なことに目を向けなくてはならなかった。
そんなことを考えていた矢先に降って湧いたのが、今まで会ったこともない兵士との縁談だった。黒い喪服でますます年老いたような気分になっていたセリーナにとって、持ちかけられた再婚も、さらにはレオン・フェアクロフという縁談相手も、にわかに信じがたい話だった。
「驚きはごもっともです、ブランソン夫人。しかもフランク殿を亡くした心痛もまだ癒えきらない貴女に、このような話は甚だ失礼だとは思うのですが……。貴女が修道院に身を移すという噂を耳に入れまして、どうしてもこのレオンが……」
ギリアン・フェアクロフは何か困ったように言い淀んで「お前が言い出したことだろう。自分でも何か言え!」と、軍服姿のレオンを小声で叱咤した。
ずっと硬い表情でどこかの守衛のように突っ立っていた彼は、緊張を押し隠すようにぎこちなく喋りだした。
「……改めて、自分は、レオン・フェアクロフと申します。軍では准士官という身分ですが、来月から精鋭の一個小隊を率いて、山岳国境の哨戒に加わることになりました。そこで長年軍が手こずっている山賊に対して、何か手柄をあげることができれば、さらに昇格の見込みがあります」
「は、はぁ……」
軍人の習性で、若々しいエネルギーを全て身体の中に整然と押し込んでいるような、そんな男だと思った。セリーナにとっては新人類だ。しかもどうして軍の任務や昇格の見込みの話になっているのか分からない。
硬直しているセリーナに、彼はさらに話を続けた。
「北の山道が雪でふさがる前には、またここの駐屯地に戻って来る予定です。それまでに、俺との結婚を考えておいて欲しいのです」
「……」
絶句してしまった。
セリーナがぽかんとしている間に、その若い兵士は躊躇なく床に膝をついた。
「セリーナ・ブランソン夫人。俺の、妻になって欲しい」
それが正式なプロポーズであることを、やっと頭が理解する。同時に、様々な疑問が渦巻いた。しかし真っ先に口をついて出たのは、自分の年齢についてだった。なぜなら、彼が正しく現実を認識しているのか、甚だ疑わしかったからだ。
「レオン・フェアクロフ様……。私、もう三十を越してますのよ?」
「はい。俺は、貴女の六つ歳下です。が、先ほども説明した通り、昇格の機を逃すつもりはありません。数ヶ月後、ここに帰ってくる頃には、貴女にふさわしい身分になっていることを約束します」
「……」
セリーナはまず、跪いたままの彼に立ち上がるように促したが、彼はそのままセリーナの前でその姿勢を崩そうとはしなかった。
「ご存知のように、私、人妻……でした」
「貴女とフランク殿が仲睦まじい夫婦だったのは存じています。故人との思い出や、喪失の悲しみは、最大限に尊重します」
セリーナは困ってしまった。今まであまり兵士を相手に会話をしたことはない。そのせいか、こういった真っ直ぐで頑なな人種とは、会話が微妙にすれ違ってしまう気がする。
「あの、大変ありがたい申し出ですけれど……レオン様。あなたのような若く、輝かしい将来が待つ男性には、もっとふさわしい女性がいくらでもいるのではないでしょうか」
その時やっと、彼の表情に歳相応の率直な感情がよぎって見えた。傷ついたように、何かに怯む表情だ。
「もちろん、俺のような一介の兵士などでは、貴女に到底釣り合いませんが……」
「あの、そうじゃなくて、私のような面倒な身の上の女より、もっと清らかな乙女を娶るのがレオン様にとっては一番ではないかと言っているのです。もし、結婚によって得る財産のことをお考えでしたら、残念ながらフランクが残した蓄えはそう多いものではありません。役人に支給される年金制度はしっかりしたものですから、老後の心配はしていなかったんです」
「財産なんて……! そんなものが目当てではありません!」
突然、彼は耐え難いとでも言うように立ち上がり声をあげた。
「お、俺はただ……貴女に去って欲しくないのです」
彼は関節が白く浮き出るほど拳を握りしめ、今度は弱々しく「声を荒げて、申し訳ない」とうなだれる。
「噂で、貴女が、修道女会に入る準備をしていると」
「ええ。それが一番平和で堅実かと思いまして」
「修道院は、この地方都市の外れにあって、高い壁と戒律で俗世と隔離されています」
「そうですね。でも、勤労を惜しまなければ、平穏が約束されます。図書館もあるし、私の好きなハーブの庭も大きいそうです」
「俺は……嫌です。結婚は、身の程弁えない手段かもしれませんが、それでも、貴女を引き止められるなら……」
「レオン様。私たち今日が初対面ですよね? 一体どうしてこんな……」
彼はその時、やっと笑顔を見せた。しかし、どこか痛むのを隠して無理に作ったような微笑みだ。そしてセリーナの問いは無視して、最後に言い募った。
「どうか、俺が遠征の間、考えてください。貴女の財産に手をつけるつもりなどありませんし、貴女の過去の結婚を蔑ろにしたりしません。俺が望むのは婚姻だけです。ぜひ、良いお返事を聞かせてください」
彼は軍人らしい冷たい表情を取り戻し、慌てる伯父を残して、セリーナの前から去って行った。
式が終わり、参列者への挨拶も済み、後はそれぞれ帰路につく簡素な結婚式だった。
「しっかり掴まってください」
一頭の馬の上で、つい今しがた夫となった男の腕がセリーナを抱き寄せた。あのプロポーズを思い出していたセリーナは我に返って、彼の腰のベルトに沿って腕を回す。
「すみません。馬車を手配すれば良かったのかもしれないですね。街の外れの新居まで、相乗りで辛抱してください」
「はい」
秋晴れの空は、西の山々の陰から夕闇を滲ませている。ひやりとした風が首元を撫でて、セリーナは一瞬小さく身震いした。
「……行きましょう」
かすかな呟きが頭上から聞こえてきた。同時に、彼のマントですっぽりと包まれ、忍び寄る秋の夜風から完全に守られる。
自分がどこに連れて行かれるのか、セリーナはちゃんと分かっていた。彼が言う新居は、昨日荷物を運び込んだ時に一度下見をしたのだ。
それでも、何か納得しがたいものが、いまだに喉に詰まっていた。こうして馬上で自分の腰をしっかり抱き寄せている男が、自分の新たな夫だと、結婚の儀式をもっても信じられない。
馬に横乗りになっているセリーナは、手綱を毅然と操る彼をこっそり見上げた。
強い意志が表れている口元。役人や市井の人々にはない、研ぎ澄まされた眼差し。しかし、整った鼻筋や高い頬骨を覆う肌は血色が良く、彼の若さを物語っている。
ふと、西の空に一番星を見つけた。道中、人の熱が篭ったマントの中で、セリーナは一心にその星を眺めていた。
——この場合、ヴァージンロードとは言えないわよね……。
変な罪悪感のようなものが心に引っかかるが、ここで引き返すわけにもいかず、前を見据えて歩を進める。蝋燭だけの照明とベールで視界は心もとないが、祭壇の前に立って自分を待っている男の視線は突き刺さるように感じられた。
レオン・フェアクロフ。背が高く、着ている軍服のせいもあって、威圧感がある。やっと彼の側に辿り着いて隣に立つと、ますますその屈強な雰囲気に気圧されそうになった。
「今日、私たちがここに集ったのは、この男女の神聖なる誓いを神前で見届け……」
神父がどこか単調な口調で、結婚式を始める。
セリーナはぼんやりとそれを聞き流しながら、自分にとって二度目となるこの結婚式にこぎつけるまでの数ヶ月を振り返っていた。
セリーナは旧姓をソロコフという。地方の行政官の娘としてそれなりの教育を受け育ち、十九の時に父の知人、この街の裁判官のフランク・ブランソンと見合いをして結婚した。平和な子供時代は終わったが、セリーナはすぐにブランソン夫人という役割に順応した。
秩序ある召使いを抱えた屋敷。地方都市の裁判官という職に就いた主人を、陰ながら支える日常。
平穏な生活だった。
七つ年上のフランクとの夫婦仲は良かったと思う。彼は常にセリーナを大切な伴侶として尊重する紳士だったし、セリーナは教養豊かで貞淑な妻だった。子供ができないのが唯一の二人の気がかりだったが、貴族と違い役人は家名を継続する責任は殆どない。二人とも、そのうち授かるだろうと思っていた。
その日常が突然、フランクの死によって断ち切られた。
例年になく続いた夏の豪雨の中、地方都市と王都を結ぶ街道で、山の土砂崩れに巻き込まれたのだ。フランクの乗った馬車は、水を吸って重くなった土砂の中から五日後にやっと発見された。
「汝、レオン・フェアクロフは、病める時も健やかな時も、生涯この女を愛すると誓いますか?」
神父の言葉の言葉に、セリーナは過去に飛んでいた意識を現実へと引き戻した。いつの間にか、結婚の儀式は肝心なところまで進んでいたらしい。
向かい合った目の前の男に手をそっと握られる。
「誓います」
あっさりと、なんの躊躇いもなく男は宣言した。
同じ問いに、今度はセリーナが答えなくてはならない。
顔にかかったベール越しに、セリーナはもう一度レオン・フェアクロフを観察した。
無骨な軍人らしい手。天から恵まれたような完璧な体躯と、さらにそれを研ぎ澄ましたような佇まい。赤みのある癖毛の茶髪。何もかもを見通すような、まっすぐな眼差し。そのどれもが若々しく、セリーナを圧倒する。
「……生涯、この男を愛すると誓いますか?」
セリーナは一度固唾を飲んだ。向き合って両手を握る彼の手に、少しだけ力が込められた気がした。
「誓います」
不安がそのまま声を掠れさせた。チラリと、二人目の夫となる男を見上げるが、彼の表情は何も読み取れない。
「では、指輪の交換を」
この婚姻のために用意されたのは、銀の指輪だ。フランクとの金の結婚指輪は、この教会に来る前に外しておいた。その前夫との結婚の証をどう処分するべきなのかわからず、結局小物入れの一番奥にしまいこんだ時は、言いようのない後ろめたさに襲われた。未亡人として故人との指輪をずっと身につけることになるだろうと思っていたのに、新しい結婚指輪が人生に転がりこんでくるとは。
ところどころに傷跡があるいかにも軍人らしい指が、その指輪をセリーナの薬指にはめた。セリーナも、彼の薬指に揃いのものを滑らせる。
「では、新郎は新婦にキスをしてよろしい」
怖いくらいゆっくりとベールが上げられると、堪らなく逃げ出したいような衝動が、セリーナの胸にこみ上げてくる。
この結婚式の参列者は少ない。セリーナの母は既に他界し、父は高齢のため出席を諦めた。兄と、フランク・ブランソンの屋敷で長年仕えてくれた侍女だけが、セリーナ側の親族席に座っている。新郎側には、この奇妙な縁談をまとめ上げたレオン・フェアクロフの伯父と、軍の高官と数名の若い兵士たちだけだ。
この将来が輝かしい若い男の側に妻として立つのが、どうしようもなく恥ずかしかった。レオン・フェアクロフには、若く純真な乙女が相応しいはずなのに。寡婦となったセリーナ・ブランソンには、喪に服したまま修道院に入るという、寂しくも常識的な未来が待っていたはずなのに。
「……そんな顔をしないでください。俺は絶対に、貴女を幸せにしてみせますから」
ハッと我に返って、彼の真っ直ぐな眼差しを受け止める。
ぎこちなく身をかがめて、彼は一瞬躊躇するように顔を傾けるのを止めた。セリーナは彼の熱い視線が唇を焦がすのを感じる。
しかし次の瞬間には、春の蝶が肌をかすめるような感触が頬、こめかみ、そして額へと滑り、それがキスだったと気がつくのに一拍遅れるほどだった。
「神のみ前にて、二人は夫婦として結ばれたことを宣言します」
神父がそう言って結婚式を締める。
セリーナはなぜか今になって、レオン・フェアクロフとの縁談が急に身に降りかかった時のことを思い出していた。
「えっと……ちょっと待ってください、フェアクロフ様。あなたの、甥御様……とですか?」
それは、亡くなった夫フランクの葬儀から一ヶ月ほどが経ち、彼の遺品の整理もやっと終わる目処がたった、ある夏の日だった。
地方豪族のギリアン・フェアクロフが彼の甥を引き連れて訪問し、突如セリーナを甥の伴侶としたいと申し出てきたのだ。
その頃のセリーナはフランクの残した財産を整理し、自分の今後の身の振り方を決めようとしていた。
役人の寡婦として三十を超えた女が堅実な余生を望むなら、修道女会に寄付をして自らも尼になる道が一番だ。早すぎる世俗との別れは辛いが、現実的なことに目を向けなくてはならなかった。
そんなことを考えていた矢先に降って湧いたのが、今まで会ったこともない兵士との縁談だった。黒い喪服でますます年老いたような気分になっていたセリーナにとって、持ちかけられた再婚も、さらにはレオン・フェアクロフという縁談相手も、にわかに信じがたい話だった。
「驚きはごもっともです、ブランソン夫人。しかもフランク殿を亡くした心痛もまだ癒えきらない貴女に、このような話は甚だ失礼だとは思うのですが……。貴女が修道院に身を移すという噂を耳に入れまして、どうしてもこのレオンが……」
ギリアン・フェアクロフは何か困ったように言い淀んで「お前が言い出したことだろう。自分でも何か言え!」と、軍服姿のレオンを小声で叱咤した。
ずっと硬い表情でどこかの守衛のように突っ立っていた彼は、緊張を押し隠すようにぎこちなく喋りだした。
「……改めて、自分は、レオン・フェアクロフと申します。軍では准士官という身分ですが、来月から精鋭の一個小隊を率いて、山岳国境の哨戒に加わることになりました。そこで長年軍が手こずっている山賊に対して、何か手柄をあげることができれば、さらに昇格の見込みがあります」
「は、はぁ……」
軍人の習性で、若々しいエネルギーを全て身体の中に整然と押し込んでいるような、そんな男だと思った。セリーナにとっては新人類だ。しかもどうして軍の任務や昇格の見込みの話になっているのか分からない。
硬直しているセリーナに、彼はさらに話を続けた。
「北の山道が雪でふさがる前には、またここの駐屯地に戻って来る予定です。それまでに、俺との結婚を考えておいて欲しいのです」
「……」
絶句してしまった。
セリーナがぽかんとしている間に、その若い兵士は躊躇なく床に膝をついた。
「セリーナ・ブランソン夫人。俺の、妻になって欲しい」
それが正式なプロポーズであることを、やっと頭が理解する。同時に、様々な疑問が渦巻いた。しかし真っ先に口をついて出たのは、自分の年齢についてだった。なぜなら、彼が正しく現実を認識しているのか、甚だ疑わしかったからだ。
「レオン・フェアクロフ様……。私、もう三十を越してますのよ?」
「はい。俺は、貴女の六つ歳下です。が、先ほども説明した通り、昇格の機を逃すつもりはありません。数ヶ月後、ここに帰ってくる頃には、貴女にふさわしい身分になっていることを約束します」
「……」
セリーナはまず、跪いたままの彼に立ち上がるように促したが、彼はそのままセリーナの前でその姿勢を崩そうとはしなかった。
「ご存知のように、私、人妻……でした」
「貴女とフランク殿が仲睦まじい夫婦だったのは存じています。故人との思い出や、喪失の悲しみは、最大限に尊重します」
セリーナは困ってしまった。今まであまり兵士を相手に会話をしたことはない。そのせいか、こういった真っ直ぐで頑なな人種とは、会話が微妙にすれ違ってしまう気がする。
「あの、大変ありがたい申し出ですけれど……レオン様。あなたのような若く、輝かしい将来が待つ男性には、もっとふさわしい女性がいくらでもいるのではないでしょうか」
その時やっと、彼の表情に歳相応の率直な感情がよぎって見えた。傷ついたように、何かに怯む表情だ。
「もちろん、俺のような一介の兵士などでは、貴女に到底釣り合いませんが……」
「あの、そうじゃなくて、私のような面倒な身の上の女より、もっと清らかな乙女を娶るのがレオン様にとっては一番ではないかと言っているのです。もし、結婚によって得る財産のことをお考えでしたら、残念ながらフランクが残した蓄えはそう多いものではありません。役人に支給される年金制度はしっかりしたものですから、老後の心配はしていなかったんです」
「財産なんて……! そんなものが目当てではありません!」
突然、彼は耐え難いとでも言うように立ち上がり声をあげた。
「お、俺はただ……貴女に去って欲しくないのです」
彼は関節が白く浮き出るほど拳を握りしめ、今度は弱々しく「声を荒げて、申し訳ない」とうなだれる。
「噂で、貴女が、修道女会に入る準備をしていると」
「ええ。それが一番平和で堅実かと思いまして」
「修道院は、この地方都市の外れにあって、高い壁と戒律で俗世と隔離されています」
「そうですね。でも、勤労を惜しまなければ、平穏が約束されます。図書館もあるし、私の好きなハーブの庭も大きいそうです」
「俺は……嫌です。結婚は、身の程弁えない手段かもしれませんが、それでも、貴女を引き止められるなら……」
「レオン様。私たち今日が初対面ですよね? 一体どうしてこんな……」
彼はその時、やっと笑顔を見せた。しかし、どこか痛むのを隠して無理に作ったような微笑みだ。そしてセリーナの問いは無視して、最後に言い募った。
「どうか、俺が遠征の間、考えてください。貴女の財産に手をつけるつもりなどありませんし、貴女の過去の結婚を蔑ろにしたりしません。俺が望むのは婚姻だけです。ぜひ、良いお返事を聞かせてください」
彼は軍人らしい冷たい表情を取り戻し、慌てる伯父を残して、セリーナの前から去って行った。
式が終わり、参列者への挨拶も済み、後はそれぞれ帰路につく簡素な結婚式だった。
「しっかり掴まってください」
一頭の馬の上で、つい今しがた夫となった男の腕がセリーナを抱き寄せた。あのプロポーズを思い出していたセリーナは我に返って、彼の腰のベルトに沿って腕を回す。
「すみません。馬車を手配すれば良かったのかもしれないですね。街の外れの新居まで、相乗りで辛抱してください」
「はい」
秋晴れの空は、西の山々の陰から夕闇を滲ませている。ひやりとした風が首元を撫でて、セリーナは一瞬小さく身震いした。
「……行きましょう」
かすかな呟きが頭上から聞こえてきた。同時に、彼のマントですっぽりと包まれ、忍び寄る秋の夜風から完全に守られる。
自分がどこに連れて行かれるのか、セリーナはちゃんと分かっていた。彼が言う新居は、昨日荷物を運び込んだ時に一度下見をしたのだ。
それでも、何か納得しがたいものが、いまだに喉に詰まっていた。こうして馬上で自分の腰をしっかり抱き寄せている男が、自分の新たな夫だと、結婚の儀式をもっても信じられない。
馬に横乗りになっているセリーナは、手綱を毅然と操る彼をこっそり見上げた。
強い意志が表れている口元。役人や市井の人々にはない、研ぎ澄まされた眼差し。しかし、整った鼻筋や高い頬骨を覆う肌は血色が良く、彼の若さを物語っている。
ふと、西の空に一番星を見つけた。道中、人の熱が篭ったマントの中で、セリーナは一心にその星を眺めていた。
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