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番外編
思いもよらない5
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——やっぱり時間に余裕があるとお料理も楽しいわ。
機能的な台所に立つセリーナは、鶏肉の香草焼きとサラダ、そして最後にスープの味を整えて満足げにあたりを見回した。
今日はヨーゼフ神父が早めに業務を切り上げてくれたおかげで、夕暮れより前に帰宅できた。帰り道では買い物ができたし、家ではシャツを繕ったり、家庭菜園の雑草を抜いたり、働きながらだと普段気が回らない細かいな家事も片付けられたのだ。
窓の外を見ると、数刻前の夕暮れは完全に闇に染まって、月明かりがこの住宅街の影を浮かび上がらせている。
ランプの灯りを大きくして、帰ってくる夫に見えるようにその明かりを窓際に置く。そして机について、兄へ送る手紙を書き始めた。
まずは老いた父の様子を尋ね、それからこちらの生活の様子を報告する。薬草園の仕事は楽しく、最近新しい上司ができてこれからさらに学ぶことが多くなるであろうこと。レオンも一番隊というエリートの集まりの中で必死に努力し、次第に隊に馴染んでいるらしいこと。それから王都の賑やかな様子なども書き添える。
そして最後に結びの一文を考えている時、玄関の扉がノックされた。すぐに取っ手が回り、レオンが「ただいま帰りました」と家に入ってくる。
「おかえりなさい」
「遅くなりました」
お互いもうすっかり馴染んだ頬へのキスを交わして微笑みあう。
「何かいい匂いがする」
「鶏肉とスープよ。今日はかなり早く帰宅できて、久しぶりに時間をかけて料理ができたの」
レオンは「美味しそうだ」と言って、もう腹を低く鳴らしている。
二人はさっそく夕食にすることにした。
やはり時間に余裕があると気持ちがほぐれて、普段どれだけ慌ただしく生活しているかと反省できる。
夕食後、浴室のお湯をたっぷり準備する余裕があったので、セリーナはゆっくりと湯船に浸かって心地よく息をついた。日中にかいた汗を石鹸で流し落とし、髪も丁寧に洗い頭皮をほぐし、顔の保湿も今日は思う存分時間をかける。
髪の弾力や肌のハリの変化を、注意深く探ってみた。普段そんなに神経質にはなっていないが、自分の年齢に抗いたくなるのは女心だと思う。ただでさえ夫は六歳も若く、最近なんだかさらに精悍で男らしい顔つきになって、セリーナはちょっとした危機感を覚えていた。
王都の一番隊という環境に身を置いているせいか、レオンは新婚の頃と比べて、紳士のような落ち着きを身につけ始めている。少し前まで垣間見せていた、少年時代の名残のような表情はもう完全に消えて、もともとあった彼の軍人的な思慮深さが、さらに研ぎ澄まされたように見える。
湯船から手を出して、セリーナは浅くため息をついた。
自分の両手を見ると、若い頃のようなふっくりとした面影は消えていた。代わりにささくれや小じわが増え、さらに赤い湿疹もある。痛みは軽いものだが、むしろこの湿疹のせいで一気に老けて見えるのが憂鬱だ。
——年上だからってウジウジするのって、嫉妬なんかより面倒でタチが悪いわ。
セリーナはパシャりと水音を立てて、少し火照った自分の頬を叩いた。
年齢はどうにもならない。しかも、過去には自分にもあった若さを無理に取り戻そうなんて、痛々しいことはしたくない。年齢相応の肌、化粧、髪型、服装というものがある。
ましてや、これからさらに男性として成熟していくであろう夫を羨んだり、彼がいつか自分の妻には若さがないと落胆するかもしれないなんて恐れも、病的なものだ。
結局自分にできることは、日々の仕事と生活、そして健康を大切にすることだけだ。今日は、仕事が早く終わると家事や料理がきちんとできるという、当たり前の発見もあった。
これから薬草園ではもっと効率よく働いて、ヨーゼフ神父にも相談して早く帰宅できる日を増やそう。
そうセリーナは一つ結論づけ、ザブリと湯船から上がった。
寝室に入ると、レオンはもう寝支度を整えてベッドの中で本を読んでいた。けれどセリーナに気がついた途端に微笑んで、本は脇に置いて上掛けをめくり、こちらへと手招きする。
セリーナがベッドにあがると、彼も身を起こしてあぐらをかいた。
「今日の夕飯、美味かった。外食も楽しいけど、やはり貴女の作る料理が一番だ」
「ありがとう。私も、丁寧に料理するの久しぶりだって気がついたわ。これからはもう少しできるようにするから」
「ああ、違うんです。さらに貴女に負担をかけたいわけじゃ……」
俺も簡単なものから料理覚えます。と言う夫に、セリーナはふと首を傾げた。なんだろう。何か改まったような雰囲気があるのは。
改まったような、というのは本当にそうだった。「実は」とレオンが切り出す。
「今日、一番隊での勤務が終わった後、ヨーゼフ神父にお会いしたんです」
レオンの急な報告に、セリーナは「え」と一瞬だけ固まってしまう。
「ヨーゼフ神父様に? 偶然?」
「いえ。仕事が終わったら薬草園に来るように言われて。貴女はもう帰った後でした」
「えっと……何か二人でお話ししたの?」
何かこじれたことになりはしなかっただろうかと、セリーナはちょっと前のめりになってしまう。するとレオンは、ベッドのそばにある棚の引き出しから小瓶を取り出した。
「彼と一緒に、貴女のためにハンドクリームを作ったんです。それとヨーゼフ神父は、俺の子供っぽい態度を、それとなくたしなめてくれました。とてもいい人ですね」
あまりの急展開にセリーナはぽかんとしてしまう。
つまりヨーゼフ神父はセリーナを早く帰し、レオンを呼び出し何やら一緒に作業をして、いつの間にか仲良くなってしまったのだ。しかもレオンの嫉妬もすっかり中和されている。
「さあ、手を出して。これで湿疹が良くなるといいんですが」
気がつくと右手を取られ、小瓶からすくい取ったクリームを丁寧に塗りこまれている。ふと、爽やかな香りに気がついて、セリーナはすんと鼻を鳴らした。
「……いい香り」
「ええ。たくさんの花の香油があって、その中からすずらんを選んだんです。貴女に合うと思って」
「嬉しい。大好きな香りよ。そういえば、亡き母も香水はすずらんの香りだったわ……」
レオンの肉厚の手が、セリーナの手の甲、関節、指先にクリームを塗っていく。
「それと、俺、謝りたくて。ここずっと、見苦しい態度をとってしまったこと……」
今度は反対の手、とレオンはセリーナの左手に同じ処置を施しながら、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「この見当はずれの不安や敵意が嫉妬だと、自覚するのも遅れて。すみません」
「謝ることじゃないわ。あなたの嫉妬なんてかわいい方よ。私の焦りの方がもっとみっともなくて……」
「焦り?」
セリーナは一つ息を吐いた。
「私、六つもあなたの年上なんだなって思うと、時々どうしようもなく、ね」
「……? 俺が年上の貴女にふさわしい男になりたいと焦る、というならわかりますけど」
一拍間をおいて、セリーナはふき出してしまった。
夫の純真な愛情は、こちらの不安もあっさりと消し去ってしまう。
「俺何かおかしなこと言いましたか?」
「違うの。そう言ってくれるのが嬉しくて」
ありがとう。とセリーナは彼の頬に接吻する。すると、繋がれたままの手に軽く力がかかった。クリームが塗られた肌同士は、いつもと違う感触を呼び覚ます。
レオンが身体を寄せ、セリーナのおろした髪に鼻を埋めた。
「……セリーナ。湯船に入ったせいですか? 身体が火照ってる」
「や……そのクリームの塗り方……っ」
セリーナの指の間をくすぐるように、レオンの指が絡みつく。
そして首筋にキスされ、二人の吐息に色がつき、お互いに眼差しの中に情熱を見出す。
肩をそっと押され、セリーナはベッドに横になった。
「ん……っぁ。……や、あ」
「ここ……っ……奥?」
手に塗られた時は清廉な香り、と思ったのに、すずらんの香りは今や淫猥に二人の鼻腔に広がった。かすれ声が溶ける吐息と、夏の夜の湿気がそうさせているのだろうか。
レオンの熱欲が、また深くセリーナを穿った。ジンと甘く痺れる感覚に、抑えようがない声が漏れる。
組み敷かれ、揺さぶられ、快楽を飽きることなく高めあって、どれほど経っただろうか。いつの間にか月が低くなり、銀色の光が窓から寝室に差し込んでいた。
セリーナは息を切らせながら、その光に自分の裸体が晒されているのに気がつく。
「や……ダメ」
上掛けを引き寄せようとしたが、レオンがそれを押しのけた。
「……隠さないで。すごく綺麗です」
烟った熱をたたえた彼の視線が注がれる。セリーナは羞恥に襲われながらも、自分を組み敷く彼を見返した。
レオンの身体は、まるで完璧な彫像のように美しい。しかもその肉体は欲情に染まりながらも、彼の眼差しには憧憬のような愛情があり、それは結婚してから微塵も変わっていない。
「……レオン」
「っ……」
また彼が律動を始める。ゆっくりと、深く。セリーナの全てを余さず味わい尽くすように。
「あ……ぁ。……んぅ」
「もう一度……呼んで」
セリーナは快楽を受けとめるのに必死で、レオンがなんと言ったのか聞き逃してしまった。すると焦れたように彼が身を折って覆いかぶさってきて、セリーナの耳に直接「貴女を抱いてるのは誰か、名を呼んで」と囁く。
「ぁ、ん……レオ……っぁあ」
「っ……もう一度」
これは彼の嫉妬の残り火なのだろうか。
最奥に熱が深く埋め込まれ、重く何度も突かれる。セリーナは息を震わせながら、彼の名を呼んだ。
「レオン……んぅっ……ぁ、レオ……」
「セリーナ……ずっと、俺だけの……っ」
腰に彼の体重がかかり、歴然とした体格差の元、腕の檻に閉じ込められる。呼吸さえ奪いつくすようなキスに翻弄され、彼の張り詰めた欲望によって果てへと押し上げられた。
苦しいほど甘やかな閃光に身体が跳ねる。汗ばんだ男の身体が押し付けられ、彼の速すぎる鼓動と、腰の震えも感じ取った。
「ねえ、そういえば、なんだけど」
「ん?」
窓から忍び込む月明かりは次第に細長くなり、ついに他の家の屋根に隠れた。寝室はまた闇に染まり、レオンが丁寧にタオルで情事の残滓を清めるのも、ゆったりと身を委ねることができる。
セリーナは身体の奥にまだ残る心地よい気だるさにたゆたいながら、手にまだ残るすずらんの香をかいだ。
「すずらんの別名って、君影草っていうのよ」
「君影草……」
「私に似合う香りとして選んでくれて、嬉しい」
特にセリーナはそれ以上何も言わなかったが、レオンは察したようだった。
ベッドの中で身を寄せ合うと、足が絡まり、彼の力強い腕がセリーナを抱き込んでくれる。彼の熱い手のひらがゆっくりと、夜着越しにセリーナの背を彷徨った。癒えたけれど完全には消えていない、二人の過去の傷がそこにある。
「貴女をずっと影から想っていた、あの頃は、こんな平穏も嫉妬も知らなかった」
「……あなたのその深い想いが、どれだけ私を救ってくれているか」
二人はもうそれ以上言葉は交わさずに、お互いの呼吸が一緒に寝息に変わるのに耳をすませていた。
<思いもよらない・終>
機能的な台所に立つセリーナは、鶏肉の香草焼きとサラダ、そして最後にスープの味を整えて満足げにあたりを見回した。
今日はヨーゼフ神父が早めに業務を切り上げてくれたおかげで、夕暮れより前に帰宅できた。帰り道では買い物ができたし、家ではシャツを繕ったり、家庭菜園の雑草を抜いたり、働きながらだと普段気が回らない細かいな家事も片付けられたのだ。
窓の外を見ると、数刻前の夕暮れは完全に闇に染まって、月明かりがこの住宅街の影を浮かび上がらせている。
ランプの灯りを大きくして、帰ってくる夫に見えるようにその明かりを窓際に置く。そして机について、兄へ送る手紙を書き始めた。
まずは老いた父の様子を尋ね、それからこちらの生活の様子を報告する。薬草園の仕事は楽しく、最近新しい上司ができてこれからさらに学ぶことが多くなるであろうこと。レオンも一番隊というエリートの集まりの中で必死に努力し、次第に隊に馴染んでいるらしいこと。それから王都の賑やかな様子なども書き添える。
そして最後に結びの一文を考えている時、玄関の扉がノックされた。すぐに取っ手が回り、レオンが「ただいま帰りました」と家に入ってくる。
「おかえりなさい」
「遅くなりました」
お互いもうすっかり馴染んだ頬へのキスを交わして微笑みあう。
「何かいい匂いがする」
「鶏肉とスープよ。今日はかなり早く帰宅できて、久しぶりに時間をかけて料理ができたの」
レオンは「美味しそうだ」と言って、もう腹を低く鳴らしている。
二人はさっそく夕食にすることにした。
やはり時間に余裕があると気持ちがほぐれて、普段どれだけ慌ただしく生活しているかと反省できる。
夕食後、浴室のお湯をたっぷり準備する余裕があったので、セリーナはゆっくりと湯船に浸かって心地よく息をついた。日中にかいた汗を石鹸で流し落とし、髪も丁寧に洗い頭皮をほぐし、顔の保湿も今日は思う存分時間をかける。
髪の弾力や肌のハリの変化を、注意深く探ってみた。普段そんなに神経質にはなっていないが、自分の年齢に抗いたくなるのは女心だと思う。ただでさえ夫は六歳も若く、最近なんだかさらに精悍で男らしい顔つきになって、セリーナはちょっとした危機感を覚えていた。
王都の一番隊という環境に身を置いているせいか、レオンは新婚の頃と比べて、紳士のような落ち着きを身につけ始めている。少し前まで垣間見せていた、少年時代の名残のような表情はもう完全に消えて、もともとあった彼の軍人的な思慮深さが、さらに研ぎ澄まされたように見える。
湯船から手を出して、セリーナは浅くため息をついた。
自分の両手を見ると、若い頃のようなふっくりとした面影は消えていた。代わりにささくれや小じわが増え、さらに赤い湿疹もある。痛みは軽いものだが、むしろこの湿疹のせいで一気に老けて見えるのが憂鬱だ。
——年上だからってウジウジするのって、嫉妬なんかより面倒でタチが悪いわ。
セリーナはパシャりと水音を立てて、少し火照った自分の頬を叩いた。
年齢はどうにもならない。しかも、過去には自分にもあった若さを無理に取り戻そうなんて、痛々しいことはしたくない。年齢相応の肌、化粧、髪型、服装というものがある。
ましてや、これからさらに男性として成熟していくであろう夫を羨んだり、彼がいつか自分の妻には若さがないと落胆するかもしれないなんて恐れも、病的なものだ。
結局自分にできることは、日々の仕事と生活、そして健康を大切にすることだけだ。今日は、仕事が早く終わると家事や料理がきちんとできるという、当たり前の発見もあった。
これから薬草園ではもっと効率よく働いて、ヨーゼフ神父にも相談して早く帰宅できる日を増やそう。
そうセリーナは一つ結論づけ、ザブリと湯船から上がった。
寝室に入ると、レオンはもう寝支度を整えてベッドの中で本を読んでいた。けれどセリーナに気がついた途端に微笑んで、本は脇に置いて上掛けをめくり、こちらへと手招きする。
セリーナがベッドにあがると、彼も身を起こしてあぐらをかいた。
「今日の夕飯、美味かった。外食も楽しいけど、やはり貴女の作る料理が一番だ」
「ありがとう。私も、丁寧に料理するの久しぶりだって気がついたわ。これからはもう少しできるようにするから」
「ああ、違うんです。さらに貴女に負担をかけたいわけじゃ……」
俺も簡単なものから料理覚えます。と言う夫に、セリーナはふと首を傾げた。なんだろう。何か改まったような雰囲気があるのは。
改まったような、というのは本当にそうだった。「実は」とレオンが切り出す。
「今日、一番隊での勤務が終わった後、ヨーゼフ神父にお会いしたんです」
レオンの急な報告に、セリーナは「え」と一瞬だけ固まってしまう。
「ヨーゼフ神父様に? 偶然?」
「いえ。仕事が終わったら薬草園に来るように言われて。貴女はもう帰った後でした」
「えっと……何か二人でお話ししたの?」
何かこじれたことになりはしなかっただろうかと、セリーナはちょっと前のめりになってしまう。するとレオンは、ベッドのそばにある棚の引き出しから小瓶を取り出した。
「彼と一緒に、貴女のためにハンドクリームを作ったんです。それとヨーゼフ神父は、俺の子供っぽい態度を、それとなくたしなめてくれました。とてもいい人ですね」
あまりの急展開にセリーナはぽかんとしてしまう。
つまりヨーゼフ神父はセリーナを早く帰し、レオンを呼び出し何やら一緒に作業をして、いつの間にか仲良くなってしまったのだ。しかもレオンの嫉妬もすっかり中和されている。
「さあ、手を出して。これで湿疹が良くなるといいんですが」
気がつくと右手を取られ、小瓶からすくい取ったクリームを丁寧に塗りこまれている。ふと、爽やかな香りに気がついて、セリーナはすんと鼻を鳴らした。
「……いい香り」
「ええ。たくさんの花の香油があって、その中からすずらんを選んだんです。貴女に合うと思って」
「嬉しい。大好きな香りよ。そういえば、亡き母も香水はすずらんの香りだったわ……」
レオンの肉厚の手が、セリーナの手の甲、関節、指先にクリームを塗っていく。
「それと、俺、謝りたくて。ここずっと、見苦しい態度をとってしまったこと……」
今度は反対の手、とレオンはセリーナの左手に同じ処置を施しながら、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「この見当はずれの不安や敵意が嫉妬だと、自覚するのも遅れて。すみません」
「謝ることじゃないわ。あなたの嫉妬なんてかわいい方よ。私の焦りの方がもっとみっともなくて……」
「焦り?」
セリーナは一つ息を吐いた。
「私、六つもあなたの年上なんだなって思うと、時々どうしようもなく、ね」
「……? 俺が年上の貴女にふさわしい男になりたいと焦る、というならわかりますけど」
一拍間をおいて、セリーナはふき出してしまった。
夫の純真な愛情は、こちらの不安もあっさりと消し去ってしまう。
「俺何かおかしなこと言いましたか?」
「違うの。そう言ってくれるのが嬉しくて」
ありがとう。とセリーナは彼の頬に接吻する。すると、繋がれたままの手に軽く力がかかった。クリームが塗られた肌同士は、いつもと違う感触を呼び覚ます。
レオンが身体を寄せ、セリーナのおろした髪に鼻を埋めた。
「……セリーナ。湯船に入ったせいですか? 身体が火照ってる」
「や……そのクリームの塗り方……っ」
セリーナの指の間をくすぐるように、レオンの指が絡みつく。
そして首筋にキスされ、二人の吐息に色がつき、お互いに眼差しの中に情熱を見出す。
肩をそっと押され、セリーナはベッドに横になった。
「ん……っぁ。……や、あ」
「ここ……っ……奥?」
手に塗られた時は清廉な香り、と思ったのに、すずらんの香りは今や淫猥に二人の鼻腔に広がった。かすれ声が溶ける吐息と、夏の夜の湿気がそうさせているのだろうか。
レオンの熱欲が、また深くセリーナを穿った。ジンと甘く痺れる感覚に、抑えようがない声が漏れる。
組み敷かれ、揺さぶられ、快楽を飽きることなく高めあって、どれほど経っただろうか。いつの間にか月が低くなり、銀色の光が窓から寝室に差し込んでいた。
セリーナは息を切らせながら、その光に自分の裸体が晒されているのに気がつく。
「や……ダメ」
上掛けを引き寄せようとしたが、レオンがそれを押しのけた。
「……隠さないで。すごく綺麗です」
烟った熱をたたえた彼の視線が注がれる。セリーナは羞恥に襲われながらも、自分を組み敷く彼を見返した。
レオンの身体は、まるで完璧な彫像のように美しい。しかもその肉体は欲情に染まりながらも、彼の眼差しには憧憬のような愛情があり、それは結婚してから微塵も変わっていない。
「……レオン」
「っ……」
また彼が律動を始める。ゆっくりと、深く。セリーナの全てを余さず味わい尽くすように。
「あ……ぁ。……んぅ」
「もう一度……呼んで」
セリーナは快楽を受けとめるのに必死で、レオンがなんと言ったのか聞き逃してしまった。すると焦れたように彼が身を折って覆いかぶさってきて、セリーナの耳に直接「貴女を抱いてるのは誰か、名を呼んで」と囁く。
「ぁ、ん……レオ……っぁあ」
「っ……もう一度」
これは彼の嫉妬の残り火なのだろうか。
最奥に熱が深く埋め込まれ、重く何度も突かれる。セリーナは息を震わせながら、彼の名を呼んだ。
「レオン……んぅっ……ぁ、レオ……」
「セリーナ……ずっと、俺だけの……っ」
腰に彼の体重がかかり、歴然とした体格差の元、腕の檻に閉じ込められる。呼吸さえ奪いつくすようなキスに翻弄され、彼の張り詰めた欲望によって果てへと押し上げられた。
苦しいほど甘やかな閃光に身体が跳ねる。汗ばんだ男の身体が押し付けられ、彼の速すぎる鼓動と、腰の震えも感じ取った。
「ねえ、そういえば、なんだけど」
「ん?」
窓から忍び込む月明かりは次第に細長くなり、ついに他の家の屋根に隠れた。寝室はまた闇に染まり、レオンが丁寧にタオルで情事の残滓を清めるのも、ゆったりと身を委ねることができる。
セリーナは身体の奥にまだ残る心地よい気だるさにたゆたいながら、手にまだ残るすずらんの香をかいだ。
「すずらんの別名って、君影草っていうのよ」
「君影草……」
「私に似合う香りとして選んでくれて、嬉しい」
特にセリーナはそれ以上何も言わなかったが、レオンは察したようだった。
ベッドの中で身を寄せ合うと、足が絡まり、彼の力強い腕がセリーナを抱き込んでくれる。彼の熱い手のひらがゆっくりと、夜着越しにセリーナの背を彷徨った。癒えたけれど完全には消えていない、二人の過去の傷がそこにある。
「貴女をずっと影から想っていた、あの頃は、こんな平穏も嫉妬も知らなかった」
「……あなたのその深い想いが、どれだけ私を救ってくれているか」
二人はもうそれ以上言葉は交わさずに、お互いの呼吸が一緒に寝息に変わるのに耳をすませていた。
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優しいお話をありがとうございました。
大好きな物語です。
ニライカナイ様
一気読みのさらに3回も繰り返し読んでいただけたなんて、とても嬉しいです。ありがとうございます。
歳の差結婚の葛藤を想像力で編んでみたのがこのお話ですが、ニライカナイ様がそれを読んで少しでも安らいでくださったのなら幸いです。
あたたかいお言葉の感想、ありがとうございました!
青猫拝
やはり前回が最終話だったのですね。
お疲れ様でした。
私の感想のせいで急がせてしまっているかな?と心配していたのでよかったです。
番外編の冒頭、理想のカップルで羨んで読んでいました。
甘い言葉でベタベタするよりも、お互いを尊重しあい想いあってきた愛情が見えるような気がしました。
他の方の感想にもありましたが、不在のフランクや上記のような描写されていない時間が手に取るように分かります。
そこが青猫様の特徴というか、好きなところです。
今作の番外編も、他の作品もお待ちしてますのでゆっくりと書いて頂けるとすごく嬉しいです!
頑張ってください。
青猫様のファンより
水瀬様
急がされたことなんてありませんよ〜。基本マイペースで、気合が入ったり入らなかったりするタチなので、お気になさらず。感想たくさん頂けて嬉しかったです!
レオンとセリーナは、「仕事に出る夫と家を守る妻」というよりも、こうしてバタバタと二人揃って朝の出勤をしている方が似合うな…と作者も書いててにんまりしてしまいました。
ファンになってくださって嬉しいです。更新不定期の不良作者ですが、これからもよろしくお願いします。
青猫拝
回想でしか出てこないフランクの、どっしりとした存在感が印象的でした。亡くなっている人物なのに会ったような気にすらなってしまいます。彼の存在こそ主人公セリーナの心情表現の重要な鍵だったと思いますが、見事に成功していらっしゃいますね。こういった技術、果たして真似できるものなのかどうかわかりませんが、後ほど読み返して悪あがきさせていただきます(笑)。
陰謀、スキャンダル、報復といったサスペンス要素(?)も、当初の予定になかったとは到底信じられない効果的な起伏を生んでいますね。
元はといえばプロットもなかったそうですが、それでも書ける人には書けるという好例でしょう。名作、堪能させていただきました!
生津直様
お読みいただきありがとうございました!このお話は「鐘の鳴る」の連載中、息抜きに書き始めたのです。いかんせん書くストレスを解消するために書く習性で…。童貞を書きたいという欲だけで始めてしまい、途中から「これ物語としてどうすんの?」と遅れて気がつき、かなり苦悩しました(自業自得)。
書けてる…でしょうか? アイゼンシュタインの陰謀や時系列など、結構やぶれかぶれだなと思うのですが、それでも読者の方に楽しんできただけたのなら、まあよしとしようと、結局自分に甘いスタイルです。
フランクのことを印象的と言っていただけるのはすごく嬉しいです。不在の存在感、というか、そういうのを書きたかったので、伝わっててよかったです。
感想ありがとうございました!
青猫拝