あなたが私を手に入れるまで

青猫

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番外編

思いもよらない3

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 夏日の昼下がり、ドクダミの乾燥作業を一旦終えて、セリーナは散らかった作業台の上を片付けていた。薬草園の作業部屋にある大きな窓から夏の風が吹き込んで、天井から吊るされた薬草の束が揺れ、独特の香りが通り抜けていく。
 庭の方からは、ファビオとカルロの諍いを懇々と仲裁してるヨーゼフ神父の声が聞こえてくる。それは先週まではセリーナの役目だったのだが、教会で多くの信者を相手にする聖職者の手腕とは比べものにならない。新しい上司はありがたい存在だと、セリーナは胸をなでおろしていた。
 手がカサカサする。
 セリーナはエプロンのポケットから小さな缶を取り出して、中にあるクリームを手に塗りこんだ。途端に、華やかなバラの香りが漂う。
 ちょっと、うーんと唸って、セリーナはその缶にあるラベルに目を落とした。華麗な書体で「ご婦人の手にバラの魅惑をまとわせて」と書かれ、バラと天使の絵がそれを取り囲んでいる。
——香りは強いし、それほど潤わないし。
 という言葉は声には出さない。せっかくレオンが贈ってくれたものだし、使わなくては、と思う。
 最近の夫は、わかりやすいといえば、わかりやすい。正直に言えば、ちょっと面倒、かもしれない。
 セリーナは、ここ最近レオンがよく浮かべる表情を思い出して、軽くため息をついた。
 彼の「仕事はどうですか」といういつもの心配に、さらに何か不安のようなものが上乗せされている眼差し。出勤する時に、少しすがるような手。家に帰ってきて二人揃った時に、やっと息継ぎができたとでもいうようにセリーナを抱く腕の強さ。
 彼自身はきっと、その不安が「嫉妬」というものだと認識すらしていないのだ。けれどセリーナにしてみれば、夫のもやもやとした態度の出どころの感情は明白だった。
 新しい上司のヨーゼフ神父のことをちょっと話題に出すだけで、レオンの眼差しが揺らぐ。かといってヨーゼフ神父のことについて何も話さなければ、今度はレオンの方から下手な探りを入れるかのように、「職場ではヨーゼフ神父に難しい仕事を言いつけられていませんか?」などと尋ねてくる。しかも「彼は優しい上司よ」とセリーナが答えると、眉間に小さくシワを作るし、本当になんというか、わかりやすい。
——多分、第一印象がダメだったんだわ。
 先週、ヨーゼフ神父がこの薬草園にくることが決まって、ファビオやカルロ、そしてセリーナも一対一で新しい上司と軽い面談をした。ヨーゼフ神父としては、部下になる三人それぞれの性格をさっそく把握しておきたかったのだろう。
 セリーナの順番は最後で、今までハーブを育てた経験を説明したり、自作している家庭薬の話をしたりした。そしてその時、手荒れの話題になったのだ。
 思い出してみれば、面談といえどたわいもない会話だった。
——「ではセリーナさんは、庭仕事にはもうずいぶん慣れていらっしゃるんですね。バラやランを育てるのとはまた違う難しさがありますから、ハーブを日常的に育てて使用してるご婦人がいるのは頼もしいです。けれど、ご自分のケアも少し気をつけてくださいね」
 そのヨーゼフ神父の指摘にセリーナが首をかしげると、彼は少し苦笑した。
——「たかが手荒れと放っておくと、悪化するかもしれませんよ」
——「ああ……。これは最近、ちょっと乾燥がひどくなってしまっただけで」
——「庭仕事に手荒れはつきものですが、侮ってはいけません。僕はいつも自作のクリームを使ってます。こうやって塗り込んで……おっと、出しすぎた。セリーナさん、ちょっと手を」
 彼は小さな瓶から白い乳液を手のひらに垂らしたが、思わず多く出しすぎてしまったのか、指の間から落ちそうになるそれを慌てて差し出した。セリーナもとっさに手を差し出して、二人の手が触れ合った瞬間に、レオンが部屋に入ってきたのだ。
 レオンは表情豊かな方ではないが、あの時の動揺は隠しきれていなかった。そして礼儀は保ちつつ、あからさまにセリーナを引き寄せて、むっつりと「セリーナの夫です」なんて自己紹介をして。
 もちろん、ヨーゼフ神父とセリーナがどうこうなるなんて、レオンもそこまで妄想しているわけではないだろう。ただそれでも、自分の妻の職場に妙齢の男がいることに、やきもきしてしまうのかもしれない。
 そういえば最近あまりレオンとゆっくり過ごせていないな、とセリーナは思考を沈ませる。
 考えてみれば、二人で王都に出てきて一年にもなっていない。まだ二人とも新しい環境と職場で、模索を繰り返している。その中で、どれだけ二人きりの安息の時間があっただろう。仕事と家の雑事に追い回されて、何か大切なことを見落としていなかっただろうか。
 セリーナは鋏の手入れをしながら、ぼんやりとここ数ヶ月のことを思い返した。
 共働きの生活は思っていた以上に自分に馴染んでいるし、庭仕事は好きだから忙しさも苦にならない。けれど、夫とのささやかな憩いの時間が、蔑ろになっていたかもしれなかった。
 その時、ドアをノックする音が部屋に響いた。
「セリーナさん。ああ、ドクダミは全て束にしてもらえたんですね」
 ヨゼーフ神父が部屋に入ってくる。そしてセリーナの手際を褒めながら、「カルロとファビオは……喧嘩するほど仲がいい、とでもいうんですかね」と笑いながらこぼした。
「ええ。でも、なんだかんだいってあの二人、仕事では結構息が合ってるんですよ」
「そうみたいですね。喧々諤々と言い合ってるから仲裁に入りましたけど、口で喧嘩しながら一緒に手は動かしてるんだから、面白くて」
 そこでヨーゼフ神父はふと眉をしかめて、わずかに鼻を鳴らして何かを探すように部屋を見渡した。セリーナはピンとくる。
「バラの香りがしますか?」
「ええ。一体どこから……」
「これです。すみません、少し香りがきついですよね」
 ハンドクリームの缶を見せて謝ると、ヨーゼフ神父はにこりと微笑む。
「可愛らしいラベルですね。贈り物ですか?」
 セリーナが頷くと、彼はさらに「旦那さんから?」と尋ねてくる。
「ええ、私の手荒れを私以上に気に病んでて」
「一度挨拶しただけですが、彼にとって貴女はとても大切な存在なのだと、すぐわかりましたよ」
 そう言うヨーゼフ神父の言外の意味をなんとなく察して、セリーナはちょっと頬を赤らめた。
「……すみません。レオン、わかりやすいですよね。でも、あんなあからさまな嫉妬の態度なんて、今までほどんどなかったんです。神父様を不快にさせたなら、」
「そんな、不快なんてことないですよ。微笑ましいな、と思ったくらいで」
 セリーナの謝罪を遮って、ヨーゼフ神父は屈託なく微笑んだ。そして「けれど」とその微笑みを苦笑に変える。
「奥さんの手荒れに、バラの香りだけが売りのハンドクリームを選ぶのは、まだまだ初心者、といったところでしょうかね」
 どうやら、このハンドクリームが乾燥や湿疹にはあまり効果がないことも、見抜かれているようだ。ヨーゼフ神父は少し思案すると、セリーナに「水仕事や土いじりはやめて、書類整理をお願いします」と次の仕事を割り振ってくれた。
「今できる作業はほぼ終わりましたし、もう少ししたら、今日はもう終業としましょう。セリーナさんも書類の方が終わったら、早めに帰宅してくださいね」
 嬉しい申し出だった。今晩は久しぶりに、時間をかけて夕飯の準備ができる。
 外に出ると、太陽は西に傾き始めていたが、まだまだ夏の熱気は引く様子がない。冷たい水で手を洗うと気持ちがいいが、バラの香りのクリームもすぐに流れ落ちてしまった。
 またポケットからピンクの缶を取り出すが、少々この香りにうんざりしてしまい、セリーナは「少しの湿疹くらいどうってことないわ」と、それをまた手に塗りこむことはしなかった。せっかくレオンがくれたのにと、ほんの少しの罪悪感が心に引っかかる。
 その午後はなんとなくため息が多くなった。
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