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番外編
思いもよらない2
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高い城壁から、レオンは王都の街を見下ろしていた。
夏の強い西日が、眼下に広がる建物の屋根瓦をオレンジ色に照らし出し、大通りや入り組んだ小道を行く人々の影が長くなっている。レオンの生まれた地方都市とは比べものにならない規模の王都市街は、街を取り囲む堀と壁までみっしりと、人々の忙しない生活が詰め込まれている。
最近やっとこの都市全体の地理を把握し始めたのだが、地方出身者として慣れるにはまだ時間がかかるなと、レオンは胸の中で独り言ちた。
「レオン。この設計図の複写も、三番隊に依頼するように」
ヴェネット総隊長からそう声がかけられ、レオンは慌てて振り向いた。
城壁の増築計画についてあれこれ議論しているのは、ヴェネット総隊長と王宮の高官、そして建築士たちだ。レオンは総隊長の雑用係として、すでに両手にたくさんの書類を抱えている。
「では、西壁の設計図は二枚、東のものは三枚ですね」
「機密性が高いものだ。扱いには注意しろよ」
「はい。今日中に依頼します」
「その後は直帰していい」
よかった。セリーナと一緒に帰れる。と思ったのが顔に出てしまったのだろうか。ヴェネット総隊長が喉の奥で笑った気配がした。
しかしこの上司は、私生活を話題にすることは滅多にない。集まっていた高官や建築士と別れ、二人で軍本部に戻る時は、別の質問をされた。
「今朝の射撃訓練はどうだった?」
「銃は……まだ使い慣れなくて……」
「早めに使いこなせるようになることだ。今後、火器の性能はどんどんあがるぞ」
レオンが「はい」とだけ返事をすると、一拍置いて総隊長の手が少し乱暴に肩に置かれた。
「剣と馬術の方は優秀だと、報告を受けている。先日の打ち合いでは三人ものしたらしいな」
「あ、ありがとうございます」
レオンの所属する国王直下の一番隊は、十二ある隊の中で最も戦闘に特化した集まりだ。隊員は生え抜きのものが多い。軍部学校を優秀な成績で卒業し、さらに厳しい選抜で集められた男たちばかりだ。
その中で、地方出身であり、しかも軍事裁判で裁かれたのを機に異動してきたレオンは異色だ。最初、他の隊員たちからは遠巻きにされた。
歓迎されるなんて思ってなかったし、覚悟していたことだ。居心地がいいとは言えない職場で、レオンにできることは職務を全うし、訓練で自分の実力を出し切ることだけだった。
総隊長の雑用として、武器の手入れから書類整理、伝達や従者役までなんでもやった。そして剣術の訓練では、自分より階級が上の者に対しても、遠慮や躊躇などは一切しなかった。さすが一番隊だけあって彼らの剣も強く洗練されたものだったが、そこだけは、自分が特別劣っているとは思わなかった。
数ヶ月ほど前だろうか。隊内で剣術の勝ち抜き戦が行われた時だ。
レオンは、いつの間にか自分にも味方がいるのだと気がついた。一戦一戦を勝ちあがるたびに、同年代の同僚からの声援が増えてきたのだ。いいところまで行ったが、惜しくも負けてしまい倒れこんだレオンに、何名かの先輩が手を差し伸べてくれた。そしてその夜、同僚たちと居酒屋で呑み明かすと、翌日には何名かと友人と呼べる関係もできていた。
まだ階級は低いが、なんとかこの隊にも溶け込んできている。ヴェネット総隊長も良い上司だ。
軍部に戻り、言いつけられた残りの仕事を片付け、その日もレオンはそこそこの疲労と充実感を抱えて職場を後にした。そのままセリーナを迎えに、六番隊に足を向ける。
医療部の六番隊は他の隊舎よりも静寂が重んじられている。汗と泥だらけの兵の姿は消え、どこか神殿のような清潔な雰囲気に包まれて、レオンはいつもは鋭く踵が鳴る足音を潜めた。
セリーナの働く薬草園に行くと、そこには彼女の同僚のカルロとファビオしかいなかった。二人はレオンを見て、相好を崩す。
「ああ、セリーナを迎えに来たのか?」
「一緒に帰るのか、仲睦まじくていいのう」
挨拶して、妻はどこにいる尋ねると、ファビオが廊下の先を指差した。
「新しい上司の部屋にいると思うぞ」
礼を言って、その部屋に向かう。風を入れるためか、ドアはすでに半分ほど開いていた。
レオンは妻が部屋から出てくるのを待とうとして、ふと、その部屋の中から聞こえてくる声に気がついた。
——「僕はいつも自作のクリームを使ってます。こうやって塗り込んで……おっと、出しすぎた。セリーナさん、ちょっと手を」
——「……あ」
なぜか得体の知れない焦燥感に強く背中を押され、レオンは半開きのドアを少し強めにノックした。中を覗くと、そこには妻と黒衣の男がいる。二人は手を握り合っている——ように見えた。
「あら、レオン」
パッと彼の手を離して、セリーナはこちらにいつもの微笑みを向けた。けれどレオンは彼女に笑みを返せず、部屋に一歩踏み込んでその男をじっと見据える。
「すみません。ドアが開いていたので」
許可が出る前に入室したことを、とりあえずそれらしい謝罪でごまかす。そして「迎えに来てくれたのね」と言う妻の腰に手を回した。少し強めに引き寄せる。
「自分はセリーナの夫、レオン・フェアクロフです。一番隊に所属しています」
礼節として、初対面の彼に手を差し出しすと、その黒衣の男も手を握り返してきた。
「今日から、六番隊の薬草園の責任者となりました。はじめまして」
彼は「ヨーゼフ神父」と名乗った。その男を、レオンは用心深く観察するが、彼からは柔和な微笑みしか返ってこない。どうしてかイラついてしまう。
以前からセリーナが「薬草園には指揮をとれる専門の知識がある人物が必要だ」と言っていたし、近々聖職者が派遣されるだろうというのもレオンは聞いていた。しかし、いや、だからこそ、こんな若い男が妻の上司になるとは予想していなかった。
神に祈りを捧げる職業。いいだろう。世にはそういう役割を担う者も必要だ。彼らは日々祈りを唱え、人の誕生と結婚と葬式で儀式を行い、空いた時間でワインや薬草を作ったり、本を写す仕事をする。
そんな神のしもべたちは、往々にして、痩せすぎか太りすぎの身体で、信者を説教する機会を逃すまいと道徳を振りかざしている爺さんたちだ。というのは、レオンの甚だしい偏見だ。自分でもわかっている。
事実、目の前にいるヨーゼフ神父は、レオンの偏見とは正反対の外見をしていた。細身ながら均整のとれた身体に、艶やかな髪、涼やかな目元。黒衣がますます彼のすっと伸びた背筋を綺麗に強調している。
唐突に、何年か前に兵の仲間たちと酒場で交わした会話が、レオンの脳裏をかすめた。世の中にはいろんな趣向というものがあって、男でも女でも、神父や尼僧の禁欲的な雰囲気が好いという者たちがいるらしい。
——なるほど、こういった爽やかな男ならば、女性からはモテそうだな。
と、素直に思ってしまう。
ちなみにその酒場では話の流れで、「人妻とか年上の女のよさってのも、レオンの恋するセリーナ・ブランソンを見れば理解できる」なんて言った男いて、思わず殴りつけてそいつの鼻を折ってしまったように記憶している。
まあ、そんな過去の思い出はどうだっていい。
自分はずっと片思いしていた女性を娶ったし、今や彼女からの愛情だって疑いようのないものだ。
だから、こんな、ちょっと美男子といった感じの神父なんかに、危機感を覚える必要はないのだ。例え、セリーナとその神父が朗らかに別れの挨拶をしていたとしても。
——知り合ったばかりだろうに、馴れ馴れしすぎないか?
という胸の内の本音は無視した。
レオンの胸に湧いたもやもやとした感情は、すぐには消えなかった。むしろ大きくなっている。帰宅の道中から二人での外食の席まで、セリーナの話題がほとんどあのヨーゼフ神父に占められているからだ。
「とにかく、基本的な薬草も、突き詰めると奥が深いんだなって思ったの。ヨーゼフ神父様は謙遜してらしたけど、今までの経歴もすごいし、軍の薬草園に来ていただけるなんて本当に幸運なことよ。明日からいろんなことが学べるわ」
そう言うセリーナに、レオンは冷静を装いながら相槌を打って、スパイスの効いたなんだかよくわからない外国の料理を噛み砕いた。セリーナも「とっても美味しいけど、このお野菜はなんなのかしらね」と言いながら、無邪気に食事を口に運んでいる。
「上下関係はどんな感じですか? 発足したばかりの薬草園といえど、軍本部にある部署ですから、厳しいものになるかもしれませんね」
という問いは、妻とその神父は上司と部下の関係なのだと、自分自身に確認するためだったかもしれない。いや、無意識に、彼女にちょっと釘をさすような意味もあっただろうか。「あまり彼と親しくしないでほしい」という願望を込めて。
「そうねえ。私たちは兵士さんたちみたいに堅苦しい敬礼なんてしないと思うわ。カルロとファビオとも気楽にやってきたもの。それに、ヨーゼフ神父様は優しくて朗らかな方って印象よ。ほら、ちょうどあなたが部屋に入ってきた時も、私にハンドクリームを使うことを勧めてくださってたの」
「ハンドクリーム?」
そこでレオンは、テーブルの上にあるセリーナの手に視線を落とした。
どうして今まで気がつかなかったのだろう。彼女の手にはところどころに湿疹があった。
「つい最近できてきたの。きっと水や土を使ってるうちに、乾燥がひどくなったのね」
どこか弁明するようにセリーナが言う。けれどレオンはますます眉間を寄せ、彼女の手をとって、さらにつぶさに観察した。
いつの間にか彼女のたおやかな白い手は、レオンの記憶のものより荒れてしまっていた。爪の間に入る土を洗うためか、ささくれも多い。指の関節の内側に赤く滲んだようにできた湿疹は、見るからに痛々しかった。
「……気がつかなかった」
ぽつりと呟くと、セリーナが「おおげさね」と返す。レオンはゆるゆると首を振った。
「こんな……貴女に苦労を」
「レオン。やだ、そんな顔しないでちょうだい」
頬に彼女の手が添えられ、レオンはやっと目線を上げた。
「私、このお仕事大好きなの。ちょっとした手荒れなんて、苦労のうちに入らないわよ」
それはきっとセリーナの本心なのだろう。だがそれでも、彼女の手にできた湿疹と、それに気づかなかった自分自身をさらりと許せるわけでもなかった。
「これから、家での水仕事は俺がしますから」
「今も結構やってもらってると思うけど」
「それに、こういう怪我とか、ちゃんと言ってください。俺、細かいことに気がきく方じゃないので……」
「こんなの怪我じゃないわよ。あなたの方が、訓練での打ち身とかあちこち怪我して帰ってきて、手当もしないでしれっとしてるじゃない」
なんなんだろうこの言い合いは。とりあえず口でセリーナに勝てるわけはないので、レオンはため息混じりに黙り込んだ。今度はクスリと笑う気配が聞こえてくる。
「優しいのね」
彼女の指が、うつむいたレオンの前髪を横に流す。ちらりと横を向くと、店の奥にいる外国人の店員があからさまな笑顔をこちらに向けてきた。
いまだに、こんなささやかなことで頬が熱くなってしまう。それを誤魔化すようにレオンは「帰りましょうか」と区切りをつけて、店員に勘定を頼んだ。
翌日、レオンは休憩時間に中心街に出てきていた。
通りには様々な店が並び、紳士や連れだって歩く婦人たち、駆け回る子供や忙しそうな労働者などで賑やかだ。
レオンが探しているのは、マットに教えてもらった婦人用品店だ。入り組んだ小道に入ってしばらく彷徨うと、ようやくその店の看板を見つけた。店名がいかにも女性が好みそうな花の意匠で縁取られている。
おそるおそる店に踏み入れると、甘ったるい香りに包まれた。幸運にも客はレオン一人だ。女性店員が「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。
「何かお探しでしょうか?」
「あ……あの、妻に……」
いかにも不慣れな感じで口ごもってしまうレオンに、女性店員は微笑ましいとでも言うように笑顔を作った。
「奥様に贈り物ですか? 当店は香水から髪への香油、お肌の保湿剤までいろいろ取り揃えていますよ」
「あの、手に塗るものはありますか?」
「ハンドクリームですか? ええもちろん。ちょうど新商品が出たんです。バラの香料をたっぷり使ってあって、大変好評ですわ」
店員が差し出した小さな缶にはバラの花が描かれたラベルが貼られ、可愛らしく見える。「某侯爵夫人にもご愛用いただいてますの」という言葉に後押しされ、レオンはそれを購入した。
これでセリーナの手荒れが治るといいのだが。缶から漏れるわずかなバラの香りに、その願いを託した。
夏の強い西日が、眼下に広がる建物の屋根瓦をオレンジ色に照らし出し、大通りや入り組んだ小道を行く人々の影が長くなっている。レオンの生まれた地方都市とは比べものにならない規模の王都市街は、街を取り囲む堀と壁までみっしりと、人々の忙しない生活が詰め込まれている。
最近やっとこの都市全体の地理を把握し始めたのだが、地方出身者として慣れるにはまだ時間がかかるなと、レオンは胸の中で独り言ちた。
「レオン。この設計図の複写も、三番隊に依頼するように」
ヴェネット総隊長からそう声がかけられ、レオンは慌てて振り向いた。
城壁の増築計画についてあれこれ議論しているのは、ヴェネット総隊長と王宮の高官、そして建築士たちだ。レオンは総隊長の雑用係として、すでに両手にたくさんの書類を抱えている。
「では、西壁の設計図は二枚、東のものは三枚ですね」
「機密性が高いものだ。扱いには注意しろよ」
「はい。今日中に依頼します」
「その後は直帰していい」
よかった。セリーナと一緒に帰れる。と思ったのが顔に出てしまったのだろうか。ヴェネット総隊長が喉の奥で笑った気配がした。
しかしこの上司は、私生活を話題にすることは滅多にない。集まっていた高官や建築士と別れ、二人で軍本部に戻る時は、別の質問をされた。
「今朝の射撃訓練はどうだった?」
「銃は……まだ使い慣れなくて……」
「早めに使いこなせるようになることだ。今後、火器の性能はどんどんあがるぞ」
レオンが「はい」とだけ返事をすると、一拍置いて総隊長の手が少し乱暴に肩に置かれた。
「剣と馬術の方は優秀だと、報告を受けている。先日の打ち合いでは三人ものしたらしいな」
「あ、ありがとうございます」
レオンの所属する国王直下の一番隊は、十二ある隊の中で最も戦闘に特化した集まりだ。隊員は生え抜きのものが多い。軍部学校を優秀な成績で卒業し、さらに厳しい選抜で集められた男たちばかりだ。
その中で、地方出身であり、しかも軍事裁判で裁かれたのを機に異動してきたレオンは異色だ。最初、他の隊員たちからは遠巻きにされた。
歓迎されるなんて思ってなかったし、覚悟していたことだ。居心地がいいとは言えない職場で、レオンにできることは職務を全うし、訓練で自分の実力を出し切ることだけだった。
総隊長の雑用として、武器の手入れから書類整理、伝達や従者役までなんでもやった。そして剣術の訓練では、自分より階級が上の者に対しても、遠慮や躊躇などは一切しなかった。さすが一番隊だけあって彼らの剣も強く洗練されたものだったが、そこだけは、自分が特別劣っているとは思わなかった。
数ヶ月ほど前だろうか。隊内で剣術の勝ち抜き戦が行われた時だ。
レオンは、いつの間にか自分にも味方がいるのだと気がついた。一戦一戦を勝ちあがるたびに、同年代の同僚からの声援が増えてきたのだ。いいところまで行ったが、惜しくも負けてしまい倒れこんだレオンに、何名かの先輩が手を差し伸べてくれた。そしてその夜、同僚たちと居酒屋で呑み明かすと、翌日には何名かと友人と呼べる関係もできていた。
まだ階級は低いが、なんとかこの隊にも溶け込んできている。ヴェネット総隊長も良い上司だ。
軍部に戻り、言いつけられた残りの仕事を片付け、その日もレオンはそこそこの疲労と充実感を抱えて職場を後にした。そのままセリーナを迎えに、六番隊に足を向ける。
医療部の六番隊は他の隊舎よりも静寂が重んじられている。汗と泥だらけの兵の姿は消え、どこか神殿のような清潔な雰囲気に包まれて、レオンはいつもは鋭く踵が鳴る足音を潜めた。
セリーナの働く薬草園に行くと、そこには彼女の同僚のカルロとファビオしかいなかった。二人はレオンを見て、相好を崩す。
「ああ、セリーナを迎えに来たのか?」
「一緒に帰るのか、仲睦まじくていいのう」
挨拶して、妻はどこにいる尋ねると、ファビオが廊下の先を指差した。
「新しい上司の部屋にいると思うぞ」
礼を言って、その部屋に向かう。風を入れるためか、ドアはすでに半分ほど開いていた。
レオンは妻が部屋から出てくるのを待とうとして、ふと、その部屋の中から聞こえてくる声に気がついた。
——「僕はいつも自作のクリームを使ってます。こうやって塗り込んで……おっと、出しすぎた。セリーナさん、ちょっと手を」
——「……あ」
なぜか得体の知れない焦燥感に強く背中を押され、レオンは半開きのドアを少し強めにノックした。中を覗くと、そこには妻と黒衣の男がいる。二人は手を握り合っている——ように見えた。
「あら、レオン」
パッと彼の手を離して、セリーナはこちらにいつもの微笑みを向けた。けれどレオンは彼女に笑みを返せず、部屋に一歩踏み込んでその男をじっと見据える。
「すみません。ドアが開いていたので」
許可が出る前に入室したことを、とりあえずそれらしい謝罪でごまかす。そして「迎えに来てくれたのね」と言う妻の腰に手を回した。少し強めに引き寄せる。
「自分はセリーナの夫、レオン・フェアクロフです。一番隊に所属しています」
礼節として、初対面の彼に手を差し出しすと、その黒衣の男も手を握り返してきた。
「今日から、六番隊の薬草園の責任者となりました。はじめまして」
彼は「ヨーゼフ神父」と名乗った。その男を、レオンは用心深く観察するが、彼からは柔和な微笑みしか返ってこない。どうしてかイラついてしまう。
以前からセリーナが「薬草園には指揮をとれる専門の知識がある人物が必要だ」と言っていたし、近々聖職者が派遣されるだろうというのもレオンは聞いていた。しかし、いや、だからこそ、こんな若い男が妻の上司になるとは予想していなかった。
神に祈りを捧げる職業。いいだろう。世にはそういう役割を担う者も必要だ。彼らは日々祈りを唱え、人の誕生と結婚と葬式で儀式を行い、空いた時間でワインや薬草を作ったり、本を写す仕事をする。
そんな神のしもべたちは、往々にして、痩せすぎか太りすぎの身体で、信者を説教する機会を逃すまいと道徳を振りかざしている爺さんたちだ。というのは、レオンの甚だしい偏見だ。自分でもわかっている。
事実、目の前にいるヨーゼフ神父は、レオンの偏見とは正反対の外見をしていた。細身ながら均整のとれた身体に、艶やかな髪、涼やかな目元。黒衣がますます彼のすっと伸びた背筋を綺麗に強調している。
唐突に、何年か前に兵の仲間たちと酒場で交わした会話が、レオンの脳裏をかすめた。世の中にはいろんな趣向というものがあって、男でも女でも、神父や尼僧の禁欲的な雰囲気が好いという者たちがいるらしい。
——なるほど、こういった爽やかな男ならば、女性からはモテそうだな。
と、素直に思ってしまう。
ちなみにその酒場では話の流れで、「人妻とか年上の女のよさってのも、レオンの恋するセリーナ・ブランソンを見れば理解できる」なんて言った男いて、思わず殴りつけてそいつの鼻を折ってしまったように記憶している。
まあ、そんな過去の思い出はどうだっていい。
自分はずっと片思いしていた女性を娶ったし、今や彼女からの愛情だって疑いようのないものだ。
だから、こんな、ちょっと美男子といった感じの神父なんかに、危機感を覚える必要はないのだ。例え、セリーナとその神父が朗らかに別れの挨拶をしていたとしても。
——知り合ったばかりだろうに、馴れ馴れしすぎないか?
という胸の内の本音は無視した。
レオンの胸に湧いたもやもやとした感情は、すぐには消えなかった。むしろ大きくなっている。帰宅の道中から二人での外食の席まで、セリーナの話題がほとんどあのヨーゼフ神父に占められているからだ。
「とにかく、基本的な薬草も、突き詰めると奥が深いんだなって思ったの。ヨーゼフ神父様は謙遜してらしたけど、今までの経歴もすごいし、軍の薬草園に来ていただけるなんて本当に幸運なことよ。明日からいろんなことが学べるわ」
そう言うセリーナに、レオンは冷静を装いながら相槌を打って、スパイスの効いたなんだかよくわからない外国の料理を噛み砕いた。セリーナも「とっても美味しいけど、このお野菜はなんなのかしらね」と言いながら、無邪気に食事を口に運んでいる。
「上下関係はどんな感じですか? 発足したばかりの薬草園といえど、軍本部にある部署ですから、厳しいものになるかもしれませんね」
という問いは、妻とその神父は上司と部下の関係なのだと、自分自身に確認するためだったかもしれない。いや、無意識に、彼女にちょっと釘をさすような意味もあっただろうか。「あまり彼と親しくしないでほしい」という願望を込めて。
「そうねえ。私たちは兵士さんたちみたいに堅苦しい敬礼なんてしないと思うわ。カルロとファビオとも気楽にやってきたもの。それに、ヨーゼフ神父様は優しくて朗らかな方って印象よ。ほら、ちょうどあなたが部屋に入ってきた時も、私にハンドクリームを使うことを勧めてくださってたの」
「ハンドクリーム?」
そこでレオンは、テーブルの上にあるセリーナの手に視線を落とした。
どうして今まで気がつかなかったのだろう。彼女の手にはところどころに湿疹があった。
「つい最近できてきたの。きっと水や土を使ってるうちに、乾燥がひどくなったのね」
どこか弁明するようにセリーナが言う。けれどレオンはますます眉間を寄せ、彼女の手をとって、さらにつぶさに観察した。
いつの間にか彼女のたおやかな白い手は、レオンの記憶のものより荒れてしまっていた。爪の間に入る土を洗うためか、ささくれも多い。指の関節の内側に赤く滲んだようにできた湿疹は、見るからに痛々しかった。
「……気がつかなかった」
ぽつりと呟くと、セリーナが「おおげさね」と返す。レオンはゆるゆると首を振った。
「こんな……貴女に苦労を」
「レオン。やだ、そんな顔しないでちょうだい」
頬に彼女の手が添えられ、レオンはやっと目線を上げた。
「私、このお仕事大好きなの。ちょっとした手荒れなんて、苦労のうちに入らないわよ」
それはきっとセリーナの本心なのだろう。だがそれでも、彼女の手にできた湿疹と、それに気づかなかった自分自身をさらりと許せるわけでもなかった。
「これから、家での水仕事は俺がしますから」
「今も結構やってもらってると思うけど」
「それに、こういう怪我とか、ちゃんと言ってください。俺、細かいことに気がきく方じゃないので……」
「こんなの怪我じゃないわよ。あなたの方が、訓練での打ち身とかあちこち怪我して帰ってきて、手当もしないでしれっとしてるじゃない」
なんなんだろうこの言い合いは。とりあえず口でセリーナに勝てるわけはないので、レオンはため息混じりに黙り込んだ。今度はクスリと笑う気配が聞こえてくる。
「優しいのね」
彼女の指が、うつむいたレオンの前髪を横に流す。ちらりと横を向くと、店の奥にいる外国人の店員があからさまな笑顔をこちらに向けてきた。
いまだに、こんなささやかなことで頬が熱くなってしまう。それを誤魔化すようにレオンは「帰りましょうか」と区切りをつけて、店員に勘定を頼んだ。
翌日、レオンは休憩時間に中心街に出てきていた。
通りには様々な店が並び、紳士や連れだって歩く婦人たち、駆け回る子供や忙しそうな労働者などで賑やかだ。
レオンが探しているのは、マットに教えてもらった婦人用品店だ。入り組んだ小道に入ってしばらく彷徨うと、ようやくその店の看板を見つけた。店名がいかにも女性が好みそうな花の意匠で縁取られている。
おそるおそる店に踏み入れると、甘ったるい香りに包まれた。幸運にも客はレオン一人だ。女性店員が「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。
「何かお探しでしょうか?」
「あ……あの、妻に……」
いかにも不慣れな感じで口ごもってしまうレオンに、女性店員は微笑ましいとでも言うように笑顔を作った。
「奥様に贈り物ですか? 当店は香水から髪への香油、お肌の保湿剤までいろいろ取り揃えていますよ」
「あの、手に塗るものはありますか?」
「ハンドクリームですか? ええもちろん。ちょうど新商品が出たんです。バラの香料をたっぷり使ってあって、大変好評ですわ」
店員が差し出した小さな缶にはバラの花が描かれたラベルが貼られ、可愛らしく見える。「某侯爵夫人にもご愛用いただいてますの」という言葉に後押しされ、レオンはそれを購入した。
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