あなたが私を手に入れるまで

青猫

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終章

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「ねえ、すごいわ! 井戸じゃなくて水道なのね。かまどや暖炉もタイル張りで、お湯を沸かす仕組みは最新式よ」
 セリーナは浮かれて新居の窓から顔を出し、レオンに声をかけた。レオンは荷馬車から家具を下ろすのを一旦中止して、こちらに振り向いて笑顔を返す。
「王都は住宅用地を拡大していて、ここの軍の宿舎も全部新しいものらしいです。広さはどうですか?」
「前の家よりはちょっと狭いかもしれないけど、機能的だし、家具は全部入ると思うわ」
 寒さの中に春の兆しのような陽の光が射すある日、二人は家財道具を運んで、軍に用意された新しい家に引っ越した。
 裁判でレオンに降格と勤務地の変更が言い渡され、ここに来るまでの一ヶ月は、なかなか慌ただしいものだった。二人は共に過去を乗り越えて前に進もうと、新しい生活の準備に日々を費やしてきたのだ。
 セリーナは窓枠を雑巾で拭く手を一旦止めて、ここ数週間のことをふと振り返っていた。
 
 引っ越しが間近に迫っていた数日前、セリーナは実家に戻り、改めて、年老いた父親に今までのことをかいつまんで説明した。
 もちろん、父の心労になるようなことはぼかしたが、どうやらすでに兄のアレクセイからいろいろ聞いていたらしい。父は一つ深々と息を吐き出して、セリーナの記憶よりシワが深くなった手を重ねてきた。
「女と男と、どちらが辛いかなどくだらない問いだが、人生が伴侶の人格や仕事にかかってしまうしまうのは、女性の辛いところだな。だからこそ、フランク・ブランソンにお前を嫁がせたんだ」
「ええ、お父様が選んでくれた彼は、素敵な夫だったわ」
「フランクが奪われて、お前はそれで終わる女じゃなかった。傷つけられながらも今度は自分で、自分の伴侶を守り抜いた。いつの間にか、こんなに立派になって。自分の娘を誇りに思うよ」
 今まで厳しさを和らげて、父はまるで子供にするように、セリーナの頭を優しく撫でる。
「王都でも達者にやりなさい。手紙をやりとりしよう」
 セリーナは涙ぐんで、老いた父親に抱きついた。そして、そばに控えていたレオンと父が硬く握手をしているのを見て、これから遠い王都に旅立つ勇気を奮い立たせた。

 レオンは、今まで短い間だったが自分が率いた隊の部下たちに、快く見送られた。
 階級は下がるものの、憧れの軍本部の一番隊、しかもアーノルド・ベリオ・ヴェネット総隊長の元で研鑽をつめるとなって、部下たちにはむしろ羨望の眼差しを受けたらしい。
 ジャンなど「王都で偉くなったら、俺も呼び寄せてくださいよ!」なんて都合のいいことを言っていた。
 マットも飄々としながらも、やはり王都に移るのを楽しみにしているらしかった。つきあっていた女との別れ話がちょっと揉めたらしい。ある日、頬を張られた痕をそのままにして職場にやってきて、しれっとそのまま引き継ぎの仕事をしていた。

 この地方自治体は、アイゼンシュタインが手を染めていた麻薬業が暴かれるとともに、様々な行政腐敗や犯罪組織の問題が明るみに出てきている。
 彼の屋敷には捜査が入り、遺されたアイゼンシュタイン夫人は保障された遺産だけを受け取り、修道女院に入ることになったそうだ。
 レオンたちによって身柄をおさえられた開拓団の四人の若者たちはその後、事情聴取を受け、土砂崩れの不審な点を訴えることができた。中央政府から派遣された新たな調査団が、フランク・ブランソンが遭った土砂崩れは人為的なものと認め、アイゼンシュタインに買収された者たちも処罰を受けることになった。
 しかし、この街の膿が全て出されかといえば、それは難しいことだ。
 この一連の事件で特に地方都市を揺るがせたのが、巨大な犯罪組織の存在が明るみに出たことだった。
 彼らは今までのような、単なるゴロツキの集まりではなかった。貧困街の子供に悪事を教え込み、若く忠実な構成員を抱えていたのだ。
 彼らの要員の選び方は徹底していた。
 まずは生活が苦しい子供たちにスリなどの軽犯罪を教え込む。その集団の中でも、次第にリーダー格となる子供や、腕っ節が強く喧嘩慣れした子供が現れる。彼らを選別し、統率のとれた構成員を集め、さらに規模の大きい麻薬業を扱うようになっていた。
 その過程で、フランクが扱った未成年の裁判が目をつけられたらしい。
 アイゼンシュタインは「少年法制定の参考にする」と言って、フランクから裁判の記録をだまし取り、その内容を組織に渡していた。
 親がおらず、基本的な道徳観も教えられず、躊躇なく空き巣に入る子供。すでに男を誘惑する術を持っていて、集めた情報でゆすりをする少女。明晰な頭脳があるのに、それを詐欺に使うことしか知らない青年。
 フランクは生前、彼らの辛い境遇に配慮した判決を出し、子供たちは監獄ではなく、孤児院や人手不足の開拓地に送り出された。
 組織の幹部はそれらの裁判記録を分析し、子供たちの一部は、有能な犯罪者になると見込まれると、孤児院から引き取られたり、誘拐されたりして、また悪の道に引きずり戻されてしまったのだ。
 地方自治体は王都の助けも借り、この犯罪組織を一刻も早く打倒すると宣言したが、全てが終わるのは時間がかかりそうだ。

 新居の、まだがらんとした二階の部屋で、運んだ荷物の中からフランクの日記を見つけ出し、セリーナはそれを手にとって、ぼんやりとあるページに目を落としていた。
 そこには、妻が庭を広げてハーブを育てたいと言っているが、庭師を雇うべきかどうか悩ましい、といったことがフランクの綺麗な文字で書かれている。そして同じ日付の後半に、ある走り書きがあった。
——『私が子供たちに下す判決は本当に正当なものなのだろうか。せめてこの裁判をきっかけに、彼らが新しい人生を歩めればいいのだが』
 フランクは、志し半ばだったのだ。この困難な世の中で、自分の手が届く範囲だけでもなんとかできないかと、奮闘していた。
 ふと後ろに気配を感じて振り返ると、部屋の戸口にレオンが立っていた。「ここにいたんですね」と、微笑みかけてくる。
 最近、レオンの表情は以前と比べて柔らかくなった。何かを押し隠すように歯を食いしばることが、少なくなったのかもしれない。
「家具は全部降ろしました。マットが手伝いに来るはずなので、ベッドを運ぶのは後にします。今はテーブルの位置を決めようかと、貴女に相談したくて」
「助かるわ。ちょっとぼうっとしてて、寝室の掃除はまだ済んでないの」
 そこでレオンは、セリーナの手にあるフランクの日記に気がついたようだ。
「つい感傷的になっちゃって。彼のやり残したこととか、いろいろ考えてて」
 とセリーナが言い訳すると、彼は「貴女にはそういう時間が必要です」と、その日記に悲しそうに見やる。
「やはり、フランク殿は無念だったでしょう。裁判官として、あの街で正義を推し進めたかっただろうし、こんな素敵な女性を遺して……」
 レオンは先に続く言葉を探すように口ごもったかと思うと、いきなりセリーナの前に跪いた。
 セリーナは瞬きを繰り返して、下からのレオンの眼差しを受け止める。
 唐突に、そして意を決したように、彼は口を開いた。
「今日から、ここ王都で新しい生活が始まります。だからここで誓わせてください。フランク殿が日々挑み続けていたものに、俺も挑み続けます。彼が大切にしていた貴女を、俺も大切にします。そして俺なりのやり方で、絶対、貴女を幸せにします」
 真新しい木材の香りのする小さな部屋で、まるで王族に誓いを立てる騎士のように、レオンは揺らぎない声を響かせる。
 開け放った窓から光が射して、彼の若々しい眼差しをきらめかせていた。
 セリーナは、二つの指輪がある左手を彼の肩に置く。
「なら私は、妻としてあなたを支えます。そしてフランクがかつてそうしたように、自分の家庭と仕事の持ち場で、自分のできる最善を努めます」
 手を引いて夫を立ち上がらせ、セリーナは彼に身体を寄せる。至近距離で見つめ合い、そして微笑みあった。
「不思議だ。空っぽの部屋で貴女とこうして、新天地で明日なにが待ち構えているかもわからないのに、やっと全てが手に入った気持ちなんです」
「長かったわね、あなたが私を手に入れるまで。そしてこれからは、二人で築いていくのよ」
 腰にまわった彼の腕に力が込められ、ぐいと抱き上げられた。目線が同じ高さになり、吐息と鼓動が重なり、自然に唇が重なり合う。
 ふと、窓から風が流れ込み、どこかで咲いている水仙の香りが二人を包み込んだ。
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