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第四章
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別室に通されたセリーナはハンカチで乱暴に涙を拭いて、少しでも体裁を整えようとした。
レオンの顔を見るなり、ギリギリまで抑えていた感情が決壊してしまった。それが「怒り」という方向に溢れ出てしまったのは、自分でも想定外だったのだ。会うなり平手で夫を打つなんて、自分はどんな悪妻だと後悔が押し寄せてくる。
これからレオンはどうなるのだろう。不安がどっと押し寄せてきたのと同時に、飲んでいた痛み止めの薬の効果も切れかかってきていて、セリーナはついにしゃがみ込んでしまった。
「マダム。大丈夫ですか?」
その低い声に顔を上げると、アーノルド・ベリオ・ヴェネット総隊長がわずかに眉を寄せてこちらを覗き込んでいた。
さすが高い地位に身を置く軍人らしく、彼の表情は冷たく読みにくい。短い黒髪や灰色の瞳、すべての一挙一動に無駄がなく、冷徹に見える。しかし彼は少し躊躇した後に、大きな手でセリーナの肩を支え、椅子に座らせてくれた。
「顔色が悪い。受けた傷もまだ癒えていないでしょうに、王都まで女性一人で来るなんて、どう考えても無謀ですよ。医師を呼びましょうか?」
セリーナは首を振って、泣いたせいで苦くなっている喉から声を絞り出した。
「大丈夫、です。すみません、お見苦しいところをお見せしました。夫との接見まで許してもらって、なんとお礼を申し上げればいいか」
今度はヴェネット総隊長が「いいのです」と首を振った。
「軍本部の門で私を待ち構えて、レオン・フェアクロフの減刑の嘆願をされた時は、少し驚きましたが。この真冬の寒さの中、拷問で受けた傷の痛みも耐えてあんな必死に訴えられたら、追い返す方がどうかしています。そこまで軍部は冷たくはありません」
そこで総隊長は言葉を切って、今度は少しだけ改まって姿勢をただした。
「貴女の前夫、ブランソン氏を亡くされたこと、お悔やみ申し上げます。彼の死の真相を見抜けなかったのは、軍にまではびこっていた腐敗と調査機関の怠慢のせいです。軍の中央本部としても、重く受け止めています」
彼の、軍としての謝罪を受け止めて、セリーナは一度だけ重たい息を吐き出した。
「フランクは、正義の人でした。裁判官として、犯罪の陰にあるこの社会の理不尽を見抜いていたのです。貧しい人たちが罪を犯して送られた先の裁判は、彼らが正しい道を選ぶきっかけになるはずだと言って、常に慈悲のある人でした」
また涙がこみ上げてくるのを隠すように、素早くハンカチで目頭を押さえる。隣に座るヴェネット総隊長は見ないふりをしてくれた。
セリーナは、捨て身の体でこの総隊長に会いに行った今朝のことを思い出し、ここまで来れた自分は幸運だと噛みしめる。
陽もまだ昇らぬ早朝に王都に到着し、セリーナはすぐに軍本部に赴いたが、もちろんいきなり軍事裁判を取り仕切る上層部へ殴り込めるわけもなく、雪と泥が混じった道端でアーノルド・ベリオ・ヴェネット総隊長の登庁を何時間も待ったのだ。立派な黒馬に跨った彼を見つけるなり、馬に蹴られるのも覚悟で近づいて、フェアクロフの妻として申し上げたいことがございますと突撃した。
意外だったのは、総隊長がすぐに自室に通してくれたことだった。こうしてレオンの裁判の合間に接見まで許してくれた。こんなに軍が寛大に対処してくれるとは思わなかったが、ここで満足することもできない。
セリーナは一度固唾を飲んで、椅子から立ち上がり総隊長の前に膝を折る。
「私の二度目の夫レオンも、フランクと同じように正義を心の軸にした人です。その点で、私は非常に幸運な女です。レオンはフランクの死の真相を暴き、元凶の人物を見つけ、私を暗い地下の拷問から救ってくれました。その代償がどんな懲罰になるのでしょう。アイゼンシュタインのせいで、私は二度も愛する人を失わなけばならないのでしょうか。ヴェネット総隊長、お願いです。私の出来ることならなんでもします。ぜひ恩赦を、」
「マダム。貴女が跪く必要なんてない。立ってください」
そう遮られ、セリーナは優しく腕を取られ引き上げられた。総隊長は一瞬だけ思案顔になり、何かを決意したようにセリーナを見返してくる。
「個人的には、レオン・フェアクロフが私刑に走ってしまった心情は理解できるものです。もし私の妻が貴女と同じようなめに遭ったら、私も正気でいる自信はない。ただ、レオン・フェアクロフへの判決は私一人が決められるものではないのです。これから数時間後、他の軍幹部や議員と彼の処罰を検討します」
やはり、軍規に基づく裁判に身内一人の嘆願など効果はないのだろうかと、セリーナは唇を噛んで俯いてしまう。その時、総隊長の手がセリーナを励ますように肩にのせられた。
「そこで一つ、フェアクロフ夫人にお訊きしたい。貴女はブランソン氏が亡くなった後、修道女院の薬草園に寄付をしてそこに身を寄せようとしていましたね?」
突然の斜め上からの質問に目をぱちくりさせながらも、セリーナは「ええ」と頷いた。
「もともと、ガーデニングが好きで、特にハーブ類を育てるのが趣味でしたから」
「そういったことに関しての知識は、どれほどですか?」
この質問はなんだろうと訝しがりながらも、セリーナは正直に答えた。
「本で学んだことは少ないです。でもハーブはそれぞれ癖がありますから、土の水はけ具合を見たりするのは得意です。家庭用の常備薬を栽培して保存するのは毎年してますし、香りがいいお茶にするコツも知ってます」
「よろしい。ではこれから、軍の医療部である六番隊で面接を受けてください。あちらの隊長には私が口添えしておきます」
「えっと……え、あの……面接? 私がですか?」
セリーナが話についていけず目を白黒させていると、総隊長が初めて柔らかい笑みの表情を見せた。
「私に考えがあるのです。レオンに下される判決が軽いものになるよう、ここは貴女にも協力願いたい。六番隊までは部下に案内させますから、さあ急いで」
促されて部屋から送り出されたセリーナは、まだこの急展開がよくわからない。しかしヴェネット総隊長の少し意外な笑みに勇気付けられ、彼を信頼することにした。ここまでよくしてくれた総隊長が「レオンのためになる」というならば、なんだってしよう。
セリーナはもう一度ハンカチで顔を拭いて涙の跡を消した。
レオンの顔を見るなり、ギリギリまで抑えていた感情が決壊してしまった。それが「怒り」という方向に溢れ出てしまったのは、自分でも想定外だったのだ。会うなり平手で夫を打つなんて、自分はどんな悪妻だと後悔が押し寄せてくる。
これからレオンはどうなるのだろう。不安がどっと押し寄せてきたのと同時に、飲んでいた痛み止めの薬の効果も切れかかってきていて、セリーナはついにしゃがみ込んでしまった。
「マダム。大丈夫ですか?」
その低い声に顔を上げると、アーノルド・ベリオ・ヴェネット総隊長がわずかに眉を寄せてこちらを覗き込んでいた。
さすが高い地位に身を置く軍人らしく、彼の表情は冷たく読みにくい。短い黒髪や灰色の瞳、すべての一挙一動に無駄がなく、冷徹に見える。しかし彼は少し躊躇した後に、大きな手でセリーナの肩を支え、椅子に座らせてくれた。
「顔色が悪い。受けた傷もまだ癒えていないでしょうに、王都まで女性一人で来るなんて、どう考えても無謀ですよ。医師を呼びましょうか?」
セリーナは首を振って、泣いたせいで苦くなっている喉から声を絞り出した。
「大丈夫、です。すみません、お見苦しいところをお見せしました。夫との接見まで許してもらって、なんとお礼を申し上げればいいか」
今度はヴェネット総隊長が「いいのです」と首を振った。
「軍本部の門で私を待ち構えて、レオン・フェアクロフの減刑の嘆願をされた時は、少し驚きましたが。この真冬の寒さの中、拷問で受けた傷の痛みも耐えてあんな必死に訴えられたら、追い返す方がどうかしています。そこまで軍部は冷たくはありません」
そこで総隊長は言葉を切って、今度は少しだけ改まって姿勢をただした。
「貴女の前夫、ブランソン氏を亡くされたこと、お悔やみ申し上げます。彼の死の真相を見抜けなかったのは、軍にまではびこっていた腐敗と調査機関の怠慢のせいです。軍の中央本部としても、重く受け止めています」
彼の、軍としての謝罪を受け止めて、セリーナは一度だけ重たい息を吐き出した。
「フランクは、正義の人でした。裁判官として、犯罪の陰にあるこの社会の理不尽を見抜いていたのです。貧しい人たちが罪を犯して送られた先の裁判は、彼らが正しい道を選ぶきっかけになるはずだと言って、常に慈悲のある人でした」
また涙がこみ上げてくるのを隠すように、素早くハンカチで目頭を押さえる。隣に座るヴェネット総隊長は見ないふりをしてくれた。
セリーナは、捨て身の体でこの総隊長に会いに行った今朝のことを思い出し、ここまで来れた自分は幸運だと噛みしめる。
陽もまだ昇らぬ早朝に王都に到着し、セリーナはすぐに軍本部に赴いたが、もちろんいきなり軍事裁判を取り仕切る上層部へ殴り込めるわけもなく、雪と泥が混じった道端でアーノルド・ベリオ・ヴェネット総隊長の登庁を何時間も待ったのだ。立派な黒馬に跨った彼を見つけるなり、馬に蹴られるのも覚悟で近づいて、フェアクロフの妻として申し上げたいことがございますと突撃した。
意外だったのは、総隊長がすぐに自室に通してくれたことだった。こうしてレオンの裁判の合間に接見まで許してくれた。こんなに軍が寛大に対処してくれるとは思わなかったが、ここで満足することもできない。
セリーナは一度固唾を飲んで、椅子から立ち上がり総隊長の前に膝を折る。
「私の二度目の夫レオンも、フランクと同じように正義を心の軸にした人です。その点で、私は非常に幸運な女です。レオンはフランクの死の真相を暴き、元凶の人物を見つけ、私を暗い地下の拷問から救ってくれました。その代償がどんな懲罰になるのでしょう。アイゼンシュタインのせいで、私は二度も愛する人を失わなけばならないのでしょうか。ヴェネット総隊長、お願いです。私の出来ることならなんでもします。ぜひ恩赦を、」
「マダム。貴女が跪く必要なんてない。立ってください」
そう遮られ、セリーナは優しく腕を取られ引き上げられた。総隊長は一瞬だけ思案顔になり、何かを決意したようにセリーナを見返してくる。
「個人的には、レオン・フェアクロフが私刑に走ってしまった心情は理解できるものです。もし私の妻が貴女と同じようなめに遭ったら、私も正気でいる自信はない。ただ、レオン・フェアクロフへの判決は私一人が決められるものではないのです。これから数時間後、他の軍幹部や議員と彼の処罰を検討します」
やはり、軍規に基づく裁判に身内一人の嘆願など効果はないのだろうかと、セリーナは唇を噛んで俯いてしまう。その時、総隊長の手がセリーナを励ますように肩にのせられた。
「そこで一つ、フェアクロフ夫人にお訊きしたい。貴女はブランソン氏が亡くなった後、修道女院の薬草園に寄付をしてそこに身を寄せようとしていましたね?」
突然の斜め上からの質問に目をぱちくりさせながらも、セリーナは「ええ」と頷いた。
「もともと、ガーデニングが好きで、特にハーブ類を育てるのが趣味でしたから」
「そういったことに関しての知識は、どれほどですか?」
この質問はなんだろうと訝しがりながらも、セリーナは正直に答えた。
「本で学んだことは少ないです。でもハーブはそれぞれ癖がありますから、土の水はけ具合を見たりするのは得意です。家庭用の常備薬を栽培して保存するのは毎年してますし、香りがいいお茶にするコツも知ってます」
「よろしい。ではこれから、軍の医療部である六番隊で面接を受けてください。あちらの隊長には私が口添えしておきます」
「えっと……え、あの……面接? 私がですか?」
セリーナが話についていけず目を白黒させていると、総隊長が初めて柔らかい笑みの表情を見せた。
「私に考えがあるのです。レオンに下される判決が軽いものになるよう、ここは貴女にも協力願いたい。六番隊までは部下に案内させますから、さあ急いで」
促されて部屋から送り出されたセリーナは、まだこの急展開がよくわからない。しかしヴェネット総隊長の少し意外な笑みに勇気付けられ、彼を信頼することにした。ここまでよくしてくれた総隊長が「レオンのためになる」というならば、なんだってしよう。
セリーナはもう一度ハンカチで顔を拭いて涙の跡を消した。
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