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第三章
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セリーナがいない。どこにもいない。どんなに探しても痕跡すら無く、いくら待っても戻ってこない。
まるで、花弁にあった朝露が蒸発して消えるように、影も形も消えてしまった。
丸一日、レオンは街じゅうでセリーナを探し回り、そして再び夜の帳が下り真夜中になると、いよいよその事実が危ういほどに頭を一杯にして、恐怖を抑えられなくなっていた。
どこかで事故に巻き込まれたのだとしたら、多くの部下を使って探しまわっても消息が皆無なのはおかしい。
残る可能性は、誘拐だ。
「ダメだ。普段はいろいろ情報を買える小悪党どもも、今回はまるで役に立たない」
マットが歯軋りしながら、ゴロツキが集まる闘犬の賭け場から出てきた。
レオンは部下に妻の捜索を命じ、自らも貧民街の入り組んだ小道をこうして何時間も走り回っている。副隊長のマットも手飼いの情報屋を一日奔走させていたが、何も成果がなかったようだ。
「……もう一度、街の壁の門兵に不審な出入りがなかったか訊いてみよう。もし街の外に拐われたのだとしたら、今から馬で追いかけて、……くそっ、ますます探し出すのが難しくなる」
レオンは震える拳を石壁に叩きつけた。マットが慌ててそれを制止する。
「門は部下たちが見張ってる。些細なものでも何か情報があったら報告が来るはずだ。セリーナさんはきっとまだこの街にいるさ」
しかし不安は膨れるばかりだ。衝動に任せて慟哭をあげ、胸をかきむしりたいほどの焦燥感を、レオンは苦労して飲み込んだ。
一日中休みもなく歩き回った足を再び叱咤して、二人は狭い路地を進み、酒浸りになりながらも環境の変化や町の顔ぶれには勘の鋭い娼婦や、小遣い稼ぎにあちこちにビラを撒いて走り回る子供に、セリーナの風貌を伝えて情報を求めた。
そうしながらも、レオンはもう何度も繰り返した疑問を反芻する。
——セリーナが誘拐されたのだとして、理由はなんだ?
自問してすぐに、己が掘り返そうとしていたフランク・ブランソンの死にまつわる陰謀が浮かんでくる。しかし、フランクは殺害されたとしても、後に残されたセリーナにはずっと危険は及ばなかった。
今さら、何がきっかけだったのかといえば。
——俺が、フランク殿の死の真相に近づいたからだ……。
苦いものが喉にこみ上げてくる。レオンは吐き気を堪えるために一度足を止めた。
——あの土砂崩れが不審なものだと、最初に噂を立てたのは、開拓団の者たちだ。その身柄を確保したことで、敵に危機感を抱かせてしまった。セリーナを誘拐したのは、この件の捜査をやめさせ、俺に口を噤ませるためか。
その時、背後からレオンを「隊長」と呼ぶ声があった。振り向くと、ジャンが息を切らせて駆け寄ってくる。
「やっと見つけた! ったく、トップが貧民街のこんな奥まで来てるんじゃ、下っ端が余計に走り回ることになるんっすよ!」
ただならない部下の様子に、レオンもマットも何かあったのかと詰め寄る。するとジャンも急いて話し始めた。
「隊の他の奴らに捜査を任せて、俺、何か変わったことはないか確かめようと思って、一度隊長の家に戻ったんです。そしたら、中から悲鳴が聞こえて。慌てて突入したら、家に賊が押し入ってて、階段からあの女中さんが突き落とされたところでした」
「なんだと?!」
新たな凶報に、レオンは思わずジャンの襟元を掴んでしまう。マットに肩をぐいと引かれて我にかえり、「先を話せ」と促す。
「女中さんは腰を打っただけで無事です。で、賊は三人で、こっちは一人だったので、素早い二人は逃しちまったけど、一人だけ捕まえたんです。そいつの覆面を剥がして、見覚えがある奴だと思ったら、あの資料保管庫の係員だったんですよ」
一体どういうことだと、レオンとマットは眉をしかめてお互いに顔を見合わせた。ジャンはなおも報告を続ける。
「ちょっとひねり上げて一発殴ったら、そいつ、ひいひい泣きだしやがって。『自分は悪くない。命じられてしょうがなくこんなことをしてるんだ』って喚いて。こっちもイライラしてたから、さらに数発殴っちまったんだけど」
ついにマットが「何発殴ったかなんて詳細はいいから、肝心なことを報告しろ」とキレた。
「そいつ、どこからか金を受け取って、記録保管庫でフランク・ブランソンに関する記録から、ある人物の名前があるものだけ破棄したって。しかも隊長の家に押し入ったのも、フランク・ブランソンの日記を手に入れるよう、指示されたからだって」
やっと、霧の中から敵が姿を現し始めた。レオンは食いしばる歯の間から、低い声でジャンに尋ねた。
「そいつがどこから金を受け取ったのか、日記を手に入れる指示をしたのは誰か、吐かせたんだろうな?」
「ところがそいつ図太い野郎で、それ以上いくら殴っても、自分の安全の保証がされないと、全部は話さないとかで……とにかく隊舎に拘束してる。下っ端としては、ここは隊長と副隊長の判断を仰ぐところだから」
レオンとマットは点火された弾丸のように、隊の本拠地へと走り出した。
隊舎に戻ると、数人の部下がその男を監視下において、隊長であるレオンを待っていた。
公的文書の保管庫で働いているという男は、いかにもケチでおどおどとしているくせに、狡猾に情報を出し渋るたちの悪い者だった。
古びた机を挟んで二人向き合っているが、その男はレオンの鋭い眼差しをまともに受け止められないようで、ぶつぶつとつぶやきながら視線をせわしなく彷徨わせている。
「私だって年老いた母親を世話するために、金が必要なんですよ。あんな薄暗い保管庫の仕事。給金なんて、少し賭けですっちまっただけでパアだ。賄賂に目がくらんで、書類を少し燃やすくらい、どうってことないと思ったんで。確かに、あのお方の要求はエスカレートしてきてましてね。今度は、ある日記を盗ってこいだなんて、私は嫌だったんですよ」
ぐずぐずと御託を並べるその男に殴りかかからないように、レオンは多大な労力を要した。自然と、声は地を這うものになる。
「さっさと、あんたに指示を出した者の正体を言え。そいつのアジトもだ」
「私を保護すると約束してくれますか? あのお方が、あんな邪悪なことをするお方だったなんて知らなくて、私も恐ろしくなってしまって……」
男の言葉を遮って、衝撃音が響く。
レオンが天板を叩き割る勢いで拳を机にぶつけたのと同時に、マットは男の後ろから耳に囁いた。
「あんたさ、自分の身の安全が第一なんだろ? 取引できないかとか、いろいろ考えてんだろうけど、レオン・フェアクロフに殴られる方が先かもな。レオンは普段穏やかだけど、いざとなったら実は誰よりも冷酷なんだ。北の国境地帯で山賊を討ち取った武勇伝、巷じゃちょっとは知られてるだろ? 山賊の頭の首をはねて、手下どものいるアジトに生首投げ込んで、投降を促した話は聞いたことあるか?」
縮みあがった男は、堰を切ったように喋り出した。
「アイゼンシュタイン卿です。最初は、あのお方の要求は些細なことだったんです。なのに今日はいきなり、ある家に押し入って日記を盗んで来いなんて言われて。断ろうにも、あんな拷問を受けてる女性を見て、恐ろしくなってしまって」
レオンがしがみ付くように握る机の端が、ミシリと音を立てた。
「拷問?」
問い返したレオンの声は掠れ声だった。そして次の瞬間、地に落ちた雷鳴のような怒号が狭い部屋に響き渡る。
「どこだ?! セリーナはどこにいる?!」
まるで、花弁にあった朝露が蒸発して消えるように、影も形も消えてしまった。
丸一日、レオンは街じゅうでセリーナを探し回り、そして再び夜の帳が下り真夜中になると、いよいよその事実が危ういほどに頭を一杯にして、恐怖を抑えられなくなっていた。
どこかで事故に巻き込まれたのだとしたら、多くの部下を使って探しまわっても消息が皆無なのはおかしい。
残る可能性は、誘拐だ。
「ダメだ。普段はいろいろ情報を買える小悪党どもも、今回はまるで役に立たない」
マットが歯軋りしながら、ゴロツキが集まる闘犬の賭け場から出てきた。
レオンは部下に妻の捜索を命じ、自らも貧民街の入り組んだ小道をこうして何時間も走り回っている。副隊長のマットも手飼いの情報屋を一日奔走させていたが、何も成果がなかったようだ。
「……もう一度、街の壁の門兵に不審な出入りがなかったか訊いてみよう。もし街の外に拐われたのだとしたら、今から馬で追いかけて、……くそっ、ますます探し出すのが難しくなる」
レオンは震える拳を石壁に叩きつけた。マットが慌ててそれを制止する。
「門は部下たちが見張ってる。些細なものでも何か情報があったら報告が来るはずだ。セリーナさんはきっとまだこの街にいるさ」
しかし不安は膨れるばかりだ。衝動に任せて慟哭をあげ、胸をかきむしりたいほどの焦燥感を、レオンは苦労して飲み込んだ。
一日中休みもなく歩き回った足を再び叱咤して、二人は狭い路地を進み、酒浸りになりながらも環境の変化や町の顔ぶれには勘の鋭い娼婦や、小遣い稼ぎにあちこちにビラを撒いて走り回る子供に、セリーナの風貌を伝えて情報を求めた。
そうしながらも、レオンはもう何度も繰り返した疑問を反芻する。
——セリーナが誘拐されたのだとして、理由はなんだ?
自問してすぐに、己が掘り返そうとしていたフランク・ブランソンの死にまつわる陰謀が浮かんでくる。しかし、フランクは殺害されたとしても、後に残されたセリーナにはずっと危険は及ばなかった。
今さら、何がきっかけだったのかといえば。
——俺が、フランク殿の死の真相に近づいたからだ……。
苦いものが喉にこみ上げてくる。レオンは吐き気を堪えるために一度足を止めた。
——あの土砂崩れが不審なものだと、最初に噂を立てたのは、開拓団の者たちだ。その身柄を確保したことで、敵に危機感を抱かせてしまった。セリーナを誘拐したのは、この件の捜査をやめさせ、俺に口を噤ませるためか。
その時、背後からレオンを「隊長」と呼ぶ声があった。振り向くと、ジャンが息を切らせて駆け寄ってくる。
「やっと見つけた! ったく、トップが貧民街のこんな奥まで来てるんじゃ、下っ端が余計に走り回ることになるんっすよ!」
ただならない部下の様子に、レオンもマットも何かあったのかと詰め寄る。するとジャンも急いて話し始めた。
「隊の他の奴らに捜査を任せて、俺、何か変わったことはないか確かめようと思って、一度隊長の家に戻ったんです。そしたら、中から悲鳴が聞こえて。慌てて突入したら、家に賊が押し入ってて、階段からあの女中さんが突き落とされたところでした」
「なんだと?!」
新たな凶報に、レオンは思わずジャンの襟元を掴んでしまう。マットに肩をぐいと引かれて我にかえり、「先を話せ」と促す。
「女中さんは腰を打っただけで無事です。で、賊は三人で、こっちは一人だったので、素早い二人は逃しちまったけど、一人だけ捕まえたんです。そいつの覆面を剥がして、見覚えがある奴だと思ったら、あの資料保管庫の係員だったんですよ」
一体どういうことだと、レオンとマットは眉をしかめてお互いに顔を見合わせた。ジャンはなおも報告を続ける。
「ちょっとひねり上げて一発殴ったら、そいつ、ひいひい泣きだしやがって。『自分は悪くない。命じられてしょうがなくこんなことをしてるんだ』って喚いて。こっちもイライラしてたから、さらに数発殴っちまったんだけど」
ついにマットが「何発殴ったかなんて詳細はいいから、肝心なことを報告しろ」とキレた。
「そいつ、どこからか金を受け取って、記録保管庫でフランク・ブランソンに関する記録から、ある人物の名前があるものだけ破棄したって。しかも隊長の家に押し入ったのも、フランク・ブランソンの日記を手に入れるよう、指示されたからだって」
やっと、霧の中から敵が姿を現し始めた。レオンは食いしばる歯の間から、低い声でジャンに尋ねた。
「そいつがどこから金を受け取ったのか、日記を手に入れる指示をしたのは誰か、吐かせたんだろうな?」
「ところがそいつ図太い野郎で、それ以上いくら殴っても、自分の安全の保証がされないと、全部は話さないとかで……とにかく隊舎に拘束してる。下っ端としては、ここは隊長と副隊長の判断を仰ぐところだから」
レオンとマットは点火された弾丸のように、隊の本拠地へと走り出した。
隊舎に戻ると、数人の部下がその男を監視下において、隊長であるレオンを待っていた。
公的文書の保管庫で働いているという男は、いかにもケチでおどおどとしているくせに、狡猾に情報を出し渋るたちの悪い者だった。
古びた机を挟んで二人向き合っているが、その男はレオンの鋭い眼差しをまともに受け止められないようで、ぶつぶつとつぶやきながら視線をせわしなく彷徨わせている。
「私だって年老いた母親を世話するために、金が必要なんですよ。あんな薄暗い保管庫の仕事。給金なんて、少し賭けですっちまっただけでパアだ。賄賂に目がくらんで、書類を少し燃やすくらい、どうってことないと思ったんで。確かに、あのお方の要求はエスカレートしてきてましてね。今度は、ある日記を盗ってこいだなんて、私は嫌だったんですよ」
ぐずぐずと御託を並べるその男に殴りかかからないように、レオンは多大な労力を要した。自然と、声は地を這うものになる。
「さっさと、あんたに指示を出した者の正体を言え。そいつのアジトもだ」
「私を保護すると約束してくれますか? あのお方が、あんな邪悪なことをするお方だったなんて知らなくて、私も恐ろしくなってしまって……」
男の言葉を遮って、衝撃音が響く。
レオンが天板を叩き割る勢いで拳を机にぶつけたのと同時に、マットは男の後ろから耳に囁いた。
「あんたさ、自分の身の安全が第一なんだろ? 取引できないかとか、いろいろ考えてんだろうけど、レオン・フェアクロフに殴られる方が先かもな。レオンは普段穏やかだけど、いざとなったら実は誰よりも冷酷なんだ。北の国境地帯で山賊を討ち取った武勇伝、巷じゃちょっとは知られてるだろ? 山賊の頭の首をはねて、手下どものいるアジトに生首投げ込んで、投降を促した話は聞いたことあるか?」
縮みあがった男は、堰を切ったように喋り出した。
「アイゼンシュタイン卿です。最初は、あのお方の要求は些細なことだったんです。なのに今日はいきなり、ある家に押し入って日記を盗んで来いなんて言われて。断ろうにも、あんな拷問を受けてる女性を見て、恐ろしくなってしまって」
レオンがしがみ付くように握る机の端が、ミシリと音を立てた。
「拷問?」
問い返したレオンの声は掠れ声だった。そして次の瞬間、地に落ちた雷鳴のような怒号が狭い部屋に響き渡る。
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