あなたが私を手に入れるまで

青猫

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第三章

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 窓が無い暗い部屋では、今が昼なのか夜なのかわからず、セリーナは拘束されてからどれほど経ったのか時間の感覚を失っていた。暴力を受けた身体の痛みより、むしろ喉の渇きが、かろうじて保っている気力を削ぎ落とそうとしている。
 セリーナが意識を取り戻してからしばらくして、アイゼンシュタインが部下を何名か従えてやってきた。
 今まで暗闇に放置されていたせいで、小さなろうそくの明かりだけで目に光が痛い。
 がたつく椅子に座らされ、机を挟んでアイゼンシュタインと相対すると、セリーナの中で恐怖よりも怒りが膨れ上がった。強く彼をにらみつけると、反対に彼からを嘲笑がかえってくる。
「先ほどは、突然声を荒げてしまって、しかも怪我をさせてしまい、申し訳なかった。時々怒りが抑えられなくなってしまう癇癪は、私の悪い癖で」
 今さら紳士面を取り繕うのが愉快とでもいうように、アイゼンシュタインはそう切り出した。
「私としても、もっと穏便に済ませるつもりだったので、この状況は残念なのですよ。しかし、ここまで来たら引き返すこともできません。さて、セリーナ様には、ここにサインしてもらいましょう」
 一枚の紙が机の上に出された。セリーナは、ろうそくの揺れる光の下で素早くその文章に目を通したが、内容を理解すると眉をしかめる。そこにあったのは、あの噂よりもっとひどい、事実とかけ離れた話だった。
「レオン・フェアクロフがフランク・ブランソンを殺害し、私を脅迫し無理に娶って家庭内暴力をはたらいた? なんなのこれは?」
「告発状ですよ。ここにサインいただければ、私がセリーナ様を保護した代理人として、これをしかるべきところに提出します」
 拒絶感が喉を震わせ、「代理人ですって?」と言う声は掠れて奇妙に裏返ってしまった。
「私がそれに素直に従うとでも?」
「まだよくお分かりになられてないようだ」
 彼は指にセリーナの解けた髪を絡め、あからさまな猫なで声で言う。
「誰のせいで、こんな手間がかかっていると思っている? 全て、貴女の再婚のせいだ」
 彼の言っていることが全く理解できない。
「アイゼンシュタイン卿。あなたはなぜ、こんなことを」
「なぜ? なぜ、貴女を痛めつけ、レオン・フェアクロフにフランク・ブランソンの殺害の罪を着せようとしているのか、と? 少し考えればわかりそうなものだがね」
 彼のその物言いこそが、セリーナが想像していた最悪のことを肯定していた。
 恐怖と憤りを超えた、さらに暗い感覚が足元から這い上がってくる。セリーナはなんとか呼吸を整えようとしたが、溢れ出る嗚咽は止めようがなかった。
 きつく瞑ったまぶたの裏に、亡きフランクの優しい笑顔が蘇る。
 彼を事故で失ったのだと思っていた。喪失の悲しみが今までにない絶望とともに蘇り、同時に、目の前の男に対して凶暴な怒りが湧きあがる。
「あの土砂崩れは、あなたが……。あなたがフランクを……! どうして!」
 手を縛られているのも忘れて、セリーナは椅子を蹴って立ち上がった。しかしすぐに、後ろに控えていた男に髪を鷲掴みにされて、椅子に引き戻される。
 アイゼンシュタインは底なし沼のような暗い眼差しで、それを見遣っていた。
「フランクには数年前、未成年犯罪の裁判の判例をもらうために近づいたんだよ。貴族院の議員として、少年法の制定を目指しているからという建前を使ってね。バカな男だ。私に渡したあの裁判の記録が、犯罪者集団の要員を選ぶために使われたなど、思いもしなかっただろう」
 ちなみに保管庫にあるフランクの記録からは、全て私の名を消したはずなんだがね、とアイゼンシュタインは軽く付け加えた。日記が残ってたとは迂闊だった、回収しなくては、とブツブツつぶやいて、またセリーナに向き合う。
「なかなか忙しくて困ってしまうよ。私が懇意にしている組織の事業は金にはなるが、少々暴力的だったりと、綺麗な仕事とはいえなくてね。いろいろ便宜を図ったり、人を殺したり物を盗む才能がある若者を見つけるのも、私の役割なんだ。
 しかし、どうしてもフランクが邪魔になってきてしまってね。未成年の裁判を受け持って、彼らの遠い開拓団なんかに送ってしまうのも困っていたが、これから少年法なんて作られたら、ますます人員の確保が難しくなる」
 全てを理解して、セリーナは奥歯を噛み締めたままうなだれる。
 フランクが陥れられたことにちっとも気づかず、自分は今まで何をしていたのだろう。無力感で胸に大きな穴が空いてしまったかのようだ。
 そしてアイゼンシュタインはさらに追い打ちをかけるように、先を続けた。
「フランクが死んで、貴女は尼になって悲しくも平和な余生を過ごす。これが皆にとってのハッピーエンドだったはずなんだが、まったく……あんな面倒な男と再婚とは。
 しかも困ったことに、下町である噂が流れ始めた。あの土砂崩れは事故ではない、フランクは殺されたのだ、とね。これには危機感を持ちましたよ。この噂が下町だけでなく、役人や軍の間でも囁かれるようになったら大変だと。そこで、こちらも同じような、しかし細部は違う噂を流すことにした。フランクはレオン・フェアクロフの恋の犠牲になったのだ、とね。この点では、フェアクロフの貴女に対する盲目的な恋の逸話は、役に立ちました」
 いつの間にか全てが、アイゼンシュタインの手のひらの上だったのだ。
「フェアクロフはあれこれ嗅ぎまわって、フランクの死の真相については、かなり踏み込んでしまっている。だが、まだ私の存在までは辿り着いていない。貴女からこの告発がなされれば……」
 机の上に置かれた一枚の紙を、再びセリーナの方へつと滑らせ、アイゼンシュタインはさらにペンを差し出した。
「まだ私にぶんがある。軍部は身内の処分を速やかに、そしてできるだけ秘密裏に行うものだ」
「そんな不正義がまかり通るものですか!」
 セリーナは噛み付くように言い返した。しかし目の前の男はまたニヤニヤと笑うだけだ。
「私は貴族として、また地方議会の貴族院議員として、それなりのコネがある。筋書きさえ整えば、裁判所や軍部の有力者に金を握らせ目を瞑らせることは、そう難しいことではないのだよ」
 そして、セリーナの手には無理やりペンが握らされた。
「さあ、ここにサインを」
「いやよ」
「……まあ、サインなどいくらでも偽装できるのですがね。貴女の精神をゆっくり壊して、全て私のいいなりになるように躾けてから、証言台に立たせるという手もあります」
 ぞっとした寒気が背筋をかすめる。
 セリーナはもう一度、紙にあるある文字を目で追った。
——『レオン・フェアクロフは、数年前からセリーナ・ブランソンにつきまとい行為を行い、並々ならぬ想いを募らせていた。フェアクロフは王都に向かう街道に爆薬を仕掛け、土砂崩れの事故を装って恋敵だったフランク・ブランソンを殺害し、さらに喪が明けたばかりのセリーナに求婚した。』
 その内容は、大きな嘘の中に巧みに真実が織り込まれ、レオンの誠実な人格を知らなければ、ある程度筋が通って見えてしまう。
 おまけに、セリーナは最近になって家庭内暴力を受けるようになったという記述まで付け加えられていた。
「フェアクロフがフランク・ブランソンを殺害してまで片恋を実らせたとしても、妻の前夫に対する嫉妬や複雑な感情は抑えようがない。その鬱憤が暴力として表れるようになり、貴女は辛抱できずに逃げ出し、私アイゼンシュタインを頼ってこうして告発状を作成するに至った……、と。よくできた筋書きでしょう」
 自画自賛するように、アイゼンシュタインは悦に入っている。セリーナは何か言葉にしようとしたが、胸に渦巻く混乱と恐怖が振り切れて、まず口から漏れたのはヒステリックな笑いだった。
「そうやって人を踏みつけて、なんでも思い通りになると思ってるのね」
 にこりと、アイゼンシュタインは微笑みを返した。
「ええ、そうです。そのやり方も心得てますしね。愛人を隠している軍大佐や、賭博のせいで借金を抱えている裁判官。汚職まみれの議員たち。彼らを脅して使えば、フランクの死を事故に見せかけたのと同じように、貴女やフェアクロフを陥れるのも難しいことじゃない。もちろん、血生臭いことは部下に任せますがね」
 そして控えていた部下に頷き、立ち上がる。
 それが合図だったのか、男の一人にセリーナは首を掴まれ、床に叩きつけられた。抵抗も虚しく、手に鎖をかけられ壁にはり付けられる。
「やめて……! いや、触らないで!」
「さて、私はこれで失礼するよ。神経が繊細で、残酷なことには耐えられないのでね。その告発状にサインをして、同じ証言をする気になったら、またお会いしましょう」
 牢に重い扉が閉まる音が響く。物言わぬ獣のような男が、何かを確かめるように革の鞭をうねらせて空気を切った。
 そして、何の覚悟もできていない不意の瞬間、背に引き裂くような熱を伴った痛みが走る。セリーナは悲鳴を上げ、心の中で何度も何度も、意味さえ分からなくなってしまうほどに、レオンの名を呼び続けた。
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