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第2章 守護霊を解放せよ
第5話 百獣の王 上野
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思い出すだけで鳥肌が立つ、中三の七月。
プールの授業があったあの日、水恐怖症のオレはもちろん見学を希望して、体育教師の指示通り、プールサイドの清掃から、周辺の草むしりに至るまで、清掃員よろしく精を出した。
終業のチャイムが鳴り、プール用具の後片付けを終えたあと、軽い達成感と共に教室へ戻ろうとしたとき、後ろから名前を呼ばれた。
振り返ると、そこには4B鉛筆で描いたような濃い眉とぱっちりとした二重まぶたの少年、上野がいた。
上野はいつも群れていた。本人は百獣の王を気取っているのか、スクールカーストの上位層をアピールしているのか、高い場所が好きなようで、休み時間は決まって机の上に腰を下ろしては横柄な態度で腕を組み、取り巻きのクラスメイトを見下げるようにしていた。
その上野に呼び止められたのだから、あまりいい予感はしなかったが、同じ仲間なのだ、と思い直し、わずかでも疎んじようとした自分を軽く叱責した。
手招きされるまま近寄っていくと、オレはいつの間にかプールの中にいた。上野の取り巻きにプールに突き落とされたのだとわかったときにはもう遅い。
すっかり気が動転したオレは、プールの底に足がついているにも関わらず、溺れまいと手足をばたつかせては、自分で作り出した水飛沫に怯え、襲い来る波に必至で抵抗した。
意識を手放す寸前で、ようやく騒ぎに気付いた体育教師に助けられたのだが、その間も上野は飛び込み台の一番コーナーにゆったりと腰を下ろし、腕を組んで笑っていた――。
その嘲笑が約三年ぶりに、今、目の前にある。
ハリネズミのように逆立つ髪。濃い眉。強気な目元。
別々の高校へ進学して以来の再会だが、それらは記憶に残る中学時代の上野の風貌と何ら変わらない。
ひとつだけ変化を挙げるとするならば、上野の耳たぶに打ち込まれている異常なほどのピアスの数は、戦地で討ち取った敵の首を勲章として飾るように殺伐としていた。
「上野、お前も飽きずに捻くれた性格してるんだな」
売り言葉に買い言葉だ。根が意地っ張りな性格だから、オレの口は自らの意志を持ったかように悪態をついたものの、足は勝手に後退りを始める。
「はあ? 相変わらず生意気な野郎だな。まあ、丁度いいや。オレたち、これからゲーセンに行くところなんだ、崎山も付き合えよ」
「悪いけど、お前に構っているほど、オレは暇じゃねえんだ」
「久しぶりに会ったっつうのに寂しいこと言うなよ、オレたちの仲だろ?」
上野の意地悪く細められた瞳に、剣呑《けんのん》でギラギラした光が浮かぶと、その光に寄せ集まる奇妙な虫のように、わらわらと四人の取り巻きたちが姿を現した。上野と同じ学生服をセンスなく着崩した彼らは全員知らない顔だった。
「上野さん。誰なんスか、そいつ」
「こいつ、オレの中学ン時のトモダチ」
上野の言葉に取り巻きたちは好奇の視線をオレのつま先から頭のてっぺんまで短時間で往復させた。まるで、小さなデータをパソコンに取り込むかのように、時間にすれば、数秒とかからずだ。
「へえ」
取り巻きたちは、これもまた短い声を洩らしただけだったが、「中学生みたいに小さいトモダチッスね」と心の声が聞こえてくるようで、オレは「中学生じゃないからな」と心の声で応酬しながら、眉間にシワを寄せて、睨み返した。
すると、上野の唇が不気味につり上がった。あのプールの日と同じ、よくないことを思いついた顔だ。
「いや、違うな。トモダチっつうよりコーチと生徒、だな。こいつ、泳げないことを理由にプールの授業をサボりやがるから、見るに見かねて、泳ぎ方を教えてやったことがあるんだよ」
「さすが上野さん。優しいんスね」
「あのときの崎山を思い出すだけで笑えるわ」
上野につられて、取り巻きたちの品のない笑い声が上がる。
オレは威嚇態勢に入る狼のように牙を剥く、わけにはいかず、その代わり、拳を固く握り込み、心の内で吠えまった。
「なあ、崎山。小六のとき、お前が桜花川で溺れたときのことを覚えているか?」
「だったら何だって言うんだよ。お前に関係ねえだろ」
「関係大アリだっての。お前、忘れてるっぽいけど、あれ、オレなんだよ。崎山を川に突き飛ばしたの」
上野の唐突な告白に、頭の中が空白になり、息が詰まった。
桜花川に沈んでいくときに見た景色が一瞬にして蘇る。
陽光。水面。口から吐き出ては上昇していく大小様々な気泡――。
いや、もっと前だ、もっと前まで巻き戻せ。
オレは足を滑らせる少し前から記憶を再生させた。
「浅瀬から川の中まで歩いていこうぜ、一番深いところまで行けたやつが勝ちだからな」
そう誰かが言ったのは、はっきりと覚えていたが、川で溺れたショックのあまり、あの日、桜花川へ一緒に行った幼顔の仲間たちが誰だったのか、記憶は霧で包まれたかのようにぼんやりしていた。
だが、直前の上野の台詞とあの日の誰かの声が重なり、4B鉛筆の濃い眉に二重まぶたの少年の顔が霧の中から浮かび上がった。
背中を押されたのが原因で、足を滑らせたことを思い出すと、上野に対する恐怖にも勝る怒りが突き上がるのを感じた。今まで信じ込んでいた記憶は上書きされたものだったと知る。
「上野、てめェ!」
上野に掴みかかろうとするが、体の自由が利かない。怨霊男に腕を取られていた。
「邪魔すんなよ、あいつをぶん殴らないと気がすまねえ。オレを川に突き飛ばしたんだ。お陰で死ぬところだったんだぞ」
その手を振り解こうとしたが、怨霊男から逃げられない。彼の痩身のどこにこんな力が秘められているのだろうか。
怨霊男は一歩前へ下駄を進め、上野からオレをかばうように片腕を広げた。当然のことながら、上野やその他大勢には彼の姿は見えてない。
「挑発に乗っちゃダメだ。上野君の思うつぼだ」
「あんたは怨霊だからそんな悠長なことが言えるんだよ。こうなったら、オレを呪うなり、恨むなり、祟るなり、好き勝手にしてくれ。でも、それは上野をぶん殴ったあとだ。わかったら、手を放せって」
「今の上野君は正気じゃない」
「ああ、あいつは正気じゃねえよ。だから、一発ぶん殴らせてくれって頼んでるんだよ」
「そういうことじゃないよ」
怨霊男はなおも食い下がるオレの頼みに取り合わず、上野に真っ直ぐ視線を向けたまま言った。
「彼は操られているんだ」
「操られている? まさか、怨霊に?」
怨霊男の視線を辿り、目を懲らすが、生憎、上野の卑しい悪魔のような姿が見えるばかりだった。むしろ、こちらが通常運転で、聖人君子にでもなった方が異常とも言える。だが、この事態に異議を唱える余裕もない。
「怨霊が上野に憑依してるってことなら、あんたと同じ仲間なんだ、何とか説得してくれよ」
「ムリだよ、彼らは聞く耳を持たないからね」
「だったら、昨日みたいに手のひらから風を出して怨霊を攻撃してくれよ」
襲い来る野球ボールやガラスの破片からオレとばあちゃんを助けてくれた得体の知れない強風のことを言った。
「だから、ムリだって。今ここで私が力を使ってしまえば、上野君たちに危害が加わる可能性があるじゃないか」
「はあ? 今更、正義感を振りかざして、被害は最小限に抑えたいだって? 冗談も大概にしろよ。こっちはあんたに守護霊を封印されてるんだぞ」
あくまでも飄々としている怨霊男に対して、オレの苛立ちは焦りと混じり合い、体の中で膨れ上がる。
「そう簡単に他の怨霊に負けを認めんなよ。オレを呪い殺すことがあんたの役目なんじゃなかったのか?」
「参ったなあ」
「参ってんのはオレの方だよ! あんたには怨霊のプライドがないのかよ」
発破をかけるつもりで言ったが、怨霊男はあっさりと両手を顔の高さまで上げると、ハッとするほど爽やかな笑顔で振り返った。
「実は負け戦はしない主義なんだ。さっさと逃げちゃおう」
オレは一瞬言葉を失った。
「ミントでリフレッシュ。これでアナタもイケメン吐息!」とミント系ガムのキャッチコピーが浮かぶほど潔い爽快感に目眩がする。
「ふざけんなよ」
「ふざけてなんていないよ。残念だけど、私は最初から向こう見ずな正義感とプライドは持ち合わせていないし、真を助けるほどお人好しじゃないんだ」
「あんた、本当にサムライなのか」
「だーかーらー、怨霊だって言っているじゃないか」
「その浮ついた喋り口調、何とかしろよ」
ああだこうだ言い合っているうちに、取り巻きたちは獲物を追い詰めるハイエナの群れのように、ジリジリと近づいてくる。
「崎山クーン、一緒にゲーセン行こうよ。ほんの少しお金を貸してくれるだけでいいからさ」
その様子を遠巻きで眺める上野は、相変わらず高所が好きらしく、ベンチの背もたれ部分に尻を乗せ、薄い笑みを浮かべている。
「なぁに、ひとりでブツブツ喋ってんだよ。ビビって、ついに頭がおかしくなったか?」
「頭がおかしいのはお前の方だろ、上野。耳に突き刺さっているネジを、その空っぽの頭の中に戻してやろうか?」
苦し紛れに耳たぶを引っ張って、上野のピアスを揶揄するくらいが、最大限の抵抗だ。
「崎山、自分の置かれている状況を理解してないみたいだな。また、泳ぎ方を教示してやるよ。そこ、川。言っている意味わかってんだろうな?」
上野の指は桜花川のある方向を指している。きっと今頃、夕日を反射させながら穏やかに流れる桜花川は、暗く冷たい水の底へ、再びオレを沈めようと待ち構えているはずだ。
上野がネクタイを緩めながら立ち上がったとき、ロータリーに入ってきた回送バスのクラクションが鳴った。トランペットによるファンファーレが始まったかのような、陽気で頼もしいその音は、緊迫した空気を一瞬にして飲み込んだ。
それが怨霊男の仕業だとわかったのは、目がこぼれ落ちるほど驚いている運転手を見て、怨霊男がいたずらっ子の顔で笑っていたからだ。
「霊力を飛ばしたんだ」
危険が迫る場面でも、この変わり者の怨霊は快活に笑い、力強く頷いた。
「大丈夫、そんな顔しないで。逃げるが勝ちだ。うまくいく」
その言葉がどれだけオレを安堵させたことだろうか。言葉も通じない見知らぬ外国の地で、奇跡的に日本人と出会ったかのような安心感が全身に広がった。
上野に怨霊が憑依していようといまいと、ここで捕まってしまえば、最悪、桜花川に突き落とされるか、運がよくても、路地裏に連れ込まれて、恰好のサンドバッグになるかのどちらかだろう。
どちらにせよ、いい結果にならないだろうと予測できたから、怨霊男の言うようにこの場から逃げることに決めた。
毎日の遅刻で鍛えた脚力が、逃げ足として最大限の力を発揮するところを見せてやろうじゃないかと、武者震いを起こしている太ももを叩く。
幸い、オレたちの背後はまだ取られていない。逃げ場がある。
気勢を削がれた上野たちの隙を突いて、オレと怨霊男は踵を返した。
そして、このまま逃げ切ればすべてうまく行く、はずだった――。
振り返って息を飲んだ。
屹立する巨木のように友人Aが佇んでいた。
表情は暗く、口元は横一文字に固く結び、ゴールを死守するキーパーが全身から漂わせる圧迫感に似たオーラを放ちながら、オレをこの場から逃がすまいと立ち塞がっている。
瞬時に彼は味方ではないと悟った。
友人Aは握った拳を後ろに引いて、そのまま繰り出した。
拳が風を切り唸る。
オレは身構えた。
怨霊は上野だけではなく、友人Aにも憑依していたようだ。
プールの授業があったあの日、水恐怖症のオレはもちろん見学を希望して、体育教師の指示通り、プールサイドの清掃から、周辺の草むしりに至るまで、清掃員よろしく精を出した。
終業のチャイムが鳴り、プール用具の後片付けを終えたあと、軽い達成感と共に教室へ戻ろうとしたとき、後ろから名前を呼ばれた。
振り返ると、そこには4B鉛筆で描いたような濃い眉とぱっちりとした二重まぶたの少年、上野がいた。
上野はいつも群れていた。本人は百獣の王を気取っているのか、スクールカーストの上位層をアピールしているのか、高い場所が好きなようで、休み時間は決まって机の上に腰を下ろしては横柄な態度で腕を組み、取り巻きのクラスメイトを見下げるようにしていた。
その上野に呼び止められたのだから、あまりいい予感はしなかったが、同じ仲間なのだ、と思い直し、わずかでも疎んじようとした自分を軽く叱責した。
手招きされるまま近寄っていくと、オレはいつの間にかプールの中にいた。上野の取り巻きにプールに突き落とされたのだとわかったときにはもう遅い。
すっかり気が動転したオレは、プールの底に足がついているにも関わらず、溺れまいと手足をばたつかせては、自分で作り出した水飛沫に怯え、襲い来る波に必至で抵抗した。
意識を手放す寸前で、ようやく騒ぎに気付いた体育教師に助けられたのだが、その間も上野は飛び込み台の一番コーナーにゆったりと腰を下ろし、腕を組んで笑っていた――。
その嘲笑が約三年ぶりに、今、目の前にある。
ハリネズミのように逆立つ髪。濃い眉。強気な目元。
別々の高校へ進学して以来の再会だが、それらは記憶に残る中学時代の上野の風貌と何ら変わらない。
ひとつだけ変化を挙げるとするならば、上野の耳たぶに打ち込まれている異常なほどのピアスの数は、戦地で討ち取った敵の首を勲章として飾るように殺伐としていた。
「上野、お前も飽きずに捻くれた性格してるんだな」
売り言葉に買い言葉だ。根が意地っ張りな性格だから、オレの口は自らの意志を持ったかように悪態をついたものの、足は勝手に後退りを始める。
「はあ? 相変わらず生意気な野郎だな。まあ、丁度いいや。オレたち、これからゲーセンに行くところなんだ、崎山も付き合えよ」
「悪いけど、お前に構っているほど、オレは暇じゃねえんだ」
「久しぶりに会ったっつうのに寂しいこと言うなよ、オレたちの仲だろ?」
上野の意地悪く細められた瞳に、剣呑《けんのん》でギラギラした光が浮かぶと、その光に寄せ集まる奇妙な虫のように、わらわらと四人の取り巻きたちが姿を現した。上野と同じ学生服をセンスなく着崩した彼らは全員知らない顔だった。
「上野さん。誰なんスか、そいつ」
「こいつ、オレの中学ン時のトモダチ」
上野の言葉に取り巻きたちは好奇の視線をオレのつま先から頭のてっぺんまで短時間で往復させた。まるで、小さなデータをパソコンに取り込むかのように、時間にすれば、数秒とかからずだ。
「へえ」
取り巻きたちは、これもまた短い声を洩らしただけだったが、「中学生みたいに小さいトモダチッスね」と心の声が聞こえてくるようで、オレは「中学生じゃないからな」と心の声で応酬しながら、眉間にシワを寄せて、睨み返した。
すると、上野の唇が不気味につり上がった。あのプールの日と同じ、よくないことを思いついた顔だ。
「いや、違うな。トモダチっつうよりコーチと生徒、だな。こいつ、泳げないことを理由にプールの授業をサボりやがるから、見るに見かねて、泳ぎ方を教えてやったことがあるんだよ」
「さすが上野さん。優しいんスね」
「あのときの崎山を思い出すだけで笑えるわ」
上野につられて、取り巻きたちの品のない笑い声が上がる。
オレは威嚇態勢に入る狼のように牙を剥く、わけにはいかず、その代わり、拳を固く握り込み、心の内で吠えまった。
「なあ、崎山。小六のとき、お前が桜花川で溺れたときのことを覚えているか?」
「だったら何だって言うんだよ。お前に関係ねえだろ」
「関係大アリだっての。お前、忘れてるっぽいけど、あれ、オレなんだよ。崎山を川に突き飛ばしたの」
上野の唐突な告白に、頭の中が空白になり、息が詰まった。
桜花川に沈んでいくときに見た景色が一瞬にして蘇る。
陽光。水面。口から吐き出ては上昇していく大小様々な気泡――。
いや、もっと前だ、もっと前まで巻き戻せ。
オレは足を滑らせる少し前から記憶を再生させた。
「浅瀬から川の中まで歩いていこうぜ、一番深いところまで行けたやつが勝ちだからな」
そう誰かが言ったのは、はっきりと覚えていたが、川で溺れたショックのあまり、あの日、桜花川へ一緒に行った幼顔の仲間たちが誰だったのか、記憶は霧で包まれたかのようにぼんやりしていた。
だが、直前の上野の台詞とあの日の誰かの声が重なり、4B鉛筆の濃い眉に二重まぶたの少年の顔が霧の中から浮かび上がった。
背中を押されたのが原因で、足を滑らせたことを思い出すと、上野に対する恐怖にも勝る怒りが突き上がるのを感じた。今まで信じ込んでいた記憶は上書きされたものだったと知る。
「上野、てめェ!」
上野に掴みかかろうとするが、体の自由が利かない。怨霊男に腕を取られていた。
「邪魔すんなよ、あいつをぶん殴らないと気がすまねえ。オレを川に突き飛ばしたんだ。お陰で死ぬところだったんだぞ」
その手を振り解こうとしたが、怨霊男から逃げられない。彼の痩身のどこにこんな力が秘められているのだろうか。
怨霊男は一歩前へ下駄を進め、上野からオレをかばうように片腕を広げた。当然のことながら、上野やその他大勢には彼の姿は見えてない。
「挑発に乗っちゃダメだ。上野君の思うつぼだ」
「あんたは怨霊だからそんな悠長なことが言えるんだよ。こうなったら、オレを呪うなり、恨むなり、祟るなり、好き勝手にしてくれ。でも、それは上野をぶん殴ったあとだ。わかったら、手を放せって」
「今の上野君は正気じゃない」
「ああ、あいつは正気じゃねえよ。だから、一発ぶん殴らせてくれって頼んでるんだよ」
「そういうことじゃないよ」
怨霊男はなおも食い下がるオレの頼みに取り合わず、上野に真っ直ぐ視線を向けたまま言った。
「彼は操られているんだ」
「操られている? まさか、怨霊に?」
怨霊男の視線を辿り、目を懲らすが、生憎、上野の卑しい悪魔のような姿が見えるばかりだった。むしろ、こちらが通常運転で、聖人君子にでもなった方が異常とも言える。だが、この事態に異議を唱える余裕もない。
「怨霊が上野に憑依してるってことなら、あんたと同じ仲間なんだ、何とか説得してくれよ」
「ムリだよ、彼らは聞く耳を持たないからね」
「だったら、昨日みたいに手のひらから風を出して怨霊を攻撃してくれよ」
襲い来る野球ボールやガラスの破片からオレとばあちゃんを助けてくれた得体の知れない強風のことを言った。
「だから、ムリだって。今ここで私が力を使ってしまえば、上野君たちに危害が加わる可能性があるじゃないか」
「はあ? 今更、正義感を振りかざして、被害は最小限に抑えたいだって? 冗談も大概にしろよ。こっちはあんたに守護霊を封印されてるんだぞ」
あくまでも飄々としている怨霊男に対して、オレの苛立ちは焦りと混じり合い、体の中で膨れ上がる。
「そう簡単に他の怨霊に負けを認めんなよ。オレを呪い殺すことがあんたの役目なんじゃなかったのか?」
「参ったなあ」
「参ってんのはオレの方だよ! あんたには怨霊のプライドがないのかよ」
発破をかけるつもりで言ったが、怨霊男はあっさりと両手を顔の高さまで上げると、ハッとするほど爽やかな笑顔で振り返った。
「実は負け戦はしない主義なんだ。さっさと逃げちゃおう」
オレは一瞬言葉を失った。
「ミントでリフレッシュ。これでアナタもイケメン吐息!」とミント系ガムのキャッチコピーが浮かぶほど潔い爽快感に目眩がする。
「ふざけんなよ」
「ふざけてなんていないよ。残念だけど、私は最初から向こう見ずな正義感とプライドは持ち合わせていないし、真を助けるほどお人好しじゃないんだ」
「あんた、本当にサムライなのか」
「だーかーらー、怨霊だって言っているじゃないか」
「その浮ついた喋り口調、何とかしろよ」
ああだこうだ言い合っているうちに、取り巻きたちは獲物を追い詰めるハイエナの群れのように、ジリジリと近づいてくる。
「崎山クーン、一緒にゲーセン行こうよ。ほんの少しお金を貸してくれるだけでいいからさ」
その様子を遠巻きで眺める上野は、相変わらず高所が好きらしく、ベンチの背もたれ部分に尻を乗せ、薄い笑みを浮かべている。
「なぁに、ひとりでブツブツ喋ってんだよ。ビビって、ついに頭がおかしくなったか?」
「頭がおかしいのはお前の方だろ、上野。耳に突き刺さっているネジを、その空っぽの頭の中に戻してやろうか?」
苦し紛れに耳たぶを引っ張って、上野のピアスを揶揄するくらいが、最大限の抵抗だ。
「崎山、自分の置かれている状況を理解してないみたいだな。また、泳ぎ方を教示してやるよ。そこ、川。言っている意味わかってんだろうな?」
上野の指は桜花川のある方向を指している。きっと今頃、夕日を反射させながら穏やかに流れる桜花川は、暗く冷たい水の底へ、再びオレを沈めようと待ち構えているはずだ。
上野がネクタイを緩めながら立ち上がったとき、ロータリーに入ってきた回送バスのクラクションが鳴った。トランペットによるファンファーレが始まったかのような、陽気で頼もしいその音は、緊迫した空気を一瞬にして飲み込んだ。
それが怨霊男の仕業だとわかったのは、目がこぼれ落ちるほど驚いている運転手を見て、怨霊男がいたずらっ子の顔で笑っていたからだ。
「霊力を飛ばしたんだ」
危険が迫る場面でも、この変わり者の怨霊は快活に笑い、力強く頷いた。
「大丈夫、そんな顔しないで。逃げるが勝ちだ。うまくいく」
その言葉がどれだけオレを安堵させたことだろうか。言葉も通じない見知らぬ外国の地で、奇跡的に日本人と出会ったかのような安心感が全身に広がった。
上野に怨霊が憑依していようといまいと、ここで捕まってしまえば、最悪、桜花川に突き落とされるか、運がよくても、路地裏に連れ込まれて、恰好のサンドバッグになるかのどちらかだろう。
どちらにせよ、いい結果にならないだろうと予測できたから、怨霊男の言うようにこの場から逃げることに決めた。
毎日の遅刻で鍛えた脚力が、逃げ足として最大限の力を発揮するところを見せてやろうじゃないかと、武者震いを起こしている太ももを叩く。
幸い、オレたちの背後はまだ取られていない。逃げ場がある。
気勢を削がれた上野たちの隙を突いて、オレと怨霊男は踵を返した。
そして、このまま逃げ切ればすべてうまく行く、はずだった――。
振り返って息を飲んだ。
屹立する巨木のように友人Aが佇んでいた。
表情は暗く、口元は横一文字に固く結び、ゴールを死守するキーパーが全身から漂わせる圧迫感に似たオーラを放ちながら、オレをこの場から逃がすまいと立ち塞がっている。
瞬時に彼は味方ではないと悟った。
友人Aは握った拳を後ろに引いて、そのまま繰り出した。
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オレは身構えた。
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